杉村ぐうたら日記(1996年8月11日〜20日)

▲1996年8月11日:日曜日:夏の読書感想文!
▲1996年8月12日:月曜日:夏の読書感想文!「落として持ち上げる」
▲1996年8月13日:火曜日:夏の読書感想文!「たとえばこの作品の場合」
▲1996年8月14日:水曜日:夏の読書感想文!「理由なき反抗 (笑)」
▲1996年8月15日:木曜日:うーむ子供の意見
▲1996年8月16日:金曜日:前人未到じゃねーだろ?
▲1996年8月17日:土曜日:どこに行った?椎名桜子
▲1996年8月18日:日曜日:アーティスト活動以外活動
▲1996年8月19日:月曜日:やっぱ音楽はボーカリストによって名曲にでも駄作にでもなる
▲1996年8月20日:火曜日:フレンチポップスと歌謡曲
1996年8月11日(日曜日) 夏の読書感想文!
 実際のところ、自分も学生時代は感想文って苦手だったっす (笑)
 なんて言うか「この本には感動したっす!涙止まらないっす!もー感想を書くっす!この感動を人にも伝えたいっす!」なんて涙ちょちょ切れ本に遭遇する事、そう滅多にないからねぇ。特に「夏休み読書感想文推薦図書」なんていうPTAのおばさま達も安心して子供に勧められるざます。なんて本にろくなのはないってのは誰だって知っている事だしね。
 その上、たとえば名作!と言われている夏目漱石や芥川龍之介の本だって、書かれた時代と現代じゃ、まるっきり状況が違うんだから感想だって従来の物とは違ってきてしまうハズだと思う。
 たとえば「坊ちゃん」なんてのも感想文推奨図書なのかも知れないけど、すでに現代では「ンなヤツいねーよ」状態だったりする。リアルな話じゃ無い物に無理矢理感情移入して感動したりするのは、なんか教条臭くていやだな。と思ってしまう。(世間では普遍的な名作とか言われているけどさ)
 かと言って現代的な世界をテーマにした小説を選んでも、山田詠美の「パートタイムラバーズ」や家田しょう子(字わからない)の「イエローキャブ」なんかじゃ、問題ありすぎだし (笑)
 うーむ、読書感想か・・・あらためて考えてみると難しい問題かもしれないっす。

 いわゆる読書感想にありがちで一番悪い例は「あらすじ」
 主人公がどんなヤツで、どこで何をして、誰に何をされて、何をどーした。そこで何がこーなって、何をこーする。しかし主人公は・・・・・って感じで、物語のあらすじだけで原稿用紙3枚ぐらい使ってしまうのは、基本的に感想文とは言わないでダイジェスト版と言う (笑)。

 (この先は、自分の独断と偏見で書くので参考にならないかもしれないっす)

 感想文を書くときに、自分がどこに立って物語を見ていたか?ってのが重要になったりする。登場人物になったつもりで書くのと、作者になったつもりで書くのと、2種類。(続く)
1996年8月12日(月曜日) 夏の読書感想文!「落として持ち上げる」
 たとえば登場人物になったつもりで書く場合でも、普通は主人公の立場に立って「主人公の正義感を羨ましく思います」とか書くんだが、少しひねって脇役の立場から書いてみるとか。
 「主人公の正義は自分勝手で廻りに居る人は迷惑だと思う」とか考えてみる。
 あるいは「現実世界で友人にこんなヤツがいたら」とか言う形で、本の中の世界を現実に置き換えてみるとか。悪役が出てきた場合は、とりあえずその悪役なりの正義感を考えてみる。(こじつけでも)その上で主人公の正義感を否定してみるとか。

 でも、最後に否定したのを裏返して、その考えも解るよ。と言ったりするのが感想を読む側に「おぉ」と言わせるコツの1つだと思ったりする。
(感想文の善し悪しは、読んだ本人がいかに感動したかって事ではなく、いかに文章に上手く仕立て上げられたか?だったりするので、テクニック的な事を書いたりします)
 毎年、成人の日にNHKで放映する「青年の主張」や「外人の弁論大会」ってのが、ほとんどこのパターンだったりする。

 まず最初に自分の意見(それも思いっきりな極論だったりする)を述べて、現状を否定したり、疑問を投げつける。
 外人弁論大会では「ナゼナンダロー」「ドウシテナンダロー」と言う言葉が必ずと言って良いほど出てくる。
 その物語を、あるいは主人公を否定する事から始めて、何故自分は違うと思った事かを書いてみる。
 基本的にはストーリーは「起承転結」が基本で、よっぽどな事がないかぎり、ラスト方面で物語が集結するための「転」の部分はあると思う。
 その部分で「自分の考えが間違っている事に気が付きました」などと、その小説の言わんとしている事に気が付いた振りをする (笑) 基本的に読書感想文ってのは「読んだ人がどれだけ感動したか」と言う事と「何故この本を読書感想文に選んだか」と言う事が重要になってくる。
 最初から最後までMAX状態で感動しっぱなしの本なんて、ありえないって (笑) だからあえてスタート地点ではマイナスなイメージから書き始めたりするのが「感動した!」って部分を引き立たせる事になったりすると思う。

 音楽でたとえてみると「メタル」ってのは最初から最期まで、それこそMAXなんだけど「感動させる」って言うのを前提に作られたバラードな曲はこれっすよね。
 出だしは音も少なく音程も低い。それが後半、サビにさしかかると音数は増える、音程は高くなる、リズムだって細かく早くなっていく(テンポは同じね)。
 最初っから最期まで盛り上がっている曲は、なーんか「感動」できないっしょ?例外はあるけれど。
 なんか、すごく技巧的で作為的なんだけど、いわゆる学校が求めている「読書感想文」ってのはこーゆー物なのかも知れない。
 文学って言うのは、人それぞれが絶対的に同じ感想を持たないと思うんだけど、学校で教える国語の授業では「ここでこういう感情を抱く」とか「主人公の本当の気持ちはこうでなくてはいけない」などと、答えが用意されていたりする。これってのがおかしいなぁと学生時代思っていた。
 ここで学校に反発してもいいんだけど、たかが「読書感想文」で反発しても面倒臭いしね (笑)

 でも基本的に本当に感動した本ってのがあれば、何も問題はないと思うんだけど、そんなに簡単に感動する本があるかってんだ (笑)
 個人の感情の問題だから、感動できない物には感動できないってのが本音。
 人間、成長して行くにしたがって感動する物の傾向だって変わっていくから、無理に感動しなくてもいいとは思うけれど。
 10代の頃に読んだつまらない本を20代になって読み直して、涙ちょちょ切れだったりする場合もあるし、逆に「俺、なんで10代の頃にこんな物を好きだったんだろ?」ってのは出てくる。
 先生やPTAの価値判断で選んだ「感動本」なんてくそくらえだ!
1996年8月13日(火曜日) 夏の読書感想文!「たとえばこの作品の場合」
 もし、感想文を書く本が限定されていないんだったら(そしてまだ読んでいなければ)夏に、しかも学生時代に読む本という意味では「内館牧子・リトルボーイリトルガール」はお勧めだったりします。

 とにかく主人公の女の子たちは、ちょうど中学生高校生なんかと同じ世代だったりするので登場人物に感情移入したり出来るかもしれないっす。それに物語の季節も夏だし。

 ま、女の子がメインなので男の俺は感情移入できないっす、って場合は、これが映画化されたと想定して好きな女優が演じているとか画面を想像しながら読んでいくと「ラストでおいおい、そりゃねーんじゃないか?」と言う感じになるかもしれません。
 あるいは現実で好きな女の子が主人公だと想定して読んでみる。
 たった50年前の日本の話だったりするんで、どっか時間的なズレがあれば、この時代に自分が遭遇していたかもしれないと考えるとうーむと思ってしまうっす。

 例えばこの小説を感想文に書くと想定して話を進めると
・自分と同じ年齢の女の子達なのに、あまりにも自分と違う境遇にいる事の驚き。
・あの時代の中でも、戦争で勝ち進む事を考えて「お国の為」と言っている女の子と、やっぱり平凡に平和に生きていきたいと思っている女の子がいる。
・今の自分は平和が当たり前で「平和が一番大切」と胸を張って言えるけれど、自分がもしあの時代に生まれ育っていれば、どんな感情をもっていたのだろうか?
 と言う部分が感想文の核になってくるかもしれない。

 あえて「あらすじ」は書かないで、感想文を読んだ人がその本を読んでみたくなる感想文ってのがポイントかもしれません。

 本当は戦争の愚かしさ。国同士の戦争に無抵抗で巻き込まれる一般庶民の悲劇。と言うのも重く大きなテーマだとは思いますが、この辺はあまりにも自分の生活の中からは遠いテーマだったりするので、一言二言書く程度で流した方がいいかもしれません。あまりに大きなテーマに向かいあうと「正義を振りかざした優等生的なつまらない意見」しか書けなくなってしまうパターンが多いっすから。
 あくまでも同世代の主人公達が、戦時中と言う特殊な時代にどんな感情を持って生活していたか?あくまでも個人レベルの感情はどうだったのか?を書いて見るのがいいかもしれません。
 たとえば自分で思うのは、いわゆる戦後教育を受けてきた自分と言う個人は「戦争反対」と素直に思ってしまうが、あの時代に自分が生まれて軍事よりの教育を受けて育っていたらと思うと、きっと「お国の為」と言う感情を持っていたのかも知れない。
 それでなくても、世間一般がすぐ流行に流されて、あっと言う間にすべてが同じ方を向く最近の状況を見ていると「戦争」と言うキーワードに呑み込まれてしまったあの時代の軍国主義の人々を責める事は出来ないんだろうなぁと思う。
 うーむ、結局、難しいテーマに突入してしまいそうだ (笑)

 あと動物が(特に犬)好きだったら「椎名誠・犬の系譜」なんてのはお勧めかもしれません(あくまでも自分の感性の中でですが)両方とも文庫本で発売されてますしね。
 この「文庫本で発売されている」ってのも実は重要だったりします。
 普通、多くの単行本は物語しか書かれていない。「THE END」のマークと共にラストのページが訪れて終わるってパターンがほとんど。だけど、文庫本って言うのは単行本と違うのは、殆どの物に「あとがき」などがある。
 作者が、数年前に書いた本を文庫本にする為に読み直して回顧する場合があったり、作者の友人が作者の事を書いていたり、この作品が書かれた舞台裏などが書かれていたりして、これが感想文のネタにもなる。
 それに安いし、メモや赤線を本の中に書いてももったいなくないからね。
1996年8月14日(水曜日) 夏の読書感想文!「理由なき反抗 (笑)」
 これは凄く私的な話で、真似しちゃダメだよ。って話です (笑)
 高校1年の頃、僕は学校の図書室の月間貸出冊数のランキングに必ず5位までに入っているような人だった。
 あの当時は今みたいに何でもかんでも文庫本でわっせわっせと出版されていなかった。なんか凄い昔の話みたいな気がするかもしれませんが、文庫本ラッシュは80年代の後半からで、それ以前はそんなに出版件数も多くなかった。
 で、そうなると「読みたい読みたい」と活字を求めてうごめいていた私は、インクの臭いと古びた本の臭いに誘われて毎放課後図書館に立ち寄る人になっていたのです。
 それとは別に、学校帰りの本屋で小説を少しづつ読んで読破した事もあります (笑)だから本を読むのは自分にとって特別な事ではなかった。
 で、夏休みの読書感想文は「ここはいっちょ超大作を読んでやっか!」などと奮起して「井上靖・夏草冬濤(なつくさふゆなみ)」などという600ページぐらいの文庫本の感想文を書くことにしたワケっす。
 ま、作品的にも面白かったし、作中に地元の事が出てきたりして興味を引かれたりしたのは確かっす。面白かった。実際の感想はそんな物でした。

 普通のTVドラマを見て「おもしろかった」と思うのと同じ。
 作者だって、全ての作品に「世の中に問う!」みたいなメッセージを隠しているわけではないので、おもしろかったでも正当な評価だったりすると思う。

 でも、読書感想文って事を考えるとそーも言って言られない。
 とにかく、感情の盛り上がりを捏造したのだ (笑) 。主人公の生き方を無理して深読みして、理論をこねくり廻してなんとか1編の感想文にしたてあげた。
 感想文なんて物はそんな物だと当時すでに思っていた。その感想文を書いたのが、夏休みが始まってすぐの頃。

 で、夏休みの終わりに衝撃を受ける本を読んでしまったのだ。
 その作品のタイトルは「手塚治虫・火の鳥(鳳凰編)」
 それ以前までは手塚治虫って漫画家の書く作品はTVアニメなんかで見ていたし、あっさりした絵も好きだった。それぐらいの軽い気持ちで読んだこの作品で完璧に打ちのめされてしまったのだ。
 生まれて始めて本を泣きながら読むと言う経験をした。なんか感情の中で抑えきれない気持ちが沸き上がって涙をボロボロ流してしまったのだ。
 それもいわゆる恋愛や生死による別れなどの、お涙ちょうだい的なシーンではなく、全てのストーリーが終了した後で主人公の我王がこの世に存在する全ての生き物をいとおしむ様な表情で山の上に立ち「この世は美しい」とつぶやくシーンで涙が溢れてしまったのだ。
 自分でも分析できないくらいの感情の高まりを感じて「この感動を誰かに伝えたい!」と思ってしまったのだ。もうそれまで読んできた本が全て色あせてしまった。で、一世一代の感想文を書いたのだ。
 言い尽くせない程の感情を込めて書いたと思う。たぶん冷静に技巧を凝らして書いた「井上靖・夏草冬濤」の感想文の方が完成度は高かったかも知れないけれど、とにかく「火の鳥」に打ちのめされてしまったのだ。

 で、そのまま自信満々で夏休み明けに感想文を提出したのだが、その次の国語の授業で先生が「夏休みの感想文に漫画の感想文を書いてきたヤツがいる」と言って教室中が大爆笑の渦に巻き込まれしてしまった。
 その中で僕はじっと耐えるしか無かったのだ。
 で、その後、職員室に呼ばれ数名の先生に説教を喰らったのだが、夏休みの読書感想文を何故書かなくてはいけないのか?と言う理由が「生徒が本を読むきっかけになるハズだから」と言うのを聞いて、すべてがバカらしくなってしまった。
 ま、その考えはその場で思い付いた先生の詭弁だとは思うけれど、読書感想文なんてくだらない課題があるお陰で「本を読むのって感動しなきゃならないから面倒臭いよな」と言う部分を芽生えさせているって事に教育側は気づいていないんじゃないかなぁ。

 本なんて、小説なんて、そーんなに肩肘張って読むような偉い物じゃないっしょ。
 TVドラマや、映画や、漫画や、アニメや、とにかくその他諸々と同じレベルで物語を楽しめればいいと思うんだけど。
 僕はてっきり読書感想文ってのは、自分の感情をいかに他人に文章で伝えるか?ってのが重要だと思っていた。
 でも、本当に真似しちゃダメだよ。その時の2学期の成績悪かったからね (笑) そんな下らない事で自分を不利にしてもつまんないから。
1996年8月15日(木曜日) うーむ子供の意見
 お盆休みって事で、姉貴が子供(小学4年生の双子男)を連れて帰省している。帰省ったって、車で10数分の処に住んで居るんだけどさ。
 で、この双子のガキは私の部屋に来てスーファミやる事しか頭にないのだな。
 普段は父親がうるさいんで(←学校の先生)で、とにかく我が家に来たときは、私の部屋で思う存分スーファミ三昧をするのだ。
 その日も二階に上がって来たのだが、いつもは殆ど入ってこないTVゲームの無い部屋に来た。
 実はこの部屋は私の仕事&資料部屋で、16畳ほどの広さがあったりするのだが、どの壁もびっしりと本棚&本が入って、さらに入りきらない本が床に積み上げてある。
 で、その本を見て「おにいちゃん、この本売っているの?」

 うーむ、確かに本屋みたいな状況になっているが・・・・・
1996年8月16日(金曜日) 前人未到じゃねーだろ?
 現在99巻まで出ている「こち亀」の単行本には帯が付いていて「前人未到の99巻!」とか書いてある。
 うーむ、ゴルゴ13の方が先に99巻だしているよな。
 さらに言えば「ビックコミック別冊・ゴルゴ13」は、すでに112巻だかが出ているしな・・・うーむ、さすが会話をしない主人公、黙々と刊行し続ける。

(追記)
 その後ゴルゴ13がめでたく100巻を出して、それから少し遅れて「こち亀」も100巻がでた。
 で、その時の「こち亀」の表紙には『前人未到の100巻!』みたいな事が書かれていた。
 ありゃりゃ、あいからわらずゴルゴを無視するのか・・・と思って手に取った時、驚いた。
 小さく「少年漫画では」と書かれてあったのだ。
 うーむ。
1996年8月17日(土曜日) どこに行った?椎名桜子
 もう8年ぐらい昔の話になってしまうけれど「椎名桜子」と言う将来を有望視されていた女流作家がいたのを知っていますか?
 彼女は「マガジンハウス」が完全バックアップをして「アイドル作家」と言う新しいジャンルを開拓した人なのだ(笑)
 まず最初に僕が椎名桜子の名前を知ったのは、マガジンハウス社が出版している雑誌「POPEYE」の広告でだと思った。ふと何気なく書かれてあった本の広告に書かれていた。

  『名前・椎名桜子 職業・作家 ただ今処女作執筆中』

 つまりだ、この椎名桜子と言う作家の人はこれから初めての作品を完成させるわけだ。
 つまり、この時点でまだ作家ではないような気がする。うーむ、いったい何ンだろうか?すごくシュールな広告だった。
 その広告には処女作を執筆中の椎名桜子さんの写真が写っていたのだが、これがモデル風の短髪ないい女。これまでの女流作家と言うイメージを払拭する御尊顔だったのである。

 で、それから数カ月後、ついにマガジンハウスの期待したとおりに作家・椎名桜子が『家族輪舞曲(かぞくロンド)』と言う小説でデビューを飾ったのであった。
 で、なにが異常か?と感じたかと言うと、この本の表紙に椎名桜子のスナップ写真が使用されていたのだ。
 これはタレント本じゃなくて、立派に作家が書いた作品として出版された小説だよなぁ、などと思っていたのだ。
 で、この小説が売れたらしく(少なくとも私の見たかぎりでは売れていないような気がするが、マガジンハウスの本には売れていると書いてあった)ついに映画化が決定してしまったのであった。しかも映画の監督を椎名桜子が勤めることになったのだ。
 これまでも、エッセイストとして有名な和田誠氏が監督をしたり、作家が自分の小説を監督するパターンは数多くあった。
 しかしだ、1作しか出したことのない作家が、その作品が発表された瞬間に自分で監督し映画化決定!ってあまりにも出来すぎている。・・・・・って出来ているんだけどね。

 で、先日、古本屋で椎名桜子先生の著作物を拝見する事があったのですが、その「家族輪舞曲」の他にエッセイが2冊あった。
 「家族輪舞曲」もそうだったが、どの本も内容が異様なくらいスカスカの組み方で、この3冊をまとめて1冊にする事も簡単に出来るんだろうな、と言う感じの文章量だったのだ。
 で、エッセイの方は表紙に自分の顔を出すのは辞めてあったのだが、中に写真が多量に使用されていたりする。もーほとんどアイドル単行本ののりなのだ。

 彼女の場合、その3冊の本以外にCM出演も果たしている。
 そのCMとはカロリーメイトで、これには私もぶっとんだ。ディックリーが唄う曲に合わせて、キャミソール姿の彼女が忙しそうに化粧をすると言う、まこともってラブリーなCMだったのだ。
 ほとんどアイドルCMの乗り。うーむ、作家が出演するCMとしては異常かもしれない。

 しかし、それ以降、彼女が2作目を執筆している広告もなく、彼女の事を見失ってしまった。なんか最近、彼女を見かけませんが、どこかで彼女を見かけた場合は私にご一報下さい。
1996年8月18日(日曜日) アーティスト活動以外活動
TVをぼーっと見ていたら「金田一少年の事件簿」をやっていたっす。で、ぼーっと見ていたら、な〜んか見たことがあるような顔が・・・・

この女の人って「児島未散」だよな・・・・で、さらに見ていると「横山輝一」そっくりの人が・・・
うーむ、この二人って基本的にはミュージシャンだよな、まさかこんなドラマに俳優として出演するわけないよなぁ
と、思いつつ見ていたら、エンドクレジットでちゃんと名前が出てました。

うーむ、音楽で売れなくなったら俳優女優にスライドしてくるってパターンは、アイドルだけかと思っていたら、最近はミュージシャンもそうなの?
前も和久井映美が出ていた「妹よ」ではKATSUMIが俳優していたし(それ以降、音楽ででも俳優としても見ていない様な気がするが)うーむって感じなのだ。 ま、それぞれに生活って物があって、それぞれに個人的とか事務所的な事情って物があるんだろうが、うーむなのだ。
1996年8月19日(月曜日) やっぱ音楽はボーカリストによって名曲にでも駄作にでもなる
「夜もヒッパレ」と言う、歌手が出演しても持ち歌ではない曲を歌う、簡単に説明すればカラオケ番組があったりする。
そこは一応プロの歌手、そこらのカラオケボックス状態ではなく、しっかりとしたエンターティメントに仕上がっている(リハーサルがむちゃくちゃ長いらしいが)で、いわゆる昔から活動してきたプロ中のプロにとっては「ここぞ」とばかりに力量を見せつけるチャンスって事ではりきりまくって「凄ぇ」って感じのボーカルを聞かせてくれたりする。こーゆーので、こういう長いことプロ歌手をしている人の歌を聴くと「日本の音楽界も人材あるんじゃん」と思ってしまうのだな。
いわゆる一般的にTV・ラジオで流れている歌手ってのがボーカリストとしてプロフェッショナルに完成されている人が多くなく、それに馴れてしまっている耳にはむちゃ新鮮に聞こえるのだ。でもって、歌っている曲がさほどな曲であっても、かっこよく聞こえてしまう。
もしオリジナルの歌手がここまで上手かったら、多くの人にとっては「カラオケで歌えない」と思ってしまうんじゃないかな?恐れ多くて。

たしかにそれだけではなく、ボーカリストってのは声量や発声ばかりが必要なワケではなく「歌い方の癖」みたいな物も重要で、それによって名曲になってしまう場合もある。たとえばサザンオールスターズみたいな場合は、何が一番重要か?と考えるとボーカルの癖だと思う。もちろん楽曲も優れていると思うが。
で、この番組の中でとある癖のあるボーカリストが歌っている曲を、正統派なベテラン歌手が歌った時にふと思ったのが「ストレートに歌うとつまらない曲ってのがばれてしまう」と言う事だった。
その曲はメロディとアレンジだけを抜き出して聞くと、実に昔からある曲の焼き直しだと言う事が判ってしまったのだ。それ以前はボーカリストに助けられてそれに気が付かなかったのだが。
そう考えると、やっぱ良い曲というのは、ジャストフィットしたボーカリストによって名曲になるのだな、と感じたのであった。
1996年8月20日(火曜日) フレンチポップスと歌謡曲
ここ数年フレンチポップスが注目を浴びている。と言っても一部のマニアの間でだけど。 いわゆる渋谷系と言うよー判らないジャンルの人々が先進的な音楽。おしゃれな音楽として聞き出したのがキッカケらしい。ちょうどセルジェゲンズブール(女優のシャルロットゲンズブールのパパ)って言うフレンチポップスの大御所が亡くなって、それに対する追悼盤なんかが何枚か出たのも拍車を掛ける事になってしまったのだとおもう。
おしゃれと言うのも判らないでもない。で日本人の感性にもフィットするのだ。

いわゆるオザケンとか小山田啓吾と言ったあの辺が好んで聞いていたり、オリジナルラブやピチカートファイブなんかも、その辺のテイストを感じさせる曲を作っている。

何故、日本人にジャストフィットするか?それは、歌謡曲の多くがフレンチポップスを下敷きにしていたからかも知れない。戦後から1960年代初頭まで日本の音楽は洋楽のカバーか演歌的な物が中心だった。そこに自らポップスを作曲をする人々が出現し始めたのだ。
で、その人達は何をお手本にしたかというと男性歌手はポールアンカ・ニールセダカと言った所、で女性歌手の場合はコニーフランシス・シルビーバルタン・フランシスギャルと言った所。
男性歌手の場合はワイルドなムードもあってアメリカンロックの影響を受けた曲が多かったのだが、女性歌手の場合はどちらかと言うとフレンチな曲が多かった(コニーフランシスはアメリカ人だけど)

で、何故日本人にフィットするか?と考えると、フランス語ってのがいまいちリズムに乗りにくい言語だったりするので、必然的にメロディが英語圏の物と違ったりする。それに日本語というこれまたリズムに乗りにくい言語がフィットしてしまったのだ。それと、すこしマイナーぎみのメロディラインも日本人の好みに合うところだったのだ。

結局、フレンチポップスに戻っていくっていうのは、純然たる歌謡曲(ンな物ないんだけどさ)の消滅した現代の歌謡曲帰りみたいな物なのかもしれない。

その辺を確信的に操作しているオザケンなどは、バート・バカラックやフレンチポップスに多大な影響を受けている歌謡曲作曲家の筒美京平に作曲依頼をしたりしている。ここでフレンチポップス=歌謡曲と言う図式に気が付いていない渋谷系=フレンチポップス好きな人は「えー筒美京平って歌謡曲の作曲家でしょ〜ダサい」と思ったりしてしまったのだ。

フレンチポップスの低落と共に日本の歌謡曲も低落してしまった事を考えると、フレンチポップスが盛り上がるという事は歌謡曲ファンにとっては嬉しい事なのかもしれない。