杉村ぐうたら日記(1997年7月21日〜31日)

▲1997年7月21日:月曜日:コメンテーターの条件
▲1997年7月22日:火曜日:作り上げる記憶
▲1997年7月23日:水曜日:傷つけられたのは誰だ?
▲1997年7月24日:木曜日:認められた表現・認められない表現
▲1997年7月25日:金曜日:流されやすい部分
▲1997年7月26日:土曜日:人格の成熟
▲1997年7月27日:日曜日:不毛な27時間TV終了(笑)
▲1997年7月28日:月曜日:ラブラブオールスターズはやっぱ凄いっす。
▲1997年7月29日:火曜日:真夏のドライブの危険点!?
▲1997年7月30日:水曜日:CDの問題点
▲1997年7月31日:木曜日:日記と言う物
1997年7月21日(月曜日) コメンテーターの条件
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(2)前日よりの続き

 例の神戸で起きた猟奇的な殺人事件は、ちょっと意表をついた終わり方をした。
 多くの人が、今から9年前に起こった連続幼女殺人事件と重ね合わせた上で「ある種、幼児性の抜けきれないオタク世代の犯行」と言う方向の犯人像を描いていた為に、まさにその「幼児性」と言う部分がキーワードとなった犯行の真意を測りきれなかった。

 多くのコメンテーターと称するワイドショーに寄生する似非文化人によって導き出された答えは見事に外れたわけですが、聞くところによると、犯人が捕まった途端にそれまでの意見を簡単に捨て去り「やはり」と言う顔をしてコメントをしていた人もいたと言う。

 私は今回の事件に関しては、ちょうど仕事が忙しかったりして、ほとんどワイドショーと言う物を見る機会に恵まれなかったので一般のニュースで語られる比較的に客観的な事実しか知らないのだが、そこで交わされたであろうコメンテーター諸子の大胆な推理と言う物は容易に推測できる。
 この手のワイドショーに出て「コメンテーター」と言う肩書きで、好き勝手な事を言う人々というのはいったいどういう基準で選ばれているのだろうか?と以前考えたことがあった。

 ま、実際の職種は作家だったり、大学教授だったり、雑誌編集者だったり、多岐に渡っている。
 しかし、結局そこで述べられている意見って言うのはお茶の間で鼻くそほじりながら交わしている意見と差して代わりがなかったりするのだ。もの凄く無責任で、中途半端な憶測でしかない事をあたかも真理の言いつつ、最後には「警察も早く犯人を捕まえて欲しい物です」などと、中途半端に建設的な意見を述べると言う、この人たちはどのような人選によるモノなのだろうか?と思っていた。
 結局、誰でも考えるような事を躊躇せずに口に出して言えると言う事がまず第一の条件で、事件が決着した時にその推測・憶測がまったく的外れだったとしても、まったく恥ずかしいと思わないって事が、重要なポイントなのでは無いか?と思ってしまう。

1997年7月22日(火曜日) 作り上げる記憶
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(3)

 もっとも、現在のワイドショーの流れって言うのは、事件の最初の部分で明確な犯人像を、その番組がムードとして作り上げてしまったりする。
 そのおかげで、今回の神戸の事件においては現場をうろついていたのは30〜40歳の不審な男と言う、実際に存在したのか判らない様な人物をみんながクローズアップしてしまったのだと思う。
 実際に、事件なんかが起こった場合、周りを見渡して不審だと思もうとすれば全員不審に見えてしまう。

 きっと現場周辺に住む人々たちも「犯人は30〜40歳の男(かもしれない)」と言うワイドショーの言葉がインプットされている状態で、新聞や雑誌記者に何度も何度も「事件の前日、不審な男を見ませんでしたか?」と質問されたのだと思う。そんな状況の中では、記憶と空想が簡単に擦り違えられてしまう事もあると思う。

 普通、事件が起こった朝(校門の前に切断された首が置かれていた朝)以降の出来事だったら、注意深くなって細かい事でも覚えているかもしれない。
 しかし、その前日や前々日あたりの、少年が行方不明になってはいたがそれほどピリピリしていなかった時点の事を、事細かに覚えている人なんていないんじゃないかな?
 そんな曖昧な記憶の状態で「事件の前日、不審な男を見ませんでしたか?」と何度か聞かれている内に、ワイドショーで言っている「30〜40歳の不審な男」のイメージがあって「もしかしたら、買い物帰りにそんな男がいたかもしれない」→「なんか、そんな男がいた様な気がする」→「たしかにいた」と、記憶をさかのぼっていると錯覚して空想の記憶を引っ張り出してしまう場合もあるハズ。

 たとえば、突然「昨日の帰り道に黒いTシャツを着た30歳ぐらいの男とすれ違ったでしょ?」と聞かれた場合、即座に「そんなヤツいなかった」とは言えないでしょ?
 「もしかしたらいたかもしれない」と言うぐらいの曖昧な状態の記憶しかない。

 とある雑誌に書かれていた記事では、この事件現場の周辺住人は警察の事情聴取&雑誌・新聞・TV・ラジオの独自の取材でまともに生活が出来る状態ではなかったと言う。
 例の校門の近くの家などは、ドアの前に数人の記者がインタビューの為に順番待ちをしていたと言う。(同時に聞くのではなく、それぞれの記者が単独にインタビューをしていたらしい)
 警察も複数回事情聴取をする。
 TV局もそれぞれの局が(関東+関西+αで10局以上)新聞も独自にインタビューする、数え切れないほどの雑誌もそれぞれにインタビューする。
 そんな状況の中で、最初の記憶を守り続けるのは難しいかもしれない。
 中学校の校門での第一発見者などは、あまりにインタビュー攻勢がすごくて自宅に帰る事が出来ずに、1ヶ月近く友人宅を止まり歩いたと言う。

 で、ワイドショーの最初の見解が「30〜40歳の男」と言う物で、声明文からして「おたく的」な人物と推測できる・・・って、全部、幼女連続殺人事件の宮崎の焼き直しのイメージ。
 そんな方向でスタートしてしまったので、インタビューされる側の記憶もその方向に傾いて、居もしない男があちこちに出現してしまったのかもしれない。

1997年7月23日(水曜日) 傷つけられたのは誰だ?
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(4)

 その猟奇性と、マスコミの向こう側にいる観客を意識した犯行、そして犯行声明文の虚構性と言う点で、宮崎の犯した犯罪と重ねられて考えられたりもしていたが、同時にあの時と同じ方向に陥ったのが「おたく」と言う存在の否定。
 いわゆる犯罪の裏には「おたく」的なメディアの影響が色濃く出ているのではないか?などと言う、安易なカギカッコで括った世代論や、抽象的な存在に名称を付けて十把一絡げに批評しようとするスタイルがあった。
 ちょうど僕あたりの年齢は「おたく」と呼ばれた一番最初の世代を含有していたりするんで、いわゆる40代以上のコメンテーターの方みたいな、安易なくくり方は「どうも違うのではないか?」なんて思ってしまう。

 これは、何が重要か?と言うと「おたく」と言う言葉が、すべてを総称できてしまう非常に便利な言葉だからなのかもしれない。
 その「おたく性」と言う物は誰でも抱えている物で、ただ単に30代後半以上の人が現役の若者の時代には言葉として無かったというだけの事だったりする。
 現在マイナス的に語られることの多いその言葉を持ち出せば、とりあえず安易に否定しやすくなっていると言うのは事実だと思う。
 が、別に「おたく」と言うのは資格制度があるワケでもなく、等級が決められているワケでもない。どこからどこまでが「おたく」と言う線引きも出来ない状態で「おたく」と言う便利な名称だけが一人歩きをしているのが現状だと思う。


 と、ここまで書くと、まるで「おたく擁護」かと思われそうだが、自分の気持ちの中ではあんまし擁護しようとは思わない。
 それどころか「またしても、この事件によってロリコン的な物、ホラー的な物を社会から抹殺しようとする動きがある」などと、双方がヒステリックな意見を持ち出す様になるのが、凄く嫌だなと思ってしまう。
 よく、その手の「有害図書指定」や「規制」などの話が出ると、抑圧される側から「表現の自由」と言う言葉が持ち出されてくる。私たちが求めている表現を規制しようとする動きは断じて阻止しなくてはならない。この民主主義の日本の上で表現すると言う事に規制を加えるとは・・・などと、いう意見が出てくる。

 その時、ふと思ってしまうんだけど「表現の自由って・・・あんたらの求めている物はそんなに高尚な物か?」って事。
 たとえば、そんな規制されたりする方向の動きがなかった段階で「表現の自由が」なんて事は考えず、ただひたすらリビドーの赴くままにそんな物を読んでいたり見ていただけだと思うんだけど。
 簡単な言葉で言えば「自分のチンポの趣味」を「表現の自由」と言い換えているだけの事。

 いわゆる良識派と呼ばれる様な人から「有害」と呼ばれる物には、それなりの理由付けがあると言う事。一般的に声高々に正しい!と呼べる物でない部分が多いと言う事を認識しない限り、規制される側の意見は認められないと思うのだ。

1997年7月24日(木曜日) 認められた表現・認められない表現
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(5)

 よく教育者側からの意見として「そのような悪質な内容の物によって、悪影響を」と言う物があり、逆側からは「そのような物で欲求を擬似的に解消できるのだ」と言う意見が、正面からぶつかる事になる。

 これはどっちもどっちなんだと思う。影響される人もいれば、欲求を解消できる人もいる。としか言いようがない。
 私はよーわからん、としか言いようがない部分なんだけど・・・。

 確かに、今回の神戸の事件でも犯人が捕まった翌日のTVニュースで「犯人の少年がホラービデオを・・・・」とかって言う報道をワイドショーではなく、通常のニュース番組で言っていたが、たしかにそんな事をわざわざ言う事もないとは思う。そのホラービデオを見たのはその少年だけではない。同じビデオを見ても殺人事件なんかを起こさずに一生を全うする人が99.99%なのだから。
 これもマスコミ的な、分かり易いカギカッコでしかないワケで、それをことさら深刻に受け止めてしまう行政まであったりするからややこしいのだな。
 そんなに、ホラー映画・漫画が影響を与えるなんていったら、まずは江戸川乱歩の小説あたりを全部発禁にする処から始めないとまずいんじゃないかな?
 ボクも、小学校の頃、あるいは中学の頃、ある種の興奮を感じながら江戸川乱歩の猟奇的な小説を読んだ経験がある。
 もっとも、それを読みながらオ◎ニーしたとかって言うのじゃなく、もっと奥深い部分での興奮を感じていた。

 発禁に価する出版物と言う扱いにされてしまう物に「レイプ物」と言うジャンルがある。
 漫画・ビデオその他昔から多く制作されて来たと思うが、それだけ多く制作されてきたと言うのはある種の需要があるのだと言うことは、否定できない。
 しかし、実際にはその中で描かれている行為は犯罪であって、世間から容認される物ではないと言うことを認識した上でいなくてはいけないのだと思う。
 それ以外にはロリコンと言う物も、それにあたったりする。

 漫画などの中では比較的ライトな感じで描かれているのだろうが、現実問題としては犯罪行為だったりする。たしかに漫画の中で被害に逢う女の子なんかも、結局は感じちゃったりして喜びを分かち合ったりしてんだけどさ、なんかねぇ困った問題だとしか言いようがないっす。

 確かに個人の性癖を規制する事は出来ないかもしれない。でも、いわゆるここで安易に言われている「表現の自由」を求めている部分は、世間一般からしたらマイノリティ(少数派)であり、現実的な行為としては法的に認められない物だと言う事も認識しなくちゃいけないのだと思う。

1997年7月25日(金曜日) 流されやすい部分
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(6)

 日本と言う国を色々考えてみると、実際の処「○○ちゃんがやっているから」と言う小学生理論が横行している様な気がする。
 この「表現の自由」なんて物を安易に認めたりすると、全ての物がなし崩しになってしまうのは見えている。いわゆる「ヘアヌード」なんていう、芸術性のかけらが無いクソみたいな物でさえ「芸術だったらヘアが見えてもいい」なんて言葉がきっかけになって、容認された。もう、コンビニでも気軽に買える状態になった。あぁいい時代になったもんだ、なんて思わない。
 そればかりか、一般誌にも平気で突然そんな写真が使われていたりする。なんだかなぁ、日本人ってここまで芸術を愛している国民だったのか、なんて今さらながらに呆れたりするんだけどね。

 たとえば「ルーズソックス」最初はイージースミスって処が出したのが最初だったんだけど、これって思いっきり異様なファッションだと思う。客観的なデザインとして見た場合、滑稽だと不細工だとしか思わない。
 確かに、これを一番最初にやった人は勇気があったりファッション的にはブッ飛んでいる人なんだと思う。だけど、これほど短時間に、これほど増殖するとは思わなかった。
 一部女子高生の間では、逆にルーズソックスをはいていないヤツは「アイツ終わってるよ」と言う扱いだったらしい。
 ここまでくるとファッションじゃねぇな。
 この異様なファッションをしてないと・・と言う部分まで押し進めた元凶は「日本人だから」と言う部分がやっぱり多い様な気がする。

 凄く、遠い話になってしまうんだけど、第二次世界大戦の時、周辺アジア諸国で残虐な行為に及んだ日本人が、50年経っても問題になっている。確かに戦争という狂気の時代が引き起こしてしまった事件なんだけど、これも「止める意志を持てなかった」のかも知れない。
 実際その場にいなかったので何とも言えないのだろうが、ここにも「○○ちゃんがやっているから」の小学生理論みたいな物が働いていた様な気がする。
 たとえば北朝鮮のマスゲームみたいな一糸みだれぬパフォーマンスを見て凄いと思う反面「気持ち悪い」と思ってしまう自分がここにいるが、きっと僕も50年前に生まれていれば戦争に行って、お国の為に人殺しをしていたかも知れない。足並みを揃えて行進していたかもしれない。

 何かイベントが起こった時に、店などの前に徹夜をして並ぶスタイルなどを見てもそんなイメージが付きまとう。物欲などの欲求の元に従順に大人しく飼い慣らされている様な気がしてしまう。

1997年7月26日(土曜日) 人格の成熟
酒鬼薔薇事件を振り返って考えた事(7)

 まだ意見としては、明確に一本の線としてまとまってはいないが、流行のスピードや、世の中の刺激への愚鈍化などを見ていると、この先にあるのは何か深い闇の様な気がしてしまう。

 話を元に戻すが「表現の自由」の名のもとに、なし崩し的に流通されていくマイノリティの為の「有害と既定される物」
 これが日常的に流布し、刺激が刺激でなくなった時に「表現の自由」のベクトルはどこに向かって行くのだろうか?

 何が恐いかと言うと、1個人として人格や理想が形成されていない様な段階なのに、その様な実際は規制せざるを得ない物を、当たり前に流通している物として与えられた場合、その人が受ける感情変化と言う物はどうなってしまうんだろうか。恐ろしい様な気がする。
 しかし、現実を見ていると、それが18歳だろうと、20歳だろうと、25歳だろうと、もっと50歳だろうと、客観的に見ていると成熟していない人間ばかりが溢れている現状では、封印しなくてはいけない様な気がしてしまう。
 果たして、色々な社会的な意味で大人になりえている人物がどれだけいるのだろうか。それは自分の理想や信念だけでなく、自分を取りまく環境や社会に対して責任を持って、自分の力で思考し行動し、自分の名の元に自分の意見を述べ、他者の意見を認識できる人格と言う意味での成熟。

 やはり、自分が完成されていない人物には与えていけない物、と言う物は確実にある様な気がする。

   なんか、色々言いたいことが交錯して、結論があやふやになって
   しまいました。いつか、キッチリと分かり易い文章で意見を述べ
   たいと思います。

1997年7月27日(日曜日) 不毛な27時間TV終了(笑)
 今年もフジTVの夏の無意味イベント『27時間TV』が行われ、波瀾万丈のうちに終わった。
 ま、やたらとボランティアを強調して「私たちは良いことをやっているのよ」的な顔をされるのよりは、一視聴者としてはいいのかも知れないけど・・・・

 私は、夜の部と、早朝の部と、エンディングしか見なかったが、やっぱしフジTVだなぁ(笑)
 台風によって夜の部が滅茶苦茶になったのは、無責任な意見としては素晴らしかった。すぐ近くに、フジTVの新社屋があるんだから、そのどっかを使ってやればいいのに(玄関ホールだってかなり広いし・・)空き地に急こしらえしたテントの中に蒼々たる芸能人を集結させて、汗だくにさせて、しかもやるのはTVゲーム(笑)
 なんか、そこいらの商店街の夏祭りだってなんとかするってのに・・・・おかげでデニスロッドマンは笑わない・・・。

 それ以外の企画も、せっかく海沿いに社屋があるんだからって事で、全国各地から漁船が大集合!って、よりによって台風の最中だもんなぁ
 (この企画がどーなったのかは知らないけど)


 ま、ラストを見てて、流石に1日テンションをキープ出来なくなったらしい篠原ともえが素の顔で立っていたのをみて、好感を持った(笑)
 眉毛も汗で吹き飛んでいるし、いつも揃えている前髪もバサバサで、どーみても、そこいらにいるただのお子様になっていた(笑)
 ま、ご苦労さん

1997年7月28日(月曜日) ラブラブオールスターズはやっぱ凄いっす。
 前述の27時間TVのスペシャル企画で、ラブラブ愛してるが生だったんだけど、うーむ凄いっす。

 ラストのKiniki Kidsのデビュー曲を演奏する時、バックを見るとギターが、高中正義・チャー・野村義男・吉田拓郎・泉谷しげる・・・・ベースが吉田建、コーラスがシングライクの佐藤竹善・ブラザーコン・高野寛、その他記憶に漏れた凄い人々。
 なんつーか、生放送でこの面子が揃ってしまうってのは、異常事態っすよ。
 はっきし、言ってこのバージョンはCDで発売されている、山下達郎完全プロデュース(+コーラス)のオリジナルKinki Kidsのデビュー曲よりかっこよかった。
 あぁ凄いっす。

1997年7月29日(火曜日) 真夏のドライブの危険点!?
 TVの「あるある大事典」のオープニングを見ていたら、真夏の車のダッシュボードは異常なほどの高温になって危ない!と言うことを、久米明のナレーションでおどろおどろしく、危険だぞぉとやっていた。

 真夏の直射日光と同じ条件でテストしたところ、車内の温度が70度を越えるとなんと100円ライターが爆発する!
 85度になると缶コーラが爆発する!
 そして、100円ライターの破片がシートに突き刺さっている絵を見せながら「もしこの車に人が乗っていたとしたら、この破片は・・・・、そして沸騰した飲料が乗っている人にかかったとしたら・・・真夏のドライブには危険が潜んでいる」などと、神妙な事をいったりするのだ。

 しかしだ、その前に70度とか85度の車内にいる事自体が危険の様な気がするって(笑)

1997年7月30日(水曜日) CDの問題点
 こないだ「音楽は高いか?安いか?」と言う部分の文章を書いたんですが、それはあくまでも「値段的な価値」と言う物で、それ以外の付加価値には触れなかった。
 その中で、同じ音楽を提供するメディアなんだけど、レコードが今CDに変わったと言う部分で、比較できなくなった様な気がします。

 CDの最大の問題点は「ジャケットが小さい」と言う部分だったりします。

 たとえばLDなんかは、かつてのレコードサイズなんで、買うときに「よっしゃ買ったるでー!」と言う気合いが入ったりするんですが、CDの場合はなーんかワクワク感が少ないってのも確か。それがMDなんかになったら、さらに・・・・。
 初期の輸入盤なんかは、万引き防止の為なのかジャケットの倍のサイズの箱に入ってました。あれなんか迫力のあるパッケージのムードが残ってて好きだったんですが、最近はそれもなくなって哀しいっす。と言いつつ、あのパッケージって買った後はジャマになってしまうんだけど (笑)

 迫力と言う点では、アナログ時代に渡辺美里のタイトル忘れたけどアルバムのジャケットが顔のドアップだったんすよ。ほとんどキングクリムゾン状態 (笑)
 それが発表された当時のレコード店の店頭は壮絶でした。売れ線のアルバムなので店の一番目立つところにずらーっと並べてあって (笑)
 そんな芸当もCDサイズでは無理っすからね。

 それ以外にアートジャケットってのも少なくなってしまって淋しい。ときどき限定版で凝ったのもあるけどね。
 とはいいつつ、徐々にこの辺は凝った物も出来るようになっている。
 以前発売されていた「EL&P」の「恐怖の頭脳改革/BRAIN SALAD SURGERY」のジャケットなんかも、ギーガーの絵が見開きになった凝ったのだったのにCD版はタダの印刷のみだけになっていて寂しいな、と思っていたんですよ。
 ところが、最近再リリースされた盤は、見る方向で絵が変わる特殊印刷のジャケットになってました。
 くそー、ジャケットだけの為に2重に買うわけにもいかんし。

 ストーンズの「スティッキーフィンガーズ」(デザイン:アンディウォーホール)もジッパー付き版がCDで出ていてびっくり。

1997年7月31日(木曜日) 日記と言う物
 サラリーマンをやっているせいで、世間が夏休みに入っているという事に気が付かなかった。
 そーか、どうりで毎朝、通勤する途中に女子高生をあまり見かけなくて淋しいのだな。

 夏休みと言うと、日記という物が付いて廻ってくる。
 これがなかなかクセモノで、私は日記が嫌いなのだ。
 ・・・・ま、このHPでこれだけ大量に文章を書きまくっている私が言ってもリアルな言葉ではないが、とにかく毎日毎日、その日起こったことを記録していくなんて趣味はないのだ。

 確かに、これまでも「よーし!日記を書くぞ!」なんて思ってしまった事は何度かある。が、本当に続いて1週間2週間、3週間目にはメモ書きになり、気が付くと半年たっていたりする。
 普通に普通の暮らしをしていると、そうそう書くことなどないってのが基本なのだ。
 確かに、目を凝らして生きていると、何かしら毎日新しい発見はあったりする。が、それをわざわざ書き留めていくってのも面倒な話で、結局いつかしら書かなくなってしまうのだよ。

 よく大作家なんかが死んだ後、書簡集とかと一緒に全集として日記なんかが出版される事もある。ま、日常的に文章を書くのが仕事の作家だから、何かメモ書き程度の物を書いていくのだろうな。なんて気もするが、その手の日記を読むと日記ではないのだ。
 基本的に日記てのは自分の為のメモ帳のハズなのだが、作家の残した日記というは誰かに読まれることを前提に書かれているような気がする。そこに現実では言えない他人への恨み辛みなんかもあったり、愚痴があったり、誰それがスキがとか言うのもあったりするが、どこかに読者がいるのを前提に書かれているような気がする。
 うーむ。

 私も基本的に日記なんか書けない人のハズなのだが、ここにこうして完璧ではないが文章を書いているのは、きっと「読まれることが前提」になっているからなのだろうなぁ。

 もちろん、完璧個人の為に書いている人もいると思うが、日記は読まれる為に存在しているのだ。
 そーなのだ。