< 杉村ぐうたら日記(1998年8月1日〜10日)

▲1998年8月1日:土曜日:ハートブレイカー
▲1998年8月2日:日曜日:秘密のおじさん
▲1998年8月3日:月曜日:電話マークは電話のマーク
▲1998年8月4日:火曜日:台風よ来るのだ!
▲1998年8月5日:水曜日:8時間
▲1998年8月6日:木曜日:ブラボー!ノストラダムス
▲1998年8月7日:金曜日:数の理論で商業主義
▲1998年8月8日:土曜日:毒を食らわば
▲1998年8月9日:日曜日:両B面
▲1998年8月10日:月曜日:セミの事情
1998年8月1日(土曜日) ハートブレイカー
 知人が激しく失恋をした。
 数年付き合ってきた彼女と色々複雑な事情があって、別れてしまうと言う結論に達した。
 僕はこの話に関して完全なる部外者で、その話の全てを知り得ないのだが、このまだ20代前半の知人の気持ちも判らないでも無かった。
 いわゆる、壊れはじめた関係を何とかしようと最後の最後までジタバタと悪あがきを続けていると言う事を、噂として聞いた。
 まったくもって「ジタバッタするなよ世紀末が来るぜ」と言う感じなのだ。
 その知人には残酷な様だが、壊れはじめた恋愛の修復はかなり難しい。ほとんど不可能なのではないか?と思ってしまうのだ。この恋愛に限った事でなく、壊れ始めた関係と言うものは結構モロイ物だったりする。
 特に女性ってヤツは(←女性蔑視ではないっす)実にクールで、嫌いとか興味ないとなったら一瞬のうちに醒めてしまったりするものなのだ。私の経験上なんだけどサ。
 それに引き替え男ってのはみっとも無いくらいにずるずる引きずったりする。ほんと私の経験上なんだけどサ。

 男と女では、やっぱ女の方が弱くて・・・と思ってしまうが、本当の事を言うとこーゆー状況でジタバタするのは圧倒的多数で男のほうだったりすると言う。
 ま、壊れて離れてしまった彼女を引き留めようと男の方が激しくジタバタしたり、あるいは情けない姿を見せて同情引こうとしちゃったりするパターンってのが多いらしい。
 けれど、実はこれってのが逆効果で、別れようと決意した女性の目に(すでに醒めている)そんな姿を見せたら、余計に「やっぱダメだわ、この人」って感じになってしまうのだ。
 が、恋に正しい判断力が欠如した未練男にはその辺の冷静な計算ってヤツが見えなくなってしまっていたりするのだ。どんどんドツボにハマッテ、泥沼に落ちていくのだ。
 ま、若いって言うのはまっしぐらなのだなぁ。

 よくダメな男ってヤツは母性本能を刺激するなんて事を言ったりする人もいるが、そんなのマレで多くの場合が「ダメなヤツはダメだわ」と言う感じかもしれない。
 男と女が最終的にくっつくと言う時、そこには結婚→出産→子育てと言う部分が見えてきたりする。そーなると「ダメな男」より「生命力のある男」の方が有利になってしまう。その辺を女性も見たりするのではないかな?なんて思ってしまう。
 すごく古い考え方で田嶋陽子先生には怒られそうだが、女性が男性を見るときに「この人についていってもいいか?」と言う部分で判断したり、子供を作る場合「より生命力のある遺伝子を」などと考えてしまう様な気がするのだ。

 結局、難しいが無理をしてでも地面に足を踏ん張って生きていくしか道は無いのかもしれない。
 並大抵の事ではないけど、男ってヤツは踏ん張るべき時にはしっかり踏ん張らないと、何をやっても上手くいかなかったり、自分の責任を回避してしまう様になってしまう気がするのだ。
 とりあえず、男は他人に弱味をみせちゃいけないと言う事なのだ。
 ちょっと今回はシリアスな事を言ったりする。
1998年8月2日(日曜日) 秘密のおじさん
 休日、友人と一緒にちょっと近所のデパートへ行った。
 でもって、上の階にある軽食コーナーにたどり着いた。基本的にこれといった目的もなくここへ来てしまい、これといって購入したい物もなかったので「とりあえず何か食べて行こうか」と言う事になったのだ。
 ここの軽食コーナーと言うのが激しく民主主義哲学と社会主義哲学と共産主義哲学が混沌とない交ぜになった恐ろしくも、赤の大人民多数決広場と言う場所だったりする。
 いぜん来たときは、お気軽なファミリー向けラーメン&ジュース&ソフトクリームを食べさせる「買い物の息抜き」なアットホームな場所だったハズなのだが、気を許している内にその一角に同じ様なファミリー向けラーメン&ジュース&ソフトクリーム店が4件もひしめき合う軽食銀座と言う感じになっていた。
 どっちを見ても同じ様なメニューが立ち並ぶカウンター。しかしどれもこれも違う店で、それぞれがハンで押したような同じ笑顔で客を出迎えつつ、その心の中では「おらおらこっち来こんかい!」と言う熾烈なバトルが繰り広げられていたりするのだ。
 そのカウンターにぐるりと取り囲まれる様に客が食べる為のテーブルなどが配置されている。
 しかし、こんだけ店が集まっていると客を取り合って難しい事になってしまうのではないか?と言う恐れもあるが、逆にあそこにいけばどこかが空いているハズと、客がワンサカワンサカイェ〜イイェ〜イと言うレナウン娘状態で集っていたのだ。(←勢いだけで書いているので意味不明)
 とりあえず僕と友人は少し前に別の場所で食事を済ませていたりするので、冷たい物をと言うことでソフトクリームを購入した。
 そのソフトクリームと言うヤツが、多数競争原理に基づき予想以上に大きかったのだが、ハッキリ言って休日の昼下がり、ファミリーやカップルで賑わうこのような場所で大の大人しかもムサイ男二名がアイスクリームを食べている図は様にならないのであった。
 いやはや、なんともと言う感じなのだ。

 そんなこんなで、ボーっと客の流れを見ながらアイスクリームを食べている時に「ふと」目に止まった人物がいた。私ら男二人より激しく浮きまくっている人物がいたのだ。
 ファミリー向けの大きなテーブルに、赤の他人ファミリーと相席状態で座り必死にラーメン定食(サラダ付き)を食べているやや頭部の寂しくなったおじさん一名。なぜ、この休日の昼下がりたった1人でこんな処で食事を・・・と思ってしまったのだ。
 世間的にいったら別に不審人物ではないのだが、私のアンテナはこのおじさんを捉えてしまった。
 おじさんが1人でデパートに買い物に来て悪いと言う事ではないが、何か場違いなオーラを感じてしまったのだ。
 もしかしてワケあってこのような場にいるのか?と思いを巡らせてしまった。

 私の暇つぶし的趣味に「人間観察」と言う物があったりするのだが、これは偶然目に触れた人の人生を勝手に想像してドラマを作り上げてしまうと言う物なのだ。
 家族と一緒に来たのだが、奥さんの買い物に付き合うのに疲れて、ここで待ち合わせる事にした・・・いや、だとしたらラーメン定食を1人で食べたりはしないだろう。
 では、家族と一緒に来たのだが食事の方向性が合わず妻と息子は別の処で・・・いや、ここで食事が出来る場所はここ1つだけだ。
 と言う事は、最初から1人で来たという事になる。だが手や足元にこれと言って購入した物を持っていない。
 しかし、この手のオジサンが購入する物も決めずにフラフラとウィンドゥショッピング状態でデパートに来るか?と考えた。ま、その手の事も無いとは言いきれない。
 だが、この一心不乱にラーメン&ギョーザ&サラダをかき込む姿を見ていると純粋に「食べるために来た」と言う考え方もアリじゃないか?と思わせる物があった。
 うむむむ。
 もしかしたら、このデパートの店員?とか一瞬思ったが、どーみても休日のお父さん的な気を抜いた服装をしている。
 と見ると、腰には携帯電話を・・・・確かに携帯電話なんて物はそんなに特筆すべき物ではないのかも知れないが・・・・。
 そんな風にじっと熱い視線を送られているとは知らないオジサンは、ラーメンの汁をごくごくごくごくごくごくごくと完璧に飲み干していた。
 おぉこれはラーメン喰いのプロなのか?と思った次の瞬間すたっと立ち上がった。その時、まったく無駄のない仕草でドンブリなどを乗せたトレイを手にしていた。そして、間髪置かずに行動を開始した。おじさんはカウンター横の「セルフサービス返却口」へトレイを何ンの躊躇もなく運んでいくではないか。
 うむむむ、この場に慣れている。いわゆる一見(イチゲン)さんではないと言う感じなのだ。オヌシ出来るな!と言う感じなのだ。
 と思っていると次の瞬間、オジサンは素早い仕草でカウンター横に置いてある赤い容器を手に取り目に止まらぬ速さでシュタッと中から爪楊枝を振り出したのだ。
 おぉぉあんな処に爪楊枝が常備されているとは・・・・、しかもあの爪楊枝の振り出し方はこの道20年のベテランと言う感じなのだ。
 そんな驚きとは裏腹にオジサンは、口に楊子を刺したまま悠然と子供服売場の方へ消えていった。
 プロだ・・・・・。
 あの無駄のない一連の動作はプロの仕業としか言いようがない。
 あれだけ素早く鋭く行動していながら、場の空気を一切乱していない。周囲の人にそこに人が居た事や、動いていた事さえも気付かれない、その姿は虚蝉(ウツセミ)などと呼ばれる忍術の極意なのではないか??????
 あのオジサンの正体は・・・補導員なのか?いやCIAか?FBIか?うぬぬぬ、怪しいのだ!

 などとアイスクリームを片手に、相手に気付かれないようにと無意味に鋭い横目でその姿を追いかけている私の方がよっぽど怪しかったりする夏の日の午後だった。
1998年8月3日(月曜日) 電話マークは電話のマーク
 世の中は激しく文明的に変わっていると思ってしまう。
 なんせ、世界中のどこにいたって宇宙空間に浮かぶインテルサットを使用して携帯電話が掛けられるようになったりすると言う。
 先日椎名誠氏の本を読んでいたら、自宅で仕事をしているシーナ氏の処へエベレストからインテルサット経由で電話が掛かって来たとか、無人島で台風に遭遇してあわや!と言う時に慌てず騒がず携帯電話で助けを呼んだなどという記述が出てきた。
 うむむ、世の中だんだんと便利になって大冒険さえ実にあっけなくイベントとして片づけられてしまうのかもしれないのだ。
 携帯電話も当たり前になって持っていない方がおかしいとまでされそうな勢いだったりする。
 ひと昔前までは「携帯電話はステイタス」だったり「これみよがし」だったりしていたのが、今や常識って事になってしまったのだ。もう「腕時計電話」なんかも出て来そうで、完璧に21世紀はSFだなぁと言う感じになってしまっている。
 私はいわゆる「電話好きじゃない」と昔から言っている人で、さらに携帯電話って格好悪いよねと思っている人だったりする。あの街のいたる処で場所を選ばず無神経に大声で喚き散らす人々、凄ぇ格好悪いと思う。
 あくまでもこれは自分の美意識の中の問題なので、世間一般の反応はどーゆー物なのかは判らない。

 ただ単に自分が古い人間で新しい現象に反応し切れていないと言う事なのかも知れない。
 よく山間の風景を見て「あぁ自然っていいなぁ」などと思ってしまう時、そこに掛かっている吊り橋や古い民家なども含めて「自然」と認識していたりする。
 ハッキリ言って、それらの人造物は自然ではないし、きっと作られた時は「自然を破壊する元凶」だったのに違いない。
 だけど僕なんかの意識の中でそれをも自然と認識しちゃっていたりするのだ。自然に溶け込んだ正義の造形物と感じているわけだったりする。
 だから「携帯電話で話すのは当然」と認識しちゃっている人の中では、僕の「携帯電話って格好悪いよね」と言う感覚はまったくもって理解出来ない事なんだと思う。
 当たり前の風景だったりする。

 そんなワケで私は頑固一徹、いまだに携帯電話を持っていない。
 みわたす友人の中で携帯電話を持っていないのは・・・自分だけかも知れない。
 ハッキシ言って周囲の人々から「持ちなさい」「持て」「持ちやがれ」などと言われ、日々脅迫に耐えている様な感じなのだが、さしあたって生活に不便さを感じていないので持っていない。
 周囲の人にとっては、さしあたって不便なのかも知れないが、私は自由にそこいらを歩き回るのが好きなのだ。休日に簡単に捕まるなんてバカらしいのだ。と思っている。
 とかなんとか言いつつ「そろそろかな」なんて事も思っていたりする。うむむ、と言うがっけぷち状態だったりする。

 そんな事とは関係なく、先日ふと思ってしまった事がある。
 いわゆる食べ物店ガイドみたいな本があって、そこのラストに店の住所と電話番号が書かれていた。
 その電話番号の数字の前に「電話番号でっせ」と言う意味で、文字と同じサイズの電話マークが書かれていた。専門的に言えばマックの書体で「Pifont Sym」と言うヤツだと思う。
 そのマークってヤツが昔ながらの丸いダイヤル式の電話を図案化した物だったのだ。
 しかし、自分の記憶を引きずり回してみても、この手のダイヤル式電話と言うヤツを最後に見たのはいつだったかな?と言う感じなのだ。うむうむうむむうむむむむ・・・。
 つまりヘタすると、若い世代にとってはこのマークは意味不明。判ったとしてもワザとアンティークな電話のマークを使っているとしか思われていないんじゃないか?と言う事なのだ。
 時代は激しく動いている。
1998年8月4日(火曜日) 台風よ来るのだ!
 今年は異常に異常な程に台風が発生しない。
 なんせ、現在沖縄のはるか南に発生した新しい台風が「台風2号」だと言う事になっている。8月になってまだ「2号」ってのは、かなり少ないって感じだと思う。
 普通だったら、6月の終わり頃に小さな「台風1号」なんてのが発生して、7月の上旬から中旬にかけて、どどーんと大きなヤツがやってくると言うのが日本ならではの風物詩って気もするのだが。
 ま、いつも台風で激しい被害にあっていたりする九州なんかの人達にとってみたら、無いにこした事はない。って事なのかもしれない。

 が、台風が来ないお陰で、どーも天気がスッキリしない様な気がするのだ。
 雨や風をまきちらす台風と、スッキリした天気というのは相反する様な感じもしちゃうのだが、台風が激しくびゅわんびゅわんと風やら雨やらをまき散らして通過した後は、湿気を含めて雨雲なんかも全部吹き飛んでいる爽やかな天気が訪れるのだ。
 そんな事から、最近の異常とも思える湿度の高さにダメージを受けている私としては、ここいらで一発でかい台風を・・・などと思ってしまうのだ。

 しかし台風と言うとイメージとして、玄関やら窓やらに×の形で木を打ちつけて・・・・と言うのを、漫画などで昔はよく見た様な気がする。
 現実問題として、そんな事をしている家なんて一回もみた事がないのだが、台風が来る!じゃ、準備しなくちゃ!と言う状況を与えられた場合それを思い出してしまう。
 果たして、磯野波平はいまでもそんな事をやっているのか?
 そんでもっておきまりの様に、玄関まで打ち付けてしまい「入れてくれぇぇぇ」ってのは、季節の風物詩なのかも知れない。

 子供の頃、昼間に台風が来ると校内放送で「台風が接近していますので、授業を午前中で切り上げて、集団下校にします」などと言う事になったりした。
 私の通っていた小学校は、その昔昔、伊豆を襲った大型の狩野川台風の時に水が浸かっただとか、講堂に流れてきた水死体を安置しただとか、色々な話があったが、帰り道の何カ所かがすぐ浸水してしまうと言うのは誰でも知っていた。
 特に、僕の住んでいた処はいわゆる盆地になっていて、冷静に地理的に見たら川が一本流れていて、それにあわせて両側の山が削れてできた地形と言う事になるのかも知れなかった。
 今ではそんな事は無くなったが、僕が子供だった頃はちょっとした雨型台風が来る度にまいどまいど水が浸いていた。それは完璧に年に2度程の行事と言う感じだったのだ。
 台風と言うとその程度の記憶だけで、これと言って大事故とかの悲惨な経験がまったく無い為に、凄く不謹慎ながら今でも「台風接近」と聞くと少しワクワクしてしまったりする。
 なんかワケが判らないけどイベントと言う感じがしてしまうのだ。
 そんでもって、何故か家族が一つの部屋に集まってTVの台風情報なんかを見ながら、色々な話をするという感じだったのだ。
 ついでに言ってしまうと、やはり台風は夜中に通過して欲しいと言う事だったりする。
 なんか昼間に通過されると、意味もなく「損した」と言う感じになってしまう。やっぱ台風は夜だよなぁなどと思ったりする。
 でもって台風情報を見ながら「明け方には抜けるらしいよ」などと言ったりするのだ。
 雨戸なんかが風でガタガタ震え、時折裏の方でザザザなどと音がして「どっかの木が折れて吹き飛ばされたかな」などと誰が言い、遠くから風でバケツが転がる音がしたりする。
 遠くで消防団の車がサイレンを鳴らしながら走っている音がする。
 あぁなんかイベントだよなぁ
 さらに不謹慎ついでに言うと、停電ってのも台風に欠かせないアトラクションだと思ったりするのだ。あわててマッチを探してロウソクを取り出して・・・・と、しばらくすると電気が戻って来たりする。
 ある種、幸福な子供時代の記憶と重なっているのかもしれないが、そんな感想を持っていたりする。
1998年8月5日(水曜日) 8時間
 朝、出かける時に付けっぱなしにしてあったTVの中で、芸能ニュースのダイジェストをやっていた。
 で、その中で「あの広末涼子初のロマンス発覚!」みたいなのをやっていた。
 ほぉほぉそーかね、色づいたかね、と別段ファンでもない私はいたって気楽にその他大勢のニュースと同様に受け流した。
 が、彼女を支持しているメインの層、いわゆる中高校生辺りの、いわゆるドーテーな諸君は大いなるショックを受けて「ががががががががががびーーーーーーーん」とか思っているのかも知れない。うむうむ、そんな風にショックを受けてその度に大人になっていくのだぞ。
 しかも、その話題と言うのが、相手の名前忘れたがモデルをしているとか言う男のマンションで8時間もってな感じだったからドーテー中高校生はさぁ大変てな事だと思う。
 「はっ八時間・・・・・?????」
 その8時間の間にマンションの中で「あんな事」や「こんな事」が行われていたのではないかなどと考え出すと、居ても立ってもいられなくなり、思わず憤慨しつつ「でも・・・涼子ちゃんがあんな事を」などと考えだすとムラムラと青春の息吹が奮起しちゃったりして、くそぉぉぉなんて言う怒りを別の代償行為で済ませたりしつつ、その後は異常な程に落ち込んでみたり「いや・・涼子ちゃんはそんな事をする子じゃない」などと、意味もなく弁解してみたり「しかし、相手の男がその気だったら、涼子ちゃんにその気が無くても・・・」などと、またしても精神を荒ぶらせて「うがぁぁぁぁ」と代償行為の第2ラウンドに突入していったりしちゃったりするのかも知れない。
 きっと、今頃は憤慨する力も残っていない程カラカラにひからびているかも知れない。

 そーかそーか、などと私は思ったりする。
 しかし「今年一年は大学受験の為に仕事をセーブしまぁす」などと言っていた様な気もするが、歌はちゃんとリリースしているし、連続ドラマにも出演しているし、舞台もやるらしいし、早稲田大学に立て看板を立てたりするし(←これは広末涼子の仕事じゃないか)、なんか「どこがセーブだっちゅーねん。と言う状況なのだ。
 さらに、恋人発覚っすか、うむうむ。
 しかし午後の2時(昼間っす)から8時間、相手のマンションで・・・って、それをスクープした人の事を考えると「世の中にはバカで暇な人もいるんだなぁ」とか思ってしまうのだ。
 いわゆるストーカーって犯罪が大騒ぎされているけど、あの辺の自分の趣味でやっている方がまだましで(ましではないけどさ)、まったくのお仕事として8時間もマンションの前でぼーっと待っているのって、その神経がよー判らないっす。

 ある意味で「大スクープ」なのかも知れないけど、それが判ったからって「で、それがどーしたの?」って気がしてしまうんだな。
1998年8月6日(木曜日) ブラボー!ノストラダムス
 かの「トンデモ学会」と言う、世の中に多く出回っているオカルト系を中心としたバカ本をこれでいいのだ〜ぁとばかりに切りまくっている団体があるのだが、それの新刊が出た。
 その名も、あと一年の賞味期限『トンデモ・ノストラダムス本の世界』と言うヤツなのだ。
 1972年あたりから、かれこれ四半世紀に渡って世界を騒がせ、三流怪しげ出版社を潤わさせ続けている例のフランスのトンチキに関しての本を、これでもかこれでもかと集めて、これでもかこれでもかと切りまくっている。
 ノストラダムス本って今まで純粋な見方ではなく「お笑い本」として興味あったけど、本屋で見る度に「これを笑い飛ばすって理由で買いたいけれど、もしこんな本をレジに持っていって『こんなバカな話をいまだに信じているバカな人』って思われたらどーしよう」と言う、考えすぎ回路が作動してしまってついつい購入できずにいた。
 しかし、この『トンデモ・ノストラダムス本の世界』を読んで、何故今まで読まなかったのだ!と激しく後悔してしまったほどに面白そうなのだ。
 世の中には実に変な人が多いと言うことが判った。

 中には別の人が体験したとして書いている本を読んでいる内に「そういえば、この時わたしも同行したのだ」と思い出しちゃった人もいたりする。そこで宇宙の真実を見てしまったのだ、あぁそうだったそうだった、などと凄い記憶を今まで忘れて居た人もいる。
 しかしこれってただの「他人の話を聞いていて、いつの間にか自分の体験だと記憶違いをしてしまう」と言う精神病じゃないの? つい先日雑誌でも書いてあった「メモリーメーカー」とかって言うヤツっぽいなぁ。
 あとはノストラダムスがセザールと言う人物に宛てた謎の多い手紙を解読して(セザールとはノストラダムスの息子の名前だが、多くの研究者はそれ以外にセザールがいたのではと考えている)突然「あっセザールとは私の事だ」と思ってしまった人とか・・・・・。
 はたまた、色々研究していく内に「な〜ぁんだ、私がノストラダムスの生まれ変わりだったのだ」などと思い込んでしまう人やら・・・・・。
 あるいは例の宗教家は、自分がイタコになってノストラダムスの霊を降ろして来たりする。でもってかの有名な「1999年7の月」に関する記述で「今、私の中で解明している全てを話そう」などと言い出したりすると言うのだ。おいおい、解明って・・・・その難解な謎を含ませた詩を書いた本人じゃねぇのか?

 などなど・・・・・。
 はっきり言って「病気な人のカタログ」って感じ。

 しかし、騒ぎの元になった五島勉って人は凄いなぁ、なんせ衝撃作品だった最初の単行本の時に、まだそれほど日本では知られておらず研究所もあんまし無かった為にノストラダムスの詩と言って、まったく自分で創作した詩をまぎれこませて、あたかも占いが当たったかの様に書いちゃっていたらしい。
 まさか、その後大ブームになってノストラダムスが書いた詩が全て訳されて本になるなんて思っていなかったんだろうなぁ。
 でもって続巻であわてて、ノストラダムスには封印されて公に発表されていない詩も多くあるみたいな事を言い出しちゃって、世間を煙に巻いていたりするんだもんなぁ。

 しかし、多くのノストラダムス研究者(と言うか勝手にノストラダム関連本を出している人たち)が、原文であるフランス語を理解できない、純粋日本人だと言うのが凄いっす。
 だからと言って、そこに書かれているフランス語の単語をバラバラにして並べ替えて(アナグラム)別の単語にして、さらにソレをローマ字読みで日本語として強引に読んでしまうと言う、かなり強力な反論するのもばからしいテクニックを駆使して解析する人もいる。
 たとえフランス語が判ったとしても、ノストラダムスって日本で言ったら室町時代の人だから、その文章は思いっきり古くて現代フランス語では理解できないらしい。
 凄いぜみんな。
 たとえばフランス人が普通に大学で現代日本語を勉強して、仏日辞書を片手に室町時代に書かれた短歌なんかを解読している様なものらしいのだ。
 私は生まれてこのかたずっと日本に育ち、日本語を操り、学生時代にそこそこ古典なんかも勉強したけど、昔の短歌を理解しきれるか自信ないっす。
 それなのに〜あぁそれなのに〜ぃ、みんな凄いっす。
 他の人の訳した文を否定して「私こそが正しい!」などと言いきっていらっしゃる。

 もっとも、多くの人がそれ以前に出版されたノストラダムス本を参考にしてそこで訳されている文章を自分なりに解釈して、さらに自分なりの訳を加えていると言うのが現実らしい。
 おかげで、伝言ゲームのようにどんどん訳がズレていく。
 「大きな国」と言う訳を読んだとある人が、大予言なんだからもっと物々しく書かなくちゃね、と「帝国」と言う訳にしたとする。
 それを見た次の人が「帝国」って言うのは当然「大日本帝国」の事だよなと考え「私の解析によるとこの詩は日本の事を歌っているのだ」と言う結論に達してしまうのだ。
 みんな凄い凄い。

1998年8月7日(金曜日) 数の理論で商業主義
 ここの処、年々客足が落ちていたと言う。
 でもって「どーすれば客を多く呼べるのか?」と考えた末に「そーだ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのジャニーズ事務所のパワーを借りよう」と言うことになったのだと思う。
 いわゆる今年の夏の高校野球・甲子園大会のオープニングイベントとしてジャニーズ事務所の一番売り出し中のジャニーズJrのミニコンサートを開会式の前に行うと言う事になった。
 でもって、ここの処落ち込んでいた客足がどどーんと盛り返して5万人を軽く越えてしまったらしいのだ。
 きっと主宰者側は「やったぜぇこれでイベントとして大成功だ」などと思ったのかも知れない。
 しかし、何かズレている様な気がする。
 入場者数が少ないからどーのこーのって言うのは、高校野球とはまったく関係ないんじゃないの?
 選手側には「高校生らしく、爽やかで全力をぶつけた試合を」などと言ったりする反対側でこーゆー事をやったりするってのは、どう見ても「商業主義」としか思えないんだけどさ。

 でも笑ってしまったのは、オープニングイベントの際はジャニーズJrのコンサートを見たい!っていう熱狂的なファンが、徹夜をしたり始発で駆けつけたりして、大行列を作ったりして、警備員も普段の何倍だか増やしたりして、押し合いへし合いの大混乱で客席は完全に満員状態だったらしいのだが、そのコンサートが終わって、開会式の途中でわさわさと客席がうごめき、開会式直後に始まった第一試合の時には、客数は半分ぐらいに減っていたと言う。
 結局そんなモンだよ。
 おかげで、純粋に開会式を見たいと思っていた人で見れなかった人もいるんだろうなぁと考えると、思いっきり大会主宰者側のバカな暴走って気がしちゃうのだ。

 この数がいっぱい入ったから大成功って考え方って、もうばからしいから辞めた方がいいと思うんだけど。
 純粋にその世界が好きな人を大事にした方がいいと思うんだけど・・・・。
 なんか逆に、純粋に高校野球が好きだって言っている人の気持ちを引かせるだけの行為って気がしちゃう。
 最終的には本編の試合を純粋に楽しめて盛り上がれる状態って言うのが重要だと思うのだ。

 ここ数年、高校野球がジリジリと盛り下がって来ているのは、当然サッカー人気と言う物もあるだろうし、高校野球以外に娯楽が増えたって事にも起因していると思う。
 そんな事とは関係ないと思うんだけどなぁ高校野球って。
 あくまでも、高校生の野球部が日頃鍛えた技を競い合って、その中で一番強いチームを決定すると言う、いたって単純で純粋な物だと思うんだけど、何でそこで「最近、客の入りが悪い」とか「TVの視聴率が悪い」なんて事を気にしちゃうんだろ?
1998年8月8日(土曜日) 毒を食らわば
 朝かなり早い時間に目が覚めた。
 でもって、天気はそこそこ良かった。
 私は思わず「うむむ」とうなってしまいましたね。
 実は数日前、朝食の際に母親と「今度の休みの時、垣根を剪定してよ(切りそろえる)、もうお盆も直前だから」と言われたのだ。が、私もそれほどヒマではない、休みの日にはアレしてコレして、とそれなりにスケジュールを詰め込んでいたりするので、簡単に了解する訳にもいかなかったりする。
 が、結局は垣根を刈らなくてはいけないので「じゃ土曜日の朝早く起きれて、しかも天気が雨じゃなかったらやるよ」などと約束をしてしまったのだ。
 そして、その土曜日。約束通りに朝早く起きてしまい、しかも天気はいい・・・・うむむ、まだ私が目を覚ましたと言う事は階下の母親には知られてはいない・・・・。
 が、実に損な性格なのだが、その辺はなぜか律儀に出来ている私は、ボサボサの頭をかきむしりながら階段を下りていったりするのだ。
 なんと時計は5時20分。
 実に健康的というか、ただの睡眠時間の短いおじいちゃんと言う状態なのか、とりあえず垣根を刈り始めた。

 まったくもって単純作業の連続なのでこれと言って特筆すべき事項はない。
 頭の中は、垣根刈りとはまったく別の事を考えながら作業は続いていた。
 こんな風な、ある種の単純作業というのが嫌いではない。なぜなら、その間別の事を考えていろいろな発想が出来たりするからなのだ。
 と、垣根の中に突然種類の違うツル性の植物が混ざっていた。さらにコイツには表面にビッシリ細かいトゲがあったのだ。
 「あちっ」
 なにげにさわってしまった私は、思わず手を引っ込めた。
 うむむ、弱い植物は弱い植物なりに自衛手段として表面にトゲトゲを作ったりするのだな。そして、鳥や虫なんかに食べられるのを防いだりするのだな。あぁささやかな名も無き植物もこうしてけなげに生きているのだ。などと、自然の偉大さにワケもなく感動したりする。
 実際の事を言えば、名が無いわけでなく私が知らないだけだろうし、虫はトゲがあったって食べたりする。
 でも、それなりの自己防衛という事になっている。
 そーゆー防衛がさらにエスカレートすると、植物の中に「毒」を発生させたりする様になるのだな。
 と、思った時、なにか変な気がした。
 トゲなんかの場合、食べようと近づいてきた物に痛みを与え「食べにくいっすよ」と知らせ、退却させる。これは防衛だと思う。 だが、食べられた後、その対象が死ぬと言う強力な毒の場合、自己防衛にはならないのではないか? と思ってしまったのだ。なんせ現に、すでに食べられてしまったワケなのだから。
 たとえばこれが、苦いとか、あるいは体がしびれる、などの現象を起こすって場合は、対象になった虫や鳥や動物は「あの植物はあぶないから食べない方がいい」と警戒記憶がインプットされると思う。その情報を、なにかしらのコミュニケーションで仲間に、そしてある種の遺伝私的な情報で子孫に「食べちゃだめ」と言うことが伝わったりする。
 そーなれば、食べられてしまった植物も本望だと思うのだ。自分は死んでも、仲間の命を救った事になる。子孫の命を救った事になる。
 それに比べて強力すぎて食べた相手が死んでしまったりした場合、当然の事ながら仲間に伝える事も出来ないし、遺伝子で子孫に伝えることも出来ない。結局、その後も食べられる側と死ぬ側の悲劇が続いて行くという事になってしまうのではないか?
 え? そこの所、どーなってンの? 
 と私は、意味無く思ってしまったのだ。

 その後、そーゆー警戒信号の伝達について調べようかな?などと思っていたのだが、それより大変な事件が起きてしまったのだ。
 約1時間、垣根を刈る為に重い剪定バサミをジョギジョギやっていたせいで、私の両手は思いっきりな筋肉痛になり、大リーグボール養成ギブスでもしてるかの様にぎしぎしと自由が利かなくなってしまったのだ。
 あぁ自然を甘く見てはいけないのだ。
1998年8月9日(日曜日) 両B面
 今回の曲はどちらも僕等に取って重要な曲で、最後の最後までどちらをA面にするのか迷ったんですが、結局両A面と言うことになりました。
 そんな様な事をラジオに出演していた、最近デビューしたロックバンドのボーカルが語っていた。
 ふ〜んと思っていたが、どうやら僕とは感性がかなり異なる様でどちらもさほど重要そうな曲には聞こえなかった。きっと次のシングルが出たら忘れられてしまうような曲だった。
 この両A面と言う言葉はよく聞く。この10年媒体がCDになってからはシングルと言う言葉も、A面と言う概念も曖昧になってしまったが、とりあえずシングルには昔ながらの2曲をカップリングすると言うのが暗黙の了解になっている。
 だから最近のシングルの場合、B面と言う言い方ではなく「CW/カップリングウィズ」などと行ったりするのだが、何か昔の人の私には違和感が残る。(B面と言う言い方も違和感あるけどさ)

 でもって、問題は「両A面」だ。
 昔からこの言葉はある。かのビートルズの曲にもこーゆー言い方をしたシングルがあった。そしてどちらも確かに印象的な曲だったりする。
 で、最近の「両A面」と言うのはどーも「どっちの曲にもスポンサーが付いているから」と言う状態を指しているのかも知れない。
 そのラジオで曲をかけていたバンドも、両方の曲はすでにCMで使用されている。
 つまり「A」と言うスポンサーの曲をA面にしたとすると、もう1曲のスポンサーになった「B」と言い企業が「てぇ事はワシらの会社はAの裏面かい?」と言う事になってしまったりするのだ。だから、どっちにもいい顔をするためには「両A面」と言う手段が出てくるのだ。
 いやはや。

 もっと素晴らしいアーティストの場合、スポンサーが付いたらシングル出す。と言うパターンになっていて、スポンサーが付けば1ヶ月に2枚でもシングルを切ってしまうが、そうじゃない間は平気で半年以上も曲をリリースしなかったりする。
 うむうむ、今や日本の音楽界は宣伝曲・主題歌・カラオケ用、これ以外の需要はまったくないのか?
1998年8月10日(月曜日) セミの事情
 そんなわけで毎日毎日、あぢーあぢーと生活している。
 ところがどーも周囲を見渡すと秋に飛んでいるハズのトンボがすでに大量発生しちゃっているような気がするのだ。確かに夏の段階から飛んでいるトンボも存在するが、トンボは基本的に秋でしょ、と言う状態なのにすっかりトンボの天下となっている。
 うむむ、スイカの季節が早まったのと同じにトンボも早まってしまったか、などと考えたがスイカの方は人間様の浅はかな科学力で無理矢理早めているのだが、野生のトンボはそんな事は無いはずなのだが・・・。とにかくトンボが我が物顔で空をビュワンビュワンと飛び回っている。
 と同時に木のある方向からはンヴミィィィィンヴィンヴィンと蝉の異状にやかましい鳴き声が聞こえてくるのだ。おめーらうっせーよ!ちったぁ静かにしやがれぇぇぇ!と叫んでも一向にその鳴き声は静まらない。逆にこっちの叫び声に負けじとさらに大きな鳴き声になってしまう様な気がする。
 ま、アイツらはアイツらで誰よりも自分をアピールしてメスと交尾に持ち込みたいなんて考えているワケで、そりゃ必死なんだと想うのだが。しかし男はぎゃーぎゃー言っているのより無口でニヒルなほうがかっこいいのだぞ!などと言う理論はアイツラには通じない。
 ま、人間社会でも最近は同じ様な傾向があって「あたしを楽しませてくれる話を出来る人じゃないと、ダメって感じでしょ」などと「てめぇら何様だと思っていやがる!」みたいな状態になっている。世の中は実にセミ化しているのではないか?と思ってしまうのだ。
 それに比べるとトンボはいい、実に静かだ。掴まえるとバサバサうるさいが、その飛んでいる時の姿はスタイリッシュで優雅だと思ってしまう。
 なんせヤツラはヘリコプターと同じにホバリングをして空中停止が出来るのだ。川の中にポツンと出ている不安定な葦の先にだってゆっくりと止まる事が出来るのだ。しかも鳴かない(実際には鳴いているのだけど)
 それに比べてセミのヤツラと来たらホバリングなんて高等技術を習得しようなんて気持ちは微塵もない。何も考えずにバシャ!と飛び立ちとにかく勢いだけで進んでいく。おかげで飛び立った次の瞬間、隣の木にぶつかって落ちてしまうなんて事も日常茶飯事なのだ。ヤツラは、とにかくせわしない。ついでに飛び立つ瞬間おしっこをチビったりしちゃうのだから、その慌てぶりは尋常ではない。
 確かに何年も土の中で生活していて、やっと出てきたと思ったのに「制限時間1週間」などと言う残酷な現実を突きつけられたら、もー焦るしかないのかも知れない。
 ホバリングどころか、キレイに飛び立つ技術を習得している余裕なんてない。アッチへ行ってミンミン叫んでコッチへ行ってミンミン叫んで、とにかく短い時間の中で子孫繁栄の為に相手をゲットしなくちゃいけないのだ。そりゃ焦るっす。
 そー考えるとあのウルサさも理解出来てしまうのだが、やはりウルサイウルサイウルサイ!!と私は、日々イラだちつづけ、あちこちの木を見上げて睨みつけていたりするのであった。