< 杉村ぐうたら日記(1998年4月11日〜20日)

▲1998年4月11日:土曜日:喋る喋る喋る・・・・・・・
▲1998年4月12日:日曜日:チャンスを無駄にする男
▲1998年4月13日:月曜日:LAZY/レイジー
▲1998年4月14日:火曜日:50で打ち止め
▲1998年4月15日:水曜日:4月は大変
▲1998年4月16日:木曜日:交通の妨げの交通安全
▲1998年4月17日:金曜日:集団PTAはやっぱり邪魔だ
▲1998年4月18日:土曜日:赤信号は止まれ
▲1998年4月19日:日曜日:一方通行
▲1998年4月20日:月曜日:さようならリンダマッカートニー
1998年4月11日(土曜日) 喋る喋る喋る・・・・・・・
 世の中には自分は話し上手だと思っている人がいる。
 なにか複数人で会話をしている時に、いつも話の中心にいる。私の話がメインの話題になる。と思っている人がいる。
 いぜん某所で飲み会があって出かけたときに、友人Aが「アイツって話を持っていくのが上手くて、いつも話の中心にいるんだ」と自慢げにその友人Bを紹介してくれた。
 で、その話の輪に加わって話を聞いていると、結局人の話を半分も理解していないで「俺が・・・」「俺の・・」と言う状態で自分の事ばかり話しているだけの自己中心野郎だと言うのに気が付いた。
 たしかにこんな感じに他人の話題を自分の中に取り込まずに会話を続けていれば、結局、話しの中心になるだろうな。そして人々の印象の中には「アイツは何々をした事のある凄いヤツ」などとインプットされる。
 でも、私はその手の人にうんざりする。

 会話をしていて、うんざりするタイプの人に「とりあえず否定する人」と言うのもいる。
 基本的に複数人で会話をしている時は、話を膨らませてナンボと言う感じがするのだ。だから、他の人が振った話題をさらに盛り上げて、しかもまた話が別の方にも発展できるような伏線を持たせる。と言うのが会話のテクニックだと思うのだ。
 そんな時に「でもさ」とか言い始める人が時たまいる。
 会話が停滞してしまうのだ。確かに問題提議をするのは悪いこっちゃないが、話の流れって言うのがあるだろ?こっちがギャグとして言ったネタを真剣に否定されても困るのだ。
 細かい駄洒落を飛ばした時に「それって違うと思うよ」とか、わざと駄洒落として間違えた文章を訂正されたりするのは困り物なのだ。
 例えばサザエさんネタで「あの世田谷の自宅は当然長男のカツオに相続されるハズなんだけど、我が物顔で住み着いている姉夫婦が気になってしょうがないんだろうな」と言う部分からダークな方向で「カツオの姉夫婦追い出し作戦」などと言う話をしようとした瞬間「でもさ遺産相続の場合って・・」と、相続関係の法律話を持ち出して話はそこで終わってしまった。その後、延々と相続税がどーのこーのとかって話をされてしまった。しかも、うろ覚えの法律話だったのだ。
 別の時には「水戸黄門」ネタで「なぜ何の役にも立たないのにうっかりハチベエは毎回ついてくるのだ?」と言う疑問から「実は黄門様の男色相手だった」とか「うっかりしている様に見せかけて実はアンドロイドの黄門を操縦しているのでは」などと言う下らない話題に持っていこうとした瞬間「うっかりハチベエって水戸藩の・・・」と歴史的な真面目な話題をし始めてしまったのだ。
 そこからは、水戸黄門の地位とか、お供の助さん格さんの正式な地位や家族関係などの「謎本」的な知識話になってしまった。
 別に自分のネタを中断されたから「まったくもー」と言う状態ではなく、基本的にその場にいる人が瞬間瞬間笑える、興味をもてるネタとして話を盛り上げようとしている空気ってのを読めないのはキツイなぁと思ってしまうのだ。

 あと苦手だと思うのは、異常に押しつけがましくて言語の洪水状態の人。
 だーーーーーーーーと喋るだけ喋ると言う感じで、あえて言えば「海老名みどり」の様な人。かの峰竜太の奥さん、林家こぶ平のお姉さんっす。
 先日、某所でその手の人に遭遇したのだが、完璧に一方的な会話をマシンガンの様にされて、しかもちょっと仕事的な事が絡んでいたのだが、容赦なく命令する!と言う感じだったのだ。
 こっちの会話は最初っから聞いていないのはミエミエなのだが、そこは仕事的なことが絡んでいるので、こっちの意見も言わなくてはならない。
 あまり威圧的な態度も出来ないが、言うべき事を言わなくては・・と思って、一言言い始めると、それをかき消すかの様に声を大きくしてマシンガントークが続く。しかたがないのでこっちも大きな声を・・・するとさらに向こうも・・・・
 その人との会話は5分も無かったかもしれないが、どっと疲れてしまった。

 なんつーか、喋るって事は誰にも出来る事なのだが、それゆえに気を使って、テクニックを磨いて、状況を読み取る能力ってのが必要になっていくのだと思うのだ。
1998年4月12日(日曜日) チャンスを無駄にする男
 私は日本人だ。
 日本人は本来「謙譲の美徳」と言う精神を持ち合わせ得ている」
 いわゆる我先と言う事ではなく、お先にどうぞ、と人に道を譲る精神の事を言う。
 これが古来からの武士道、茶道、華道などを通じて受け継がれて、その結果身に付いているハズなのである。

 が、昨今はアメリカナイズされ「我先」が当然の行為になり、早い者勝ちってのが正しい生き方になった。
 もらえる物は貰いましょ。アイツが貰えるのになんで私が貰えないの?キーッ悔しいぃぃぃぃ、と言うのが正しい生きる道になってしまった様な気がする。
 ある種の「日本人は感情を表面に出さない」とか言う状態ではなく、欲望を全面に出したアメリカナイズされた考えが正しく、それ以前の奥ゆかしい精神はダサいと言う事になってしまったのだ。
 うーむ、そうかそうか。

 実は先日、モスバーガーに行った時の話。
 あのモスバーガーってのは注文が来てから焼き始めますと言うのが売りになっていて、美味しいのだが、実に待たされる。おかげで常にカウンターの処には行列が出来ている。
 私なんてのは並ぶのが好きではないので、つい瞬間的にあきらめて別の店を探してしまうのだ。
 が、先日モスバーガーを覗いたとき、ちょっと昼時を過ぎていたせいなのか、そんなに店内が混んでいなかったので私は意を決して自動ドアの前に立った。
 と見るとカウンターが基本的には3つあるのだが、その内2つとも閉まっていて一カ所でしか注文を取っていなかったのだ。
 そんなワケで何も考えず、そのカウンターへ・・・と並ぼうとした瞬間、正反対の方から一人の女性がそのカウンターへやって来た。僕が並ぼうとしたのとほぼ同時だった。たぶん電波式測定器で計測したら僕の方が微妙に早かったかも知れない。と言う感じだった。
 ま、この先の予定があるワケでもないし、1人ぐらい増えてもいいし・・・と考えた僕は「どうぞお先に」とその女性に順番を譲ろうとした。と、その瞬間ちらと女性を見ると「お、かわいい」と言う感じだった。
 が、その女性も「あ、お先にどうぞ」と僕に促すのだ。
 その後、「お先に」「いえいえお先に」「い〜えいえお先に」「いえいえ拙者とて武士の端くれ滅多な事はイタさぬが」と言う状態の、譲り合いが数度繰り返された。
 結果として、その女性が前に並ぶことになった。
 普通ならここでなにかキッカケの会話をしてしまうんだようが、私は順番を譲ったと言う行為が「いやはや」と言う感じになって何も話しかけることが出来ずに終わってしまったのだ。

 そんなこんなでチャンスを逃しているんだよなぁ。

 以前もとある本屋のハードカバーコーナーで何冊かペラペラと本をめくっていた時のこと。
 横に女性が立って本を選んでいるのは少し前から気が付いていた。
 その女性が、背伸びをしてやっと手が届く棚から本を取りだした。
 この店は、狭いスペースを有効利用しようと、とにかく天井までどどーんと本棚があるのだ。ハッキシいって踏み台を使ってやっと手が届く様な場所にまで本が陳列してある。おかげでその辺の本は、誰の目にも触れず、デッドストックなビンテージ物に変化していくのであった。
 と、気が付くと隣の女性がさっき高い棚から引き出した本を返そうとしていたのだ。
 この高い棚から引き出すのは簡単に出来るのだが、戻すのは難しいと言うのを図書館などで何度も経験していた。引き出すときは、なんとか背表紙のひっかかりのある部分に指先が届けばなんとかなるのだが、返すときはいろいろとテクニックが必要になる。
 しかも、今、爪先だって必死に本を返そうとしている彼女は当然、自分より背が低い。
 と、僕は何もためらわず彼女の持っている本に手を添えて、スッと本棚に収納してあげたのだ。

 「あ・・・ありがとうございます」
 と彼女はこっちを向いてお礼を言った。その彼女をはじめて正面から見た。
 「か・・・かわいいじゃん」
 と思ったのだが、それと同時に「うひゃ、やっぱし良いことするってのは照れるよなぁ」と言う気持ちが突き上げるように私の中を駆けめぐっていた。
 「いや、たいした事無いっすよ」と私はとりあえず答えたのだが、気が付くと後ずさりをしつつ身体が店の外に出ていた。
 「そんなワケでじゃ」と私はあたかも疾風(ハヤテ)のように現れて疾風のように去っていく月光仮面の様に、そのまま夕暮れの闇の道を去っていったのだ。
 うーむ、絶対キッカケだよなぁアレは。

 そんなワケで、こんな時に私は私が日本人で謙譲の美徳を兼ね備えている事を恨んでしまったりするのだ。
 あぁアメリカンナイズされたいっす。

1998年4月13日(月曜日)LAZY/レイジー
 今日の「HEY HEY HEY」は凄かった。
 なんつったって、かの70年代アイドル系バンドの最高峰のレイジー(今回の表記はLAZYだったけど)が復活しちゃったんスよ。
 この感激度は多くの人には判らないかもしれないけれど、なんつーか、郷愁とかなつかしさをぶっ飛ばして、感激しちゃったっす。
 元々、大坂だかでツェッペリンとかその辺のコピーを中心に始めたロックバンドが、東京の事務所にスカウトされて、結局ポップで可愛いイメージを押し付けられて、ほとんど歌謡曲って感じの楽曲を与えられて、しかもヒットしてしまった。

 よくあるパターンの芸能界裏話だけど、80年代のチェッカーズの様に徐々に自分たちのやりたいロックを展開させて行くには、リスナーの音楽に対する耳が肥えていなかった。
 本当にやりたい音楽を続けていけばファンは去る。ファンが望む音楽は自分たちの望む音楽ではない、と言う板挟みから結局は分裂してしまった。
 ハードな楽曲を選んだギター&ドラムの2人は「ラウドネス」を作り、ポップな楽曲を選んだベース&キーボードの2人は「ネバーランド」を作り、ボーカルはシャウト系のTV特撮物やアニメの主題歌を選んだ。
 それぞれが音楽を愛している故の選択だったのだと思う。

 そんな状態を僕は中学から高校にかけての時代にリアルタイムで見てきた。そして、それぞれの音楽性の問題から二度と再結成はないものと思っていた。
 が、なんと「ウルトラマンダイナ」のエンディングテーマの為に再結成されたのだ。

 元々、ボーカルの影山氏(ミッシェル)がこのエンディングを歌うのは決定していたらしいのだが、その時に偶然、ギターの高崎氏(スージー)から「久々にレイジーをやってみるのもいいかも知れない」と話があったらしい。
 結局、オリジナルメンバーで再結成出来たって言うのもやっぱり、それぞれが何らかの形で音楽業界に残っていた為だと思うのだ。
 それは本当に音楽が好きだから、ここから離れる事は出来なかったのだと思う。
 GSなんの同窓会バンドの場合、普通のサラリーマンになっている為に再結成には参加出来ないと言うパターンも多い。

 しかし理屈抜きにレイジーが復活したのは、自分にとって感激してしまう事件だったりするワケです。
1998年4月14日(火曜日) 50で打ち止め
 とりあえず自分でHPなんてものを開設してしまったからには、ある種の責任感と言う物を背負うことになる。
 ただで色々見せてやってんだから文句言うなバーローと言う態度の人もいるだろうが、基本的にわざわざ文章を読むために来て貰ったりするワケなので、読者様に感謝しなければいけないと思うのだ。
 実際に目の前でクスクス言いながら読んでいるワケでないのだが、遠く離れたモニターの前で読みながら「こいつバッカでぇ」とか思いながら読んでいる人を思いつつ、今日も文章をパシパシ入力し続ける私だったりする。

 とりあえず、日々の日記って事でここに載せる文章を考えるのは日課になっている。
 私の場合、なんせ日記と言いつつ日記じゃないので、何かのネタを探さなくてはいけないのだ。ちょっとキツイかな?と思ってしまったら負けなのだ。
 世の中、深読みすれば面白い事は山のようにある。そう考えて行くと、退屈かと思っていた生活も新鮮に感じてくるのだ。要は視点を変えて生活をすれば、別の世界が見えてくる。
 去年の暮れにデジカメと言う物を購入した。それまでは普通のカメラを使っていたのだが、ついにデジカメを購入してしまったのだ。
 普通のカメラとデジカメでは、被写体に向かってシャッターを切ると言う行為自体はそれほど変化はない。もっとも顕著に違う点は「デジカメは何枚撮影しても基本的にただ」と言う、実にリーズナブルな部分だったりする。正確に言えば電池代はかかる(充電式だけど)撮影したデータを保存しておくMOなどのメディアは必要になる。
 が、そんなの普通のカメラと比べてみたら「屁」の様な物なのだ、ぷー。

 そんなワケで私は通勤の道すがら、赤信号で車が停車したたびに窓の外の風景や人並みをパシパシ撮影してみた。そんな日々を続けていった。
 と気が付いたことは、それまで数年に渡り同じ道を往復していたハズなのだが、新しい発見が異常に多いと言う事。へぇここの橋ってこんなデザインだったんだ。とか色々。
 そんな感じにちょっと視線が変わっただけで、全てがリニューアルされると言う事なのだ。

 そんな日記の他に「電脳たこやき便り」に掲載する為の文章なんてヤツも書く。
 あと、本を読んだら感想を書く(これは更新してないけど、書くことは書いている)
 それと、毎日毎日こまかいネタを考え、それを「現代用語の基礎的ではない知識」に反映させる。14日現在で5月号に掲載するネタは50本を越えていたりする。
 そんな、一方的にクリエイティブな日々が続いている。

 その中で、まだ完璧には動いていないが相互交流の出来る「伝言板」と言う物の存在が最重要になってくるのだ。
 とりあえず、朝、会社に出かける前に1度覗く。そして夜、最低でも1度覗く。ことにしている。
 ま、私もHP以外の生活ってヤツが実はあって(当たり前だってば)コンピュータの電源を入れない日もあったりするのだが、なるべく「伝言板」だけは覗く事にしている。
 毎日は書き込みがないが、あると嬉しいのだ。
 で、いそいそと返事を書いたりする。たぶん現時点で「伝言板」の書き込みの半分は私だったりする。必ず返事を書くからなのだ。

 で、昨日も日課として「伝言板」を覗き込んで新しい文章があったので返事を書こうとした。
・・・・ありゃ? 入力をする部分が表示されない。ありゃりゃりゃ????
 そうなのだ、伝言板の一番したの処に「入力するのだ」と言う状態で、あるはずの物が無いのだ。
一番古い書き込み「やっと伝言板の設置が出来た!」なんていう3月14日の書き込みのすぐ下にあるハズの物が表示されないのだ。
 「再表示」・・・・やっぱダメだ。何故だ何故だ??????

 色々やってみたが、どうにもこうにも状態。
 そんで、プロバイダー上にある「伝言板」のデータを一度自分のHDにコピーして(この作業を何と言うのか判らない)その「伝言板」のデータをテキストエディターでチェックしてみる。

「うむ? 入力フォームが消えている・・・・」
 確かにこれじゃ、さっきのように入力できるハズがない。当たり前のことなのだ。
 しかし何故?・・・・と考えていって、1つの仮定に行き着いた。
 この「伝言板」は最大50個までを表示できると言う形に設定してある。だから51個目を書き込むと同時に、最初の書き込みが消去してしまうのだ。うむむむ。
 よくあるタイプの徐々に別のページに記録されて・・・と言う状態の設定が判らないので、そのままになっていたりする。
 でもって、その仮定とは「51個目の書き込みがあった瞬間、そのデータの一番下にあった「入力フォーム」が自然消滅してしまったのでは?」と言う事なのだ。
 ソレを踏まえて、色々実験してみると実にその通りだったのだ。

 がーーーーーーーん。

 そんなワケで、それから色々実験を重ねて「入力」の部分を一番上に持ってきたのであります。
 うーむ、日々精進・・・・・・。
1998年4月15日(水曜日) 4月は大変
 この4月と言う季節は色々と大変な事が多いのだが、日々会社に長時間かけて車で通っている人にとっても、いろいろと大変な事が多い。
 たとえば、毎朝この時間に家を出れば始業の何分前に到着して、自販機でカップコーヒーを飲んで一息入れて・・・と計算がなりたっている場合、4月になった途端異変が起きてしまうのだ。
 いつも通りに家を出たはずなのだが、会社に着いたのが完璧に遅刻ぎりぎりで、コーヒーどころかラジオ体操なんてのにも完全に間に合わない。ラジオ体操が終了した直後に始まる朝礼にやっと間に合い、制服に着替える事もできず私服のまま、しかも髪の毛はバサバサ、息ははぁはぁぜぇぜぇ状態になってしまったりする。
 その原因は4月になるとそこいらの会社の新入社員も車で出勤する為に、ラッシュがさらに混み合うというワケなのだ。

 さらに始末に負えないのは奴等は、まだ日常という状態に出勤が定着していない為に、日によってラッシュの時間にムラが出来るのだ。
 「昨日は7時半に家を出たら遅刻しそうだったので、20分に出てみる」などと言う感じのお試し期間なのだ。
 だから、プロの通勤人も「昨日この時間で大丈夫だったから」などと安心していると、翌日は痛い目にあったりするのだ。
 なかなか4月は大変だ。
1998年4月16日(木曜日) 交通の妨げの交通安全
 前日の続きなのだが、4月の通勤はさらに大変な事がある。
 通勤なんつー大人はいいとして、小学校に通い始めた子供なんかが大勢いたりする。
 でもって、その新入生を交通事故から守ろう!などとPTAや警察が朝早くから、通学路の角に立っていたりする。
 ま、それはいいとしよう!。
 しかしだ、なんか私の通う道だけなのかもしれないが、その交差点や横断歩道などのポイントポイントに複数人のPTA&警察官が立っているのだ。
 完璧交差点なら、多くても4人だと思う、これでも多いとは思うが100歩譲ってよしとしよう。
 が、私の通う道すがらには交差点の角にそれぞれ2人づつ立っているのだ。つまり1つの交差点に8人。こりゃ多いんじゃないか?と思う。
 が、当然の様な顔をしてペアで立って、ずっと世間話をしていたりするのだ。
 さらに、こやつらは各々手に「交通安全!」とか「運転手サン小さな僕たちが見えますか?」などと標語などを書いた旗を持っているのだ。
 うむむむ、かなり予算の無駄遣いではないか?などと思ったりするが、問題はそんな事じゃない。
 これが、大きな信号のある交差点だけではなく、やや小さめの信号のない交差点なんかにも立っていたりするのだ。

 ぼくの通勤道路の1つにそんな場所があるのだが、問題はここなのだ。
 実はこの交差点、かなり見通しがよく交差点といっても左には畑があり300メートル先まで見通せたりする。
 右側は川があって、さらにその先には民家の庭があるのでこっちも100メートル先もちゃんと見通せる交差点なのだ。
 普段は徐行しつつこの交差点に差し掛かり、左右からくる車が無いのを確認してすたっと交差点を右に曲がっていくのだ。当然、歩行者が居ればすぐ解る。いくら小さな子供でも大丈夫なのだ。なんせ犬がいても解る。
 が、この季節その交差点に例のごとく旗を持ったPTAの集団が立っているために、交差点で完璧に止まってさらに左右を確認する為に車のボンネット部分を交差点内に出さないといけなくなってしまうのだ。
 おかげで右側から来た車にクラクションを思いっきり鳴らされてしまった。
 まったくもーと思って、左右に並んでいる集団PTAなんかをちらっと見ると「まったくねぇこんな車が居るから危険なんざます」みたいな顔をしてクラクションを鳴らされた僕を見ていたりするのだ。
 くそーーーーーーーっ
1998年4月17日(金曜日) 集団PTAはやっぱり邪魔だ
 そんなワケで4月に大量発生する旗持ち交差点PTAは邪魔なのだ。
 今日見かけたのも実に邪魔だった。
 基本的にこの旗持ちPTAは交差点近くの歩道に立っている。車道に立っていたら自動車にはねとばされても文句は言えない(言えると思うけどさ)
 そんなワケで歩道に立っている。
 が、歩道って言ったって人一人分という幅しかない歩道なのだ。そー考えると、そこを誰かが通るときには車道を歩かなければならないのだ。
 僕は赤信号で止まってその旗持ちPTAを見ていた。

 彼らの仕事はかわいい小学1年生を交通事故から守ると言う物なのだ。だから高校生や大人のチャリが通っても注意を払わない。ただ突っ起って世間話にハナを咲かせている。
 その交差点は今、少し工事をしてて全体に狭くなっていて、歩道が少し狭く車道寄りに近付いていた。
 それだけでも危ないのに、本当に奴等は旗を持ったまま突っ起っているだけなのだ。 
だからチャリ集団は、車と旗持ちPTAの隙間をゆっくり通らなければ行けないのだ。本来ならば旗をもったPTAが立っている歩道をすすすすと難なく通れるはずなのだが・・・・
 なんの為の交通整理なんだろうか。
1998年4月18日(土曜日) 赤信号は止まれ
 車関連の話でうぬぬ、とかつて思った事件がある。
 とあるT字型交差点に差し掛かったとき、ちょうど目の前が赤になったので止まった。

   僕の車はちょうど横断歩道の処で先頭で止まっていたので、目の前の信号が青になるのを見逃してはいけないぞと、よそ見をしないで前を風景を見ていた。
 これが2台目以降の車だと、よそ見をしたりCDを変えたりしてても、何となく前の車が動いたりすると「あっ青になったんだ」と解ってあわてて発進させたりする事が出来る。が、先頭車両はリーダーとして信号を監視していなければいけないのだ。

   と、僕は目の前をみて「え?」と思った。
 先頭のはずの僕の車の前にもう一台車が止まっているのだ。

 ま、よくあるパターンで交差点に差し掛かった瞬間に赤になって進退極まってしまい横断歩道の上に止まってしまった、思い切りの良くない人と言うのがある。
 が、目の前の車はそーでは無かったのだ。しっかりと赤信号を確認して横断歩道の手前で止まっているのだ。
 ・・・じゃ僕が止まっている赤信号と横断歩道は何?と言うことになる。
 改めて赤信号を見上げてみる。横断歩道を見下げてみる(←見下げるとは言わないか)間違ってはいない。 確かに間違っていない、ちゃんと教習所で習った交通法規に則っているハズだ。
 では?

 実はそこはT字交差点のド真ん中だったのだ。
 説明しにくいので思わず図を書いてしまったが、私はまっとうな場所にとまっていたのだが、目の前の車はT字の真ん中で平然と止まっていた。
 パターンとしてその先もずっと渋滞している場合などは、交差点の真ん中で止まってしまう事もある。が、この車の前方はずっと空いている。ずっとずっと先の信号機までの間に1台も車がいないのだ。
 確かに、その車は横断歩道の手前で停車している。確かに見上げて見れば前方(と言っても、かぎりなく直角に近い前)の信号は赤を表示している。
 その車の運転手は女性で、自分の置かれている立場に全然気づかずに、助手席に置いて有るバックかなにかをごそごそやっているらしいのだ。
 と、ここまでは良かったのだが、T字の右から右折車がやってきた。
 当然、その車が右折する為には現在そこで止まっている車が邪魔になるのだ。で、当然の事ながらクラクションを鳴らした。
 が、その女性はまったく自分がクラクションを鳴らされている張本人だとは気づいていない様子だった。
 そして、青信号と共に、ゆっくりと悠然と発進した。
1998年4月19日(日曜日) 一方通行
 そんなワケで車を運転して早幾年、色々な事がある。
 などと、連続して車に関しての文章を書いているワケなのだが、そーゆーパターンの場合は「生活にこれといって変化がないんだな」と同情してください。
 なんせ、行って帰っての退屈なサラリーマン生活を続けていると、なんつーか色々大変なのよ。

   そんなワケで私は家路をその日もいつものように車を飛ばしていた。
 で、いつものように某交差点で左折をしようと・・・・目の前にバイクに乗ったおばちゃんがいた。こっちを向いて平然と立っていた。
 あれ・・・・俺間違ってしまったか?と思ったのだが、どう考えてもその道は向かって右側が対向車線で左側の道は自分の進むべき道なのだ。
 だが、そのバイクにまたがったおばちゃんは「こっちもアタシの物!」とばかりに意味無くにらみを利かせて立っていたのだ。
 僕の車は約45度左折しようとした状態で止まってしまった。当然、後続の車は僕の車のせいで全部止まってしまった。そんでもってクラクションを鳴らしたりしているのだ。
 と言ってもこっちはもうバックできない状態になっていて完璧に立ち往生してしまい、困った顔をしながらおばちゃんを見ると「ちぇしょーがねぇな」といった顔をしながらおばちゃんはバイクを移動してくれたのだ。
 いやはやどーもすみませんねぇなどと、こっちは全然悪くないハズなのにやや卑屈になりながらそこを通過するのであった。

 また、別の道路でも「さぁて左折」と思った時、とんでもない光景を見てしまった。
 その交差点は向こうからくる道路はこっちから向かって一番右側は「左折用」その横は「直進用」となっていて、一番左側は当然の事ながらこっちから向かっていく車の為の道路という事になっている。
 が、その日みた光景は・・・・車三台がこっちを向いて止まっている。という状態だったのだ。
 当然、向かって一番左側の車が勘違いして止まっているのだが、こっちは何気なく右折しようとして突然そんな光景に出くわしてしまったので「わひゃぁぁぁぁぁ」と動転して、間違ったぁぁぁぁぁとばかりに急遽右折を取りやめて直進してしまったのだ。
 その時、車がほとんどいなかったので大丈夫だったが、これが渋滞時だったら何かしらの接触事故を起こしていたかも知れない。

 世の中は何が起こるか解らないので要注意が必要なのであります。
1998年4月20日(月曜日) さようならリンダマッカートニー
 朝、出かける前の準備をしているとき、ちゃんと見るワケではないがTVを付けてある。いわゆる時計代わりというやつなのだ。
 その画面の中では政治の事から、三面記事から、ワイドショー的な事から、スポーツ関連まで短い時間でスパッスパッとやってくれる。
 おかげで、世間一般で起こっている、話題になっている事の表層を感じとることは出来る。そーかそーか、また新党が旗揚げをしたか、とか、そーかそーか今年のヤクルトは調子悪いか、とか、そーかそーか郷ひろみの「ダディ」は売れているのか、などなど。
 と言っても、その番組が流れている間TVに釘付けってワケではなく、髪の毛を整えたり(←朝シャンな人だったりする)、歯磨いたり、朝食を食べたり、トイレにかけ込んだり、かなり大忙しな時間をエンジョイしていたりする。
 実に充実した時間と言えるのかも知れない。

 その朝のニュースの中で、ポールマッカートニーの奥さん「リンダマッカートニー」の死を知った。
 最初「ただいま訃報が」とアナウンサーが原稿を読み始めた時「んん?」と聞き耳を立て、さらに続けて「多くのヒット曲を産みだし、未だに世界中に熱狂的ファンの多いビートルズの・・・」と言い始めた時は、一瞬のうちにムチャクチャ色々な事を考えてしまった。
 リンゴか?ジョージか?まさかポールって事はないよな、等と不謹慎な事を色々考えてしまった。

 そういえば、70〜80年代はポールはリンダと共に活動をして「WINGS」や、映画などで一緒に映っていたが、ここ数年はリンダマッカートニーの名前はベジタリアン関連の本を出してイギリスでヒットしているって事ぐらいだった。
 そうか、数年前から癌の治療をしていたのか・・・・

 僕はリアルタイムのビートルズ世代ではなくて、音楽を音楽として聞き始めた時にはジョンレノンも活動を辞めていたんだけど、自分の中でビートルズは特別な思い入れと共に残っている。
 ジョンレノンが死んだ時は思いっきり思春期のど真ん中で、激しいショックを受けた。

 自分としてはリンダマッカートニーに対してはあまり思い入れも無いし、ヘタくそなキーボード&へたくそな歌ぐらいにしか思っていなかったけれど、なんか自分の大切にしていた物の欠片がぽろぽろと剥がれて壊れていくような気持ちになってしまった。
 ビートルズ解散後のポールがあんな素晴らしい曲をたくさん作って来れたのも、リンダのおかげなんだろうなと感謝をするのであります。

PS
 確か70年代初頭の作品だと思うけれど、とある画家がビートルズのメンバーが老人になった時の絵を描いたのがあった。
 たしか、ビートルズ関連グッズカタログみたいな本で見たんだけど、その中に書かれていたポールマッカートニーは丸々と太った貫禄のあるじじいだった。
 確かにポールはビートルズ時代の写真などを見ても「絶対に太る」って感じだったのだ。
 まさか、その後、奥さんが完璧なベジタリアンになって、それに素直に従ってしまうとは誰も予想しなかったのだ。