< 杉村ぐうたら日記(1998年5月21日〜31日)

▲1998年5月21日:木曜日:似非
▲1998年5月22日:金曜日:三谷幸喜とチャゲ&飛鳥
▲1998年5月23日:土曜日:ショーンレノン デビュー
▲1998年5月24日:日曜日:職人芸?
▲1998年5月25日:月曜日:無能界
▲1998年5月26日:火曜日:サッサッサッ・・・・・
▲1998年5月27日:水曜日:生原稿
▲1998年5月28日:木曜日:焼きたてのパンの陰謀
▲1998年5月29日:金曜日:形状記憶髪の毛
▲1998年5月30日:土曜日:クリエイター:星新一
▲1998年5月31日:日曜日:重複して買う本
1998年5月21日(木曜日) 似非
 世の中には自分に似た人が3人いると言う事を言う人がいる。
 いぜん、知人から突然「こないだ杉村に似た女の人を見た」と言われた事がある。
 ここで女装癖のある人間ならドキドキしてアドレナリンが活性化し、普段より1オクターブ高い声で「そっそりゃ何ンかの見間違いだっ!おっ俺じゃないっ!」と叫んでいたかもしれない。
 物語的にはそっちの方が面白いのかもしれないが、残念ながら自分には女性癖はなかった。
 以前、自宅で女の子から冗談で薄化粧させられ耳にイヤリングをした事もあったが、それで新たな世界に目覚める事もなかった。
 もっともその時、化粧したのをすっかり忘れて回覧板を受け取ってしまうという失態を演じてしまったが。
 その知人の見た「杉村似の女性」が果たして可愛かったのか、そうでなかったのかは聞くことが出来なかったが、うむ似ている人がいたか・・・・。

 この程度の似ているって話なら笑って話せるが、別の知人から「似ている」と言われた話は、さすがに困ってしまった。
 パソコン通信で知り合って、数回しか直接逢ったことの無い知人から「家にあるスカトロビデオの男優がそっくり」と言う話をされたのだ。
 げげげげ、スカがトロしているのっすか?私はあの趣味だけは本当に理解出来ない。そんなのに自分そっくりの男が・・・・うげげげ、と思ったのだが、それ以前に「キミはそーゆービデオも趣味なのか?」とその知人にツッコミを入れるしかなかったのだ。

 そんな感じで「似ている」と言う状況は良くある。
 が、よく「森高千里似」とか「松たか子似」とかっていう表現が雑誌媒体では出てくる。それとか、ここにいない人を説明する場合にもそんな事を言ったりする。
 たとえば、女の子を紹介してあげるよなんて話の時に「そ〜ぉだなぁ、しいて言えば森高千里似かな?」なんて風に使われたりする。
 が、現実的に言ったら森高千里なんかがそこらへんにゾロゾロいるワケなかったりする。あくまでも、うっすら似ている程度の事が多い。
 あるいは、かなりきわどく悪意を持って森高千里を見た時に感じる何かが微妙に似ていると言う、ワケの判らないそっくり度合いもある。

 僕は残念な事にこれまで「芸能人の誰々に似ている」という形容詞をつけられた事がない。
 それはそれで残念でもあり、嬉しかったりもある。
 なんかしょっちゅう「なんとかかんとかに似てる」って言われるのって精神的にキツイ様な気がしてしまうのだ。とりあえず個性的でありたいと思っている自分としては。
 が、逆に有名芸能人に似ていると言うことをプラス方向に持っていく人もいる。
 いわゆる営業なんて仕事をしている人の場合は、完璧に有利で「一発で顔を覚えて貰える」と言うのがある。

 それ以外の所では異性にもてたりするポイントになったりする事がある。
 今から10数年前の話、身近に貧相な顔をして目つきの悪いやせこけた青年がいた。当然の事ながら女の子にはもてなかった。本人はそれなりに努力をしているみたいだったが、いかんせん目つきやらマイナス要因が多かった。
 ところがある日、そのマイナス要因が全部ひっくり代える事になってしまったのだ。

 毎週の様に「ザ・ベストテン」に「ワインレッドの心」と言う曲を引っ提げて『安全地帯』と言うバンドが出演する様になった途端に、彼を取りまく状況が一変したのだ。
 その安全地帯と言うバンドのボーカル玉置浩司と言う男が、貧相な顔、良くない目つきをしていたのだ。そう、彼とかなり酷似したキャラクターだったのだ。
 そして、コンパなどに行くとそれまでは話題の中心になれなかった彼に女の子達が「似てる似てる」と言って近寄って来た。そして「歌って」などと言ったりする様になった。
 これまでの人生の中でこれほどまで脚光を浴びたことのなかった彼は、怒涛の様に「玉置浩司に似ている男」の道を歩みだしたのだ。
 それまでは無造作だった髪型もカッチリ決めはじめ、服装もニューロマを少し崩した様なファッションにして、笑い方なんかも完璧に真似の領域に入っていった。
 たぶん、近寄ってくる女の子もいたと思う。

 その後の彼を知らないのだが、なんかご苦労様と言うついでに淋しい感じも受けてしまう。彼本人の個性と言う物はどこへ向かって行くのだろうか?

 確かに芸能人なんかにそっくりな人は存在する。
 以前は「そっくりショー」とか言う、毎週1人の芸能人にそっくりな人を数名集めてその中で1位を決めるというTV番組があった。
 しかし、出てくる人それぞれ似ているのだが、微妙に似ていない部分も持っている。なんか違うって感じがしてしまうのだ。そうすると「違う」と言う部分で笑いが起きてしまう事になる。なんかデッサンが狂った感じがしてしまうのだ。
 しかし、そのそっくりさん一人一人をよく見ると、綺麗な顔をしていて充分に美人だとか美男子だって場合が多い。だけど、この番組の場合、美の基準はその芸能人本人と言う事になってしまうので、やっぱり笑いの対象になってしまうのだ。

 話は凄く回りくどいが、本人が本人として個性を確立していない人の場合は、いくら頑張っても亜流の域から出ることが出来ず、格好悪い物になってしまうのではないか?と思ってしまったりする。
 そんなワケで自分は「似ている芸能人」がいないと言う事に自信を持ってしまったりするのであった。
今日の読破本『山田貴敏:アクシデンツ1〜3』小学館サンデーコミック
1998年5月22日(金曜日) 三谷幸喜とチャゲ&飛鳥
 古畑任三郎シリーズで一気にメジャーになった三谷幸喜が書いたエッセイ『オンリーミー:私だけを/幻冬舎文庫』を読んだ。
 TV等に本人が出る時の印象や、ドラマなんかのとぼけたキャラクターそのままに、かなりすっとぼけていて面白い。
 このエッセイを書いたのは、はじめての連続ドラマ「振り返れば奴がいる」の脚本を書いていた当時なので、一般的な知名度は少なかった。当時の彼の肩書きは「東京サンシャインボーイズ」の劇団長&脚本家と言う感じだったと思う。

 が、実はもっと凄い人で、かのチャゲ&飛鳥とは福岡時代からの知人でお互い音楽活動の中で影響を与え合い、チャゲ&飛鳥がデビューするとき本当は3人組になるハズだった。
 三谷幸喜は「あんドーナツ」が大好きでいつも食べていたので学生時代の愛称が「あんドー」だった為に、グループ名は3人の愛称を並べた「チャゲ・あんドー・飛鳥」だったが、デビュー直前に病気の為療養しなくてはならなくなった三谷が泣く泣く抜ける事になった。そこでグループ名を「チャゲ&飛鳥」に変更したのだ。
 その後は彼らに影ながら曲や詩を提供する事になった。

 そんな話が載っている。普通に読めば大嘘だって事は判る。それでも判らない人の為に、この文章の後半でネタばらしをして「自分の書いた脚本の主題歌を歌ってくれた」と言うキッカケで知り合いになったが、それ以前は曲さえほとんど知らなかった。と書いてある。

 その文章は、元々飛鳥からの依頼で書いた物で「月刊カドカワ」と言う音楽雑誌に掲載された。
 しかし、その雑誌が発売された後の読者からのハガキには「ふざけるな」と言う内容の物が多く、マジなファンの融通の利かなさ、ユーモアのなさに呆れてしまうのだ。
 それ以上にオイオイってのは「今までチャゲアスのファンでしたが、まさか他人が曲を提供してそれを飛鳥名義で発表していたなんて、ショックでした」とか、マジで文面を信じている人が多数いた事らしい。
 うむむむむ、こーゆー人々がいるから笑いって難しいんだよなぁ。
 わざとボケても、マジで反論されてしまったりする事もある。

 特に「ファン」と言うある種ヒステリックな感情を持ち合わせた人に対しては細心の注意が必要になってしまう。バカにしたつもりは無くとも、その特定アーティストをネタに使用した時に「キーッなんざますっ!」となってしまうのだ。
 が、その手の人々が読むミーハー系(←この言い方にもキレると思うが)音楽雑誌なんかの投稿ページなんかに書かれているコマ漫画なんかでネタにしても、さほどキレない。この辺の見極めは私には全然出来ない。
 1つ判る事は「アーティストをネタにしてもいいが音楽に触れたネタはやってはいけない」ぐらいかも知れない。音楽に関しては「絶対」な状態でいなければいけないらしい。少しでも「○○って曲、カッコ悪いよね」とでも書こう物ならば・・・・。
 ヒステリックに「××さんはいつも必死に真剣に曲を作っているんです。それを気軽にカッコ悪いなんて言わないで下さい」みたいな状況になってしまうのだ。果ては「××さんみたいにいい人はいません。その××さんの曲を悪く言う人の気持ちが分かりません」などと書かれてしまうのだ。
 私はその手の雑誌に投稿した事無いけど、そーゆー状況を何度か目撃した。

 真剣に作った曲だから批判してはいけない。いい人だからいい曲とは・・・・そんなファンに愛されたアーティストは可哀想だよねぇ、全然成長出来ないと思う。批判的な意見があってナンボだと思うんだけどさ。
 世の中全員に好かれる作品なんて絶対作れるワケない。だから好きじゃないと言う意見がでて当然だと思う。そーゆー意見が出ない作品って言うのは、好きな人以外にとって「どーでもいい」って事なんだと思う。
 世の中には、どーしょーもない程最悪の人格なのに、凄く綺麗な曲を書いたり、演奏する人ってのがいたりするのも事実。

 前述の三谷幸喜の文章を間に受けてしまう「文章を読むことが出来ない人」は問題外なんだけど、そのギャグに対して激しく憎悪感を持ってさらにハガキに書いて雑誌社に送ってしまう人がかなりの数いたって事に、かなりの危惧を感じてしまう。
 そーゆー熱狂度の事を「宗教」と言うのかも知れない。

 僕はビートルズが好きで、筒美京平が好きで、佐野元春が好きで、(以下延々と続く)なんだけど、そのアーティストの作品でも好きじゃない物も多数ある。
 そして、僕の好きなアーティストを「大嫌いだ」と思っている人も多数いることを認めている。
 僕だって「○○○」や「△△△」や「◇◇◇」なんかは大嫌いだったりする。
 でも逆に「くやしいけれど○○○の×××って曲、いいよな」と認める事もある。
 たかが音楽でしょ?
 と言うとさらに反論があると思うけど、僕は「たかが音楽」だから大好きだったりする。

 以前、僕は某音楽系パソ通ネットで「ビートルズ好き」と言うことで、文章を書いたりMIDIデータを発表していた。
 その時、当然の様に「僕もビートルズが好き」と言う人が何人も集まって来ていた。
 で、色々文章で話を進めていくと「ビートルズの曲で嫌いな物がない」「ビートルズファンならば嫌いなんて言ってはいけない」みたいな話の展開になってしまった。ありゃりゃ、と思っている内にそんな状態になってしまったのだ。
 そこで、やはり少しでも批判的な意見を言うと糾弾されてしまう様なムードになってしまったのだ。
 とある人に聞くと、実際のファンの集いみたいな場所でもそんな感じらしい。もうすっかり「宗教」になっている。
 私はビートルズは好きだがビートルズファンは嫌いという、屈折したビートルズファンになってしまったのだ。

 そんなこんなで、僕はこれまで書いてきた文章の中で何組かのアーティストをネタにしてきたので、なるべく暗い夜道は一人で歩かない事にしている。
今日の読破本『三谷幸喜:オンリーミー・私だけを』幻冬舎文庫
1998年5月23日(土曜日) ショーンレノン デビュー
 かのジョンレノンの忘れ形見、ショーンレノンがついに歌手デビューした。
 でもって、そこそこ売れている。ラジオなんかでも何回か曲を聞いた。
 その曲は、誰でも予想していた通りの展開で、どー聞いてもジョンレノンを意識した曲調になっている。メロディラインから、ギターのフレーズから、ドラムの音から。ジョンレノンの曲を知っていれば知っている程、その似ている具合が判ると思う。
 僕が一番最初に聞いたとき、アーティスト名を聞かずに曲の途中からだった。そして感想が「またビートルズにインスパイヤされたアーティストが出てきたか」ぐらいの物だった。
 で、曲が終わりそれを歌っているのがショーンレノンだと判った。
 うーむ、結局こういう事になったか。

 ショーンレノンはジョンレノンとオノヨーコの間に生まれた子供で、ジョンにとっては前妻シンシアとの間のジュリアンに続いて二人目の子供。オノヨーコにとっても前夫との間の京子ちゃんに続いて二人目の子供と言うことになる。
 つまりショーンはジョンにとってもヨーコにとっても、自分の元から手放してしまった最初の子供の面影を引いた状態で、思いっきりかわいがってきた子供と言う印象を受ける。
 あのジョンレノンの悲劇的な死までは。

 そしてジョンが死んで数年後、前妻シンシアとの間の子供、ジュリアンレノンがセンセーショナルにデビューした。
 その歌声はジョンにかなり酷似していて、さらに似たような曲調で、多くのリスナーの意見をまっぷたつにした。「ジョンを思い出して切なくなった」と言う人と「あまりにもジョンを利用した商業主義に嫌気がさす」と言う物に。
 僕は、確かに似ていて思い出すけど、曲的になんか深みを感じさせず印象に残らないと言う感じだった。
 その後、基本的に本人がクリエイティブでなかったせいなのか、次第に人気が無くなって引退してしまった。

 その当時ショーンはまだ10代前半だった。
 その後、何故かマイケルジャクソンの映画に子役で出演したり、佐野元春の曲にコーラスとして参加したり・・・・、不可思議な行動をとっていたが、結局、こうして歌手デビューする事になってしまった。
 色々プレッシャーやらあると思うが、この手の2世タレント的なデビューは好きになれない。実際に才能があるのかも知れないが。
 そんでもってジョンレノンをほうふつとさせる曲だもんなぁ。
 しかし残念な事にジュリアンと違って声質が全然ジョンレノンでは無いのだ。
 聞いていると判るけど、完璧に母親のオノヨーコの声質を受け継いでしまっている。発音は悪くないが、いつも日本人アーティストが歌う英語詩で感じる「基本的に日本人の声」と言う印象を受けた。
 なんつーか、やっぱり人種によって身体の部分は差がある。そう言う意味で口・舌・ノドなどもたぶんベーシックな部分で差があるのだと思う。そんな意味でショーンはオノヨーコの子供なのだ。
 もしかしたらジュリアンは一生懸命真似をしていたのかもしれないが、母親がイギリス人だったのであの発声が出来ていたのかもしれない。

 ショーンレノン、たとえ売れなくても第二の故郷日本で(子供の頃から何度も来ている)タレント活動なんてするなよ。
今日の読破本『矢野顕子:愛について考える毎日』角川文庫

追記:1998.8.6
なんとショーンレノンがデビューしたと思ったら、兄貴のジュリアンレノンも突然7年振りの復活だそうで・・・
 うむむ跡目争い勃発か?
 しかもジュリアンレノンはインタビューで「これまではよくビートルズっぽい曲はやらないの?って聞かれていたんだけど、ワザと意識してその辺は避けていた。だけど、この7年1人で考えてやっと吹っ切れた。でもってファンサービスの意味もあって、しっかりとビートルズを意識した曲をやる事にしたんだ。だけど、ちゃんと自分なりのアイディアも盛り込んでいるけどね」などと答えている。
 私は「そうかあ?これまでもそんな感じだったような気がするけど・・・・」と思ってしまったのだ。
 しかし、遺伝子をコピーして作ったクローンでさえ本人が成長するまで経験してきたのと同じ事をインプットしなければ同じ人間が作れない様に、ジョンレノンの子供だと言ってもジョンレノンではないワケで・・・・・。
 その辺に気付かない内はキツイ様な気がする。

1998年5月24日(日曜日) 職人芸?
 人間なんでも長いことやっていると、知らぬ知らぬの内にプロフェッショナルになっていたりする。
 別に「ザ・プロフェッショナル」と肩ひじ張っているワケではないが、冷静に考えてみると「もしかしたら凄い事になってんじゃないのか?」と言う事があったりする。

 僕なんかが友人の仕事場に行ったりして、その仕事ぶりを見ていると「うむむ凄い」と思ってしまう事がある。しかし当人は毎日毎日の中で身に付いた技なので、そんな感動もなく、平常心で作業を続けていたりするのだ。
 そんなワケで、私も仕事がらみで毎日、ワープロを打ったりしている。
 かれこれ、15年以上のキャリアと言うことになる。もっと正確に言えば、それ以前から姉の持っていた英文タイプをこっそり借用してカセットレーベルなどを作っていたので、キャリアと言う奴は凄い事になっているのかもしれない。
 お陰で、今、入力する時はいわゆるブラインドタッチ(完璧ではない)と言う奴で、ワシワシガシガシ入力しちゃっていたりする。
 おぉいつの間に、と言う感じなのだが、いつの間にかなのだ。
 そんでもってさらに驚いたのが、以前、自宅で文字原稿を入力しなければいけない仕事があってワシワシ打っていたときの事。
 ラジオを付けながら入力をしていたのだが、その時自分の良く知っている曲が流れ始めた。
 と、なると人の条件反射的な物としては一緒に歌ってしまうワケですよ。

 ・・・・・ふと気が付いた時、私は口では詩の歌詞をしっかり歌い、目はまったく違う内容が書いてある原稿を見つつ、指は文字入力をしているという、すっかりマルチタスクな人間になっていたのだ。
 またある時は、横にいる友人と会話をしつつ、指は別の内容の文章を入力していた(この時は下書き原稿もなく考えながら入力していた)

 うむ凄いじゃないか、と思って、改めてやってみようとするとコレが出来なかったりするから人体の不可思議だったりする。
今日の読破本『中島らも:ビジネスナンセンス事典』集英社文庫
1998年5月25日(月曜日) 無能界
 今日、突然松田聖子が結婚をした。
 私にとっては全然興味のない話題なんだけど、世間一般では話題になっている。と言うか、世間一般様もかなり醒めていて、盛り上がっているのはマスコミだけだったのかもしれない。
 しかし、かのニュースステーションでもトップにこの話題を持ってくるって・・・。しかし久米宏のコメントは相変わらず秀逸だった。
 「私は清純で可愛かった松田聖子さんしかしらないんで、なんともコメントは出来ませんが・・」
 相変わらずセンスのいい湾曲したイヤミが冴え渡っている。確かに久米宏が司会をしていた「ザ・ベストテン」の頃の松田聖子と、今の松田聖子っては同一人物には思えないっす。どこで何がどうすりゃ、あぁなるんだか判らないぐらいに別の人になっている。

 ま、芸能ネタがトップにくるくらいに平和な時代なのか、と言うと平和じゃないんだけど、政治的な事はどーころんでも良くならないって言う、誰も関心を示さない出来事になっているからかも知れない。

 それにしても、先日の雛形あき子の突然の入籍記者会見と言い、今回の松田聖子の突然の結婚といい、鵜の目鷹の目、海千山千の芸能記者でさえ押さえていなかったニュースだったらしい。
 なんせあのナシモトなんつー「俺は芸能界の事、何ンでも知ってんだぞ」みたいな顔した親父は、数日前ラジオで松田聖子に関して「ハリウッドの映画プロデューサーが」とか話をしていたってぐらいなのだ。
 それ以外では、離婚した郷ひろみとヨリを戻したんじゃないか?とか、下世話の嵐。

 結局、元々世間の役に立つニュースを見つけだしているワケでもないが、それ以前にもっと無能だったんじゃないのか?
 もっとも、芸能関係者の方が「いかに秘密を隠し通せるか」と言うワザに長けてきたのかもしれない。
今日の読破本『しりあがり寿:真夜中の弥次さん喜多さん(上)』マガジンハウス 
1998年5月26日(火曜日) サッサッサッ・・・・・
 私は経済的な理由から「ごはん」のみの弁当を持って会社にでかけている。つまりライスの事なのだ。
 かの青森出身のフォーク歌手、三上寛が東京に出てきた時に「安くて腹にたまりそうな物」と言う事でメニューの中で比較的値段の安かった「オニオンスライス」を注文した時の話。
 注文したオニオンスライスがテーブルに運ばれて来たのだが、しばらく三上寛は手を付けようとしなかった。
 ライスが出てくるのをずっと待っていたと言う。彼は「オニオンス」と言う「ライス」付きの食べ物だと思っていたのだ。
 その「ライス」だけをもって私は会社に行く。
 学生時代も日々の生活に汲々としていた為に、塩だけで作ったおにぎりを持って学校に行った事も何度かある。日本人の基本はごはんなのだ。

 別に昼食はそれだけと言うワケではない。
 会社の食堂では「お総菜」と言う状態で、フライ物とか、ハンバーグとか、マーボー豆腐とか、色々な物が150円〜350円で揃っていたりする。
 そんな物を購入して安くあげていたりするのだ。実に涙ぐましい赤貧生活。

 そんなワケで今日も僕はお総菜一品を200円成りで購入し、自分の席で(食堂は混み混みでせわしない)食べ始めたのだ。
 お総菜だけだと淋しいので、小袋に入った「ふりかけ」なんて奴も用意してある。
 色々なメーカーの色々な物を試したが、やはり老舗の永谷園「大人のふりかけ」は美味しいので、定番になっている。(いわゆるお弁当用の、小袋物です)
 今日はたらこで行こう、と決意をして袋を破りサッサッサッ・・・・と行こうとしたのだが「サッ」で終わってしまった。

 ありゃ?
 白い御飯の上には少量ふりかけが・・・・「もしかして凄く量が少ないんじゃ?」と感じたのだ。ハッキリ言ってこの「大人のふりかけ」はかなり食べているが、こんなに量は少なくない。
 あわてて、もう1袋、同じ「たらこ」を開けてみる。
 サッサッサッ・・・・今度のはしっかりと弁当箱にまんべんなくふりかけがかかる程の量入っていたのだ。
 うむむむむ、これはいわゆる不良品というヤツでは無いか?
 と思ったのだが、私の目の前にはすでに「たらこふりかけ」がたっぷり乗ったごはんと、2つの空き袋があるという状態だったのだ。
 これでは証明する事が出来ない。

 うむむむむ、と思いながらもワッセワッセと昼食を食べている内にそんな怒りの気持ちも消えてしまい、今に至っているのであった。
今日の読破本『しりあがり寿:真夜中の弥次さん喜多さん(下)』マガジンハウス 
1998年5月27日(水曜日) 生原稿
 先日ニュースになったらしいが、漫画「キャンディキャンディ」の原画を運送中の佐川急便が真っ二つにしてしまうと言う事件があった。
 その原画とは本編の漫画の方ではなく、イラストとして石膏ボードに描かれた物で、確かに石膏ボードは雑な扱いをすると破損しやすい。

 元々、香港で原画展をする為に作者から借り受けた講談社が、作者に返却の為に佐川急便に依頼した処で起こった事件らしい。
 そんでもって「輸送中の破損に関して」と言う意味で佐川急便側が、規定の50万円の賠償金を払うと言い出した処で、騒ぎが大きくなった。作者のいがらしゆみこが、佐川急便の『金払えばそれでいいんだろ』と言う態度に対して「作品は可愛い我が子の様な物です。この世には二つと無い大切な物を壊しておきながら、簡単に解決しようという姿勢が許せません」と言う事で、賠償額2000万円(だっけ?)と言う話になったらしい。

 その値段が高いか安いかは別として、はっきり言って世間一般で見たら「人気漫画の生原稿」などと言う物は大切に大切に扱わなくてはいけない物なのだが、その手の物を見慣れた現場では結構ぞんざいに扱っていたりするのだ。

 私の仕事場は編集関係と言うこともあって、漫画の生原稿なんて物が当たり前の様に置いてある。入社した当初は元々漫画を書いたりしていて漫画家に敬意を持っている私は「おぉぉぉ」とか思っていたのですが、最近はあんまし感動も無くなってしまった。
 私ですら、そんな状態なんで元々漫画なんて消費物ってぐらいにしか思っていない人にとっては、印刷された物とたいして変わらない様な感じだったりする。
 お陰で、原稿が紛失しかかったり、汚れたり(修正液で直したりする)する事も時たまある。

 ある時なんて、何気なく自分の部署ではない仕事場をヘラヘラ歩いていたとき、そこのキャビネットの上にどどーーんと「手塚治虫:ジャングル大帝・全400ページ!」みたいな物が、何気なく置かれていたりする。
 生原稿、1枚安く見積もっても50万円(実際に単行本に使われている原稿だし、それが名作ジャングル大帝の物だから、もっともっと高いと思う)の原稿が約400枚。
 カシャカシャカシャカシャ・・・・私の頭の中にはテレビ東京の「開運、何でも鑑定団」のクライマックスの効果音と音楽が鳴り響いていた。
 2億円!
 そうです、安く見積もっても200,000,000円っす。
 そんな物が、何気なく置かれていたりするのが、慣れて緊張感の無くなった職場だったりするワケです。わたしゃ、その生原稿を抱えて逃亡生活に入ってしまおうかと考えてしまったっす。

 しかし、大先生の書いた名作って事で問題になったりしたワケですが、私なんかチンピラが書いた絵だって、作者にしてみりゃムチャ可愛いワケで、そんな作品を汚されたり破かれたりしたら、腹がたったりすると思う。
 だけど、この辺の価値観は永遠に第三者には判らない物かもしれない。
それが「金払えばいいんだろ」と言う態度になってしまったのかも知れない。
今日の読破本『椎名誠:鉄塔のひと/その他の短編』新潮文庫 
1998年5月28日(木曜日) 焼きたてのパンの陰謀
 私は毎朝、通勤の際にセブンイレブンなんぞに寄って、熱々の缶コーヒーなんぞを購入したりするのが日課になっている。
 その際に朝食抜きで出てきた場合はパンも購入したりする。
 とりあえず毎朝朝食をキチンと食べるというのが体に染み着いてしまっているので、ここで何気なく朝食抜きと言うのをやってしまうと、その日の午前中はかなり悲惨な事になってしまう。
 そんなワケでセブンイレブンのパンと言う物をチェックしたりする。
 でもって最近すごく気になってしまう物があるのだ。

 「焼きたて」と書かれたパンがシリーズになって置かれていたりする。
 多くの人が「ほほう焼きたてかぁ」と、作ったばかりの新鮮なパンと言うイメージで購入していくのだと思うが、そりゃチト変じゃねぇか?と思ってしまうのだな。
 いわゆる、自分の処でパンも焼いているパン屋さんの場合ならいざ知らず、この手のコンビニの様に工場から配送されてくるパンなんかにも「焼きたて」と言う文字をつけても良い物なのか?と考えてしまうのだ。
 パン屋さんの場合は、焼いて店頭にならべられるまでの所用時間が約2分以内だと考えられる。そこで「焼きたて」と言うプレートを付けられ、その後30分ぐらい「焼きたてパン」と言うキャッチコピーで客を引くことになるのだと思う。
 それに引き替えコンビニのパンは、焼かれてから店頭に並ぶまで、一生懸命時間を短縮しても30分以内と言う事は無いと思うのだ。あんまし流通の秘密を知らないが。
 そーなると普通のパン屋で「焼きたて」と言う文字をハズされる事になるボーダーラインあたりから「焼きたて」と言う名前で皆様の前にお目見えすると言う事になってしまうのだ。
 こりゃ、商法表示法違反なのでは無いか?などと意味なく憤慨して朝からフガフガしてしまうのだ。

 なんせ、その焼きたて期限を過ぎた処から「焼きたて」の名で出ているそのパン達は、次回配送パンがやってくる時までじっと「焼きたて」の名前で客を待ちかまえているのだ。
 パン屋の常識から考えて焼いてから半日以上経った「焼きたて」なんて物はありえない。普通ならば「5個200円」なんて感じにビニール袋に適当に突っ込まれて安売りされてもおかしくない半日後まで堂々と一枚看板で店を構えていると言うことになる。

 ま、好意的に見た場合「きっと工場で袋に詰めた瞬間は焼きたてだったに違いない」と言う感じなのかも知れない。
 たとえば「新人歌手」と言う名称はいつまで使えるのか?と言う場合、デビュー1年間と言うことになるかも知れない。
 たとえば「新製品」と言う名称は次の新製品が出るまで有効なのかも知れない。
 そんな事を考えると、かの名車フォルクスワーゲンなんぞは、ずっとモデルチェンジをしなかったので、ずっと新車だったのかも知れない。
 などとワケの判らない理論に突入してしまうのだ。

 が、それも百歩譲って良しとしよう。
 問題はそれ以外の「焼きたて」と名付けられていないパン達の立場はどーするつもりなのだ!ドンドンッと思わず興奮して机を叩いてしまう様な状況なのだ。
 よく洗剤なんかの新製品が出たとき「ほぉ〜らこんなに良く落ちるんですよ」と別の「当社製品」と比較した広告が打たれたりする。そんなとき思わずTVのモニターに向かって「その当社製品の正式名称を述べよ」と突っ込みを入れたりする私がいる。それまでその会社の商品を信じて使っていた人々は「あんたが使っている物は実は大したことないんだよ、いい気になってんじゃねぇ」と言われた様な物なのだ。
 TVに向かって一人で突っ込みを入れている私は老化が始まっているのかもしれないが、そんな事はこの際無視して、問題は「焼きたてパン」とそれ以外のパンの違いなのだ。

 コンビニに並ぶ「焼きたて」と「そうじゃないパン」とに明確な差があるのか?
 と言う問題について考えていくと恐ろしい仮説にたどり着いてしまうのだ。
 なんせ、コンビニにおける「焼きたて」の定義を『その日に焼いて次のパンが出てくるまで』とすると、それ以外の無明記のパンと言うのは、いったいいつ焼いていつまで置かれている物なのだ?と言う事になってしまう。もしかしたら工場で焼き上がってから2〜3日寝かせて味が安定するまで出荷を見合わせているのかもしれない。
 うむむ、確かに肉などはしばらく寝かせて置いた方が味に深みが出るというが、パンもそうなのか?もしかしたらカレーパンなどは「やっぱカレーって作った日より翌日の方が味にコクが出て旨いよな」と言う言葉の通りに、作った翌日に出荷されているのか?

 考えれば考えるほどコンビニの「焼きたてパン」の陰謀にはまっていく私であった。
今日の読破本『北村薫:覆面作家の愛の歌』角川文庫 
1998年5月29日(金曜日) 形状記憶髪の毛
 私は長いことサラサラ直毛の髪の毛で過ごしてきた。
 高校時代に「それってポールマッカートニー意識してるでしょ」などと言われ、80年代半ばには「それって吉田栄作を意識してるでしょ」などと言われた。
 いやいや別に意識しているワケではなく、普通に髪の毛を切った後、何もせずに伸びてくるとこうなってしまうのだよ。と言う感じだった。
 高校時代から「杉村の毛ってコシが無くてまっすぐだから一番危ないよな」などと言われていた。
 髪の毛が危ないといっても、メデューサの様に髪の毛を見た途端に体が石になってしまう、と言うたぐいの危なさではない。その意味は「若くしてハゲるのでは?」と言う事だったのだ。
 たしかに毛一本一本を見てもかなり細い感じがある。
 プールなんかから上がった時には、他の人と比べてかなり地肌が見えてしまう様な気がする。
 さらに遺伝的な見地から「ハゲ」を診断すると言う方法に関しては、我が家は恐ろしい事に男は早死にの家系だったりする。父親も祖父もそこそこの若いときに亡くなっているので、果たしてハゲるのか?と言う疑問の時にサンプルがいなかったりする。
 と言うことで、そんな話題の時にはいつも「むむむ」と考え込んでいたのであった。

 それから早幾年、時代は昭和から平成に移り変わり早10年、私は未だにそのような名称で呼ばれた事が無く済んでいる。
 ところがここ2年ほど、髪の毛について困った現象が起き始めているのだ。
 通常、髪の毛における問題点というと二つ「ハゲ」と「白髪」と言うことになる。その二つ目の白髪はハッキリいって私はその通りの白髪の多い人で、それもまとまって前方にあったりするので「関口宏状態」あるいは「ブラックジャック状態」だったりする。
 これに関しては私は問題視していない。早いところ全部白髪になって藤本義一の様に小うるさい事をいって周囲に嫌われるジジイになりたいと思っているぐらいなのだ。

 問題は、これまでサラサラ直毛だった髪の毛が、2年ほど前かた突然カールをし始めたのだ。
 それもかなり不規則に。
 今、髪の毛は(あえて説明するのなら)耳までかかる程度の吉田栄作状態(←吉田栄作って表現もすでに古いけど)と言う感じなのだ。
 その髪の毛を風呂から上がったあと、軽く水をふき取ったまま自然乾燥させると、気がついた時には鉄腕アトムの妹ウランちゃんになっていたりする。ありゃりゃ、と思ってまた髪の毛を濡らしてちゃんとセットをしたりすることになる。
 それだけではなく、普通にセットをして会社に出かける。と言う状態でも、朝の忙しさから完璧に乾いていない事もある。そうすると気が突いた時にはウランちゃんになっている。
 さらに「今日はバッチリ」と思っていても、突然の雨に降られたり、ドヘドヘの汗をかいたりするとすっかりウランちゃん。

 実はこの「突然カール」と言う現象は美容院の人の話では「髪の毛には元々カールしたりする要素があるんだけど、それが髪の毛が太いときは周囲のキューティクルなんかに押さえられてまっすぐだったりする。その髪の毛が細くなっていくとカールする力の方が強くなってカールし始めてしまう」のだそうだ。
 つまり私の髪の毛は以前より細くなって来ていると言うことになってしまうのだ。やばいやばい。

 しかし、学生時代からずっとサラサラをやってきた人間としては、そのカールした髪型はポリシーに合わないのだ。と言っても気が付いたときにはウランちゃんになっていたりする。
 うむむむむむむむ、と今日も鏡に向かってドライヤーをガシガシかけて疑似サラサラヘアーにするのであった・・・・しかしドライヤーって髪の毛に悪いんだよな。
今日の読破本『唐沢なをき:ヌルゲリラ』アスペクトコミックス 
1998年5月30日(土曜日) クリエイター:星新一
 夕べ、9時台からの映画は・・・とTVをつけたらシルベスタ・スタローンの主演の作品だった。
 うむむむ、スタローンかぁ、あんまし趣味ではないなぁと思いつつも、映画を見ずに「嫌い」と言うのも短絡的な話なのでとりあえず見ることにした。
 が、やはり導入部分からあまりワクワク出来る感じではなく、最初の10分ぐらいですでに興味を失いかけていた。そんなワケで、手元にあったTVガイド雑誌をパラパラめくって、この作品に出演している俳優などと、あらすじを知ろうと思ったのだ。
 どうもスタローンと言う役者が好きでない理由に「顔に表情がない」と言う点がある。笑っていても怒っていても落ち込んでいても、なんか同じトーンの表情って気がしてしまうのだ。だからメリハリがない。
 ・・・とTVガイドの5月29日を開いた途端に、別のチャンネルで『驚き桃の木20世紀:星新一』と言うのをやっているに気が付いた。
 その次の瞬間、私は躊躇無くリモコンのスイッチを押していた。

 星新一と言う作家は私にとってかなり重要な位置を占める作家で、ある意味で怒涛の読書読み人生に入り込むキッカケになった作家だったりする。
 たしかに小学校の頃から普通の子より本を読んでいる、いわゆる内証的な子だったかもしれない。と言ってもその当時の読書傾向は「子供向け」に単純化された世界名作だったり、江戸川乱歩・ホームズシリーズ・怪盗ルパンシリーズなどだった。
 中学2年の時、クラス担任だった谷口先生が教室に自分の読んだ小説を何冊か持ってきて置いてあった。その中に星新一の本が何冊か入っていたのだ。
 その簡潔明瞭で中学生にも読みやすい文体、そして無駄を廃したストーリー、そしてあざやかなラスト。これにはかなり参りました。
 ある意味で「これなら俺でも書けそうじゃん」と、生意気な中学生なんかが言いきってしまいそうなムードを漂わせつつ、実は凄く洗練されたプロのワザと言うヤツを感じたのです。
 これを「SF」と言うカテゴリーで括るのには少し抵抗があるが、私はアニメや映画以外のSFと言う世界に足を踏み入れる事になってしまったのです。
 星新一を読み、その解説などに出てくる小松左京・筒井康隆・半村良などなどを読み始め、さらにアシモフ・クラーク・ハインラインなどなどの海外作品にも手を出し始める様になったのです。

 今回の番組は去年末に無くなった星新一の生涯を通して、その創作への情熱と苦悩を描いていたのですが、そこで星新一が自らに課したポイントがいくつかあるのを知った。
1.固有名詞を出さない
2.ベッドシーンを描かない
3.殺人シーンを描かない
などなど

 確かに星新一の作品にはそんなウェットな部分は出てこない。実にサラッとしているのだ。そして主人公はおなじみ「N氏」など。
 田舎の中学生の僕は、この洗練された都会的で未来的な無機質感に新しい世界を感じとっていた。
 私は小説を書いているワケでは無いが、その文章の中でなにかしらオチをつけなくてはいられ無いというのは、この辺がベーシックにあるからなのかも知れない。

 しかし、目標だった1001編を書いた後は、しばらくの休筆をし、そして過去の作品の細部の現代では通用しそうにない部分を書き直すという作業に取りかかっていたと言う。
 確かに、僕がはじめて読んだ時にでさえ、初期作品に出てくる細かい部分は時代とズレていた。その辺が作者としては凄く気になったのだと思う。
 古典が古典として時代と共に心中していくのではなく、どの時代にも通用する古典として星新一は未来の読者の為に修正を続けたのだと思う。
 私もとりあえず「現代用語の基礎的ではない知識」なんてものを、細々と人知れず作りはじめてから早2年半程経ってしまった(一番最初が1995年の12月15日頃)。そして、初期の作品を読み返すとすでに時代的に意味不明の物などが多数ある事に気が付いてしまったのだ。酷い物などは、書いてから2ヶ月後には既に意味不明になりかけている物もあったりする。
 そんな項目の文章を後になって読み返しても意味の分かる物に徐々に書き直していたりするのです。
 それが文章を書いて、人に読んで貰うと言う制作者の気持ちだったりする。

 ほんとうにクリエイターだったのだなぁと、私はしみじみ星新一を思い返したりするのだ。
今日の読破本『夏目房之介編:眠らせろ』福武文庫 
1998年5月31日(日曜日) 重複して買う本
 今日、古谷三敏のレモンハートと言う漫画の14巻を読んだ。
 物語の舞台は基本的にへんぴな場所にあるバー「レモンハート」となっていて、毎回酒をテーマにした話で、ほろりとさせたり、爽やかにさせたりして、実に味わい深い平和な日々が過ぎて行く漫画と言う事になっている。
 なかなか人生の深さを感じさせる内容なのだ。
 私の周囲には、こんな感じで渋く酒の飲める人がいないので、なかなか憧れの世界だったりする。
 この漫画の作者「古谷三敏」とは、かの名作『ダメオヤジ』を書いた人で、元々赤塚不二夫のアシスタント出身だったりする。
 同じく赤塚アシ出身では「つる姫じゃ〜ぁ」の土田よしこ「つりバカ日記」の北見けんいちなど(他にも何人かいる)結構の人数が出ていたりする。
 古谷三敏の名作「ダメオヤジ」は一部の人には残酷グロないじめ漫画、またある一部の人には穏やかでハートウォーミングな漫画として印象に残っていると思う。
 その理由は、連載の途中でまったく違う漫画になっているからだったりする。それは当然、作者の漫画に対しする姿勢の変化という物があったのかもしれない。

 漫画の前半は、家庭でも会社でもさえない「天野ダメ助」が徹底的にいじめられるサディスティック漫画で、この当時テレビ東京でアニメ化されている(まだ東京12チャンネル時代で、今大量にアニメを製作しているテレ東の記念すべき第1号アニメ作がこれだった)さらに三波新介主演で映画化されたりもしている。
 が、途中でダメ助の会社が倒産してから話はガラッと変わってしまうのだ。
 徐々に人々との精神的なつながりを描くほのぼの漫画になっていく。それまできつかった、奥さん、娘、息子までまったく違うキャラクターの様にやさしく接する様になっていく。
 この漫画をずっと「通して読んで見たい」と思っているのだが、この10年以上絶版のままだし、かつての単行本も前半は「曙出版」後半は「小学館」からそれぞれ単行本化されていて、通しで読むことが出来ない。
 こないだ遂に漫画文庫本で「ダメオヤジ」を発見したのだが、ビニールコーティングされて中身を見る事が出来なかったのだが、どうも後半のほのぼの漫画からのセレクション物らしいのだ。うむむむむ。

 しかし、今回読んだ「レモンハート」と言う漫画は実に困ってしまう漫画単行本なのだ。
 この漫画は、月刊誌に毎回16ページほど掲載されていて毎回13話ぐらいが収録されているのだ。つまり単行本はほぼ1年に1冊と言うことになる。でもって、話の内容と同様に、実に地味な表紙だったりする。
 おかげで本屋で見かけても新刊なのかどうなのか判らない事がある。
 「今日の読破本」を見れば判るかも知れないけれど、とにかく私は本をガンガン買っている。漫画も小説も分け隔てなく。
 だから漫画の続き物も大量に抱えている事になる。そーなると現在何巻まで出ているのかなんて把握できっこないのだ。
 だから、本屋で何気なくこれを見つけたとき「えっと・・・今何巻まで出ているんだっけ・・・」と悩む事になる。その結果「そうだよな13巻までだったよな、と言う事はここにある14巻は新刊だよな」と購入する事になるのだ。
 でもって家について読み始めて「げげ」と言う事に気がつく。
 そんなこんなで、私の家には重複した本が何冊もある。

 同じように重複して買ってしまう物に、西村京太郎の鉄道ミステリー物がある。
 とにかく大量に出版されている作品のタイトルがどれも同じように「伊豆箱根鉄道殺人事件」などと言った感じの「鉄道名」+「殺人事件」と言う物なので、覚えにくい。
 それが地元のよく知った鉄道なら、内容を含めて覚えている事もあるとおもうが、自分と関係ない土地の話だともー完璧にお手上げ状態。
 そんなこんなで、我が家には重複した本が何冊もある。
今日の読破本『古谷三敏:レモンハート14』双葉社アクションコミックス