杉村ぐうたら日記(1998年1月1日〜10日)

▲1998年1月1日:木曜日:おけましておめでとうでございます
▲1998年1月2日:金曜日:10年ひと昔
▲1998年1月3日:土曜日:短大生の就職・・・・
▲1998年1月4日:日曜日:GLAY海外ツアー
▲1998年1月5日:月曜日:サイモン&ガーファンクルが帰ってきた
▲1998年1月6日:火曜日:年末年始TV一番凄かったのは・・・
▲1998年1月7日:水曜日:国際化はまだ遠いのだ
▲1998年1月8日:木曜日:大雪注意!
▲1998年1月9日:金曜日:ショートSF界の重鎮「星新一」氏、死去
▲1998年1月10日:土曜日:当たり前は当たり前じゃない
1998年1月1日(木曜日)おけましておめでとうでございます
 そんなワケで大晦日の夜遅く、日本TVの「進め!電波少年」の人気コーナー「ドロンズ南北アメリカ大陸ヒッチハイク」が台本通り!って感じで終了したのですが、うーむちょっと最後のカクテルライトに照らされたドロンズってのは、演出しすぎで臭かった。

 ま、それでもそれなりに感動巨編の完結!って感じで面白く見させてもらいましたです。

 しかし、それより「電波少年」らしいなぁと思ったのが、元旦の夜に放映された『電波少年インターナショナル&ドロンズスペシャル』っす。
 ゴール地点のアラスカからの中継で新年のあいさつをするドロンズ。そして東京の会場には松本明子とウッチャンナンチャンがいた。ウンナンはドロンズの先輩で、南北アメリカに出発する前は日テレの「ウリナリ」の前説をしていたらしいのだ。
 で、アラスカのドロンズの後ろに垂れ幕に覆われた大きなボードが立っていた。その内容はドロンズにも松本明子にも、誰にもしらされていなかった。
 で、最初の頃から「それって何ンすか?」と話題にはなっていたが最後の最後まで垂れ幕をはがさなかったのだ。
 前回の猿岩石の場合は、やっとユーラシア大陸を横断した後に「今度は南北アメリカ縦断」と言う過酷なオチが用意されていたので、またしても・・・等と思っていたのだ。おおかたの予想ではまだアフリカ大陸は征服していないの・・・というパターンぐらいだろうと考えていた。
 が、電波少年はそんなに甘くなかった。

 最後の最後、本当に番組が終わる直前に「じゃ幕をはがします!」と言ってドロンズが幕を引っ張るとそこには『重大発表!』の文字が・・・・・
 で、さらにそのテロップの下にはなんと

 『本日を持って「進め!電波少年」は最終回とさせてもらいます』

 の文字が・・・・これは松本明子も知らされていなかったらしく「えーーーーーーーっ????」の叫び声が、そしてウッチャンの「でも最終回までにゴール出来てよかったね」と言うのんきな声のまま、番組はあっけなく『完』の文字を残して終わった・・・・・。

 なんか凄すぎる・・・・


▼追記:すすめ電波少年の後番組
1998年1月2日(金曜日)10年ひと昔
 気がついてみれば今年は「平成10年」って事で、あの小渕官房長官がTVカメラに向かってどどーんと『平成』の文字を出してから10年目って事になる
(正確には平成11年の1月7日が10周年だけどさ)

 *おかげで小渕氏は海外でのニュースでも有名になり、その後外務大臣になった時にかなり楽だったらしい。

 じじいの時間感覚としては「もうそんなに時間が経ったのか」と思ってしまうのだ。もちろん今ハタチぐらいの人にとっては「大昔」の話だと思う。
 自分に照らし合わせてみるとハタチの頃に「府中の3億円事件」あたりは歴史の物語だった様に(←本当にじじいだなこりゃ)

 うーむ10年かぁ
 正確に10年前って言うと昭和63年(1988年)でソウルオリンピックのあった年で、その年の秋から「自粛」って言葉が流行って(←流行ったわけではない)井上陽水が出演していた車のCMの「お元気ですか?」と言うセリフが自粛によりカットされた。(糸井重里のコピー)
 あと自粛ネタでは、派手好きな五木ひろしが結婚式を自粛してやらなかったり、各地の祭りなんかも自粛ムードの為に中止になった。

 そんなこんなから10年。

 平成1年に始まった「イカ天」によるバンドブームも、そう考えると随分昔の話なのだなぁ

 ああ、あと3回お正月を迎えると「21世紀」なんだよなぁ

 しみじみ・・・・
1998年1月3日(土曜日)短大生の就職・・・・
 なんつーか、以前は就職活動は夏以降(便宜上はね)って事になっていたのが去年から就職協定ってのが廃止されたおかげでムチャな事になりつつある。
 それまでは卒業する年の夏からリクルートスーツに身を包んで・・・と言うのが、最終学年の春頃から・・・では既に遅い、その前の冬あたりから就職活動は始まっているのだ。
 企業側もこの不況の折り、どーせ採用するんならより良い人材を確保したい!って事で、最終学年ではなく、その前年の夏にめぼしい大学の生徒の元にカタログを・・・・

 って2年制の短大生の場合だと、入学した年の夏に既に就職活動が始まってしまうワケっすよ。
 なんか狂っているって気がしちゃうんだけどなぁ

1998年1月4日(日曜日)GLAY海外ツアー
 なんつーか、この度「GLAY」の海外ツアーチケットが売り出された(まだかもしれない)

 と言っても、ストーンズとかみたいな「海外へ行ってその地のファンの前でライブを行う」と言う海外ツアーではなく、「日本からファンと一緒に海外へ出かけていって、その地でライブを行うパックツアー旅行」の事っす。

 このニュースを聞いたときに「これでGLAYも『五木ひろし』『杉良太郎』なみのスターになったのだな」などと思ってしまった。 でもって気になるお値段ですが、どこへいくのか知らないっすけど、なんと破格の「15万円」うひー!
 場所が「ラスベガス」だったりしたら本当に笑ってしまうけど。

 なんつーか、GLAYを一生懸命応援してCDを買っているファンの層が気軽に買えるチケットの値段じゃねぇな。って、海外ツアーだから普通中学生高校生あたりは参加出来ないのか?
 これまでに同様の海外ツアーを行ってきた歌手は、ファン層がオバチャン連中だったからこの辺の値段でも大丈夫だったのだが・・・
 うーむ、なんつーかこの値段設定や海外ツアーって事に関してGLAYのメンバーはどの様な解釈をしているんだろうか?

 募集人員は3000人で、飛行機を10機ほど貸し切りでチャーターし、現地のホテルもいくつかに振り分けて・・・・うーむ。
 そんなツアーが行くとは知らずに、同じ頃そっち方面に旅行に出かけていった人には悲劇が待ちかまえている様な気がする。

 なんか今頃、一生懸命にブルセラや援交に励んで金を作っている女子校生(笑)なんかが急増してんじゃないか?

1998年1月5日(月曜日)サイモン&ガーファンクルが帰ってきた
 もう6年ほど前の話、CDで「サイモン&ガーファンクル全曲集」と言うのが発売された。
 このCDはよくある歌手の代表曲を集めたベスト盤に「全曲集」「全集」などと付けられているものとは根本的に違っていて、本当にサイモン&ガーファンクルが発表したオリジナル音源(解散後にイベントとして復活した物は含まない)を全部収録した物なのだ。
 とは言っても、CD3枚組みに全曲が納まってしまう程度のボリュームなのだ。

 が、いい曲密度はかなり高い。もー聞いているだけでニコニコしちゃうのだ。

 その6年前に私は「おーし!」と腕捲くりをしながら購入してきたのだが、それから1ヶ月した頃、姉貴が我が家に遊びにやってきた。そして「あっこれ貸して」と言って有無を言わさず持って帰ってしまったのだ。
 それから6年という気の遠くなるような歳月が流れた。

 その時に新車を買ったとしたら2回目の車検を終わって、その時に子供が産まれたとしたら6歳になって、その時に家を建てたとなったら築6年になって、その時に結婚したとしたら結婚6周年になるほどの長い歳月が過ぎ去ったのだ。

 で、CDが帰ってきた。
 あぁやっぱいいっす

 ただそれだけの話でした。
1998年1月6日(火曜日)年末年始TV一番凄かったのは・・・
 なんかまるで、ずーっとこの年末年始はTVを見ていたのか?なんて印象をもたれてしまうかもしれないが、ちゃんとそれ以外の事もしたのだが・・・・
 うーむ(笑)

 そんな中で一番凄い!と思ったのは元旦の夜1時半頃から(正確には2日だけど)放送された「われめDEポン」と言う芸能界麻雀決戦なのだ。
 この「われめDEポン」と言うのは2年ぐらい前から深夜の時間枠でときどき放送されている物で、この対戦のデータを元にプレイステーションのソフトとしても発売されていたりする。
 それの『芸能界麻雀最強位決定戦』と言うのをやっていたのだ。

 元旦の夜ってのは基本的に、大晦日の疲れが出て早々と寝てしまうのがパターンで、このTVを「ふふ〜ん」と薄れゆく意識の中で感じながら、爆眠モードに突入していったのだ。

 で、翌朝の7時半頃「うにゃ・・・」と目を覚ました。
 その時私は恐ろしい光景を目の当たりにしてしまったのだ。
「まだやってる・・・・」

 そうなのです、夕べ始まった麻雀大会が朝の7時台になっても続けられているのですよ。TVの画面の中では加藤茶・堺正章・風間杜夫・萩原聖人が真剣な顔をして・・・・・

 うひー、やる方も凄いが、こんな番組をやるフジTVも凄いっす。大晦日の水泳大会と言い、なんか壊れまくっている様な気がする・・・・。

1998年1月7日(水曜日)国際化はまだ遠いのだ
 仕事で外注へワープロ入力原稿を頼んだりする。
 でもって入力したデータには人目で内容が分かり易い様なタイトルが付けられている。基本的にDOSデータで入ってくるワケで、[アルファベット8文字+TXT]と言う状態のタイトルがついたりするワケなのだ。
 例えば『たこやき便り』だったら[TACO0001.TXT]なんてタイトルになるのだ。

 で、今回問題なのは『ラブストーリー』と言うタイトルの本の文字打ちデータなのだが、なんとそのデータのタイトルが [RABU01.TXT]となっていたのだ。
 私は目からウロコやら目ヤニやらがボロボロ落ちていく音を聴きました。

 あぁ新鮮なイメージだ「RUBU」

1998年1月8日(木曜日)大雪注意!
 8日の昼過ぎから首都圏を大雪が襲って、その交通網はボロボロのズタズタになった。
 静岡の東部(沼津-三島-函南)あたりでは、ただのドシャ降りだったが、東名の東京−沼津間は完全に通行不能になってしまった。
 おかげで、本来は東名をビュワンビュワン飛ばしているトラックなんかも全部国道・バイパスに降りてきたのでムチャとんでもない事になってしまったのだ。

 どのくらい凄いかって言うと、西から東名を使ってやってきた車が沼津以降は使えないって事で沼津インターに列を作った。その長さが30キロだとか40キロだとかって言っていたが、ハッキシ言って30キロっつったら、その先の富士インターよりずっと向こうからつながっているって事でしょ?うーむ。

 おかげで、沼津インターで降りるのより富士インターで降りた方が早いと判断したトラッカー達がバイパスに渋滞を作り、それが夜から朝になっても解消されず、さらに朝になって通常の通勤利用者もそれに加わり・・・・。

 今日は、富士方面から通っている人はほとんど遅刻で、最大に遅かった人は3時間の遅刻だった。それでも「今日は渋滞しているだろうと思っていつもより早く家を出た」って状態。
 我が社は三島寄りの人より、富士・富士宮の人が多いので朝礼はガラ〜ンだった。

 もっと困ってしまったのは、毎朝、東京本社から定期便がトラックで届けられて・・・一日の仕事が始まるのだが、どうにもこうにもマコっちゃんな状態。
 トラックの運転手が携帯で「今、厚木を越えました」などと事務所に電話をしてきて、それを社内放送で『朝便のトラックは現在厚木です。予定では3時頃には到着するハズです。』などと、実況放送をしたりするのだ。

 とりあえずその日、僕はそのトラック便とは関係ない仕事をしていたのだが、急ぎの仕事を待っている人は凄く辛い状況になっていたりするのだ。

 本来は朝到着している仕事を昼間ワッセワッセとこなして、さらに3時間ほど残業をして最終編集し夜8時頃に原稿完成!、それを夜間の印刷工程に廻して翌朝は本が完成!て言う綱渡りの予定で仕事をしている人なんか、午後3時に仕事が入ってきて・・・・終わるのが・・・などと眉間にシワを寄せながら時間の計算なんかをしていたりするのだ。

 ついでに翌日の土曜日は僕は休みだったのだが、仕事が停滞しているんで手伝ってくれ!と言うことで休日出勤になってしまったのだ。

 うーむ、冬だなぁ

 さらに後で知った話なのだが、友人松岡氏はこの日東名高速を使って沼津インターで降りようとしたのだが、インター下の渋滞とインター封鎖にぶつかって車の中で一晩過ごしてしまったらしい。うむむむ。

1998年1月9日(金曜日)ショートSF界の重鎮「星新一」氏、死去
 私は暮れは色々忙しくて、さほどTVなんぞ見ていなかった為に(見ていた様な気もするが、真剣に見ていなかったっす)、星新一氏が1997年12月30日に御亡くなりになったのを知らないでいました。
 今日の新聞で、SF作家の眉村卓氏が星新一氏への追悼の文章を掲載しているのを見て、このことを初めて知ったワケであります。

 星新一氏の作品は中学1年の時に担任だった先生が好きだって事で、クラスに自分の本を大量に持ってきて置いてあったのを読んだのが一番最初だった。
 それまでも僕はとにかく目についた本は全部読みたいのだ!と言う小僧だったが、基本的に推理小説・探偵小説と言うのが基本だった。(中学時代までは漫画もほとんど読んでいなかった)
 SFと言うとTVアニメで手塚治虫作品を中心に見る程度で、積極的な媒体としての興味はなかった。

 そこに星新一と言う存在が現れたわけっす。
 いわゆるショートショートでSFと言っても科学的な物が中心ではなく、ワンダーの世界が中心だった。ある種、落語的な展開が面白く、一気にその作品群にハマっていったわけです。
 で、その時点で発売されていた文庫本もすべて揃え読み通し、そこから星新一氏と交流があって解説やエッセイにも出てくる「小松左京」「筒井康隆」「半村良」等などの作品を読み始め、さらに「アシモフ」「ハインライン」「クラーク」かは始まる海外SFへ足を踏み入れてしまうことになったのだ。
 そんな意味でも星新一氏は僕のSFにおける師匠みたいな存在だったりするワケっす。

 なんか、死後10日ぐらいしてその事を知ったって事が凄く恥ずかしいっす。悔しいっす。

 心より氏のご冥福をお祈り致します。
1998年1月10日(土曜日)当たり前は当たり前じゃない
 最近、コンビニなんかで芸能人(女性ばっかしだけど)の過去のマイナー仕事なんかを発掘する雑誌をよく見かける。
 ま、よく探してくるねぇってのがあって、マスコミにまったく出てこない、かの某グループのボーカルがかつてレースクィーンでセミヌード写真をってのはよく見かけるけど、さらに過去に個人業者のビデオでヌードになっていたのまで発掘されたり(私ゃあんまし顔知らないんで、本当に当人なのか判らないけど)色々、裏の裏を探り巻くっているみたいっす。

 で、その手の過去って言うのは「実はあの芸能人にこんな過去が!」と言う感じで、まったく知らない話題を持ってくるのが相場になっている。
 と言うことは、誰もが知っている過去はネタにならないんだよね・・・。

 私は最近、某友人が買ったその手の雑誌に『鈴木杏樹にかつて歌手だった過去あり!』とか書かれているのを見て「え?みんな知らなかったんすか?」と思ってしまったっす。
 確かにマイナー情報チェックマニアなんすけど、私は鈴木杏樹が女優で売れ始めた頃、その手の話をインタビューでもしていたから公然的な話題だと思っていた・・・・。

 で、別の時に友人と女優の深津絵理がTVに出ていたんで「高原理恵」と名前を出したが、まったく知らなかった・・・・。
 深津絵理が女優デビューした時、同時に歌手デビューもして歌手活動の時は「高原理恵」って名前を使っていたってのは、知られていない話だったの?

 じゃ「CCガールズ」がデビュー時にグラビア活動は「CCガールズ」で歌手活動は「DDギャップス」でいきますって言っていたのも知られていない話なの?

 うーむ、私の中の常識の尺度は随分ズレているのかも知れない。

 さらに、この手の雑誌は女性アイドルばっかりなので出てこないと思うが、俳優の織田裕二が大昔、おニャン子クラブの男性版『息っ子クラブ』てののオーディションに出て落とされたってのは・・・
 或いは、今人気絶頂の反町くんが10年以上前ジャニーズに所属してて『平家派』と言うグループで、光GENJIのバックで剣を持って踊っていた。なんてのは・・・・・(V6のトニセンとかSMAPあたりと同期か?)

  ま、誰にでも過去はある。