杉村ぐうたら日記(1997年10月21日〜31日)

▲1997年10月21日:火曜日:「ラジオスターの悲劇」
▲1997年10月22日:水曜日:ブスッとしているブス
▲1997年10月23日:木曜日:安室奈美恵・結婚&妊娠
▲1997年10月24日:金曜日:ギネスブック1位の曲「キャンドルオブザウィンドウ」
▲1997年10月25日:土曜日:大掃除をしたのだ
▲1997年10月26日:日曜日:デジタルモンスター育児手帳(1)
▲1997年10月27日:月曜日:ご自由にお持ち帰り下さい
▲1997年10月28日:火曜日:大爆笑・・・・・て?
▲1997年10月29日:水曜日:「週刊少年ジャンプ」の時代終結
▲1997年10月30日:木曜日:物真似の物真似は物真似じゃない
▲1997年10月31日:金曜日:話し言葉で
1997年10月21日(火曜日) 「ラジオスターの悲劇」
 80年代の頭にバグルスと言うバンドが歌って大ヒットした曲のカバーバージョン。
 最初、突然ラジオで流れているのを聞いたんだけど、オリジナルのテクノ系の音とは違った、実にストレートなロックに仕上がったこのバージョンに親近感を持った。
 はっきし言って演奏自体は、そこらのアマチュアバンド的な感じもあったが、何故かストレートにかっこいいって感じがした。

 と、曲が終わってアナウンサーが曲の紹介をした。なんと、歌っていたのは2年ほど前にTVのCMで曲を聴いて、その当時一発で気に入って、その後洋盤でCDを買ったバンドだった。そして、それっきり噂を聞いていなかった「プレジデントオブユナイテッドアメリカ」と言うバンドだった。
 2年前は思いっきりパワーのみでへたくそなバンドだったが、この「ラジオスターの悲劇」はヘタながら上手くなっている。(しかし。一般的に考えたら上手ではない)
 でも、へんに技巧をこらしたカバーなんかより、これは愛がこもっている様な気がした。

 多くの安易なカバーは、オリジナルバージョンより音を重ねてゴチャゴチャしたものが多い。特に多いパターンは安易にテクノ系のリズムやドラムを重ねた物。
 そんなカバー曲は、もーちっと愛と頭脳を傾けて欲しいっす。

1997年10月22日(水曜日) ブスッとしているブス
『ブスッとしているブス』

 上記の言葉を会社の上司が云って、自分で受けていた。
 いわゆる親父ギャグ的な、クダらなさの典型の駄洒落なのだ(私もクダらない物は好きだがベクトルの向かい方が違う)

 うーむ、と心の中で思いながら何も云わずにその場はやり過ごした。

 それは駄洒落でも何ンでも無くて「語源」だろ?たしか。

 元々「毒」の事をブスと云うのだが(確か大昔の野球選手で毒島とかいてブスジマと読む人がいた)これはいわゆるトリカブトの事で、この毒に犯されると中枢神経が麻痺して顔の表情が無くなってしまうのだ。
 でもって、ソレから転じて、顔に表情がない様な状態を「ブスっとしている」と言う様になったのと同時に、不細工な人と云う意味が生じる様になってしまったワケっす。

 しかし、そんな意味でいったら最近「ブス」な人って多く見かけるような気がする。
 つまりブスッと怒った様な顔をしていると言う意味ではなく「無表情」な人を頻繁に見かける。ぼーっと完璧に脱力しきった感じに口は半開きになって、視線は濁った様にどこを見ているのか判らないような感じの人を見かける。
 コンビニやファーストフードの店、喫茶店なんかででも余りにもつまらないのか楽しいのか判らない人を多く見かける。簡単に云ってしまえば「覇気がない」と言うのだろうか、なーんかそんな感じ。
 ま、そんなにウェイトレスって仕事に情熱を燃やしているワケでないのは判るが、常識の範囲を越えたやる気のない声や表情ってのが、どーしたんだろうねぇって感じ。

 街を歩いていてもすれ違うのが多くの表情のない人々って気がする。
 ニコニコしてりゃいいってワケじゃないけど、なんか顔に表情・力が無いって気がする。

 「クール」ってのがカッコいいと思ってんだろうが、それはクールじゃなく痴呆と言うんじゃないのか?

1997年10月23日(木曜日) 安室奈美恵・結婚&妊娠
 突然、安室奈美恵が結婚した。しかも妊娠3ヶ月と言うオマケ付きで。
 相手は、安室奈美恵と同じく「小室ファミリー」なんて言われているTRFのダンサー『サム』しかも安室奈美恵が20歳でサムが35歳。

 マスコミでは人気絶頂の時の結婚と言う事で70年代の「山口百恵」80年代の「松田聖子」と並べて比較をしている。
 なるほど、この3人の共通点は「私は全然興味がない」と言う事だな。結婚だとか、妊娠だとか勝手にやっててね。その後、芸能界に残っても残らなくても、自分にとっちゃぜーんぜん関係ないっす。ぐらいの存在なんだけど、一般芸能マスコミ的に言ったら大事件なんだと思う。

 なんつーか、それより問題なのは「35歳と20歳」って事だよなぁ・・・って、普通に考えて、一般的な20歳の人と一般的な35歳のサラリーマンが並んで歩いているだけでも「似合ってね〜ぇ」状態、ハッキシ言って「そりゃ援助交際じゃねぇの?」てな情景になってしまうっす。
 サムって言う、第一線のダンサーを続けている人と普通の35歳を比べる事自体無理があるのだろうが、これを機に世間一般の独身35歳が自信を持ってしまうことは、良いことなのか、悪いことなのか・・・うーむなのだ。

 芸能界的に問題なのは、この後、マタニティ姿を写真に収めようと馬鹿なマスコミが躍起になって大騒ぎをしなければいいって事。


(追加.1997.10.27)
 サムがニューヨークにいる小室哲哉に結婚の報告をした処、しみじみと「よかったねぇ」と答えてくれたそうだ。
 色々な意味で「(安室奈美恵みたいにしっかりとして、人の意見を聞く事が出来て、自立していて、一般常識を持っている彼女で)よかったねぇ」と言っているような感じがしてしまうっす。
 きっと、小室哲哉が日本から離れてニューヨークに拠点を移しているってのも、ある意味で、それが原因のような気がしてしまうのだ。


(追加.1997.10.29)
 朝6時台の芸能ニュースなんかで、ニューヨークから帰ってきた二人をやっぱしマスコミがもみくちゃにしていたシーンが映されていた。
 でもって、その後でレポーターのコメント「妊娠三ヶ月と言う事で飛行機の長旅が心配されていたんですが・・・ウンヌン」
 あのなぁ飛行機の長旅は構わないと思うが、その妊娠三ヶ月の妊婦をもみくちゃにしたのはどこのどいつらだよ。
 それのほうが、体調的にも精神的にもキツイ物があると思うぞ。

 と、その後通勤途中に聞いていたラジオにナシモトが出てきて、嬉しそうにベラベラ喋っていた。あぁうざい。
 この男の精神構造は自分とはまったく違う物らしく、理解不能でなんだかワケわからねぇや。

1997年10月24日(金曜日) ギネスブック1位の曲「キャンドルオブザウィンドウ」
 エルトンジョンの「キャンドルオブザウィンドウ」がこれまでの世界で一番売れたレコード「ビングクロスビー・ホワイトクリスマス」の3000万枚を簡単に破って1位になった。
 当然、来年のギネスブックにも掲載されるのだが・・・・。
 ビングクロスビーが55年かかって、毎年クリスマスシーズンの度に盛り上がり売ってきた記録を、たった40数日間で破ったそうで・・・・
 うーむ、って感じ。

 まるで、最近の日本の音楽界と同じ様な状況って気がする。

 ビングクロスビーの「ホワイトクリスマス」は、かなりの確率で誰もが知っている曲だが、今回の「キャンドルオブザウィンドウ」は知らない人は全く知らない状態。
 今の時点では判らないが、あと10年経った段階でこの曲を覚えている人がどれくらいいるだろうか。スタンダードになっているのか、忘れ去られているのか。

1997年10月25日(土曜日) 大掃除をしたのだ
 もーとにかく、部屋がどんどん狭くなる。うがー、なんか動きが取れない。と言う切羽詰まった状況を感じ始めてから、早1年、やっと大掃除を始めようと決意した。

 と、言っても私の部屋ってのが、12畳&16畳+8畳(廊下兼)+5畳(クローゼット)と言う、おいおいってな状態。ここが狭くなってしまうってんだから、どーゆー状況か理解して欲しい。
 とにかく、本&レコード・CD&ビデオなどなど、趣味趣味人間の私なので何でもが資料としてストックされてしまっていたりするのだ。
 つまり、雑誌を含めて本を捨てる事が出来ないタイプの人間なのだが、とにかく雑誌も大量に買っている。
 毎朝、会社に行く途中でセブンイレブンなんかに立ち寄ったりするのだが、そこでコーヒーと共にほぼ毎日何かしらの雑誌を購入する。つまり、月〜金曜日の5日×約50週、ほぼ毎日雑誌を購入しているのだ。それも日によっては複数冊購入したりする。それだけで250冊だってのに、それ以外に私は「年間100冊の文庫本を読む」と言うのをここ数年自分に課していたりする。それ以外に読もうかなと思って結局、積んでおくだけになっている本もそれの倍以上あったりする。
 CDなんかもかなり買っている。レコードなんかも暇があれば中古レコード店に行ってガシガシ購入している。
 ビデオも、TV番組の録画が99%だが、「HEY HEY HEY」「MUSIC STATION」などの音楽番組はこの10年近くはほとんど録画してある。それ以外に衛星放送のスペシャル音楽番組もガンガン録画している。

 そんな状況がずーーっと続いて、たぶんこの先もずーーっと続いていくと思うので、今、掃除をして更なる未来の為になんとかしなくてはいけないと思ったりするのだ。

 まずはコンピュータが置いてある12畳をかたずけ始めたのだが、うーむ、掃除前でさえ大量に本が山積みされていたのに、棚などを動かそうと棚から本などを外に出したら、棚を動かすスペースさえ無くなってしまった。なんか、ほとんどゲームの「倉庫番」状態で、1つを動かす為に1つをここに動かして・・・と言う事になってしまった。

 そんな状況で掃除が遅々として進まないってのに、さらに掃除の最悪パターン「過去の雑誌を読み始めてしまう」と言う処にハマってしまった。
 なんつーか、数年前のホットドックプレスなんか読んでいて、まだプロの芸能人でない頃の鈴木沙理奈が「高校2年生」なんつー感じで出ていたり、しかもその号の後ろの方には華原朋美が「遠峰ありさ」って芸名だった頃、水着&レオタードで出ていたりするし。
 他の号では現在日本テレビのアナウンサーの「町亞聖」が大学生代表でレオタード姿で出ていて、しかも「一番感じる処は首筋」なんて答えていたりする。
 うーむ、なんて感じで読み込み初めてしまったりするのだ。

 掃除の道は長く険しい。

(追加.1997/10/29)
 この町亞聖が出ている号は、日テレのアナウンサーのレオタード姿と言う事もあって、現在5000円だかの値が付いているらしい。うーむ。
 他には「hitomi」が、女子校生モデルとして水着で出ていたりする。

1997年10月26日(日曜日) デジタルモンスター育児手帳(1)
 「たまごっち」に代表される、いわゆる育てゲーと呼ばれるジャンルのゲームは私にとって鬼門の様なものだったりする。
 いぜん、マックの中に水槽を作って熱帯魚を育てるアクアリュウムとか言うのを少しいじったが、毎日マックを触っているハズなのに、気が付いた時には累々としたる屍骸の山が築き上げられて居たというわけっす。
 現実の世界でも「やっぱし部屋のアクセントで観葉植物が必要だよな」なんて考えてもすぐ枯らしてしまう。そこで、サボテンならば1週間に1回とか水をあげるだけで済むから・・・・やっぱし枯らしてしまった。しかも、そのサボテンは毎日座っている机の前に置いてあったと言うのに、気が付いたときには枯れていた。
 そんな男に、何を育てることが出来ると言うのだ!

 と、いいつつこの日曜日に友人のマルちゃんとぶらついていた時に、オモチャ屋の店頭に「デジタルモンスター入荷・御一人様1個限定!」と書かれているビラを発見したときに「おぉこれがたまごっち・ポケモンに続いて現在入手困難なデジタルモンスター(通称デジモン)かぁ」と、何も考えずに購入してしまった。
 このデジモンは育てて対戦させる事が可能なので、マルちゃんにも買わせて数日後に闘わせる事にしたのだ。うーむ、35歳の男がすることじゃねぇぞ。

 しかし、思ったよりも手が掛からずに適当に何とかしておけば、1日に一歳年をとって、二日目には幼虫から何かしらに変身したっす。
 だが、問題は、私と違って凝り性のマルちゃんがせっせと育てて対戦に向けてトレーニングを積んでいるのでは?と言う事なのだ。

 そんなワケで、取りあえず音を消すモードにして会社に持って行かなくてはいけなくなったのだ。こいつは、しょっちゅう空腹を訴えたり、ウンチしたり色々と手間がかかる奴で、なんでみんなこんな面倒臭い事に熱中するのかなぁって気もするのだ。
 気が付くと卵からかえったモンスターは、いつの間にか変身していて4つ足のサイみたいなスタイルになっていた。うーむ、これが完全体ではないよな。
 途中でモンスターを強くするためのトレーニングモードってのがあるが、これがまた退屈なゲーム・・・というより、あくまでも勘だけの○×選びみたいなゲーム。これを延々とやってモンスターを強くしなくてはいけないのだ。うーむ面倒くさい。
 が、やっぱし最終的に丸ちゃんと戦わせなくてはいけないので、ある程度はトレーニングをしなくてはいけないのだ。そこで、勝敗なんか関係なくトレーニングモードにしておいてポケットの中で適当にボタンを押したりして形だけのトレーニングをしたりしたのだ。


 気が付くと、モンスターはさらに変身してなめくじみたいなヤツになっていた。噂によると、デジタルモンスターの中で一番いいかげんに育てると成るというタイプのヤツらしい。
うーむ、そうかそうか、よく判っているじゃん機械のクセして。
 そんなワケで、最悪なモンスターに変身したまま小さな液晶の中でナメクジモンスターは蠢いていたりするのだ。

1997年10月27日(月曜日) ご自由にお持ち帰り下さい
 先日、近所の銀行が二つに別れて、新しい支局が出来た。
 確かに、かなりの人口がいるハズのその地域に銀行がたったひとつしかなく、いつ行っても混雑しているような感じだったので、ありがたいことなのだ。

 で、先日、母親がその新しくできた銀行にいそいそと出かけていった。基本的に物見遊山ミーハーな部分と、新規開局って事でタッパーとかの景品が貰えるらしいと言う、実に主婦な動機で出かけた。
 平日だったので、基本的に客はおばさん連中と、近所の会社の事務員がメインの客だったが、それなりに人で溢れていた。
 その日は、天気はそこそこ良い日だったが、風が強い日だった。

 と、そこで一つの事件が起こったのだ。
 銀行の入り口の処に、開店祝いって事で生花が大量に飾ってあったのだが、その内の一つが風に煽られてぐわっしゃーんと倒れて、そこに活けてあった花が散らばってしまった。
 で、銀行員がその花を直そうとして表に出てきたのだが、思いっきり倒れてしまった為にただ立て直せばいいって感じでは無くなっていたらしいのだ。で、その時その場に来ていたお客さんに向かって
 「どうぞ、ご自由にお持ち帰り下さい」と声をかけたのだ。

 ただより安い物はない!そんでもってあたしらは客だよん!と言うオバサン達がそこに群がったのは当然と言えば当然なのだ。
 しかも「ご自由にお持ち帰りしていい」と聞きつけた、店の中にいたオバサン達も慌てて出てきた。
 そんでもって「ご自由にお持ち帰り」って事で、倒れていない生花までガンガンひっこ抜いていたりするのだ。
 銀行員が「あっ!」と驚くよりも早く激しく当然の様な顔をして花を持ち去ろうとするオバサンの集団は完璧に暴徒となって、開店祝いとして銀行の前に飾ってあった生花は一瞬にして容器だけになってしまったのでありました。
 ほとんど、飢えたピラニア状態だったらしい。

 恐ろしい・・・・。

1997年10月28日(火曜日) 大爆笑・・・・・て?
 基本的に、人と会話などする場合に何が重要か?何がポイントになるか?と言うと「笑いのセンス」と言う物が重要になったりするかも知れない。
 人によっては、趣味(車だったり、ギャンブルだったり、音楽だったり、漫画やアニメだったり、ゲームだったり)の話で親近感を覚えたり、話題が広がったりするんだろうけど、最終的に核になるのは笑いのセンス・笑いの質だったりするのかも知れない。
 クダらないネタに、大笑い出来るか?怒りだすか?馬鹿にするか?と言うのは非常に重要になってくる。  なんせ、クダらない事が好きだし、普通の人生において不必要な物が必要だったりする人間だったりするのだ、私ってヤツは。

 が、ただ「お笑い」と称されるジャンルが全て好きか?と言うと、そんなに甘くはないのだ。自分の中で「何ンでそれで笑えるの?」と言う笑いのジャンルも存在したりする。

 今、芸能レベルのお笑いにはいくつかのジャンルワケがある。大きな流れとしては次の6種類に分ける事が出来るんじゃないかな?と思う。
・ビートたけし的
・タモリ的
・ダウンタウン的
・とんねるず的
・ウッチャンナンチャン的
・吉本的
もちろん、それ以外にもお笑いの質や方向なんかは多種多様な方向へ向かっていて、江戸前落語的な流れや、小劇場的笑いなんかや、吉本でも「新喜劇」と「二丁目劇場(天然素材)」なんかの流れはまったく違う方向を向いている。

 その中で、どーも自分の肌に合わない笑いの方向性として「とんねるず的」な笑いがある。
 現在放送中の「みなさまのおかげでした」の『喰わず嫌い選手権』なんかは面白いと思うが、笑いのセンスや方向性がしっくり来ない。とりあえず色々なジャンルをチェックして、それぞれに面白い部分をピックアップして「どこが受けている」と言うのも把握しているハズなのだが、とんねるず的な笑いは「どこが面白いの?」という感じが先行してしまうのだ。
 最近はやっているのかどーか判らないけれど、コントなんかでもキレが悪いし、オチが弱いし、ただスタッフの笑い声がうるさいなぁぐらいにしか思わなかった。
 結局あの笑いは勇者の笑い的な部分があって、石橋が他人を見下す事によって笑いを取ると言うのがメインで、あとは「酔っぱらっていれば面白い」程度の笑いの様な気がする。とんねるずが出てきた頃感じた「大学生のコンパ芸」の域を出ていない様な気が未だにしてしまうのだ。
 それとは別に、木梨の目指すマニアックな笑いの方向は評価しているが、メインに成りがちな石橋の引き起こす、ある種ヒステリックな暴力的優越感の笑いと言う部分が自分に合わないのかもしれない。

 いわゆる笑いを厳しく批評する向きからは、手厳しい批判を受ける「ウッチャンナンチャン」は、正統的な「萩本欽一」的な笑いの後継者として評価できる。ある種「あいつら何もしてないで」と言う批判もあるが、あの二人は「場」を作る力があるのかもしれない。
 つまり「女子供」と軽蔑のまとになりやすい方向をガッチリと掴んだファミリーな笑いを作り得ていると思う。凄く普遍的な部分のアットホームな笑いの場をも付けていると思う。と、同時に元々演劇をやりたかったと言う部分が(自分たちで「シャナナ」と言う劇団を持っていた(る?))ときどき作るコントに見えていたりする。
 内村は今でも地道に脚本を書いていたりして、映画なんかを作る夢を捨てていないらしいし。

 基本的に、本人達が「笑いを作る」と言うクリエイティブな部分があるかどうか?と言うのが、ある種の好き嫌いに反映されているのかもしれない。
 そんなこんなですが、笑いと言うのは嗜好品と言う部分が大きく、好き嫌いがはっきり出てしまう物だと思う。

 で、今回なぜこんな事を考えてしまったか?と言うと、私はお笑い番組の中で無理矢理な笑い声がかぶってくるのが嫌いなんですが、それを某CMの中で再現しているってのが日々いらつきの原因となっていたんです。
 そのCMは岸谷悟朗&中居正広が出演している「スーパーホップス」のシリーズ。
 いかにも二人のファンなんだろーなぁ的な女性を周りに並べて、二人が何かポーズを取ったり、一言二言云うと言うシリーズなのだが、スーパーホップスを何本も抱えて「おまたせま〜ん」とか「料理は」「出来てません」などと、ギャグ以前の事をする度にスタッフによる笑い声がかぶると言う物。
 毎回、自分の好き嫌いにかかわらず見せられるCMで何度も何度も「1回見ただけで面白くない」と感じた物を見せられるのは精神衛生上よくない。なんつーか、このCMってコンテも台本もないまま、この二人だったら面白い事を言えるんじゃないか?って感じでアドリブ的に制作された様な気がしてしまうのだ(実情は知らないけれど)

 と思っていたら、TVガイド誌に「このCMが流れるのが毎回楽しみで、何度見てもお腹を抱えて笑ってしまいます。このCMはどれくらいバリエーションがあるんですか?」と言うハガキが掲載されていた。
 げっ!そんな人が存在するとは思いもよらなかった。

 うーむ、世の中はまだ広い。

1997年10月29日(水曜日) 「週刊少年ジャンプ」の時代終結
 1970年代の半ばから、20数年間も週刊少年漫画雑誌の首位を独走し続けてきた「週刊少年ジャンプ」の発行部数が次号で「週刊少年マガジン」に抜かれて2位になってしまうらしい。

 ボクは元々ジャンプ系の漫画ってあんまし好きではなかったんだけど、70年代は本宮ひろし系漫画から、「ハレンチ学園」「ど根性ガエル」「トイレット博士」「12のアッホ」などのギャグ漫画から、ギャグ漫画のエポックメイキングとなった江口寿史「すすめパイレーツ」鳥山明「ドクタースランプ」と言った線を築き上げ、80年代に入ると「努力・根性・勝利」を合い言葉に「リングにかけろ」「キン肉マン」「ドラゴンボール」「遊幽白書」などのRPG的長編漫画を完成させ、読み続ける事を常習化させる作品を産出した。
 特に「契約制度」と言う技で「◎◎◎先生の漫画が読めるのは少年ジャンプでだけ」と言う、決まり文句まで完成させた。

 これというのは、契約する事により作家は他の仕事を入れることも無く、安心して1本の作品に集中する事が出来ると言う利点もあったが、逆に言えばサラリーマン化したり、人気投票のみに縛られ、作品の方向性が安易な方向へ傾く傾向が顕著になったりした。

 もっとも今回のジャンプの凋落の原因は連載作家がストレスなどによって、制作意欲を維持できなくなり連載を中断したり、突然終了すると言う事が続いたせいだと思う。
 長く引き延ばし過ぎた「ドラゴンボール」や、作家の指向性と作品がかみ合わなくなり終了した「遊幽白書」や、作家の緊張感の持続に対する体力的な問題で途中終了した「スラムダンク」などなど、人気漫画の作者は燃えつきたように連載を終了するパターンが多く、その後の作品を同じテンションで制作出来る人が殆どいなくなってしまったと言うのが敗因だと思う。
 つまり、作家が育たないと言うのが一番の問題点なんじゃないかな?

 今回の、ジャンプの低迷を救うべく「この先、連載じゃなくときどき読み切り作品を発表していこうかと思っています」と宣言していた鳥山明をふたたび連載へ引きずり出したあたり、ジャンプの焦りが見えていたりする。
 しかも、アニメ「ドクタースランプ」が始まる事に関連して、特集を組んだり色々手を打ったりして悪戦苦闘の色が見えている。

 と言っても、2位でも400万部の部数を出しているワケで、そこいらの雑誌なんかと比べたらムチャクチャ凄い雑誌なのには代わりはないんだけど。

1997年10月30日(木曜日) 物真似の物真似は物真似じゃない
 先日、TVで素人の物まね番組を見た。
 この手の物まね番組を見ていて本当にうーむと思わされるのは「やはりプロは凄い」と言う事なのだ。
 プロなんだから上手いのは当たり前じゃないか?と言う意見もあると思うが、この手の素人物まねを見ていると、そこに出てくる物まね上手と言う人々がやっているのが思いっきり「物まねの物まね」だったりする。

 それだって真似するのは難しいじゃないか、と言う指摘もあるかもしれないが、実はかなり簡単だったりする。物まねって言うのはある種、コロンブスの卵を探すような作業で、Aと言う芸能人を真似する時にどこがポイントか?と言うのを的確に誇張して演ずる処が重要になってくる。
 それを指摘した上で物まねというカタチに仕上げるのだが、その真似の真似は頭を使わずに済むと言う利点がある。
 たとえば、芸能人の似顔絵なんかを書けなんて言われても多くの人が、写実的に書こうとして上手く出来ずに終わってしまう。そこに、単純な線で的確に特徴を捉えた似顔絵が出てきたとする。その絵を模写するのは凄く簡単なのだ。

 分かり易い物まねとして「森進一」「五木ひろし」「北島三郎」などの演歌系、「桑田佳祐」「郷ひろみ」などのポップス系などがある。最近は「玉置浩二」「長渕剛」あたりも入ってきている。この辺はいわゆるプロの物まねでやり尽くされている。
 で、素人の物まねを見ると必ずこのメンバーの物まねが出てくるのだ。
 さらに困ってしまうのがコロッケが完成させた「美川憲一」清水アキラがテープを使って完成させた「谷村新司」なんかをそのまんま真似して出てくる素人も少なくない。完璧に、オリジナルを研究したのではないタイプの物まねになっている。

 きっと、宴会などの場で友達を前にしてやった時に大うけだったんだと思う。で、その手の場での決まり文句「プロになればいいじゃん」なんて言葉を真に受けちゃったりするのだな。
 少し前にフジTVでやった素人物まねにも「森進一・郷ひろみ・近藤真彦・田原俊彦」といった、すでに10年前に飽きられてしまった様な物まねばかりを(しかもさほど上手くない)引っ提げて出てきた20代半ばぐらいの男がいた。で「プロを目指しているんですよ」とキラキラした目で答えたりしていたのだ。横でマイクを差し出していた清水アキラは完璧にどうアドバイスしていいのか判らない様な困った顔をしていた。

 すでにプロとして確固たる地位を築いて、レパートリーも大量にある清水アキラや栗田貫一などが毎回新しいネタを開発している状態だっていうのに、これからプロになりたいなんていう人がいまさら「森進一」はないだろ。って感じ。

 「ビートたけし」「とんねるず石橋」あたりもすでに物まねとして完成されているジャンルだからなぁ。(これを完成させたのは松村)

 つまり友達の間では受けた、知り合いの中では一番、と言う井の中のカワズ状態のプロ志向者ってのは山のようにいたりする。確かに、アマチュアの中では上手いかもしれない程度の人はゴロゴロいる。
 で、困った事にその「普通の人の中では突出している」を勘違いして「今すぐプロでもやっていけるじゃん」と自負しちゃっている人は、そこで停滞している事が多い。なんせ、比較する対象が凄く低い処にあったりするのだ。

 とある人が言っていたのだが「ミスコンの審査員ほど面白くない物はない」
 つまり、その手のミスコンなんかに出てくる様な人は全員キレイな人だったりする。そーすると普段から周囲の異性なんかにちやほやされていたりするワケで「私はこの美しさひとつで世の中を渡っていける」などと思いこんでしまっているパターンが多いそうなのだ。
 確かに、ミスコンあたりをキッカケに芸能界入りしようなんて考えの場合そうなのかもしれない。あわよくば歌手、あわよくば女優なんて思っているのかもしれない。
 したがって、その手の人は美しいって言うポイント以外何も無かったりする場合があるのだ。しかし、その手の審査員をする人や芸能関係者なんて処に居る人は、もっともっと選び抜かれた美しいお姉ちゃんを日常的に飽きるほど見ているのだ。だから、選出される場合はそれ以外の何かポイントが無いってのはそーなると辛い。
 もっとも、地方のイベントなんかで安易なオッサンや青年団なんかが「いっちょミスコンでもやって綺麗なお姉ちゃんを集めるべ」なんて考えで行ったミスコンは、ただ単に綺麗なお姉ちゃんが選出されたりする。だって、審査員は普段は綺麗なお姉ちゃんと縁遠い普通のオッサン達なんだもん。

 そんなワケで、プロになる人はやはりプロになるべくしてプロになった人だったりするワケっす。

 しかし、長老の声帯模写の人(物まねなんて言い方はしない)なんかは、もう凄い処にまで行ってしまってる人が居る。
 じゃ物まねをします。とか言って始めるのが「大河内伝二郎」だったり「嵐勘十郎」だったり「大川橋蔵」だったりして、もう一般人は付いていけなくなってしたりする。もう完璧に歴史の教科書の世界。政治家の真似をしたって「吉田茂」「岸信介」「佐藤栄作」「田中角栄」なんて言う20年前の世界を、当たり前の様に現役で演じていたりするのだ。(↑現存している人が居ない)
 では新しい処で、などと気合いを入れて「御三家」舟木一夫・橋幸夫・西郷輝彦なんて感じになってしまったりするのだ(西郷輝彦は辺見えみりのおとうちゃんっす)

 しかし、物まねをしている人って言うのは、その時その時に流行っている曲や歌手の真似をしていくのだろうが、ここ数年は大変な事になっている様な気がする。
 なんせ数年前からの、いわゆるヒットチャートに出てくるボーカルって個性が全面に出ている人って凄く少ない。それ以前に、音楽的・音的にも個性が出ている物は少ない。私がじじいって事じゃなく、誰が歌っているのか判別できない様な物が多いっす。楽器と違ってボーカルは絶対的に個性が前に出る物だと思っていたのだが、どーやら違うらしい。クセがないほうが、カラオケで真似しやすいから・・・・。
 なんせ、WANDSってバンドのボーカルが変わったらしいが、先日ベストアルバムの宣伝CMで収録曲のサビ部分だけを編集してメドレーになった物が流されていたが、どこでボーカルが変わったのか判らなかった・・・・・。

 話は音楽の方に逸れてしまったがとにかく、物まねの物まねは辞めよう。

1997年10月31日(金曜日) 話し言葉で
 明治時代、文学が文学として一般に読まれ始めた頃の話、夏目漱石などを中心に「文語一致運動」と言うのが行われた。つまり、喋る言葉と文章として書く言葉を統一しようと云う文学的な運動なのだ。
 む?と思うかもしれないが、あの時代の文章、あるいはそれ以前の文章が「古文」として残されているが、あの様な言葉遣いは日常では交わされてはいなかった。特に日本は俳句などが発達したおかげで、文章的には通用する言語体系と言う物がある。

 で、それでは一般庶民レベルに文学が、あるいは文章が浸透しないと考えたのだ。

 それが100年前の話。  いまはそんな事を、念頭に考えるまでもなく、この文章の様にだらだらと通常喋っている言葉をそのまま文章化した物が流布している。
 それは良いことだと思う。
 が、70年代後半からその辺に拍車がかかってしまい、凄い事になってしまった様な気がする。
 いわゆる「小峰元」と言う推理小説なんかで「青春ミステリー」なんてジャンルを作りあげ、後継者として赤川次郎なんかが出てきて、さらにSF畑からも新井素子なんかが出てきたあたりで、私はうぬぬと腕組みをしてしまったのだ。
 その手の本を読まないで「嫌いだ」と批判する人もいるが、私はとにかく読んでみた。赤川次郎も5〜6冊は読んだ。新井素子は全部で10冊近くは読んだんじゃないかな?
 そこで、さらにうぬぬと腕組みをしたのだ。

 その辺の本はすささささーっと読み切ってしまえるのだ。基本的にそんなに読書スピードは普通の人より早いのかもしれないが、とにかく1冊の単行本をすさささーっと読み切ってしまったのだ。
 うぬぬ・・・、その後、いわゆる朝日ソノラマ文庫をはじめとして、その辺の少年処女小説が大量に発行され新人作家が大量に出現した。
 あんまり、ジャンル関係なく本を読むけれど、基本的にSFと推理小説がメインなので、ついつい面白そうなテーマの作品を買って読む。そこでさらにうぬぬと思ってしまうのだ。
 とにかく簡単に読み切ってしまえる。普通の本の半分以下の時間で読み切れてしまうのだ。約1冊30分。  結局、その小説はほとんどが会話で成り立っているのだ。情景描写も心理描写もそこそこに会話会話会話の乱れ打ち。その会話も、なんか中途半端な漫才状態が続くだけだったりする。
 うぬぬ、これっていわゆる芝居などの「卜書き台本」なんじゃないの?と言う気がしてしまうのだ。しかもあまりにも全てを会話で説明してしまう状態。心理的な部分を深読みする必要がない状態の会話が羅列されているだけ・・・・。

 なんだろうな・・・・・特に最近、その手の文庫なんかを本屋でぱらぱらめくるとその傾向が激しくなっている様な気がする。

 コンピュータ通信でも、1人で書いているのに二人のキャラクターが会話をしている様な感じで説明をしていたりする人もいたりした。たしかに新しい試みかもしれないが、実際に文章量の割に内容が稀薄になってしまうのだな。
 つまり、文庫本1冊をたとえばアニメにそのまましたら30分に納まってしまうような感じの稀薄さなのだ。

 その手の方向性を持った作家がいても悪くはないと思うが、かなりの率で最近のお手軽RPG的ファンタジーストーリーには存在している。推理小説なんかにも。

 私は、そのテクニックで面白く話を進める自信がないっす。