杉村ぐうたら日記(1997年6月21日〜30日)

▲1997年6月21日:土曜日:今日が誕生日の人[松本伊代]
▲1997年6月22日:日曜日:カロリーメイトのCM
▲1997年6月23日:月曜日:今日が誕生日のお友達より[悠悠]
▲1997年6月24日:火曜日:スマップの『セロリ』
▲1997年6月25日:水曜日:ミニコンポを買ったのだ
▲1997年6月26日:木曜日:夏風邪をひいた
▲1997年6月27日:金曜日:我が家は宴会場なのか?
▲1997年6月28日:土曜日:事故発生!
▲1997年6月29日:日曜日:レコ評『Flipper's Guitar/three cheers for our side』
▲1997年6月30日:月曜日:レコ評『太田裕美/こけてぃっしゅ』
1997年6月21日(土曜日) 今日が誕生日の人[松本伊代]
>1965/6/21 松本伊代(Vo)

 実に位置の見えないタレントだと思う。
 いわゆる82年組と言う、アイドル歌手が大量にデビューした中にいて、その中においても浮いていた。
 同期の「中森明菜」の醸し出す日本人好みのマイナー路線・哀愁路線&不良系と言う正統派な山口百恵路線の継承者、あるいは「小泉今日子」の持つ計算と直感によるアースティックなアイドル路線「早見優」のバイリンガルと言う武器による堅実性「掘ちえみ」における不器用な下級生路線「石川秀美」の健康的なスポーツ好きな同級生路線「シブがき隊」における集団でいるイキがっているクセになんか情けない男路線、等など、考えてみればアイドルと言う物のパターンをすべて網羅していた様な人々がいたのだ。
 そのなかで松本伊代はどんな位置にいたのか?と考えてみると「ひたすら天然だった」つまり、何もしていなかったのだ。


 松本伊代は大学へ進学したわけだが、同期のアイドルで大学まで進んだのは早見優ぐらいだった。しかしその場においても着実に松本伊代は松本伊代であり続けた。
 早見優の場合、上智大学ってのもあっていわゆる「女子大生」=「知的」と言うブランドをどこかにぶら下げていた。
 ところが松本伊代ときたら、こともあろうか戸板女子短大なんて言う、笑っちゃいけないが、いかにも「とりあえず就職もまだしたくないしぃ親のスネをかじっていたいしぃできる事なら就職もぉ親のコネでなんとかしちゃいたいしぃ」てな女の子が集結するような大学(偏見フィルター30%)ってのが・・・・いかにもいかにも。

 番組内でも松本伊代の扱いは「ま・・・伊代ちゃんだからしょーがないか」と言う状態。うーむ、よく言われる野放しタレントと言うのとはチト趣が違って、かなり粗末に扱われている。

 で、もっと特筆すべき事は、「粗末」に扱われた時、「笑いのネタ」になっている時、その事実に松本伊代自身が全然気が付いていないと言う事なのだ。「しょーがないか」と言う扱いをされた後、松本伊代は「?」と言う呆然とした態度で立ち尽くすのだ。
 そこには芸も、お約束も何もない。ただ、そこには松本伊代がいるだけなのだ。


 松本伊代の凄いところは、そこには上昇志向も、現状を打破しようなどと言う考えもまったく介入してこない事なのかも知れない。
 同期の掘ちえみが、そのキャラクターの庶民性とは逆に、実際の所は後藤次利に近付いたり(どっちが先か知らないが)結婚相手に医者を選んだり、突然芸能界に復帰したり、記者会見を開いたり、かなりキツイおばさんタレントの道を選んだりしている間も、何も考えずにぼーっと芸能界にいたのだと思う。

 中森明菜が愛に生きたり困難に立ち向かっている時も、早見優がアメリカンキッズなどで知性を商売に結びつけようとしている間も、小泉今日子がファッションリーダーとしてトレンドコーディネーターとして頑張っている間も、きっと何も考えずに与えられたバラエティ番組に出演していたのだと思う。


 たとえば、掘ちえみが医者と結婚しても、小泉今日子が若手注目株の俳優と結婚しても、早見優が大学時代の同級生と結婚しても、ヤックン&フックンが同期のアイドルと結婚しても、モックンが内田裕也&樹木希林の子供と結婚しても、何も考えずぼーっと訳の分からないタレントと結婚してしまったのだと思う。あの結婚当初はヒロミなんて一部の人しか知らないような三流お笑いグループのメンバーだったわけだし。

 それでも、松本伊代は自分のタレントとしても地位を壊す事はなかった。なぜならば、最初からタレントの上下関係の地位などなく、そこには松本伊代がいるだけなのだからなのだ。

1997年6月22日(日曜日) カロリーメイトのCM
 たしか「カロリーメイト」ドリンクのCMだと思った。
 石田ひかりがサーフボードをやっている彼氏(?)と一緒に海に出かける話。
 「おっ!ビッグウェーブ」と慌ててボードを抱えて海に向かって走っていく男に向かって、「空腹じゃ負けちゃうぞ!」てな感じのワザとらしい青春色のさわやかさを見せながら石田ひかりが、缶入りのカロリーメイトを投げるのだ。そしてそれを呑みながら彼氏は海辺へ走り去っていく・・・・
 その飲み終わった空き缶どーするつもりだよ。

 なんかそんなことが気にかかる梅雨時の日々
1997年6月23日(月曜日) 今日が誕生日のお友達より[悠悠]
>1988/6/23 悠悠(パンダ)

 ふとこないだ考え込んだ事がある。
 日本に一番最初に来たパンダは「ランラン」「カンカン」そこまでは解っている。
 その後は、どーなったのだ?

 「フェイフェイ」と言うがいる「トントン」と言うのもいる
 この「悠悠/ユウユウ」と言うのは、誰の子供だ?

 もっと色々居たのか?私には解らない。

 恥ずかしい事なのだが、私は生まれてこのかた1度も生パンダを見たことがない。
 上野の美術館には行くのだが、動物園には行ったことがない。

 またしても、人生を感じてしまう梅雨の夜なのだ 

(追記/1997.9.23)
パンダの「ホアンホアン」が亡くなりました。
で、この時のニュースによって上記の謎が解明できました。

まず「ランラン(雌)」「カンカン(雄)」が日中友好の為に日本に来た。
が、雌のランランが亡くなってしまったので、中国から後妻として「ホアンホアン」が来日。
ところが、今度はカンカンが亡くなってしまった。
そこで婿養子としてフェイフェイが来日。
で、目出たく子供を出産する事が出来たと言うワケっす。
子供は全部で3匹「トントン」「ユウユウ」とあと1匹、名前不明。
その内の(たぶん)名前不明の子パンダが中国に婿入りしたそうです。

1997年6月24日(火曜日) スマップの『セロリ』
 ラジオで初めてSMAPの『セロリ』CD Verを聞いた。
 いわゆるTVで歌っているのは、何度か聞いたことがあったのだが、CDの音源を初めて聞いた。
 で、びっくししたのは『これって、山崎まさよしの物まねジャン』って事。
 たぶんキムタクの歌っているパートだと思うんだけど、あのオリジナル山崎まさよしVerの引きずるような歌い方、声の出し方、貯め方、なーんかモロ影響を受けちゃった歌い方。
 と言うより、まるで山崎まさよしが録音に参加してそのパートだけ歌っているみたいな状態。
 うーむって感じ。

 確かに、他人に曲を書いてもらう、提供してもらうと言う歌手の場合、デモテープとしてもらった最初の歌い方をトレスしてしまうパターンは少なくない。

 たとえば「猿岩石/白い雲のように」の場合は、たぶん藤井フミヤが歌ったデモテープがあったんだと思うが、そのノリの歌い方だった。その次の曲なんかは歌い方違っていたし。

 観月ありさなんかも、尾崎亜美・杏里・奥居香・松任谷由実なんか女性アーティストに書いてもらった曲の場合、それぞれ違う歌い方になっていたりする。

 しかしスマップの場合は似てるを通り越して「物まね」になっているのは問題ありだよなぁ。

1997年6月25日(水曜日) ミニコンポを買ったのだ
 現在、私は2部屋使っていて、1部屋は大型TVとステレオとベッドのある部屋。そして、もう一部屋はコンピュータと本とレコードがある完璧趣味部屋になっている。
 この趣味部屋の方にミニコンポが欲しいな。と思っていた。
 ずっとずっと、かれこれ3年ぐらい前から思っていた。
 が、私の行動のレスポンスは遅い。
 ま、その間に何度か探してはいたんだけど、金銭的な理由なんかがあったりして途中であきらめていたのだ。  そのコンポってのも、普通のコンポではなく「レコードプレイヤーがつなげられるヤツ」と言う条件付きだったのだ。
 これは、最近のコンポには珍しい。
 ついている場合は、かなり値段の高いコンポになってしまうのだ。

 で、やっと見つけました。売値が6万円ぐらいなのだが、本当の価格は10万円以上のヤツ。いわゆる倒産品ってヤツで、倒産した店から安く払い下げてきたって状態の商品なのだ。
 いやはや、うれしいっす。

 コンピュータのすぐ横に、レコードプレイヤーをセッティングして、アナログシングルをかけるってのは幸せっす。

1997年6月26日(木曜日) 夏風邪をひいた
 先週からなーんか調子よくなかった。
 熱っぽかったり、鼻水が出たり、それがここに来て本格化し始めてきた。

 うーむ、夏風邪ってのはあんましひかなかったが、なかなか辛いモノがある。
 一般的な冬の風邪の場合、熱っぽい時は足だけ布団から出して、涼むなどと言う方法があるが、今の時期(特にここんところ。つゆ時なのに暑い)はどうやっても熱いのだ。
 さっそく、病院へいって注射を射ってもらい、帰りにユンケルを購入して薬と一緒に飲んだりしたのだ。
あぁだりぃぃぃ

1997年6月27日(金曜日) 我が家は宴会場なのか?
【TSがやってくる】
 今晩、友人のTSが泊まりに来ることになっていた。
 これは、いつものパターンと言うぐらいに常識化している事で、そのTSの家が土肥にある為だった。いわゆる三島・沼津などと言う場所で宴会やら何やらがあった場合、そこから土肥へ帰るのは至難の状態だったりするのだ。その点、我が家は中継地点としても場所的にいいし、その上、宿泊設備も整っている・・・・と言うか、みんなが泊まりにくるので自然と宿泊設備が整ってしまったのだ。
 でもって、一時期は週末は必ず誰かが泊まっていると言う状態があった。

 そーゆーワケで、前もって泊まらせてと言ってくるTSは良心的なのだ。あまりに良心的すぎて、家にくる途中で何かジュースとか買ってきてくれるのはいいのだが、ある時は「今晩泊まらせて」と言っていたのだが、やってきたのは夜中の2時過ぎ。しかも「悪いと思ってさ」と、吉野屋の牛丼(特盛り)をお土産に 持ってきてくれた。こっちは、さすがに2時だったので寝ていたのだ。
 あのなぁ夜中の2時に牛丼をお土産に持ってくるヤツがいるかぁぁぁ?

 と言うように、義理堅いナイスガイなのだ。


【MKがやってくる・・そして続々と】
 で、会社から帰ってHPの制作をシコシコとやっている時に電話がかかってきたのだ。
 TSからか?と思ったのだが、それは高校時代の同級生で現在カメラ屋勤務のMKからだった。「中古でマックのモニターを買ったんだけど、ちゃんと映るかテストさせてくれない?」などと言うのだ。とりあえずマック購入計画はあるのだが、さきにモニターを中古で買ってしまったと言う事なのだ。ついでに、不用になったTVを持ってくると言う事だった。(欲しいといっていたのだ)
 で、MKが来るまでの時間、またHPをシコシコと作っていた処、表で車のエンジンが止まる音がした。
 「こんばんわーっす」とやってきたのはカメラ屋MKではなく、MAだった。
 「TSが来るって話だったからさ」と彼は言うのだ。
 うーむ、なんかどんどん同窓会になっていく。で、さらに「あ、後でSHも来るってさ」などと言うのだ。  うーむうーむ、ここは宴会場なのか?


 そういえば、少し前も久しく合わなかった高校の1年後輩でスズキ自動車に務めているKKが突然、我が家に来たことがあった。
 「どうしたの?」
 「こないだMAさんに車を売ったんだけど、それの細かい契約があって」
 「?」
 つまり、スズキ自動車からMAがワゴンRを購入したのだが、こまかい契約書にハンコを押さなくてはいけないが、仕事の関係上、何時に終わるかハッキリした事を言えない。で、思いついたのが「じゃ、仕事場と自宅の中間って事で杉村の処で待っててよ、仕事終わったらすぐ行くから」と言う話になっていたらしいのだ。
 おいおいおい (笑)

 そんなこんなで、結局、我が家でMK・MA・SHがTSを待ちつつ、馬鹿騒ぎをしていたりするのだ。
 しかし、12時を過ぎてもTSが来ないので「こりゃまた夜中2時の牛丼パターンだな」と、あきらめてみんな帰っていくと言うことになった。
 いつもなら、誰かしらが泊まっていったりするのだが、それぞれが明日仕事や用があるということで帰っていった。

 まさか、その後、あんな大事件が起こるとはこの時誰が予想したであろうか・・・・・

 物語は翌日へと続く。
1997年6月28日(土曜日) 事故発生!
(前日よりの続き)

 TSはいつまで経っても来なかった。
 いつもならほけ〜っと待っていて、ある程度の時間になるとベッドに横になってウトウトしちゃっていたんだろうが、この日はHPの作成に熱中してて、シコシコとモニターに向かっていて、気が付くとすでに2時になっていた。
 「ま、あいつの事だからこの時間でも来るって言ったらくるんだろうな」
 などと、背伸びをした時、電話のベルが鳴った。

 あわてて受話器を取ると、案の定TSからだった。
 「よぉぉおそくなっちゃってごめーんねぇぇぇ」
 なんか異常に陽気なのだ、完璧に酔っぱらっている・・・・
 「あのさー今から行くけどさぁ何か欲しいモノあるぅぅ?牛丼とかさぁぁぁ」
 「いや、別に何でもいいけどさ」
 「判った、じゃなんか買っていくよんんんん」
 と、電話が切れた。多分、あの雑音からすると車の中から携帯だと思うが、ずいぶん酔っぱらっているような感じだった。まったくしょうがねぇなぁ。

 と、ボクはHPの切りのいいところまで入力しておこうと思い机に向かった。が、何か胸騒ぎがするのだ。
 ・・・・・・・・。
 ボクは、窓の外を見た。もう夜中過ぎだと言うのにヤケに蒸し暑かった。


 ・・・と、それから5分ぐらい経ったのだろうか、またしても電話が鳴った。
 その受話器の向こうからTSの声が再びした
 「・・・・じ・・・事故っちゃった・・・三島警察署まで来てくれ・・・・」
 「大丈夫か!?」
 「あぁたぶん」
 「判った今すぐ行く!」
 なんだか状況は掴めないが、そんなワケでボクは慌てて飛び出した。2時過ぎって事で、体が半分寝ているような感じで運転していても何か実感が湧かないが、対向車も殆どいない夜中の道を飛ばしたのだ。

 事故って・・・・でも、自分から電話をかけて来れるって事は、そんな酷いモノではないんだろうな・・・でも、相手がいたら・・・・などと、頭の中で色々な事がグルグルかけまわっている内に、三島警察署に到着した。
 警察署の階段を上って中に飛び込んでいくと・・・あれ?誰もいない。
 と、奧から一人の警官が出てきて「え、何ンでしょうか?」などとぼんやりと聞くのだ。
 「・・・知人から事故ったんで三島警察署に来てくれって電話を貰ったんですけど・・・」
 「あぁ、あの事故ね。それなら、ここを出て左にいったスグの処だから」
 「は・・・・」と、何だか要領が掴めない状態だったが、指示された通りに警察署を出て左側を見ると・・・、そこにトヨタの中古車センターがあって、その前に車がとまり何人か人が立っていた。
 あわてて駆け寄ってみると、そこにあったのはTSの愛車の無惨な姿だった。警察官が2人と、その向こうにTSが恐縮した格好で経っていた
 「ごめん」と、TSはこっちをみて言ったのだが、その時TSの顔半分は額から流れた血で真っ赤になっていたのだ。
 「大丈夫かよ」
 「あぁなんとか」
 結局、その事故は最初、我が家に電話をした直後に1号から136号に降りて、すぐに起こしたモノらしい。
 思いっきり、中古車センターに突っ込んで3台がベッコンとなっていた。(もっとも、極端に高い車でなかったのが不幸中の幸いだったのだが)
 さらに不幸中の幸いは、あとちょっと中古車センターへ突っ込む角度が右よりだったら、そこにあった電信柱に激突して大惨事になっていただろうと言う事だった。中古車に斜めに突っ込んだ為にそれがクッションになって衝撃を吸収した状態なのだ。
 しばらくするとレッカー車がやってきて、TSの愛車は牽引されていった。まるでドナドナの様な状態だった。(結局、その後、廃車になった)


 TSは警察署に入って色々と調書を取っていた。その間、ボクは救急の夜間病院を探して電話をかけ回っていた。内科の救急病院は三島にも沼津にもすぐ見つかったのだが、外科の救急病院が判らなかった。しかし、救急なんだからイザって時にすぐ判るようになっていないといかんのじゃないか?などと思いつつ、電話をかけ続けた。
 で、池田病院が今日の外科救急病院になっている事が判った。

 4時過ぎに、警察を出て池田病院へ向かった。
 ちょうど、この朝、1号線にあったジャンボエンチョーの処に「すみや」がオープンするって日だったのだが、小雨まじりの4時だと言うのにその駐車場には開店記念の安売りを目指してかなりの人数が並んでいた。うーむ。

 TSは、痛みがだんだん増してきたので、少しイラだっているような感じだったが、さすがに全ての原因は自分なのでぐっと押しこらえているような感じだった。
 病院の対応もあまり良くなかった(確かにいくら救急病院と言えども、夜明けの4時に起こされてってのはキツイと思う)

 その後、取りあえず一旦家に帰って8時まで寝た。
 そして、事故処理をいろいろとしたのだ(中古車センター・レッカー移動した車・病院で精密検査など)

 で、車の無くなったTSを家まで送り届けたのだ。
1997年6月29日(日曜日) レコ評『Flipper's Guitar/three cheers for our side』
 かの小沢健二と小山田啓吾の参加していたフリッパーズギターのデビューCD。
 発売が1989年の8月って事だから、もう7年も前になるけど、今聞き直してもいいっす。取りあえず全編英語の詩なんだけど、あんまし難しい表現はないっす。でもセンスの良さっていうか、趣味の良さみたいのは出てきてしまうわけだな。
 フリッパーズギターの中心人物の二人の音楽的・文学的資質というのがハッキリと出ているわけで。小沢健二の「叔父ちゃんが世界的指揮者の小沢征爾なのだ」って言うのと、小山田啓吾の「パパが日本一のムードコーラスグループ・マヒナスターズのメンバーなのだ」と言う自負が出ている(笑)

 小沢健二と小山田啓吾のソロになってからの作品にも言えることだが、過去の作品へのオマージュと言うか引用が多い。CDのタイトルからして(日本語訳は「海へ出るつもりじゃなかった」)アーサーランサムと言う作家の作品タイトルの引用。
 この辺の持って来かたが憎いね。中途半端に引用というのを判らせないあたりは。
 私は、たしかなんか雑誌の小さなコラムでこのCDの名前を読んで、ジャケ買いならぬ、タイトル買いをしたCDだった。

 このCDは実にみんな(5人組)が楽しくやっているって感じがしていいす。のちのフリッパーズギターは、段々とアバンギャルドな方向が強くなって、うーむって感じになっちまったすからね。(次の「カメラトーク」ってアルバムも良いよ)

1997年6月30日(月曜日) レコ評『太田裕美/こけてぃっしゅ』
 一般的には「木綿のハンカチーフ」の歌手という認識か、最近はシンケンゼミとかってののCMに出ている人って感じなのだが、70年代はむちゃ人気あったっす。
 ま、当時はピンクレディ・キャンディーズってのが凄かったけど、その辺のお子様向けを卒業しちゃった大学生以降の人には人気絶大だったっす。初代・大学祭の女王みたいな存在で、当時、日大の学園祭にも来たっす。
 作詞:松本隆・作曲:筒美京平・編曲:萩田光雄ってのが初期から中期の基本ラインで、一般的な歌謡曲とニューミュージックと呼ばれていた物の境界線の音を作っておりました。
 ふと聞き直して感じたのが「谷村有美とかって線は、これを踏襲しているに過ぎないか?」と言う感じ。なんか音的にもメロディ的にも詩の世界的にも、70年代と言う時代ではなく普遍的な物を持っている。うーむ。

 とりあえず今回「こけてぃっしゅ」と言うアルバムを推薦してみたんだけど、これは夏向けだし、筒美京平が全曲書いているアルバムとしても名作に入るんではないか?と思っている。さらに現在「CD選書」で手に入りやすい。ってのがあるんで、書いてみたりした。
 もう一つ、夏向けっていえば「海が泣いている」と言う、当時、歌謡曲では珍しかったロサンゼルス録音をしたアルバムも、ギターの音とかが当時のウエストコーストな音しててかっちょいい(リーリトナーとかが参加してる)この辺の流れが、後の松田聖子なんかの曲に活かされていくわけなのだ。
 とにかく、70年代の歌謡曲って言う意識で聴くと、足元をすくわれるくらいに、今でも通用するアルバムだったりするのだ。

 #もし、女性ポップスボーカルが好きって人で、1500円で賭けをしても良いって人は買ってみて損はないっす。「海が泣いている」があればそっちもお勧め。