杉村ぐうたら日記(1997年4月21日〜30日)

▲1997年4月21日:月曜日:音楽話・そーいえば広末涼子のデビュー曲
▲1997年4月22日:火曜日:音楽話・ふと思うんだけど
▲1997年4月23日:水曜日:読書話・FMステーション
▲1997年4月24日:木曜日:社会話・日本大使館立てこもり事件解決で大逆転
▲1997年4月25日:金曜日:生活話・富士の方にあったラブホテルの話
▲1997年4月26日:土曜日:音楽話・声がわりか?しょうやん
▲1997年4月27日:日曜日:美術話・記号としての絵
▲1997年4月28日:月曜日:美術話・「芸術」は庶民の手から離れた物の事なのか?
▲1997年4月29日:火曜日:玩具話・PSソフト『IQ』
▲1997年4月30日:水曜日:読書話・少年漫画の戦国時代なのだ
1997年4月21日(月曜日) そーいえば広末涼子のデビュー曲
 タイトル忘れたが、何度かラジオやらで聞いた。
 思いっきり何も考えていないモータウンのパクリだよなぁ「恋はあせらず」だよなぁ。竹内まりあぁぁぁお前ってヤツはぁぁぁぁ
 しかもデビュー曲、発表の場でインタビューに答えて「カラオケを歌うのと同じ様に楽しめました」って、脳天気すぎて怒る気にもならんわ。

 ともさかりえの方がプロ意識はあるな
 ともさかと広末は両方とも、ナチュラル系のキャラクターなのだが、ともさかは計算された演出としてのナチュラルって所がプロなのだ。クシャクシャに不細工な顔して笑うと言う所さえ計算済って感じ。好き嫌いは別にして、プロ意識はあるなと思う。

(後記入:1997.7)
 タイトルは「MajiでKoiする5秒前」っす。
 最初の「ワン!ツー!ワンツースリー!」って言うのって、竹内まりあがデビュー当時歌っていたアルバム曲でやっていたよなぁ。

1997年4月22日(火曜日) ふと思うんだけど
 アイドルって言う昭和期に絶滅したジャンルがあるでしょ?
 でも、アイドルの定義ってなんだろーね?とか考えると、うーむだったりする。
 とりあえず、歌手というジャンルでのアイドルってのを考えると、いわゆるアーティストと言う存在とアイドルと言う存在は両極にいる様な気がする。
 つまり、昔よくあったのが年齢的にアイドルとしてキツくなると「アーティスト宣言」しちゃうってのがあるんで。
 いわゆるアーティスト的な活動って言うと「自分で作詞・作曲」「ビジュアル的なプロデュースを自分でやる」「楽器を演奏する」「カリスマ的な発言をする」「何かのオピニオンリーダー的存在」等など
 そー考えると、PUFFYとか、相川七瀬とか、その辺ってアイドルなのかな?昔の芸能界的スタンスでは無いけれど、そーゆー感じがしちゃうっす。
 ちなみに私はアイドルを馬鹿にしたり、低い物だとは思っていないっす。


1997年4月23日(水曜日) FMステーション
 FM雑誌の中で一番、音楽情報の多い雑誌っつーとFMステーションでありまして、かと言って音楽雑誌的に見ると、一番ケーハクな音楽雑誌と言う感じだったりする。(軽薄よりもっと軽薄なケーハクっす)
 さらにその傾向は強くなって、ここ数号は「SPEED」「篠原ともえ」「広末涼子」と連続アイドル系(異論はあると思うが)の表紙だったりする。うーむ、と考えていたら今発売されているヤツは、ついに歌手デビューしちゃった「吉川ひなの」
 うぬぬ、と思っていたら、さらに次号は「ともさかりえ」完璧に音楽雑誌をも突き抜けて、アイドル雑誌になりつつある。

 実際の所を言うと、アイドル系歌手のインタビューがあったりすると、読者からの葉書に「アイドルは載せるな」なんて抗議があったりするらしいが、ある種ポリシーを持った編集者がいるのだな (笑)
(後記入:1998.6.3)
 FMステーションは1998年の3月に10数年の歴史にピリオドを打ちました。
結局、FM局の増加と「番組表で使用曲名をチェックする価値のある番組が皆無になった」と言う事が原因なのかもしれない。
1997年4月24日(木曜日) 日本大使館立てこもり事件解決で大逆転
 ペルーのフジモリ大統領か・・・・・
 特殊部隊突入の時も、完璧に鎮圧してからノコノコ出てきて「指揮取ってたんだモンね」とばかりに、カメラに写るところに仁王立ち。
 その後の記者会見でも、大使館の模型を前に作戦を熱く語る。

 直前まで、支持率がどんどん下がって、悪評だらけだったのを裏返してしまったっす。

 なんか色々な意味で「作戦どおり」って感じ

1997年4月25日(金曜日) 富士の方にあったラブホテルの話
 知人から聞いた話だが(本当にね(笑))富士のインター近くにあるラブホテルには「松田聖子の部屋」とか「近藤真彦の部屋」と言うのがあったらしい。
 で、彼女が松田聖子ファンだったので入ってみると、中に松田聖子のポスターが1枚貼ってあった。
 ・・・・・それだけ。

 もっと凄いのは近藤真彦の部屋。
 中に何故かF1のポスターが1枚貼ってあるだけ。

 うーむ(笑)

1997年4月26日(土曜日) 声がわりか?しょうやん
 今「彩」とか言うアイスのCMで伊勢正三(元かぐや姫・愛称ショーヤン)が往年のヒット曲「なごり雪」を歌っているのが流れていたりするけれど・・・・声が思いっきり変わって、変になってしまった。

なんつーか、以前は美声って感じだったのが・・・・凄く悲しい

1997年4月27日(日曜日) 記号としての絵
 小学校の低学年に通う子供たちが書いた人物の顔の絵や、動物の絵と言うのを見たことがありますか?
 ある時、その手の絵を大量に見なくてはいけない仕事があって、何十枚、何百枚と見た。上手いのやら、下手なのやら、すでに抽象画の領域に達している物まで、大量に。
 で、ふと気が付いたのが、かなりの多くの確立で目の形が縦長なのだ。
 「縦長の目」とは文章で表現するのはむずかしいけれど、いわゆる漫画目の事で、手塚治虫や藤子不二雄なんかの系譜に属する目なのだ。
 私がまいったなぁと思うのは、こんな目をしたヤツぁ実在しねぇって事。

 動物の絵というヤツも、そんな動物いない!と言う状態の動物のオンパレード。絵が稚拙だとか、下手だとかって問題じゃなくって、動物の絵と称した物の完成形が漫画の動物の絵なのだ。手塚&藤子系、あるいはディズニー&サンリオ系。

 つまり、私たちも子供の頃からその手の漫画を読んでいる為に「記号」として「これは目を表している」と言うのを知識の中で認識しちゃっているのだ。
 今、手元にある漫画を(劇画っぽいのじゃなくって純然たる漫画)パラパラめくってみると判ると思うけれど、とにかく「人間の顔」と認識している絵がかなりの確立で「記号として認識している顔」だったりする。
 特に最近はその傾向が激しくなって、一番最初の「記号として認識された顔」と言うのが本来の顔を記号に置き換えるためにディフォルメ(誇張)した物だったのだが、それを見て育った次世代の漫画家がさらにディフォルメした「記号の上に記号を重ねた顔」を書いていたりする。
 顔の中に目の占める面積が50%なんて状態だったり(ただ単にデッサンが狂っている場合もあるけど)、お前、頭蓋骨どーなっての?と言う状態だったりする。
 それでも問題なく漫画を読んだり出来るのは、僕等は漫画を読み慣れた目で「記号」をすり替えながら読むことが出来たりするからなのだ。
 あの縦長の目などは、きっと漫画を知らない人にはかなり奇異な物として映るハズなのだ。

 その漫画におけるディフォルメが良い悪いって事ではなく、子供が当たり前として、実際にある物をスケッチしたつもりで、そう言う絵を描いてしまっている事に、恐ろしさを感じてしまうのだ。

1997年4月28日(月曜日) 「芸術」は庶民の手から離れた物の事なのか?
 芸術!と言うと、一般的に「で、値段はいくら?」と言う部分が価値判断になっているような気がしちゃって、なーんか嫌な気分。
 死んで値があがるのて言うのもありますが、最近のは不純なバイヤーが中間に立って、とにかく値段を釣り上げようとしているのが見え見えで凄くいやだなぁとか思ってしまいます。

 60年代からアメリカやイギリスなんかで盛んに作られているポップアートと言うのがあるんですが、その中での巨匠と言えば『アンディーウォーホール』と言う人がいたりします。
 この人の作品は常にポップで基本的には美術館に収められるような作品ではなかったハズなんですよ。60年代のドラッグカルチャーなんかから生み出された部分が大きくて、楽しむ絵画と言う感じだった。
 が、死んだ後でそのリトグラフの値段が高騰しちゃったもんで「芸術」になってしまった。
 たしかに「ポップアート」って言葉の「art」は直訳すれば「芸術」なんだけど、ここで言っていうのは「お芸術」と言う有り難がらなくてはいけない物と言う意味。作ったアンディーウォーホールにしてみたら金庫の中に大事にしまわれる事は望んでいなかっただろう。
 ローリングストーンズの「スティッキーフィンガーズ」のチャック付きジャケットとか、ベルベットアンダーグラウンドのバナナジャケットとかも、アンディーウォーホールの作品っす。


 逆に自分から「これは芸術だ!」と宣言してしまう事によって芸術になる物もあります。
 リヒテンシュタインと言うポップアートの画家は、例えば印刷された1センチ四方サイズのミッキーマウスの絵をA全サイズのキャンバスに忠実に再現する。と言う作業だけの作品を多数創り出した。
 小さく印刷された事による線のぶれ(線のぶれと言う事ではスヌーピーシリーズでお馴染み。今度どこかの航空会社に旅客機に書かれた絵はこれまでで一番でかいブレだ(笑))それから、印刷されたときに出来たスクリーントーンなどの丸い点、これなんかも全部でかいキャンバスに再現した。
 それを「芸術」と言い切る事によってただの「漫画の模写」が「芸術」になってしまったのだ。
 リヒテンシュタインの作品では「アトム」と「伊賀の影丸」なんかもあったりする(笑)


 芸術か?芸術じゃないか?ってのは、もうタダのレトリックの世界でね。何に対してでも芸術と言う言葉を冠にする事は出来ると思う。それでこそ人工物じゃなくってもね。綺麗な物・汚い物なんでも有り。
 最近は一種の権威主義の為にあるような言葉って気もするけどさ。


1997年4月29日(火曜日) 玩具話・PSソフト『IQ』
 この手のパズル物って好きなので買ってしまった。発売から2ヶ月ぐらい経過しているけど。

 作者は佐藤雅彦って人で、この人は多分CMプランナーの佐藤雅彦氏と同一人物です。
 って言われても「誰やねんその人」と普通の人は思ってしまうのだが、私はCMオタクでもあるので以前からこの人の作るCMはチェックしてまいした。
 有名な所では「ポリンキ〜ポリンキ〜ポリンキ〜の秘密はね〜教えてあげないよ」とか「バザ〜ルでござ〜る」とか「チョッチョチョ〜」と歌ってたスナック菓子のチビの輪とか、フジTVの「サービス」とか数多くの作品を手がけていた人だったりする。
 そんな人が作ったゲームなんで、宣伝用のCMもこの人が作っていた。
 でもって何が凄いかって言うと、ゲームのCMと言っても普通はCGでCM用に作ったキャラクターが動くとか、タレントが出演したりする、音楽だってCM用にアレンジしたりする。
が、このゲームのCMはそのまんまゲーム画面だけしか使っていなかったっす。そのデザインセンスもかなり完成度が高かったってのがあるんだけど、そんだけ自信があったんだろーなと思ってしまう。
 確かによく出来ている。


 パターンとしては、いわゆるテトリスに代表される「落ち物系」のゲームを横向きに配置したと言う状況なんだけれど、かなり精神的な圧迫感がある。背後は谷で前方から不気味な地響きを立てて迫ってくるキューブってビジュアル。さらに戦略性も重要になってくる。
 凄くシステムとしては単純。だけど、プレイステーションと言うマシンだからこそ可能にさせたビジュアル&操作性って感じ。これは、続編が作れるかどうか判らないぐらいまでに完成度が高いと思うっす。
 音楽の面で言うと、完璧にCDで生演奏のオーケストレーションなんだが、これがゲーム音楽とは思えない程の重厚で荘厳な音楽、ふと気を抜くと「NHKの大河ドラマか?」と勘違いしてしまうぐらいに凄い。その凄さも、「とりあえず重々しいアレンジをしてみました」ってんじゃなく、本格的に凄い。
 と思い「誰が作曲&編曲してんだ?」と思ったら、なんと服部隆之だった。凄ぇ。

 しかし、こんな形で他の分野で才能がある人が集まってくるジャンルなのだな、現在のゲーム業界というのは。
 て、言うのもマシンの性能が向上して「こんなことって出来ないかな?」と言うアイディアをほぼ実現できる状況というのがあるからと言うのと、それまでのTVゲームと言うのはあくまでも「TVゲームの中」と言う規約の中で行われていた為に、ある種、一般人に入りきれない世界があったと思う。そんな部分の垣根が、マシンの向上とゲームの洗練によって取り外された為に、他の才能を注入しやすくなったのでは無いかと思ったりするのだ。
 いわゆる、ゲームにそんなに興味が無い女の子にだってのめり込めるゲームが存在していたり、難しい特殊な操作が必要なくても遊べたり(この辺はパソ通をやっている人には理解不能な部分かもしれないけれど)そんな感じで、マシンの性能がアップした為に間口が広がった事が理由になっているかも知れない。
 例えば映画を見ていて「俺だったらここではこうしたのにな」と言う部分なんかがアドベンチャーゲームを作ったんだろうけど、以前ならば無理だった事が今は「まんま映画」的な状態でゲームに出来たりする。
 いわゆる元々ゲーム業界にいた人なんかだと、最初から「これなら出来る」とか「これは出来ないからパス」と言う部分を知っているために、ある意味で突き抜けた突拍子のない部分を作りにくいかもしれない。

 ま、糸井重里なんかは元々ゲームにのめり込んでいた人だけど、そーゆー人や、この佐藤雅彦とか、あと現在製作中らしいけれど、かの推理小説家の綾辻行人もプレイステーションでゲームを制作中らしい。
 とにかく「IQ」は単純に「良くできたソフト」と言う感じで褒めてしまうのだ。

 アクションパズルと言うジャンルでは、現在「ポケットモンスター」をヒットさせている田尻智がファミコン時代に作った「クィンティ」と言うヤツが好きだった。この辺りって、プレイステーションに移植して欲しいっす。
 と言いつつ、あんましゲームなんてしている時間はないのだが (笑)

1997年4月30日(水曜日) 少年漫画の戦国時代なのだ
 一昨年の末から着実に部数を落としつつある週刊少年ジャンプっすけど、かなり少年マガジンに迫られているらしい。うーむ、などと思っていたら、その下ではもっと凄いことがおきていた。
 なんと3位にキープしていた少年サンデーが、少年チャンピオンに抜かれてしまったのだ。一時期はダサダサ少年漫画の代名詞になりつつあった少年チャンピオンが、ドカベンで勢いを付けてじわじわと躍進していたのだ。

 うーむ、少年サンデーがそこまで落ち込んでいたか。元はと言えば、少年サンデーを発行している小学館は大昔は教育関係出版社だったのだが、戦後、漫画雑誌など娯楽性を重視した雑誌を作りたいと、子会社を作ったのが、なんと集英社だったりするのだ。
 いまは完璧に別会社になっちまったが、実は同系会社だったのだ。

 その二つの会社がどどーんと落ち込んでいるってのは、うーむなのだ。