杉村ぐうたら日記(1997年8月1日〜10日)

▲1997年8月1日:金曜日:とつぜん「ディスイズアペン!」・1
▲1997年8月2日:土曜日:とつぜん「ディスイズアペン!」・2
▲1997年8月3日:日曜日:とつぜん「ディスイズアペン!」・3
▲1997年8月4日:月曜日:角川ホラー文庫・アンソロジー
▲1997年8月5日:火曜日:評論家という人種
▲1997年8月6日:水曜日:評論家という人種・2
▲1997年8月7日:木曜日:『太田裕美/海が泣いている』CD選書
▲1997年8月8日:金曜日:『太田裕美/海が泣いている』CD選書・2
▲1997年8月9日:土曜日:『ニールヤング・ランディングオンウォーター』
▲1997年8月10日:日曜日:  
1997年8月1日(金曜日) とつぜん「ディスイズアペン!」・1
 何故か突然なのだが「荒井注」の事を考えてしまった。
 若い人には「誰やねん」と言う状態なのだが、1970年代に少年時代を過ごした人にとっては、栄光の黄金時代のドリフターズのメンバーだった人として記憶の中に残っているのだ。
 確かに現時点でドリフターズと言ったら、志村けんが加入した後のドリフの事を指すのだろうが、私の心の中にはドリフの永久欠番として荒井注が存在しているのだ。

 ドリフを脱退した後は、36歳だか年下の友人の娘と結婚したとか(うひー、私にスライドして考えてみるとまだ相手が生まれていないっす!)伊豆にカラオケボックスを作ろうとしたが、最後の最後になってカラオケの機械が部屋の中に入らずに断念したとか(『現代用語の基礎的ではない知識』参照)その程度の活躍しか知らないっす。
 基本的にあんましドラマとかを見ない人なので、2時間サスペンスとかに出ているのかも知れないが、私は荒井注氏の芸能活動をあんまし知らない。
 が、私の心の中では永久欠番として燦然と輝いていたりするのだ。
 あ、頭の事じゃなくてね。

(続く)

1997年8月2日(土曜日) とつぜん「ディスイズアペン!」・2
 氏の代表的なギャグは2つ、何か注目浴びる事をしておきながら突然真顔に戻り、カメラを見据えて「なーに見てんだよ」と凄む物と、前後左右の脈略まったく無しの状態で「ディスイズアペン!」と叫ぶという、実に今考えるとシュールなギャグだった
 (知らない世代が、文章だけで読むとシュールを飛び越して居るかも知れないけれど)

 「なーに見てんだよ」と言うギャグに関して言うと、あの時代は「お約束」がまだしっかりとした形で「お約束」として機能していた時代。舞台の上で演じていようが、カメラの向こうに何万人の目が有ろうが、芝居はあくまでもそこで完結した話として進んでいた。
 確かに、ドリフなんかの場合、一番最初のつかみの部分でいかりや長介が「オーィッス!」と客席を煽るのがパターンだったが、本編に入ってしまうと芝居の中に入り込んでしまっていたのだ。
 しかし、このギャグと言うのはハッと我に返って、TVカメラの向こうで見ている客に向かって「何見てんだよ」と言い放つと言う、実にインタラクティブなマルチメディア的ギャグだったのだ。
 このギャグが考えられたのはたぶん60年代の末期だと思うが、この時代を考えてみると映画界では「ヌーベルバーグ」と言う物が盛んに論じられ、それまでの既成概念を壊した物を繕うという動きがあった。
 流れ自体は50年代からあったが、ヌーベルバーグとして形作られたのはこの頃だと思う。いわゆるフェリーニやゴダールなんかが一般的な商業映画として成功し、日本では「日本のヌーベルバーグ」大島渚なんかが注目を浴びたあとだと思う。
 TVドラマなんかでも、演技の途中で出演者が突然、その役から外れて「でも僕はこう思うんだけど、見ているあなたはどう思います?」とかカメラに向かって独り言をつぶやく。とかそんな演出の物があったりした。
 そんな事を踏まえた上での「なーに見てんだよ」だったのかも知れない。
 あるいは考え過ぎかもしれない。

(続く)

1997年8月3日(日曜日) とつぜん「ディスイズアペン!」・3
 さらに「ディスイズアペン!」と言うのも凄い。
 この「This is a pen」と言うのは、今はどうか知らないが70年代の中学の授業の一番最初がこれだったのだ。
 授業でいきなり初っぱなに「これはペンです」「これは机です」「これは帽子です」等という事を教わるのだ。確かに短いセンテンスで、何も解っていない状態から始めるとしてはいいのかもしれない。
 が、英会話をすると言う意味では不毛な勉強の出だしって感じがしちゃうのだな。いきなり「これはペンです」だもんなぁ。

 そんな日本の英語教育を見事に付いた批判的なギャグだったのかもしれない。なんて書くと、またしても深読みしすぎてら、なんて思うかもしれないが、実は荒井注氏は先生の資格を持っていたりするのだ。
 で、そんなこんなで当時のガキは外人を見ると意味もなくギャグのつもりで「ディスイズアペン」などと言ったりしたのだ。もちろん手にペンなんか持っているハズもない状況でも、嬉々としてそんな事を言っていたのだ。
 外人もめんくらったと思うっす。

 なんせ、アメリカあたりに言ったら突然、向こうの子供が日本からの旅行者である自分に向かって「これはペンです!」なんて意味不明の事をニタニタ笑いながら言っていたりする様なものだから。
 外国の映画なんかに出てくるインチキ日本人がそれらしい日本語を適当にしゃべっているのを笑えないかもしれない。

 とにかく、突然、荒井注の事を考えてしまったのだ。

1997年8月4日(月曜日) 角川ホラー文庫・アンソロジー
 角川文庫のシリーズで「ホラー文庫」と言うのがある。
 これは一般的な、超常現象的な幽霊ものだけではなく、ストーカーものなどの人為的な怖い話も収録されているシリーズで、物によっては面白いんで何冊か読んでいたりする。
 で、こーゆー特殊なテーマの文庫なんかだと「アンソロジー」と言って、複数の作家の短編が収録された物が出ているで、数冊買って読んだりした。
 アンソロジーの利点は、その中に何人か従来から好きな作家とかが入っているのを買ったりするんだけど、それがきっかけで、初見の作家の作品にも触れる事が出来ると言う事なのだ。
 そこで肌触りが好きな作家に巡り会って、その作家の単独で出している作品を買い始めたりするのだ。
 で、この角川ホラー文庫のアンソロジーは何種類も出ている。だけど、なーんか面白くない。
 それ以前に好きだった作家の作品でもなんか面白くない(ここでの基準は怖いか?ワクワクできるか?)はて?何故だろうと考えてみてなんとなくわかった。

 基本的にホラー小説は長くないと怖くないのだ。

   作家によって違うだろうが、多くのホラーが平和だった日常が突然、針の穴のような部分から徐々に崩れていくと言う過程を恐がると言う構造で出来上がっていたりするんじゃないかな?と考えてしまったっす。その理論から行くと、短編では恐怖に到るまでの過程が短すぎるのだ。

 ま、その短さの中でいかに怖い話を持っていくか?と言うのが作家の力量の見せ所なんだろうけどさ。
 安易なホラー漫画やホラー映画なんかは最初から最後までグログロのグチャグチャだったりするけど、それはホラーな恐怖ではなく、生理的に嫌だって部分でしかなかったりする。
 心理的に徐々に追い込んでいくホラーは長編に限る!

 最近のスティーブンキングみたいにハードカバーに小さい字びっしり2段組み、しかも上下2巻って感じの長いのも困ってしまうけどね(でも読ませてしまうからキングは凄いのだ)

1997年8月5日(火曜日) 評論家という人種
 とりあえず僕なんかは、ガシガシと本を読んで、ガシガシとその内容に付いての文章を書きつづったりする。
 音楽に関しても、ガシガシと聴いて、ガシガシとその音楽に付いての文章を書きつづったりする。
 いわゆる評論もどきの事を、趣味として書いていたりする。

 何故評論もどきをするのか?と言うのの一番重要な処に「他人にも自分が楽しいと思った気持ちを伝えたい」と言うのがあったりするのだ。
 基本的に快楽主義なので、本にしても、音楽にしても、その感想は「楽しい」「嬉しい」などの、ごく単純な物がほとんどだったりする。

 こんな場所で文章を書いていて、作者の元にその内容が伝わるなんて事は99.99%ありえないだろうから、基本的には一方的な「好き」「嫌い」の範疇ででしか文章を書かない。
 ましてや、文学者的に「作者の意図する処」とか「作者の人生におけるこの作品のしめる位置は?」などと言う、掘り下げ過ぎた姿勢でのぞもう何ンて思っちゃいない。


 自分にとって現時点での作者との接点は作品ででしかないのだ。

 その作者が知り合いだったとしても、単純なる一読者として作品に接している場合は、その単独の作品がすべてなのだ。
 ほんでもって、ベースに流れるのは「好き」or「嫌い」と言う至極簡単な物と言うことになる。

 私は根が単純に出来ているせいなのか、その作品のどこかしらに良い部分があるハズと思って読み進んでいくんで、あんまし激怒して「この作品嫌い」とか言うつもりはない。
 そーゆーのを甘いとか言うのだろうが、かの映画評論家の淀川長治が書いた映画評論集のタイトルにあるような「私はいまだかつて嫌いな映画に出逢った事がない」に近い心理がそこにあったりするのだ。


 ある推理小説家が書いていた文章で「ちまたに推理小説ファンで評論家を自認するアマチュアは多いが、その誰もが推理小説が隆盛する事を望んでいないのではないか?」と言うのがあった(表現はちょっと違うかも知れない)
 つまり、一般の評論家をきどる人々は「辛辣な事を書いて、作品をこけ下ろす事」が評論だと思っている節があるのだ。確かにそんな感じを受ける事がある。

 評論家をきどるアマチュアな人は、少なからず自分の蓄積された知識を誇りに思っていたりする。あるいは自分のセンスこそが一番優れている物と信じ切って居る節がある。
 そのバックボーンの上に立ち「その程度の作品ならば」と過去の名作を引き合いに出して比較する。
 理論的に破綻をきしているごく些細な箇所をことさら大きくあげつらう。

 確かに逆に考えれば「愛しているジャンルだからこそ辛く当たる」と言えなくも無いのだろうが、その手の評論なんかを読むと「じゃ、どんな作品だったら君は満足するのかな?」とか「そんなに嫌いなら読むなよ」とか思ってしまうのだな。

 まるで、わざわざマクドナルドに来て「ファーストフードでの食事は栄養学的に見て偏っている」とか大声で意見を述べている嫌がらせみたいな感じなのだ。

1997年8月6日(水曜日) 評論家という人種・2
 いわゆるマニアな会話をしていると「批判的な意見を述べた方がかっこいい」みたいな部分がどこかしらあったりする。懐疑的な方向からすべてを斜めに見る。
 確かに、そう言う見方がある部分で、特定ジャンルを進化させるきっかけになる事もあるだろうが。

 マニアは、その特定のジャンルについて「俺は基本的に凄ぇよく知っているし、大量の作品を読んできたから、ちっとやそっとのことじゃ驚かないもんね」と言う気構えがあったりするみたいなのだ。
 一般素人の人みたく単純なトリックで喜んでいては恥ずかしいらしいのだ。
 これは、他のジャンルのマニアな人々にも言えることで、とにかく「俺って凄いもんね」自慢大会が、そこここで繰り広げられていたりする。
 そんなワケで、よっぽどの事でない限り、マニアな評論家きどりの人々は作品を絶賛しない。

 私の場合「嫌い」と思えるような作品は途中までしか読めなかったりするので、批判までいけないっす。

 もっとも推理小説の場合、一番最後の最後になるまで、その作品の真価と言う物は解らない場合も多いので、駄作と呼べるような作品でも、読み切ってしまう事もある。
 しかし、嫌いな作品のことをグチグチ言っている暇があったら、他の作品を読みたい。なんて思ってしまうので、さっさと忘れてしまう。
 まだ読んでいない作品の方で、新たな名作を見つけるかもしれないからなのだな。
 そんでもって、その「好き」な作品を他の人に教えたりする方が私は好きだったりする。


 それに名作か?駄作か?なんてのは千差万別で、個人の趣味の問題だから「嫌い」を押し付けてもしょうが無いような気もしてしまうっす。
 推理小説に限っていえば「本格推理物」「社会派」「猟奇殺人物」「ハードボイルド」などなど、色々な種類があって、時代時代によってその評価はぐるんぐるん変わっていく。
 私が推理小説に目覚めた頃は、「社会派」が中心で、巨悪を暴く物なんかが主流で、松本清張とか森村誠一あたりが王道だった。
 そんな時期に私は「本格推理」みたいので目覚めてしまったので、完璧なる時代錯誤・反主流みたいな感じだったのだ。
 当然、その当時、その手の推理小説雑誌なんかでは「探偵が出てきて不可能な犯罪を解決するなんて話は子供じみている」とか、かなり迫害をされていたのだ。
 それが、角川映画が金田一耕助シリーズを映画化・TV化したのをきっかけに、推理物が復権してきたのだ。そうするとこんどは「社会派」と言うジャンルが迫害され始める。

 結局、どの作品にも、言いがかりを付けようと思えばいくらでも付けられるって事になるのだ。それより「良い部分を誉める」ってのの方が難しい。

「だって良い部分が無いんだから、しょうがねぇじゃん」
と言う人には
「だったら読むなよ」
としか言えない。


 ジャンルの隆盛以外に確固として好き嫌いってのあるから、他人が誉めていたからって、別の人にとって名作でもなんでもない。ってのが正しい状態だと思う。
 好き嫌いってのは本来そーゆー物なんだしね。

 好きな女の子のタイプにも千差万別あるワケで、自分が「目が大きくて顔の作りが派手な子」が嫌いだからと言って、わざわざ、その子の事を「派手な顔して見苦しい」とか言わないっしょ?
 出来る事ならば、その子のいいところを探したりするでしょ。派手に見えるけど、実は家庭的だとか。

 要するに私は、本にしても、音楽にしても、評論というのはそう言う物でありたいと思っている。

 人間関係でも、知人から面識のないA氏の事を「あいつって凄ぇイヤなヤツなんだぜ」と聴かされたとすると、第一印象以前に「イヤなヤツ」と言う刷り込みが入り込んでしまって、その後に直接逢うことになっても、心の底で「イヤなヤツ」と言うイメージが点灯してしまう様な物っす。

 更に本の場合なんかだと、読み出すきっかけの間口を広げると言う意味でも、自分の好きな本を紹介すると言うスタンスが良いのではないか?と考えていたりする。

 ふとね、いわゆる無責任なアマチュア評論家は、基本的に辛辣な言葉を書けばいいと思っているのでは?と感じてしまうっす。

 私はこう思っているけれど、みなさんはどう思います?

1997年8月7日(木曜日) 『太田裕美/海が泣いている』CD選書
 1978年ロサンゼルス録音
 1970年代に海外レコーディングと言うのは、凄く特別な事だった。
 思いっきり音的なこだわりがある人か、前のレコードが売れすぎた為の税金対策でしか海外ではレコーディングなんかは行われなかったりする。
 現在は普段忙しく働いている歌手の為の慰安旅行の意味があって海外レコーディングを行われているみたいだが(笑)実際、アイドル系の歌手でさえ今は気軽に海外レコーディングを行っていたりする。アイドルの場合、海外レコーディングと言っても数日前に(下手すると当日)楽曲を渡されて、数回のリハの後、歌うってだけの作業なのだが、それでも海外でレコーディングをしたりする。
 現在別名でラジオのパーソナリティなんかをしている某島田奈美さん(モモコクラブ)や、おニャン子さんなんかは、わざわざ海外に行ってボーカルを吹き込んだりしていたのだが、結局その時のテイクがいまいちだった為に、日本に戻ってきてから吹き込み直した曲なんかが採用されたりしている。
 これじゃ、やっぱ慰安旅行としか思えないよなぁ。海外レコーディングって言うポーズをビデオ撮影して、ビデオクリップにするのが最大の目的かもしれない。

 1970年代の海外レコーディングで今でも凄いと思うのが『伊藤咲子/ひまわり娘』
 この曲はそこそこ有名だと思うし、「SPY・S」のファンの人にならボーカルのチャカがソロで出した「うたの引力実験室」で唄われているのでお馴染みだと思う。
 彼女はスター誕生出身なので、作詩は審査員の阿久悠なのだが、思いっきり事務所とレコード会社の期待を担って、1974年にすでに海外レコーディングをしている。場所はイギリス・ロンドン。この時代、海外と言えばまだイギリス・フランスって時代だったのだ。
 やっと海外旅行の自由化が許されてジャルパックやらが大々的に宣伝を始めた頃なのだ。
 日本の音楽界はサディスティックミカバンドがヨーロッパツアーをしたのもこの頃だった。
 この曲の作曲シュキレヴィってのは世界歌謡祭で優勝したイスラエルの人、編曲はなんとケンギブソンと言って後期ビートルズのアレンジャーとして活躍した人だったりする。15歳デビューの歌謡曲の人としては凄いのだ。

 70年代ぎりぎりの1979年にピンクレディが発表した「波乗りパイレーツ」はなんとA面は日本録音なのだが、B面がUSA録音と言う「おいおい海外録音ってのは裏に追いやられたか?」ってな感じになってしまった。で、このB面はA面の「波乗りパイレーツ」の別バージョンが収録されているという歌謡曲のシングルとしては珍しい構成になっていたのだが、USA録音盤の参加コーラスメンバーを見ると・・・・ビーチボーイズじゃんか!うひー(笑)って感じ。
 実際B面の方がアレンジ的にスカスカでのんびりしちゃってんだけど、今聞くとかっこいいっす。とは言え歌謡曲としては受け入れられなかったかもしれない。
 もしかしたらB面の方が一番最初のバージョンで「次のピンクレディの曲はバックコーラスはビーチボーイズだぜ!」と海外レコーディングしてきたのだが、歌謡曲としてヒットは望めそうもないんで急遽、日本でA面バージョンをレコーディングしたんじゃないかなぁ、そんな感じなのだ。

1997年8月8日(金曜日) 『太田裕美/海が泣いている』CD選書(2)
 でもって、話はやっと本題の『太田裕美/海が泣いている』に入るんだけど、アルバムを、丸々海外でレコーディングするってのは歌謡曲というジャンルでは無かった。
 なんせ歌謡曲歌手のアルバムなんて聞くに値しないし、売上なんて期待できない物としてレコード会社の人も考えていた時代だったのだ。1970年代は。(今でも、そう考えているディレクターによって困ったレコードは作り出されているらしいが)
 ま、太田裕美と言う歌手の位置が微妙で、TVではニコニコの歌謡曲アイドル歌手をしつつ、年間100本のコンサートを行い、ステージではピアノの弾き語りをして、フォーク系のライブにも出演し(山田パンダとのジョイントツアーとかもあった)、大学祭と言えば引っ張りだこ(初代学園祭の女王かも)てな感じだった。
 だから歌謡曲歌手の中では珍しくアルバムが売れる歌手だったのかもしれない。

 そんな彼女が当時最高にナウい(笑)ポップスとして注目をされていたウェストコーストな音を導入したのがこのアルバムで、ギターはリーリトナーだったりして、アレンジにはジミーハスケルとかって言うウェストコーストばりばりのミュージシャンを起用していたりする。
 あの時代は、歌謡曲は「サタデーナイトフィーバー」の影響を引きずっていて、ブラスばりばりの暑っ苦しいディスコ歌謡か、地味目なフォーク歌謡が全盛だった時代だったので、この爽やかなポップス路線は異質だったのかもしれない。
 が、この流れが1980年代の松田聖子(同じソニー・作詩が松本隆ってのがポイント)のリゾートポップス歌謡へと継承されていったりするのだ。

 いぜんLPを持っていたのだが、CD選書で再発になり買い直したのだが、この音は今でも充分通用する。いわゆる今で言うならば、谷村有美とか、あの辺の歌謡曲ではないどーロックでもないぞー的なガールズポップスと言うジャンルわけされている音の出発点だったりする。
 その辺の音が好きな人は聞いてみる価値はあるアルバムっす。\1,500だから安いしね。

1997年8月9日(土曜日) 『ニールヤング・ランディングオンウォーター』
 レコード屋によっては、明確にジャンルわけをしてあって「ポップスはここ」「ダンスミュージックはここ」「テクノはここ」「ハードロック・メタルはここ」てな感じのコーナーを設けて、そこに店主かなんかが自分なりの判断でもってアーティストを突っ込んでいたりする(最近は本当に少なくなったけどね、そーゆー店)

 でもこのニールヤング氏の場合は困ってしまう訳だ。
 世間一般的に言ったらフォークシンガーなのかな?たしかに、そーゆー一面を持っている、代表作と言えるのも「ハーベスト」「アフターゴールドラッシュ」などフォーク色の濃い作品だったりする。あとフォークコーラスグループ「CS&N」に参加して「CSN&Y」と名乗った事もある。(このアルバムのちょっと前におこなわれた『ライブエイド』と言うイベントで「CSN&Y」は瞬間的に復活した)

 が、だ。
 この人、時代によって音楽の形態をどんどん変えていってしまうのだ。最近は元に戻ったような感じもするが、一時期は「おいおい本当にそーゆー音楽がやりたいの?」てな感じの音楽をやっていた。ニューアルバムが出るってニュースが流れるたびにかつてのフォーク時代のファンとしては祈るような気分で発売日を待ったりするのだ「テクノだけは勘弁してくれ」と(笑)
 別に過去に固執してくれって訳じゃないんだけど、うーむって感じなのだ。

 世間一般では「しょーがねーなぁ流行にすぐ飛び乗って」と思っているかもしれないが、ニールヤング本人にしたら、その場その場で好きな音楽をやってなにが悪いってことになるのかもしれないし、出発点のフォークだって「あの時フォークが流行っていた」からなのかもしれない、もっと前にデビューしていたらリバプールサウンドをやっていたかもしれない。

 このランディングオンウォーターってアルバムはちょうど10年前の1986年に発表された奴なんだけど、前述の『ライブエイド』のCSN&Yを始めとして、ジョンクーガーやウィリーネルソンやブルーススプリングスティーンやトムペティなんかとイベントに出演して「正しいアメリカのフォークロック」に触れた直後だったのだ。
 でもって、このアルバムはストレートなまでに(稚拙な部分も多いような気がするが)アメリカンなロックアルバムになっている。

 結局「感化されやすいヤツ」だったんだな(笑)

 しかし、そんな感じで常に何かを求めて、過去の遺産で安住した生活をしようとしない姿勢は、フォークギターを握っていても、誰よりもロックだと思うし、誰よりもパンクだと思うのだ。

1997年8月10日(日曜日)