< 杉村ぐうたら日記(1998年6月21日〜31日)

▲1998年6月21日:日曜日:ARB そして横浜銀蝿
▲1998年6月22日:月曜日:本を読む人
▲1998年6月23日:火曜日:7,999
▲1998年6月24日:水曜日:親馬鹿大爆発
▲1998年6月25日:木曜日:プラスマイナスゼロ
▲1998年6月26日:金曜日:2重買い
▲1998年6月27日:土曜日:本を読む場所
▲1998年6月28日:日曜日:日本は住みにくい国なのだ
▲1998年6月29日:月曜日:凡例について
▲1998年6月30日:火曜日:今年が半分終わった
1998年6月21日(日曜日) ARB そして横浜銀蝿
 衛星放送で、かの「ARB:アレキサンダーラグタイムバンド」の復活ライブをやっていた。翌日、かの「横浜銀蝿」の復活ライブをやっていた。
 ある意味で両者、男気を感じさせる汗くさいロックバンドであり、ある意味ではまったく正反対を向いているロックバンドと言う感じもする。
 両方のバンドとも80年代の最初からガツガツと「俺達のロックはこうだ!」とばかりに、現在主流のビジュアル系なんて言っているバンドとは比べ物にならない程のロックをやっていた。

 正確に言えば、ARBはブリティッシュな感じのシャープで芯のある『ロック』で、横浜銀蝿はアメリカンな感じの『ロックンロール』をやっていた。
 僕の中ではこの『ロック』と『ロックンロール』ってのはまったく別のジャンルで、水と油みたいな感じがしているのだが、どーやら世間ではロックと言う名前の元に一緒にしているらしい。
 そんなバンドが共に、一時だけの限定バンドじゃなく復活したと言う事に何か時代的な意味を感じてしまったりするのだ。
 80年代の初期、世間では「シラケ」などと言うのがキーワードになり「新人類」「おたく」などと後に言われる人々が表面化してきていた。しかし今思い返せば、凄く穏やかな時代だった様な気がする。内部は腐り始めていたのかもしれないが、実に穏やかだった。
 いわゆるバブル経済が絶好調に盛り上がっていく時代で、音楽業界は「メッセージなんてダサイ」と言う風潮でAORと言う耳にやさしい物が流行っていた(日本ではオメガトライブとか) その時代の中で「ARB」も「横浜銀蝿」も人気があったが、どちらかと言うとマイノリティな世界を歌っていた様な気がする。
 そして、いくら銀蝿が、かっこいいことを言おうとしても、すでに「ツッパリ」と言う物は商売としてマスコミや経済の中に取り込まれていた。

 それから15年ほどの月日が流れて、時代は激しく変わっていった。
 ARBのボーカルで、ここ数年は役者として有名になった石橋凌が復活に際して「ARBの活動を休止している間に時代はやばい方向にネジ曲がってしまった気がする。大人もバブルを引きずり金に狂い、子供達は無自覚のまま人を切り刻み、ナイフを持ち歩く事さえ正当化する。そんな時代ともう一度真剣に向かい合いたい」と宣言をしていた。
 今、すごく時代が醒めている様な気もするが、異常な就職難、異常な経済の不安定、異常な事件さえワイドショーのネタとして消化されている毎日、考えていくと激しく不安感が襲ってくる。
 音楽で世の中を変えられるか?と言う問いに対して、僕は楽観視はしていない。あのジョンレノンだって、実際の処、世の中を変える事なんて出来なかった。
 数年前の湾岸戦争の時、イギリスのBBCがジョンレノンの一連の音楽を放送禁止にしたと言う事件があった。その時に、音楽はいったい世の中に対して何を訴える事が出来るのだろうか?と考えた。

 ARBが、横浜銀蝿が、世の中を変える事が出来るとは思わない。
 だけれど、そこに属している何人かの気持ちを動かす事は出来る様な気がする。ほんのわずか、ほんのわずかづつ、理想とする世界に動いていけたらと考えている。

1998年6月22日(月曜日) 本を読む人
 実は僕は本を読むのが好きなんですよ。
 おっと、この事は他の処では言っちゃいけませんぜ。なんせ世間一般では「本を読むのが好き」って言うのは=「暗い」って事になっているらしいんで、私は世間にはその趣味は公表しない方がいいと思っているでやんす。
 とりあえず、最近は「1日1冊」なんてバカなノルマを自分に課しまして、とにかく読んでいたりします。ま、ここではあくまでも「1日1冊」としか言ってないので「漫画」に逃げる事も出来たりするワケであります。
 しかし問題は私の場合どうやら漫画を読むペースが遅いと言う事があったりします。
 よく「全46巻のドカベンを2時間ぐらいで読破したぜ!」とか言いきってしまう人がいたりしますが、私にはそれは出来なかったりします。実際の処、そのドカベンを超安値で全巻揃いを手に入れてしまった時、読破に1週間以上かかりました。
 何故だろう?と思いつつ、知人なんかが漫画を読んでいるのを脇から監察していると、サッサかサッサとページをめくってワシワシと読んでいくのです。うぬぬ、もしかしたら斜め読みか?
 私の場合、どーしても絵までじっくり見てしまうので遅いのかもしれない。
 その点、小説は絵がないからストーリーにはまると読むのが速くなる。SFやアクション物などを読んでいると速くないとストーリーのテンポが見えてこなかったりするので、必然的に速くなってしまうわけです。
 でもって、私の読書法は数冊の本を平行に読み進めていく。と言う事だったりします。
 現在も読みかけで進行中の本が5冊ほどあります。それぞれの話の切りの良いところまで来ると、しおりをハサミ込んで他の本のさらに途中の章を読み始めたりするワケです。
 いわゆる気分転換って感じで、ハードSFに疲れたから、ちょっと推理小説を読んで、それに疲れたらルポ物を読んで、と言う感じでワシワシと読んでいたりします。もちろん、面白い本に当たった時は、休憩せずに最後まで突っ走ってしまったりしますが。
 人から「同時に何冊も読んでよく混乱しないね」などと言われたりする。
 だけどさ、たとえば少年ジャンプを毎週読んでいる人が、10何本もある連載漫画を毎週10数ページづつ読んでいても混乱しないでしょ?数学の授業の次に歴史の授業やっても混乱しないでしょ?そんな感じっす。
 しかし、毎週毎月、大量の本が出版されているらしいんだけど、世間一般で本当に本を読んでいる人ってそんなにいるの?って気がしてしまうっす。周りを見渡して「読書が趣味」って言っている人っていないし・・・・(もしかしたら前述の「暗いって思われたくない」ので宣言していないのか?)
 私にとっては、小説を読むのは、漫画を読むのと同レベルだし、音楽聞くのとも同レベルだし、TVを見るのと同レベルだし、TVゲームをするのと同レベルで、特殊な事ではないのだが・・・・
 うむ、と思いつつ私はまた今日も本を読んでいくのであった。
今日の読破本 『東野圭吾:怪しい人々』光文社文庫
1998年6月23日(火曜日) 7,999
 本屋に行った。
 でもって気が付くと手には数冊の文庫本と雑誌を持ってレジにたっていた。
 うーむ、いかんいかん、なんせ部屋の掃除が終わっていないと言うのにさらに本を増やして行くという気なのか、この男は。
 なんか凄いペースで本を買っている様な気がするが、これは今に始まった事ではない。
 学生時代は金があれば「レコード」か「本」と言う選択肢の中で日々苦労をしていた。でもって、財布を握りしめながら本屋で購入する物を検討したりしていたのだ。
 親元を離れて一人暮らしをしていた東京での学生時代はとにかく貧乏で、日々の食費にも事欠く始末。だが、その貧乏暮らしの中でも金が入ると本やレコードを購入して、結局赤貧生活を続けなければいけない私がいた。
 あぁ金さえあればなぁ
 と私は思った。それから月日は流れた。ま、社会人ってやつをずっとやっているワケで、そんなに日々の生活に困らない程の給料を貰っている。が、結局、1000円しか無いときは1000円なりの本を購入して、10000円を持っている時は10000円なりの本を購入してしまう事が判った。
 うむむ、結局、それ以外の生活の部分はあいかわらず、つつましいのであった。

 そんなワケでレジに立って本を差し出し「カバーを付けますか?」などと聞かれ「いいっす」などと答えている私がいた。
 「合計2022円になります」とレジのお姉ちゃんが言う。
 この22円ってのがとにかく消費税の弊害だよなぁなどと思いつつ財布の中を覗き込む。札が10000円しかなかった。うむむ、と思いつつその一万円札と小銭で10円玉を2枚、そして1円玉を2枚、カウンターにあるトレイの上に乗せた。
 その時レジのお姉ちゃんは本を袋に入れる作業をしていた。
 僕はレジのすぐ横に置いてあった「ポケットピカチュー」なんてオモチャを手にとって見ていた。
 そうかそうか、これが例のヤツか、うぬぬぬ、そうなのか。などと意味不明の感心をしながらレジの仕事を待った。

 と、レジのお姉ちゃんが「いちまん・・・にじゅういちえんお預かりします」と答えた。
 その時僕は「にじゅういちえん?」と瞬間思ったが、聞き間違いかもしれないなと思いそのまま次のアクションを待った。
 次の瞬間「おつり7999円になります」と、僕の手には5千札と1千円札が2枚とやたらと細かい小銭がジャララと戻ってきた。
 「え・・・・・・」と思ったのだが、すでに僕の後ろに並んでいた人がレジに本を差し出し、お姉ちゃんも何事も無かった様にバーコードを読み取り始めていた。
 うぬぬぬ、と思いつつその場でワザワザ1円の為に問題を起こし作業を中断させるのも大人げないかな?と考えてしまい、あきらめる事にしたのだ。

 しかし2022円の買い物で10021円出して7999円のオツリを貰う人がどこにいるって言うんだよぉ
今日の読破本 『小林信彦:怪物がめざめる夜』新潮文庫
1998年6月24日(水曜日) 親馬鹿大爆発
 まったく二世タレントだかなんだか知らないけど、才能があるんだか判らない連中が芸能界でも幅を利かせているけれど、まったくあんなのろくな人間になりゃしない。
 芸能人の子供って事でちいさな頃から大変な事もあったとは思うけど、結局は普通の人よりいい目を見ているハズだ。それをさらに親の知名度でどーんと芸能界デビューして、あっちこっちのメディアに大御所の親が「うちの子供をよろしくお願いします」なんて顔出しているんだから、現場も使わないワケに行かなくなっちゃってさ、もう大変だよ。
 いくら大御所の子供って言ったって所詮はそこらのガキと対して変わりないんだから、どう扱って言い物か困っちゃってんの。まったく二世タレントなんて使いづらくてしょうがないよ。

 と、以前ビートたけしが上記の様な事をエッセイで書いていた。

 そんなこんなで最近ビートたけしの娘と言うことで「北野井子/しょうこ」と言う歌手がTVやCMに出ている。
 最初デビューって聞いたときに、たけしも困ってんだろうな。元々奥さんも芸人だったから血筋だろうけど。などと思っていた。
 そして娘が歌手デビューしたと言うことでインタビューされていたる時も、あいかわらずの皮肉混じりで照れながら「まったくどーしょーもねぇな」などと答えていた。
 私はてっきり、困ったもんだと思っているんだと思っていた。

 が、その娘のデビュー曲のプロモーションビデオをたけしが監督して、さらにそのプロモーションビデオにたけし自身までもが出演しているらしい。
 うむうむ、こりゃ松たか子がデビューした時に松本幸四郎がニコニコしながら「あの子の才能は凄い物がありますよ」などと親ばか全開で答えていたのと大して変わり無いなぁと思ってしまったのだ。
 ちなみに松たか子は次女で、長女も「松本紀保」と言う名前で女優やっているけどパパが褒めたと言う噂も聞かないが・・・

 そんなこんなで、毒舌な人もやっぱ身内の事に関しては鈍ってしまうのものなのか?などと思ってしまうのだが、先日の日曜の昼下がり、たけしのやっている「スーパージョッキー」と言う番組をチラと見た所、なんとゲストで北野井子が出ていた。そんでもって、たけしのすぐ横の席に並んで座っていた。
 うむむむ、なんか私は歓迎しない状況だな。
 TVの画面的にはたけしも困った顔をしていたが、出演者を決定するときにたけしの力が加わったと思うのだ。
 なんか、こんなにアットホームな人なの?って感じがしてしまうのだ。

 あんまし親を公表しないって点で、角川春樹の娘「Kei-Tee」とか、宝田明の娘「小嶋ミチル」とかの方が好感持てるぞ。
 ついでに、この日のスーパージョッキーにはたけしの娘の「北野井子」辺見まり&西郷輝彦の娘「辺見えみり」川谷拓三の息子「名前忘れた」と、後1人忘れたけど芸能人の息子が出演していた。
 さらについでに、一部で「中山エミリは中山麻里&三田村邦彦の娘」と言う噂が流れましたが、どうやら「中山麻里の姪っ子」らしいです。

 でも、もし何かの間違いで自分がそんな状況に追い込まれてしまった場合は、もてる人脈を駆使してバックアップしちゃうかもしれないっすけどね。
今日の読破本 『vow10』宝島社
1998年6月25日(木曜日) プラスマイナスゼロ
 あじーあじー、と梅雨時の蒸し暑さに私は帰り道、セブンイレブンに寄ってアイスクリームなんぞを買ったのだ。ついでに、雑誌なんかも購入して、さらについでにパンなんかも購入してしまったのであります。
 このセブンイレブンの便利で困ってしまう点はここで、たしかに夜中でも本が買えたり、なにやら日用雑貨が買えたりするって事は、たしかにありがたい。
 が、ついでに要らぬ物まで購入してしまうのだ。
 そりゃアンタの意志が弱いだけでしょ、なんて突き放された結論を出されたらぐうの音も出なかったりするのだが、結局今日も色々な物を購入してしまった。
 ついこないだなんて「ドクタースランプアラレちゃん」の人形が入っているお菓子を毎日徐々に購入したり、その前は「ドラエもん」だったし、その前は「アンパンマン」だったし・・・・結局、私は無駄な買い物を日々して、意味無く財産を無くしている大馬鹿者と言うことになってしまうのだ。
 いやはや。

 そんなワケで、そんな商品を持ってレジの前に立ったワケであります。
 で店員さんが「ここにあるカードを1枚お引き下さい」などと言って、スクラッチカードを私に指し示すのであります。
 なるほどなるほど、と思いつつ私は何も考えずに一番上にあったカードを手に取り、何も考えずにスクラッチカードを手元の10円玉でガシガシとスクラッチしていくのであります。
 が、私ってヤツは大昔からくじ運と言う物に関しては完膚無きまでに突き放された男で、何かが当たったという記憶が殆どない。たまぁぁぁにジュースの自販機で「もう1本当たり」なんてのが出て、思わず喜び勇んで無意味に一気に2本ジュースを飲み干して、お腹の方にも当たりが来てしまう様な激しく落選確実な人生を歩んできたのであった。
 が、今日はどうやら違う・・・スクラッチの銀色の下に何やら『当たり』の文字が・・・と思ったが「いやいや、ここで喜んでも何かオチがあるハズだ、現に私は今年の2月にカップラーメンの当たりでぬか喜びをしたと言う痛い経験がある(1998年2月8日〜10日の日記『
大当たりの日々』参照)ここで安易に喜んでも待っているのは奈落のオチかも知れないのだ、と私は気を引き締めながらさらにスクラッチカードをこすり、その下にある文字をしっかり読んだのだ。

 うぬ、確かに当たりとある『ハウス食品:洋食倶楽部ビーフカレー中辛』当たりと書いてある。そ・・そうなのか?
 いやいや待て待て、よく電話で「厳選成る抽選の上、杉村様にご当選致しました」などと身に覚えのない懸賞の当選の通知があって、よく話を聞くと何月何日にどこそこにある事務所に来てくれとかって話で、ノコノコと出かけていくと「この商品のモニターで、安い補償金を払ってもらって数日使っていただいた上レポートを書いていただきますと、補償金は全額バックされまして、さらに謝礼といたしまして」などと言う話を聞いた事がある、あるいは高い羽毛布団を買わされたとか、英会話テープだとか、多宝塔だとか壷だとかヒランヤのペンダントだとか、ワケの判らない物にローンを組まされた何て話を聞かされた事がある。
 いかんいかん、むやみに人を信じて喜んでは相手の思うつぼなのだ。
 と私は、気を引き締めたが店員はさほど楽しくなさそうに「えっと、このカレーが当たりましたので」などと、軽く説明をしてさっき買い物をした商品が入っている袋に一緒に入れてくれたりするのだ。

 そうか・・・夢ではないのだ、あぁカレーが当たったのだ。私がこれまで食べたことのない『ハウス食品:洋食倶楽部ビーフカレー中辛』が当たったのだ。成る程「赤ワインの深み、上質フォンのコク、1人分210g」なのだ。あぁ「上質フォン」ってのがいったいどーゆー意味なのか全然判らないのだが「上質」なのだから誰も文句が言えないだろう、いやはや幸せとはこーゆー事を言うのだな、わっははは。
 などと考えつつ私はセブンイレブンから外に出て車を止めてある場所まで歩いていった。
 いやはや幸せ幸せ・・・と思った所で「いや待てよ」と思ってしまった。
 もしかしたらこんな些細な幸せで運を使ってしまった私はもっと大きな幸せの運を逃してしまったかも知れない。いわゆる「運を使い果たした」と言う状況かもしれない。
 そーなのかも知れない、うむうむ、なんと幸せの薄い人生だったのだ、あぁ。
 と思ったのもつかの間「いや待てよ」と思った。
 幸せというのは雪崩の様に転がって転がって、徐々に大きな波になっていくのかも知れない。今日ここで起こった「カレー当たり事件」は実にささやかな話かも知れないが、これが後に語り継がれていく栄光の杉村伝説の出発点になるかも知れないのだ、こんな小さな幸せをひとつひとつ大切に積み重ねていった杉村の勝利人生の重要な1エピソードにとして将来PHP文庫で出版されるかも知れないのだ。
 うんうん、と私はささやかな幸せをかみしめて車に乗り込んだ。

 カカ・・プシュシュシュ・・・・
 何故か車のバッテリーが上がっていた・・・・どうやら運を使い果たしたらしい。(←これ本当に実話っす)
今日の読破本 『アルフレッドベスター:分解された男』創元推理文庫
1998年6月26日(金曜日) 2重買い
 中古CDを物色していた。
 しかし、私と来たら音楽に関して雑食だったりするので、店の隅から隅までずずずいと見なければ気が済まない人だったりする。
 そんな中で中古CDショップでの楽しみと言ったら、すでに一般の店では手に入らない作品を見かける事があると言う事だったりする。と言っても「これってさぁ初版でブックレットがおまけで付いているんだよ」なんて言う初版マニアではない。
 あれってのは、音楽その物を聞く楽しみじゃなく完璧に別の方向に興味がズレていると思うのだ。初版がどーしたってんだ、様は音楽が聴ければええんじゃい!と私は思ってしまう。
 しかし初版のみブックレットとか特別仕様ってのは許してもいい。
 私が許せない・・・と言うか、凄く意味不明だと思うのが「初版のみスペシャルソング収録」みたいに、その後の普及版には1曲少ないCDになると言うタイプの初版特典なのだ。
 これって、何でわざわざ録音した曲を多くの人に聞かせないで、ごく小数のマニアの為だけに密封しちゃうの?って気がする。(←このパターンは少ないが、実際にいることはいる)せっかく、この世に誕生した曲が可愛そうだって思わないのかね?

 そんな感じの初回特典マニアはほっとおく、あの辺でウシウシなんて言っているのは、所詮CDマニアで基本的に音楽を純粋に楽しんでいないって気がしちゃうのだ。
 だから、わざわざCDで再販されているレコードをこれみよがしにホレホレってのも好きではない。だってその音、そんな高い値段を出さないでも聞けるじゃん。なんて思ってしまうのだ。
 私の場合、あくまでも聞きたいが為に買う、そんな生活を続けている。

 でもって「出来ることなら多く曲を聞きたい」なんて思ってしまう私としては海外のアーティストの場合、悩んでしまう事がある。
 いわゆる『日本盤のみスペシャルトラック追加』と言う状況なのだ。
 確かに多い事は良いことだ!とか、海外のみ発売のシングルのカップリング曲を・・とかって気持ちもある。
 しかし、よーく考えて見ると10曲なりの音楽が入っているアルバムってヤツの場合、必然性があってその順番になってエンディングを迎えていたりするのだ。

 私も以前、自分で作った曲を何曲も編集してアルバム形態で知人に配った事がある。その際「1曲目はこれ、でこの曲とまったく逆のこれを2曲目に、でもって3曲目は・・・」と迷いに迷って順番を決めた。
 でラストの曲と言うのも実に大事で「スローで盛り上がる曲」を持ってくるか「アップテンポでサラッと終わる曲」を持ってくるか・・・などとかなり頭を痛めたりしたのだ。
 それはプロのアーティストだったら当然の事だと思う。僕なんか以上に悩んでいると思う。(その逆にただシングル発売した曲を並べただけのアーティストもいるけどさ)

 そんなワケで『日本盤のみスペシャルトラック追加』と言う状況は、結局その試行錯誤のアルバム順を完全に壊してしまっていると思うのだ。たぶんアーティストサイドは『日本盤のみ』と言う事を知らないハズなのだ。

 そんなこんなで話はズレたが、私は中古CD屋で好きなアーティストの見たことのないアルバムを発見した。
 そのアーティストとは、かつて80年代に『フェアグランドアトラクション』と言うバンドでボーカルを担当していた『エディ・リーダー』と言う人だった。
 とりあえずソロデビューした後もちゃんとアルバムを購入していた。

 そんなアーティストの見たこともないアルバムを手に取ったのだ。よく見ると日本版ではなく「MADE IN GERMANY」と書いてある。もしかしてあまり売れない日本では発売されずに新作は海外のみ?私は思わずおぉぉぉぉぉぉと思い即買うことにした。
 うししししと思いながら車に戻った私はCDを聞き始めた。
 「ありゃ?この曲知っている」
 その後も知っている曲が延々と流れていたのだ。
 「このCDって・・・・」と私は思っていた。が、その理由が思い浮かばないのだ。もしかしてこの見たこともないジャケットのアルバムはベスト盤なのか?と思ったがそれらしい表記はない。うむむ?と思いながら、いつしか車は家に着いていた。

 で部屋に戻り、CD棚を検索して謎が解けた。
 すべての曲を知っているのは当然だった。なんせこのCD持っているのだ。
 で、何故こんな事になったか?と言うと、なんとこのアルバムジャケットが日本盤とドイツ盤ではまったく違うのだ。うむむむむむむ、おかげで私は同じ内容の違うジャケットのアルバムを二枚持っていると言うことになってしまったのだ。
今日の読破本 『関川夏央/谷口ジロー:坊ちゃんの時代』双葉社
1998年6月27日(土曜日) 本を読む場所
 数日前の読破本で『VOW10』と言うのを書いてあるが、私の自慢はこのシリーズを第1巻から初版で買っていると言う事なのだ。などと自慢しても、こんな本の初版を誰もありがたがらないし、誉めてもくれなゐ。
 そんな事とは全然関係なくこのシリーズが好きでついつい買ってしまうのだ。
 そんなワケで、その日新刊が出たのでさっそくワシワシと読み始めた。

 最近の自分の読書パターンは、フローリングの床にクッションを一つ持ち出しゴロゴロしながら読むという、お行儀の悪い状態が多かった。
 そして今日も同じようにゴロゴロしながら読み始めた。
 このVOWは軽く読めるシリーズなのだが、小説と違って全編が山場と言う感じで疲れるのだ。読書パワーを持続するのがかなり困難な物なのだ。

 そして読んでいる最中になぜか居心地の悪さを感じたのだ。なんかが違う・・・・。
 その「何か」が何なのか不明のまま、読み続けた。

 しばらくして突然尿意を催したので、そのまま本を持ってトイレに入った。
 ・・・・・・そうか、そうだったのか。
 私はトイレの便座に座った途端にさっきの居心地の悪さの原因が判ってしまったのだ。

 実は私はこの『VOWシリーズ』をいつでも気軽に読めるようにと、トイレに全巻常備してあったのだ。そんでもってトイレに座って気が向くままに、毎回毎回読んでいた。流石に10巻+別巻14巻と言うシリーズなので、毎回毎回あきることなく読み返せたりするのだ。
 そして今回判明した事は、私は『VOW』を読むのはトイレの中、と言う条件反射が出来上がってしまっていたのだ。
 うむむ、そんなワケで早速『VOW10』はトイレ蔵書の指定席に治まったのであります。
今日の読破本 『吉田秋生:夜叉・4』小学館FC
1998年6月28日(日曜日) 日本は住みにくい国なのだ
 日本という国は1年を通して四季折々の風景があり、花鳥風月を愛でる実に風流な国なのだ。
 あぁ日本に生まれてきて良かったなぁ
 などと思ったりする私がここにいる。

 と言いつつも、この数日の不快指数100%連続乱れ打ち状態には完璧にマイってしまった。湿度が必要以上に高い上に、ムチャクチャ暑いのだ。
 何をしていても汗がじっとり、何をしていなくても汗がじっとり来てしまうのだ。簡単にTシャツがグショグショになってしまう。
 あぁぁぁぁ勘弁してくれぇぇぇと思いつつ、私はふと考えた。
 確かたった数カ月前の話だ、何をしていても手がかじかんで「あぁぁぁ寒いぃぃぃ」などと思っていた私がいたハズなのだ。うむむ、たった数カ月前の出来事なんだよな、あの冗談にも成らない寒さの日々ってのは。
 それからたった数カ月後「あぁぁぁぁ暑゙〜ぅぅぅぅぅ」と言う季節になっているのだ。
 死んでしまいそうな寒さ、死んでしまいたいような暑さ
 それが6ヶ月置きに交互にやってくるのだ、日本と言う国の場合は。これって本当に生活するのに適している国なのか?と考えてしまった。

 よく寒い国の人と暑い国の人は、完璧に自然条件に適した進化をしているという話を聞く。ロシアなどの寒い国の人々は鼻が高い。それに比べて暑い国の人々などは開放的に鼻が低く鼻の穴が前面を向いている。
 これは空気を取り入れるとき出すときなどに置いて、体温を調節するための進化らしい。
 それ以外のきっと目に見えない処でも、寒い国の人々は寒さに対して防御できるような体の構造になっているハズだし、暑い国の人々は暑さに対して防御できるような体の構造になっていると想うのだ。

 そんな事を考えたら、日本人はどーしたらいいのだ?と言う事になってしまう。
 まさか半年毎に体質が変化するって事は出来ないと思う。しかし、容赦なく季節は変わっていくのだ。

 そんなワケで日本とは実はかなり住みにくい国なのではないか?と考えてしまうのだ。

今日の読破本 『東野圭吾:犯人のいない殺人の夜』光文社文庫
1998年6月29日(月曜日) 凡例について
 仕事でバスケットボールのコーチが読むための本をやっていたりする。
 その中で色々な状況に合わせて、こっちの作戦を素早く切り換えていくと言う事が、実に事細かく説明されたりしている。
 なるほどなるほど、と大昔の中学時代に何かの気の迷いでちょっとの間バスケット部なんて処にいた事のある私は、それなりに楽しみながら編集作業をしていた。
 もちろん、作戦を読者に明確に伝えるためには文章だけでなく、図版も多数使用されている。その図版は全部私がマックのイラストレーターを使って書いたものだったりする。そこでその図で味方は○に数字で表し、敵はXに数字で表現したりしていた。あるいはドリブルは点線、パスは・・・・と色々な動作を簡潔に図にした物をたくさん作図した。
 でもって、その図に表してある記号の意味を目次の処に表記する事になった。

 そこのコーナーのタイトルは【凡例】と書かれていた。
 当然この漢字を「はんれい」と読むのは知っている。知っているのだが、どこかで「ぼんれい」でも正しいと言う事を書いてあるのを読んだことがあったのだ。
 で、打ち合わせの際に、何故か一般的ではない「ぼんれい」と読んでしまったのだ。
 と、その時の打ち合わせ相手の「けっ」と言う表情を私は見逃さなかった。
 ちきしょーバカにしやがってぇぇぇぇぇと、別に本当に露骨にバカにされたワケではないのだが、そんな憤りを感じてしまったのだ。
 たしか「ぼんれい」でもオッケーだと思ったんだけど・・・・と、突然自信が無くなってしまった。もしかしたら私の勝手な思い込みなのかも知れない。勝手に思い込みをさせたら世界一と言われている私の事だ、その可能性は捨てがたい。
 なんか段々と恥ずかしくなってきてしまったのだ。

 打ち合わせが終わって自分の席に戻ってきて、さっそく手持ちの辞書で「ぼんれい」を引いてみる。
 無い・・・・・。
 って事は勝手に言い間違って、それに対して当然の様に「けっ」と言う表情をした人を、逆恨みをしてしまった事になるのだ。あぁぁなんてヤツだオレってヤツは。
 ついでに「はんれい」でも引いてみた。

【凡例】その本の方針、書中の約束事など。また書物の初めにそれらを示した物。

 とある、うむむ、意味は知っている、その通りなのだ。うむむむ、私はただの日本語を知らない人だったのか?
 と、その【凡例】に注釈がついているに気が付いた。

▼当用漢字表の制約で「ぼんれい」としたことがある。

 と書かれているのだ。つまり、一般的には「はんれい」なのだが、ある時期、当用漢字の中で「凡」を一般的に「はん」と読まない為に「ぼんれい」と言う読み方も正しいと教えた事があったらしいのだ。
 うむむむ、なんとなく自分が両方の読み方を覚えていたって言う謎が解けた様な気がするのだ。
 しかし、世間一般で私は「凡例をぼんれいと間違えて読んだ男」と言う事になってしまったのであります。

今日の読破本 『都築道夫:25階の窓』新潮文庫
1998年6月30日(火曜日) 今年が半分終わった
 とりあえず6月の最終日って事で、今年もカッチリ半分終わってしまった。
 さてはてこの半年はどーだった?
 自分としては自分なりに色々動き廻ったと思うけど、イマイチその先につながる物が見えて来ないかな?と言う感じだったりする。
 まったく前進をしていないワケではないけれど、思ったより先に進めない。

 とりあえず会社員を続けているが、別に人生目標が『日本一のサラリーマン』ではない。それ以外の普通の人は余暇とか娯楽と言う部分で自分は思いっきり生きていきたいと思っているので、なかなか周囲には理解されないのかも知れない。
 その目標の先にあるのは金でもないし、名誉でもないし、名声でもなかったりする。結局は自分がやりたい事を充分できる環境に自分をおきたいと言う事だったりするのだ。その為に地味な努力を重ねている。
 努力って言うと凄く仰々しいけど、日常的な努力だったりするんで、そんなに汗をかいて頑張る!ってのではない。毎日、ただダラダラと文章を書き綴る事が自分なりの努力だったりするのだ。周りから見たら下らないヨタ話を書いているだけの努力。だけど頑張っているのよ。

 ま、地道に毎日毎日少しづつ進んで行きたいと思ったりするのであります。
今日の読破本 『雁屋哲/花咲アキラ:美味しんぼ66』小学館
       『浦沢直樹:Happy ! 19』小学館