< 杉村ぐうたら日記(1998年2月21日〜31日)

▲1998年2月21日:土曜日:らしいって何ンだよ・1
▲1998年2月22日:日曜日:らしいって何ンだよ・2
▲1998年2月23日:月曜日:らしいって何ンだよ・3
▲1998年2月24日:火曜日:ワシワシ編集する日々
▲1998年2月25日:水曜日:あ行
▲1998年2月26日:木曜日:徐々に・・・・
▲1998年2月27日:金曜日:「たこやき便り」復活
▲1998年2月28日:土曜日:天国からのメッセージ
1998年2月21日(土曜日)らしいって何ンだよ・1
『ハナコ月記/吉田秋生』のあとがきで「女とは?」と言う事がかいてある。
答えは「わからないもの」ということなのだろうけど、そーだよなぁ

僕は気が付いたときには男ってヤツに生まれていた。だから、ずっと 絶え間なく男をやってきている。だから「男とは?」と聞かれても答 えはそう簡単に100字で答えられる物ではない。
「いろいろあんだよなぁ」がとりあえず今の答えだったりするけれ ど、答えを出すたぐいの問題じゃないんだけどね。
昔、凄く「阿久悠」と言う作詞家の詩が嫌いだった。中学校から高校 にかけての頃かな?とにかく、あの当時、歌謡曲の作詞家で一番の売 れっ子だったんじゃないかな?まだ松本隆は、専業作詞家になったば かりの頃だった。
何故、嫌いだったのかあの当時は判らなかったが、肌で拒否していた 様な部分があった。
で、今判ったのが阿久悠の詩には「男とは」「女とは」みたいな部分 が多いのだ。いわゆる、戦前主義の「男女7才にして席同じゅうにせ ず」と言う修身の教育が根付いているような嫌な感じがあるのだ。
それは作詞と言う、一般的に分かり易く表現しなくてはならない形 態、不特定多数の共感しやすい形態を突き詰めるとあの様な詩になっ てしまうのかもしれない。
まだ演歌的な「女は耐えて待つ物」とか「男は自分勝手に旅立つ物」 みたいな陳腐な区分分けがそこにはあったりした。
それは阿久悠だけでなく、すべての詩に共通していたのかもしれな い。
チューリップの「虹とスニーカーの頃」と言う作品でも「わがままは 男の罪、それを許せないは女の罪」等という、自由を求めたり夢を追 いかけ続けるのは男で、今の幸せにしがみついて現状に固執するのは 女、と言う区分分けがされている。

もっとも、その1つの詩で「すべての男」「すべての女」の気持ちを 代弁しようとしているワケではないは判る。が、何か「男とは」「女 とは」と言う、決め言葉に縛り付けられているような気がしていた。
1998年2月22日(日曜日)らしいって何ンだよ・2
それが1970年代後半に、らしさが崩壊して「翔んでる女」と言うのが クローズアップされる。たしか桃井かおり主演の「頬杖をつく女」と か言う映画が、その時代の最先端を表現しようとしていた様な気がす る。
その頃から、キャリアウーマンなどが言葉として語られる様になって きたんじゃないかな?

それはそれで良いことだと思う。それまでは、既成概念って言うくく りで、男・女と言う判別方法の元、個人が持っている個性まで押し込 めてしまう様な感じがしていた。
僕なんかも基本的に軟弱なヤツで、キャリアウーマンな時代と共に訪 れた「やさしさの時代」と言う物に迎合していたのかもしれない。

つまり、それ以前までは男とは猛々しく雄々しく生きなくてはいけな い!と言う既成概念の上に成り立ち、男の価値基準はそこが頂点とな り軟弱なのは最低ランクに属していたのだ。
が、既成概念の崩壊により軟弱が「やさしさ」にすり替えられて、そ こに軟弱な部類に属する男性は価値を見いだし始めたのだ。
そのへんで出るべくしてタイミング良く出てきたのが「ニューミュー ジック」
時代的には少し前の四畳半フォークと呼ばれる辺りから、やさしい男 が出てきていたが、ここにいたって「やさしさしか無いけれど」と言 うのが、存在価値のある人格として認められてきたのだ。
1998年2月23日(月曜日) らしいって何ンだよ・3
代表格はさだまさしと言う事になるのだろうが、今考えてみると、あ の当時の風潮がすべて「やさしさ」と言うキーワードに塗り固められ てしまったような気がする。理想の男性は?と言う問いにとりあえず 「やさしい人」などと言っておけば無難な感じがあった。

で、それに反発するかのように出てきたのが「横浜銀蝿」系のロック ンローラーな人種。
この辺はとにかく前から「硬派」を旗頭にしていたりするのだが、詩 世界は完璧にマッチョ主義に固められていたりする。
男は「どんな事があってもお前を守り通すぜベイベ」などと叫び、女 はとにかく可愛く振る舞う。
男の勲章だとか、ツッパル事が男の生き方だとか、一時代前の演歌的 な世界が展開されていた。

なんか、男を連発していたのだ。

その当時、その手の詩は歌謡曲なんかにも増えていて、うーむなどと 私は唸ったりしたのです。
ふと気が付いたのは「男らしく」って言葉に使われている「らし く」ってのは、よく考えてみると「みたいな」とかって事で、実際に 「男」ではなく「男もどき」の事を言っているんじゃないのか?と 思った。
元々男な人は不必要に「男」「男」「男」と連発しないんじゃない か?って思ったっす。
だからその当時、私は「ISM」と言う詩・曲を作って「らしく」生き ようとしている人を皮肉った事がある。

ま、そんな事で言うと「自分らしく生きる」ってのも良く判らない言 葉っすね(笑)

何が言いたいのかって言うと、みんな既成概念にとらわれずに自由に 生きなさいって事っすよ。
1998年2月24日(火曜日)ワシワシ編集する日々 
 てなワケで、って何が「てな」なのか「ワケ」なのか判らないが、こうやって日々日記を書いている傍らで、実に地味にHPを公開する為に細かい作業をやっている。
 実に細かい・・・・というか、基本的に「今まで書いた文章関係をどばーっとより多くの人に読んで貰うため」と言う目的があったりするので、その過去にかいた文章をどどーんと編集中だったりする。
 これが冗談ヌキに大量にあって、HP公開以前からどうしようか・・・と途方に暮れていたりする。
 基本的にインターネット以前のパソコン通信時代に書いた物で、今読んでも意味のある物ってことで絞っているが、それでもどうしようか状態。
 果たして3月1日の公開は現実の物となるのだろうか?
 (ってこの日記を誰かが読んでいるって状況だと、すでに公開している時ってことになるわけで・・・・)
1998年2月25日(水曜日)あ行 
 色々考えながら編集作業を毎晩寝る直前までやっていたりする。
 他のHPなんかをチラチラ覗いて参考にしたりしているんだけど、多くの個人HPってのは『現在準備中』で成り立っているのではないか?
 と言う感じさえしてしまったりする。
 そうか、その手があったか・・・・

 現在、編集で一番手を焼いているのが『現代用語の基礎的ではない知識』の編集。
 なんせ、これの発表した物で一番ふるいヤツは、1994年の12月って感じだったりする。そこから、まったくもって飽きもせず延々と今に至るまで続いていたりするんで、その量は自分でも把握出来ていない。
 確か、書き始めて1年と言うところで項目数が1000を越えていたのはなんとなく覚えている。初期の頃は自分で書いていても項目数が増えるのが嬉しくて、1つ1つカウントしていたり、「このペースで行けば1年後には・・・2年後には・・・」などと捕らぬ狸の皮算用をしていたのだが、それが皮算用だけに終わらず、今でも続いている。(さすがにネタを1度出し尽くした感じもあってペースは落ち着いたけど)。
 で、発表場所もパソコン通信上の色々な場所でしてきたから、今散り散りになっているような感じもあって、あいうえお順に並べ直すのも一苦労している。
 でもって、ほとんど自分が書いたのかも忘れてしまったネタもあったりして、自作ながら凄え新鮮に読んでいたりする。
 最初は一気に全部どーんと思ったが、こうなったら最初は『あ行』のみ、って感じでいこうかな・・・・
1998年2月26日(木曜日)徐々に・・・・ 
 またしても続きの話だけど、現代用語のネタの中でもいわゆる『普遍的』なネタと『時事的』なネタが混在していて、「きっとこれは10年後でも読むことが出来るんだろうなぁ」と言うヤツと、「すでに意味判らねぇ」と言うヤツに別れつつあったりする。

 たとえば一般的な男女間の恋愛なんかに関したネタなんかは、多分この先も変化無く読めると思う。
てなネタは多分大丈夫だけど、こんなネタはどうでしょうか?  ね、現時点でもほとんど忘れちゃった話でしょ。それをとりあえずずっとこの先も継続して公開しようと思っているHPに掲載するってのは・・・歴史書じゃないんだから。
 でもその辺の線引きは難しいよねぇ。
1998年2月27日(金曜日)「たこやき便り」復活 
 などと書いても多くの人が『たこやき便り』と言っても何んだかわからないっすけど、そーゆー事っす。

 元々は10年以上前に「あぁ何か文章を書きたい!」と思い立って、ワシワシと手書きをしてコピーして数10冊の『たこやき便り』と言う個人雑誌を作ったのが始まり。
 その後、数号発行して友人知人、そのまた知人などに無料配布をして「ワシも読みたい」とかって人も多くなって、結局100部近い部数を出したこともあった。
 ってこれが基本的に「無料」と言うのがあったので、財政を圧迫しちゃったんだけど、静岡の片田舎で地味な会社員をしている私に取ってはある種の娯楽だったのだ。いやはや暗い話だな。
 と言う所で、パソコン通信ってヤツに誘われ、ついでに「今度オフ会あるからいこうぜ」と友人に連れられてそのオフ会ってのに参加した。
 そのパソ通のシスオペってのはすでに40歳ぐらいの分別の付いたちゃんとした人だったワケで「そうかそうか、パソ通って言ってもジト目のおたくばっかりじゃないんだなぁ」ということで、持参していった『たこやき便り』を渡すと、「これ連載しよう」と言う話に何故か展開してしまい、パソコン通信版「たこやき便り」が始まったワケっす。

 と言っても、いわゆる下らないヨタ話エッセイを書き散らしていただけなんだけど。
 そして今回インターネット進出と言うことで、HP上で毎月発行する雑誌ってヤツをやろうと考えている。
 そこで、エッセイと同時に『現代用語の基礎的ではない知識』の新作&HP未発表分の追加をやっていこうと考えている。
 現時点で、HPですぐ発表出来る状態になっている項目は1000近くあるけど、毎月20項目づつ掲載していっても1年は大丈夫って量あったりする。
 それと新作も月に10〜20ぐらい書けばかなりのボリュームになると思うのだ。  こんな形式でいけば、いわゆるHPへのリピーターを呼び込む事が出来ると思うので、よしよしって感じなのだ。

 とりあえず、明後日の1998年3月1日がHPスタートの日なのだ。
1998年2月28日(土曜日)天国からのメッセージ 
 先日、御亡くなりになった景山民夫氏は後年は某宗教団体にどっぷり入って、広報活動がメインの仕事で、その傍らで執筆活動をしていたって感じもする。
 ま、色々な事情もあるのだろうが、私は完璧に無宗教な人だったりするので、よく判らないって感じだったりするのだ。
 特に彼のように、自分で何事も判断できるような人が宗教へのめり込むって言うのはあまり理解できない部分がある。
 かのオウム真理教の時もエリートが大量に入信していたが、あれはいわゆる理科系の人々で、文系の人とはある種違ったベクトルに向かっているハズなのだ。
 ま、そんなワケで広告塔としての役割を果たしていた景山氏なのだが・・・・。

 亡くなった後の、その教団の広報誌には「景山先生が天国からのメッセージを」と言う形で、あいかわらずユーモアたっぷりの・・・・・うわぁぁぁぁぁぁぁ、この先、連載なんかしないだろうなぁ
 それこそ、死んでも浮かばれずに、さまよっているって事になっちゃいそうで可哀想っす。