杉村ぐうたら日記(1997年3月21日〜31日)

▲1997年3月21日:金曜日:  
▲1997年3月22日:土曜日:エアロスミス VS B'z
▲1997年3月23日:日曜日:恋愛の精神的共有
▲1997年3月24日:月曜日:カタカナ読みはやめなはい
▲1997年3月25日:火曜日:漫画評論の意味
▲1997年3月26日:水曜日:読書話・刑事コロンボ『死のポートレート』
▲1997年3月27日:木曜日:読書話・マーフィーの法則
▲1997年3月28日:金曜日:誰だ!?
▲1997年3月29日:土曜日:  
▲1997年3月30日:日曜日:読書話・海外文学と日本文学
▲1997年3月31日:月曜日:読書話・この本は誰のだ!?
1997年3月21日(金曜日) 
1997年3月22日(土曜日) エアロスミス VS B'z
 昨日ミュージックステーションに海外からのお客様と言う事で、エアロスミスが出ていた。
 おぉぉぉと、思っていたら、なんと同じ日によりによって「B'z」も出演していました。
 僕は、あぁなんて残酷な番組だと思いました。
 しかし、よりによって「B'z」の松本氏はジョーペリーと同じギターを使っていた。

 そう言えば昔も、チューブが新曲と言うことで、思いっきりラテンっぽい曲・・・・あえて言えばサザンオールスターズが得意としていた様な曲を引っ提げて登場した時に、故意なのか偶然なのか、久々の復活と言うことでサザンオールスターズが出演していました。

 ミュージックステーションはオリジナルもコピーも大切にした、いい番組だと思いました。
1997年3月23日(日曜日) 恋愛の精神的共有
 恋愛と言う場において、どれだけ精神的な部分を共有できるか?と言う事で、私は基本的に、どこにも所属したいとは思わないし、誰をも所属させようとは思っていないんで、必要以上に理解されたり、同朋ぶられても困ってしまう部分がある。
 所属と言う意味ではないけれど、それが結婚相手だったとしても、他人だから、自分とは違うから一緒になった。と言う部分を忘れて欲しくないよなぁ。
 完璧に理解しきった相手と一緒にいて楽しいのかな?
 私はある意味で、意表を突いて楽しませてくれる相手の方がいいけどなぁ(意表を突いて突然、新しい彼氏を紹介された経験もあり(笑))

 某氏が言っていた言葉で「相手が注ぐ愛情(?)に対して、100%の返却を求めてくる」と言う物があった。
 うーむ、そうなのか・・・・
 一緒に暮らすと言うことはそう言う事なんですかね?
 仕事中はダラダラやっていたとしても、そこはやっぱり仕事、緊張があったりするワケで、それからやっと解放されて家に帰って・・・。
 そこで、その一緒にベタベタゴロニャ〜ンして居ることを「やすらぎ」と感じるかどうかの差なんでしょうね。
 そりゃ、女の子とゴロニャンしている時ってのは楽しいっすよ(笑)嬉しくないとは言わない。が、それだけじゃ無いもんなぁ。

 以前、結婚について考え込んだとき、私なんかは仕事以外の生活の部分を完璧に趣味趣味で生きている人間で、それが全部大事な事だったりする。作詞作曲したり、文章書いたり。
 もし結婚するんだったらそれを全部捨てなくてはいけないのかな?と。
 それで躊躇しちゃった様な時期もあった。恋愛をする事にさえも。

 今でさえ「時間がもっと欲しい」とか思っているのに・・・・
 こんな事を考えているのって、凄く特殊な人なんだろうなぁ

1997年3月24日(月曜日) カタカナ読みはやめなはい
 音楽雑誌「 WHAT's IN? 」に、昔のポップスってことで「THE SUPREMES Sing HOLLAN-DOZIER-HOLLAND」ってCDの事がでてたけど、カタカナで「スプリームス」・・・・・
 シュープリームスだろぉ、もうぅぅ、ダイアナロスが在籍してた。
 なんか、ここ数年本当に何度も何度も思ってしまうんだけど、音楽雑誌を作っているライターの人、編集者があまりにも音楽のことを知らなかったり、あるいはいい加減な事を平気で書いているパターンが多い。
 ロックじじいな今日この頃、そんな事を思ってしまうのだ。

 でも、このCD知らなかった。例のモータウンリズムの発明者グループがプロデュースしたアルバムだよん。私は買います。給料入ったら(笑)

1997年3月25日(火曜日) パクリ道
 そー言えば、皆川おさむって子役が大昔に歌った「黒猫のタンゴ」ってあの曲、チャップリンが作曲して「モダンタイムス」だかに使用した曲のパクリだよね。
 こないだ、チャプリンの方を口ずさんでいたら、黒猫の方になってしまった (笑)
 まったくもって、この曲はパクリだったろうなぁ。こんな唄を子供の頃から歌わされていたもんで、皆川おさむは大きくなって、自動車(のタイヤのみ?)泥棒だかを起こしちゃったのかなぁ?

 なんて考えてしまうのだ。
 パクリって言うと、米米クラブの「KOME KOME WAR」って、スタイルカウンシルの「NTERNATINALIST」って曲そのもの。
 サビの部分になると、ちょっと違うが、そこに至るまでがアレンジ含めてほぼ同じ曲。
 しかも米米の方は、歌詞がほぼデタラメな言葉の羅列でしょ。そう考えると、うろ覚えの外国の曲をなんとなく英語っぽく歌っているって状態みたい。
 いやぁ「KOME KOME WAR」は好きだっただけに、ショックだったなぁ

1997年3月26日(水曜日) 漫画評論の意味
 関川夏央『知的大衆諸君、これもマンガだ』と言う文庫を読んだ。

 この関川夏央って人は昔から、漫画評論をしている人で著作も結構多い。しかし、この本のタイトルには嫌気が差すなぁ
 しかし、ふと漫画評論なんて意味あんのかなぁ?とか思ってしまう。ま、漫画を読んで深読みをして、書かれた時代背景を読み、作者の意図している部分以外の、無意識下の感情を読みとる・・・・
 そんなに難しい物かぁ。ま、「沈黙の艦隊」とかだったら、深読みしがいがあるだろうが。

 ちびまる子ちゃんでさえ、あの時代の物を現代に書くというその意図は?とか考えこんじゃうわけだよな
 ・・・・なんだか判らない。
 つまり、そんな深読みをしないと、その漫画本来が持っているパワーを感じることが出来ないのか?
 なんか、ギャグの笑いどころを聴いてくる、笑いが理解できない人じゃないっての。漫画なんてしょせん漫画。って事を認識してなきゃね。

1997年3月27日(木曜日) 読書話・刑事コロンボ『死のポートレート』
 かつて有名だったカメラマンが犯人になる作品。
 こうやって、推理小説なのに堂々と犯人の正体を書けるってのは嬉しいっす (笑)
 普通、推理小説の書評みたいのを書こうと思うと「犯人が誰かをほのめかす事を書いてはいけない」と言うルールがあるために、奥歯に物が挟まった状態の文章になってしまいますが、このコロンボシリーズの場合は犯人が何故犯行に至ったか?と言う経緯から書かれているので、書評が楽だったりします。

ま、犯人の職業がカメラマンって事で何がトリックになって、何がミスになるか?は大体察しが付くんですが、そこをコロンボがどのように崩していくか?が見物。

 このシリーズは読者が犯人の共犯者となり、じわじわと迫ってくるコロンボに敵対しながら読み進めていくって所が決めてだったりします。
 最近のミステリー界は、この手の犯人探しのパズルストーリー(トリックをどの様に崩すかを中心にした話)が少なくて、サイコ系の異常心理物が多かったり、ハードボイルド系だったり、社会派だったりなんで、このシリーズは推理小説を単純に楽しみたいって言う人にはお勧めだったりします。

 ピーターフォークが演じる、TVシリーズもいいけど、小説シリーズも面白いっす。
1997年3月28日(金曜日) マーフィーの法則
 それ関連の書籍っていまだにコンスタントに出版されてんのね。
 あの「○○しようとした時に限って○○○だ」みたいなヤツ。

 あれって、失敗した時やマイナスの時って、心の中に残りやすいからそー思ってしまう所があったりすんだよなー。

 なんか自己暗示にかけてしまうだけの様が気がするなぁ
 マイナスのイメージを深く植え付けてしまうってのは。
 無理と思っても「絶対乗り越えられる」ってイメージを持てばいいのにね

1997年3月29日(土曜日) 誰だ!?
 昔あった事件で「死んだ亭主が何の仕事をしていたのか解らない」と言うのがありました。
 その人の亭主が、ある日突然、自宅で突然心臓麻痺を起こして死んでしまったので、あわてて勤務先に電話をかけたら「そんな人、わが社にはいません よ」と言われたと言う物です。
 そして、ちゃんと調べてみても、その会社に在籍していないと言うのは本当の事だったらしいのです。
 その亭主が生前「俺の勤務先は◎◎商事だ」と言っていたのが嘘だと解った。

 しかし、毎月決まった日に、その大企業なら当然だろうなと思える程の給料を持って帰ってきていたし、毎日休みもせずに・・・・・
 さらに、葬式をあげた後で解った事なのだが、その亭主の戸籍と言う物も、教えられていたのはまったく架空の戸籍だった。
 つまり、そんな名前の人間はは、この世界には実在していなかったと言うことになってしまったのだ。

 私の亭主はいったい誰?
 と言うのが本当にあったのだ。噂では北朝鮮のスパイだとかって・・・・

1997年3月30日(日曜日) 海外文学と日本文学
 古典文学とまでいかないスタンダード作品と言う物があります。ちょうど100年ぐらい昔から、戦後すぐあたりまでに書かれた文学作品と言う物。
 これらの作品というのはとりあえず現在に至るまで読み次がれている作品だったりする。
 登場人物の生活様式も、なんとか現代と通ずる物があり、大仰な時代背景を知らなくてもなんとか理解できる作品。

 だが、その手の作品を読む際にネックになるのが、文体。文章表現形態だったりする。
 日本語も戦後かなりこなれて変化してきた。だから、明治時代の作品を読むとぐったり来てしまうのだ。
 明治時代末に「文語一体運動」(だっけ?)とか言うのが叫ばれ、普段話している言葉で文章を書こう!と言う、今考えるとあたりまえの様な事が真剣に語られていた。
 その中で出てきた文章でさえ、現代の文章を読み慣れた自分には「堅っ苦しい」と感じてしまう。
 いわゆる旧仮名遣いなんかもあって、読むのに根性が必要だったりする。

 が、海外文学というのは基本的に翻訳したものなので、翻訳する際に現代風な文体にすることができる。内容が古めかしい物だとしても、今風な文体で書けば理解しやすい。
 そう考えていくと、学校などで強制的に読まされる以外の場所では、日本文学を読む機会が少なくなっていくのではないか?と考えてしまう。
 古典作品「源氏物語」などは、もう現代語訳と言う形でいくつも本が出ている。橋本治(桃尻娘シリーズで有名な)が書いたのとか。
 だが、中途半端なスタンダード作品はそこらに売っている文庫本でさえそのまま古い文体で掲載されたまま。(へたすりゃ、今本屋に並んでいる文庫本でさえ戦後直後に出版された活字をそのまま使用していたりする)
 文学者などという人種は「この美しい文章は日本のほこりだと・・・」などと言うが、読まれなくなってしまったらそれは文学(読み物)としての意味を失ってしまうのだ。
 レコードの時代に録音された音がCD化される時にデジタルカッティングされ、ステレオの定位を整えられ、雑音をカットされるように、現代語に直されてもいいと思うのだが。そんな恐れ多くて!と思ってしまうんだろうな。

 日本の名作を勝手に手直しするというジャンルに児童物と言うものがある。
 それは現代語訳に近い物なのだが、いかんせん子供向けに修正されている。主人公が正義か悪かなどは書かれたりはするが、その深層の部分まで掘り下げたりはしていない。うーむなのだ。

 このままでは、日本文学は消えていってしまうのだ。
1997年3月31日(月曜日) この本は誰のだ!?
 数カ月前に文庫本の整理を少しした。
 とにかく読みたいと思ったら躊躇無く買ってしまうので、読まないで置いてある本もかなりある。
 読んだ本もかなりあると思うが。
 で、それを整理しつつパラパラめくっていたら、一番最後のページに大きな丸いハンコで日付なんかも表示されるタイプので『渡辺』と名前が押してあるのがあったんですよ。
 な・・・なんだこの本?

 どこかで誰かの文庫本を間違えて持ってきてしまったか?とりあえず、よく知っている人間の中に渡辺と言う名字の人物は2人ほどいる。
 1人は中学の時に同じクラスだった男、が中学卒業以来逢っていない。
 もう1人は10年以上昔に振られた女だ (笑)しかし、この本は確かに自分で買ったような記憶がある。じゃ何故こんなハンコが押してあるのだ?
 うーむうーむと、唸りながらも更に文庫本を整理していったら、またしてもハンコが押してある文庫本を発見してしまった。
 今度のにも『渡辺』・・・なんだ?

 俺はいったいどこで渡辺さんの本を間違えて持ってきてしまったと言うのだ?うがーっ!と私は叫んだ。
 答えの出ないいらだちを表現してみた。
 が、結論は出るハズもなくむなしく夜は更けていったのだ。

 そんな事も忘れかけた先日、会社の帰り道、沼津を走る旧国道1号(って言うのかな?香貫に抜ける道は)にあるブック・イトーのすぐ前のセブンイレブンでパラパラと雑誌などをめくっていた。で、そこにあった文庫本を何気なく手に取ったのだ。

 で驚いたのが、なんと、この店の文庫本にはすべてハンコが押してあるのだ。
 な・・・何故?これは個人の所有物なのか?????人様に売る商品に何故自分のハンコを押す?よく有機栽培農家で作った野菜などに「○○○村の○○○さんが作りました」みたいに名前を表記してあるのがあるが、それなのか?何だ何だ?

 いったい全体どーゆー意図があってやっているのか判らないが、人様に売る商品に自分の名前を付けるのは辞めよう!

 本当に人の本を読んでいるみたいで気分悪い