< 杉村ぐうたら日記(1998年8月11日〜20日)

▲1998年8月11日:火曜日:観光地だねぇ
▲1998年8月12日:水曜日:あと40分でしゅ
▲1998年8月13日:木曜日:しょぼしょぼ花火
▲1998年8月14日:金曜日:複数形の私
▲1998年8月15日:土曜日:伊豆の踊り子
▲1998年8月16日:日曜日:オマエが嫌いだ!
▲1998年8月17日:月曜日:夏バテかなぁ
▲1998年8月18日:火曜日:ゆでたまごの謎
▲1998年8月19日:水曜日:中田になる夏の日
▲1998年8月20日:木曜日:衰える私
1998年8月11日(火曜日) 観光地だねぇ
 そんなワケで今週の頭から1週間、正確に言うと先週の土曜日あたりから、どどーんと9連休なんて凄い事になっている会社のみなさん、元気に山や海に繰り出していますか?
 あるいはダラダラ家でしていますか?
 私はとりあえず今日まで仕事をしてます。とりあえず明日から休みに入れるらしいです。
 そんなワケで、会社に向かう車の中でいつものようにラジオを聴いていた。
 なかなか日差しは夏向きになっていて、さらにドナルイスなんかの軽快な曲が流れて気分は思いっきり連休!と言う感じだった。いつもそうなんだけど、今日はより一層「会社行きたくない」指数が跳ね上がっていた。
 なんせラジオの中では完璧に「連休」を前提とした内容で話をしていたりするのだ。
 「行楽地に行く為の道路がすでに渋滞を始めていますが、せっかくの休日です運転は慎重にお願いします」なんて言っていたりするのだ。
 あぁなんてこった。こっちは会社に行くための道路上で渋滞に巻き込まれていると言うのに、このお気楽な放送ってヤツは・・・・。
 と、目の前を見るとその車のナンバーは練馬だったり品川だったりする。ハッキシ言ってここは静岡県の東部だったりするので、基本的に沼津ナンバーがメインにならなくてはおかしいのだ。おかしいと言っても面白いワケではない。逆に面白くないのだ。
 さらにハッキシ言わせて貰うが、今自分が居る場所ってのが伊豆半島の付け根にあたる場所だったりする為に、伊豆に向かう行楽観光遊覧保養避暑レジャー客と必殺仕事人勤労軍団とが、渾然一体混沌まぜこぜ状態になっていたりするのだ。
 渋滞している理由がそこのヘラヘラ顔のテメェとか、あっちのイチャイチャネチャネチャカップルとかとは全然違うのだぁぁぁぁ!
 この先の楽しい予感をニコニコさせて渋滞している練馬ナンバーと、表情がどんどん無くなって土気色をした瞳でどんよりと「今日締切の仕事は・・・」などと灰色の脳味噌をガタガタ言わせている沼津ナンバーとは180度意味が違うのだ。
 そんな状態で渋滞しているってのは、精神的にひじょーに悪い。
 今はそんな伊豆半島から離れた場所に仕事場があるので、この渋滞を抜ければ普通の交通状態生活に戻れるのだが、以前は違かった。
 いぜん、勤めていた会社ってヤツが思いっきり伊豆のど真ん中にあった。と言っても世間一般の「伊豆のど真ん中」と言うと山の奥の奥、みたいなイメージに取られてしまうが、いわゆるちゃんとした会社・工場・事務所地帯ってのがあって、そこに勤めていた。
 その頃は、この観光シーズンになるとかなり悲惨な状態になっていた。
 車で走っていてもとにかく渋滞渋滞で毎日の様に誰かが遅刻せざるを得ない状態だった。
 前の車を見ると後ろにすでに膨らませた浮輪をぶんぶん振り回して子供がコッチを見ていたりする。うぬぬ、おのれ!と思ってバックミラーを見るとハワイと勘違いした様なバカップルがサンルーフ全開で女うふふ男いひひなどと今日一日の予定を話していたりするワケで、圧倒的に精神に良くない空気がムシムシした太陽光の中に流れているのだ。
 自家用車通勤派も大変なのだが、さらに悲惨なのは電車通勤の人などで、始点の三島駅から乗り込んだ釣り客がどでかいクーラーバックを通路にドッサドッサ置いて席に座っているのを横目で見ながら通勤し、帰りは帰りで疲れた体をムチ打ちながら電車に乗り込むと、終点の修善寺駅から乗り込んだ帰りの釣り客がまたしてもクーラーバックを通路にドッサドッサ置いて席を占領し「ぐわっはっはは」など必要以上に大きな声で笑い、一杯入って調子良くなった状態で今日の戦果を自慢していたりするのだ。そんな脳天気な状態を必殺仕事人たちは横目で睨みつつ、吊革につかまって揺れていたりしたのだ。
 しかも生魚臭い電車の中で誰もが無口になっていた。

 確かに観光地は観光客で生計を立てていたりするので、色々文句も言いたいが他人様の生活を脅かす事もできない。
 ワシらは、ますます無口になって仕事場へ向かうしかないのだ。
1998年8月12日(水曜日) あと40分でしゅ
 そんなわけで、私の処にも人並みに夏休みと言う物がやってきた。
 人並みと言うのがこの場合どのぐらいなのか判らないのだが、取りあえず土曜日曜を含めて5日間と言うのはいたって人並みなのでは無いか?多すぎず、少なすぎずと言う感じだと思うのだ。
 これが土日週休2日休みの会社が休みから休みまでなんて夏休みを設定したとする。そーすると、その会社は怒涛の9連休と言う事になってしまうのだ。これを多いと人は言うのではないか?なんせ、それ以外にも別の週の土曜日曜の休みをカウントしていくと、この8月は31日中15日も休みがあると言う事になってしまうのだ。完璧に半分が休みと言うことなのだ。これではおそれ多くて人並みとは言えない、あえて言うならば「馬並み」なのだ。
 馬並みの夏休みなのね〜。凄いじゃないか。
 そー言えばこないだTVで野球のおもろいシーンのダイジェストを流している時にバックに「走れコータロー」のメロディーがインストで流れていたんだけど、一緒に見ていた中学生の甥っ子が「マキバオーだ」とぽつりと言ったのを聞いて、あぁ今はそーなんだよなぁ、「走れ〜走れ〜コータロー」などと歌わなくて良かったなどと思ってしまったのだ。
 そんなワケで私は夏休みに入ったと言うワケで、早速いつものプールに通った。と、結局いつもながらの日々を過ごしてしまうのであった。
 でもって黙々とワシワシとザンザカザカザカと泳いでいたりするワケだったりする。
 約1時間半、泳いでボロボロに疲れた私は「腹減った・・・」と思いながら服を着替えたりするのだ。ロッカールームにはいくつかの個室があって、その中でそれぞれが着替えたりするシステムになっている。しかし、どーせ男しかいないロッカールームなんだから、と、個室に入らずにその場でパンツまで降ろしてしまう豪の者も居たりする。
 そして、とりあえず服を着て「あぁ・・だりぃ・・・」と思いつつ個室から出てきた。
 そこへたった今プールから出てシャワーを浴びた小学校低学年の子供とその父親がロッカールームに入ってきた。
 そして聞くとは無しにその小学少年の会話を聞いてしまった。
 「すごくつかれてしまったです〜ぅ」
 と言う何かのアニメに影響でもされたような変なイントネーションで喋っているのが耳に引っかかってしまったのだ。
 「もうへとへとで、倒れてしまいそうです〜ぅ」
 なんか変なしゃべり方をしていた。うぬうぬ、そー言えば自分の甥っ子も小学校低学年の頃にかの「くれよんしんちゃん」のしゃべり方をしていたのだ。などと言っている私はバカボン世代で影響されているかもしれないに賛成の反対なのだ。国会で青島幸男が決めたのだ。
 そして父親が「家に帰ったらスイカが冷やしてあるから」などと言っているのだ。そうかそうか、しかし肉体疲労時にスイカでは全然効き目が無いようなきもするのだ、などと言う事はこの際問題ない。
 さらに「肉体疲労時」と言う言葉を子供の頃CMで聞いたときには「健康優良児」や「虚弱体質児」などと同じように「肉体疲労児」等という意味だと勘違いしていた事をここに訂正させて貰います。

 話はズレまくっているが、とにかくその子供は自分が疲れていることをアピールしていたのだ、そして
 「ふらふらで、あと40分でうごけなくなるでしゅ」
 などと言い出すのだ。
 ハッキシ言って私はこの言葉に感動しちまいましたね。
 凄く現代という時代を読み込んだ言葉だと思ったわけです。
 なんつーか、思いっきりデジタルな感覚。
 昔だったら「あと100メートルで倒れるかもしれない」みたいな表現はあっただろうが、カチッとデジタル的に「あと40分」と時間でリミットを切られるのって凄い感覚かもしれない。
 デジタルゲーム世代と言うものが主流になっていく未来は、ある種の感覚は僕なんかでは想像できない表現形態になっているかも知れないのだ。

1998年8月13日(木曜日) しょぼしょぼ花火
 そんなわけで、4日も続けて文章の出だしが「そんなわけで」だったりするのでありまして。いやはや実に意味不明な便利な言葉だと言う事になってしまうワケであります。
 そんなワケで、出だしに付いて考えているのですが、今判明した事実としましては「出だし」をワープロで漢字変換していくと「出だし」と言う変換をするワケですが、さらに変換し続けると「出出し」と言う変換をする事に驚いたワケであります。うむむ、これは味噌汁の異名「おみおつけ」を漢字でばっちりと書くと「御御御付」に成るという物に通ずる世界なのだな。実に漢字を使用している国ならではの、ちょっといい話なのだ。
 そんなワケで、今日がお盆の入りと言う事になっているので、お墓に行ったり色々と行事的な予定をこなさなくてはいけない事になっている。まったく日本の風物詩に付き合うって言うのは大変な事なのだ。だから、例のナスの牛・キュウリの馬なんてヤツも作ってみたりする。
 そんなワケで、夏休みと言う事で、お盆と言う事で、我が家には姉貴が子供を連れて里帰りしていたりする。とかなんとか言っても里帰りと言っても実際の所、車を飛ばして20分と言う近距離に住んでいたりするので、お盆・里帰り・渋滞・高速などという毎度毎度この時期のTVニュースネタに成るような悲惨な状況とは無縁の里帰りだったりする。なんせ、かつて農家だった名残のように我が家で家庭菜園をやっているのに「ねぇキュウリある?」なんて感じで、姉貴が平日の昼下がり買い物ついでに寄ってしまう程に日常の延長にある里帰りだったりするのだ。
 そんなワケで、「夏休み=のんびりゆっくり」と言う図式を見事に裏切るような形で我が家にチビッコ大旋風が吹き荒れたりするのだ。全員甥っ子なのだが、上は双子で中学1年なので落ち着いてはいるが、下がなんとまだ3歳だったりするので、色々大変なのだ。なんせ上がやっている事をやりたがるので、それをなだめすかすのが一苦労だったりする。基本的に子供は嫌いではないのだが、基礎体力が低い位置にある私はすぐにグッタリしてしまう。それでも以前よりはプールに通っていると言う事が基礎体力の向上に役に立っているみたいなのだが、ハッキシ言って疲れる。ヤツは何をやっても飽きないで延々と繰り返す。そして飽きる時は寝る時だったりするのだ。おいおいそりゃ卑怯じゃないのか?こっちをへとへとにさせて置いて、勝手に寝るなんててオトナゲ無いぞ。と言ってもヤツは子供なのだ。はぁ・・・・。
 そんなワケで、夏休み=子供と言うと、夜は花火と言う事になっているので、自然の摂理に逆らわずに花火なんてものをやったりするのだ。昼間、買い物に出かけた時に安売り量販店で買ってきたどでかい花火セット3000円成りと言うヤツと、小さなお子様でも大丈夫な手持ち花火セットを取り出したりするのだ。3000円と言う値段だが量販店値段なので基本的な値段は5000円と言う所なのかもしれない。ビニールバッグにギッシリと打ち上げ花火が詰まっていたりするのだ。その説明書を読むと基本的に「MADE IN TAIWAN」だったりするので説明の日本語が「この花火は1メートル程火花があがりますので手に持っていると危険ですので、置け」などと、丁寧な言葉を言っていたかと思うと突然命令形になって終わったりすると言う、かなりデンジャラスでノンキーズな感じの花火なのだ。
 そんなワケで、花火を始めるのだが私は久々にこの手の打ち上げ花火をやってみて驚いた事がある。打ち上げ花火と言うと家庭内花火の中でも最高に盛り上がって、ジュワシャワビュワンビュワンと火花がときどき色を変えながら吹きあがると、子供ながらにアドレナリン値が急上昇してわぁーいわぁーいと叫びながら地面に置いてある花火の周りをぐるんぐるん廻ったりする物だと相場が決まっているのだ。・・・て、みんなはやらなかった?うむ、とにかく私の経験で言ったらぐるんぐるん叫び廻る物だったりするのだ。が、この打ち上げ花火セットの花火はかなりしょぼい。点火して、しゅしゅしゅ・・・・じゅわぁぁぁぁ!と火花が吹きあがって「おぉぉぉ」と歓声の声があがる、そして次の瞬間色が変化して二度目の歓声の声、とそこで終わってしまうのだ。突然、しょぼぼぼぼ・・・と火花ではなく、タダの火として終結してしまうのだ。実に短い花火なのだ。全ての花火が全部そんな調子だった。確かに危険を少なくする為に火薬の量を少なくしているという話も聞くが、これでは火を付ける事ばかり忙しくてなんか盛り上がらないのだ。やっぱラストの方では、5・6個ドラゴン花火なんかを並べて、端から火を付けて・・・と言う物量大作戦逆ナイアガラの滝なんて言うワザで締めたりするのだが、この花火では付ける端から終了してしまうのではないか?うむうむ、なんか淋しいのだ。まるで蛇花火なみの寂しさなのだ。
 そんなワケで、取りあえず夏と言う話題を書いてみました。
 そんなワケで、明日からはなるべく「そんなワケで」を使わないように気を付けます。
 そんなワケで、じゃ、また明日。

1998年8月14日(金曜日) 複数形の私
 てなワケで、相変わらず暑い日が続いています。
 ついでに実に湿度が高くじめじめしてます。なんと、東北地方は6月から続く梅雨がいまだに切れず、台風と言うわけでもないのに洪水になったり土砂崩れになったりする程の雨が続いていると言う。
 ハッキシいって8月の半ばっすよ。
 お陰で気象庁が「今年の東北の梅雨明け宣言はありません」などと言い出す始末。たしかに梅雨明けなんて事を言っている様な時期じゃねぇよなぁ。それに気象庁が「梅雨は明けました。今降っている雨は梅雨とは関係ない夏の雨です」などと宣言してくれた所で、天気が悪いのは変化しようがないのだ。うむうむ、大変な事になっているのだなぁ。
 なんか世界的にこの夏は天候不順らしく、ある意味で世紀末なおかしな天気と言う事になってしまっている。まったく困った物だ。

 困った物と言えば、話の展開が強引すぎるが困った物だなぁと思っている物がある。
 そんなに世間では困った物と認識されていないらしいし、確かにそんな状況だったとしても誰も困らない程度の困った事なのだ。
 いわゆるグループで歌っているアイドル的なグループってあるでしょ。そーゆーグループの曲を聴いていてイライラしたことない?
 歌が下手だとかそーゆーイライラではなく、複数で1小節づつ民主主義に乗っかって歌ってんじゃねぇよ。と言う状態に対してイライラしちゃうのだ。
 最近だと『モーニング娘。』あのグループの歌を聴いていてイラついてしまうのだ。
 しかし『モーニング娘。』でよかったよねぇ『モーニング息子。』だったら、なんか海綿体充血!って感じになってしまうからねぇ。
 などと言う小ネタはどーでもよく、あの手のグループの歌を聴いていると凄い短いフレーズごとにメンバーが持ち回りで歌ったりするでしょ。あれを聞いていると、それぞれ別のグルーヴ感(まで行ってないけど)を持っているので、凄くノリが悪い。声質だって全然完成されていないから聞いていても落ち着きが無く辛い。まったくもってガタガタしちゃっているのだ。それぞれがヘタクソなので、ノリなんて言葉も無いのかも知れないけれど、ヘタだったらヘタなりに一人が丸々1曲通して歌った方が聞き易いって気がしちゃうのだ。
 しかも、詩の内容は一人称だったりするのに、複数人が「あなたの事好き」みたいに歌っているのって、なーんか嫌な感じ。
 これはかなり細かい普通の人が感じない部分かもしれないけれど、私なりの音楽に対してのこだわりがうるさい小姑みたいな意見を言わせてしまったりするのだ。
 そんでもって、私がどーこー言っても世間は変わらず、いままで通りに東北地方に雨は降り続いていくと言う事なのだ。

1998年8月15日(土曜日) 伊豆の踊り子
 夏休みということで先日より母親である姉貴と共に我が家に遊びに来ている甥っ子(の1人)が「夏休みの自由研究」の為に、伊豆のどまんなかへ出かける事になった。
 いわゆる伊豆の踊り子の舞台となった道を実際に歩いて、そこにある史跡などを見て廻ろうと言うのだ。姉貴と二人でテクテクと山道を歩き回ると言うのだ。
 そーかそーか、そりゃ大変だな、ご苦労なこった。と私は思っていた。
 「明日の朝、6時ぐらいに湯ヶ島を出発して、4時ぐらいに七滝(ななだる)にまでたどり着く予定」などと言っている。
 そーかそーか、そりゃ大変だ。
 「だから、明日の朝6時ぐらいに湯ヶ島に着くようにお願いね」などと言っている。
 そーかそーか、そりゃ大変だ・・・・・・って、湯ヶ島までの交通手段ってワシの車? うむ・・・・湯ヶ島6時出発って事は、我が家を出発する時間は5時って所なのか?うむむむむむ・・・・。
 結局、話は最初から私の知らない所で計画され、決定されていた。有無を言わせないという状態で「当然」と言う言葉の元に、甥っ子の伊豆の踊り子研究は進められていたのだ。
 さすがに帰りまで「七滝」に迎えに来てと言う状態ではなかった。そこまで行くのはかなり大変な事なのだ。と言っても湯ヶ島にまでいくのなら、たいして変わりはないんだけどさ。それでも帰りは修善寺までバスに乗って、電車で近くの駅まで行く。修善寺から電話をするから、その下車駅まで迎えに来て。と言う事になっていたのだ。
 ハッキシ言って、朝早く仕事をさせられて、夕方は自宅待機と言う状態では今日一日私はまるっきり行動できないと言うことになってしまう。うむむ、私の意志とは別の所で自宅ゴロゴロ夏休みコース決定と言う感じなのだ。
 とりあえず私は予定を切られると何故か律儀に行動してしまう人間だったりするので、朝5時になる前にガシッと目をさました。うむ、夏の朝は早い。しかし、熱帯夜が続いて朝、今朝も早い時間だというのに25度を下回らず、汗ダラダラだったりする。
 ところが、肝心の研究をする本人が起きて来ない。その結果ダラダラと時間を過ごしてしまい、家を出たのが5時どころか、6時を越えて、あとちょっとで7時と言う時間帯だったのだ。
 そしてまだ観光客の少ない道をひたすら修善寺方面に向かって突き進む。
 が、問題が発生してしまったのだ。研究をする本人が「地図を忘れた」などと言い出すのだ。うむむ、この肝心な所がポッカリと欠落しているいわゆるツカエナイ性質は私の中にある遺伝子と同じ物なのかもしれない。
 とりあえず、どことどことどことを廻るのかは下調べしてあったらしいので、深刻な問題ではないが、とりあえず修善寺駅に立ち寄り観光案内の地図などをチェックする。
 そして、コースから少し外れている川端康成が宿泊して伊豆の踊り子を書いたとされている「湯の元温泉」をチェックして、最初の予定の湯が島まで言って甥っ子を降ろした。
 この基本的な所でヘマをする甥っ子に血縁的な親近感を感じつつ、この子の将来に幸アレなどと思ってしまったのだ。

1998年8月16日(日曜日) オマエが嫌いだ!
 世の中には、犬猿の仲とか言っていつでも敵対してしまうような関係と言う物があったりする。
 あるいは他人を見て「アイツのここが許せない!」とか思ってしまう箇所と言う物があったりする。
 何を隠そう(隠しちゃいないが)私にもそーゆーのがあったりする。

 あいつのアソコが気に入らねぇとか、アンニャロのアレが神経に障るぜベイベ!と言う風に、いつもの口調ではなく「嫌いモード」突入と同時に語気が粗くなってしまったりするのだ。
 いかんいかん、と思いつつもやっぱし人間は感情の動物って言うだけあって、好き嫌いに関しては平常心からどっかが逸脱してしまう物なのかも知れない。
 とりあえずクールを目指していたりするのだが、嫌いって物が目の前に出現しちゃうと、ふんがふんがと鼻の穴を広げて「てっっててててっててっててめぇ!」などとワケも判らず憤慨してしまう私がいたりする。
 ま、それと反対に好きな物が目の前に出現しちゃうと、同じようにふんがふんが鼻の穴を広げて「すっっすすすすううすすっすすっすきだぁぁぁぁ!」などとワケも判らず興奮してしまう私がここに居たりする。
 いかんいかん、もっとどんな場面でも冷静に対応できる大人にならなくては。

 しかし人を嫌いになってしまうと言う感情は、イエスキリストでもお釈迦様でもない限り絶対誰の中にもあると思う。完璧な博愛主義者なんてありえないと思うのだ。
 逆にそんな完璧な博愛主義者が自分の身近に出現したら、その博愛主義者の事を好きにはなれないと思ってしまったりする。
 でもって、他人の中に嫌いと言う部分を見つけてしまう場合、どんな条件があるのだろうか?と考えると、生理的にダメって場合ではない時には「他人の中に自分の嫌な部分を見つけたとき」と言うのが重要な要素になっている様な気がしている。
 どーしょーも無いほど頑固で人の意見を聞かない人がいたりすると嫌だ。
 自分の胸に手を当てて考えて見ると、そりゃ自分の事だよなぁと言う事になる。
 偉そうな事を言いつつ、行動を先送りにしてダラダラと毎日を無駄に過ごしている人を見ると嫌だ。
 と言いつつ、それは自分も同じ様なもので、毎日に流されてダラダラ生活して「あの目標は?」などと話が及ぶと「色々忙しくてさぁ」などと、理由にならない理由で自分を正当化しちゃったりする。あぁ嫌だ嫌だ。
 とは言っても自分とは死ぬまで付き合っていかなくてはいけないので、少しは大目に見てしまう軟弱な私がいたりする。だからこそ、そんな同じ部分を持っている他人に辛く当たってしまうのだなぁ。
 なんて卑怯な私なのだろうか。

1998年8月17日(月曜日) 夏バテかなぁ
 はっきり言って暑い、なんでも熱帯夜が1週間以上続いているらしい。
 私の場合、暑くなると精神的にだらけてしまって、何も考える事が出来なくなってしまうと言うのが最大の欠点だったりする。ついでに、行動能力が著しく低下してしまう。
 普段でさえ行動能力が低いと言うのに、もーすっかりダラダラで弛緩状態まっしぐらなのだ。
 そーなると「何もしたくない」と言う事になる。
 ここで言う「何」とは「なに」の事であるか?5分間で100文字以内にまとめよ、などと言われると「いや、別に深い意味があって言ったワケではないので、そんなに突っ込んだ質問はしないで下さい」と尻込みしてしまうほど、何についても考えたくない程、だらけきっている。
 TVを見てても、熱心に見ているワケではないので「ハッ」と気が付くと、いつの間にか次の番組になっていたりする。
 本でも読もうか、と本を開くのだがなんだか頭に文字が入って来ない、だけど機械的にページをめくっていると言う状態。
 じゃ、漫画だったら・・・と言われても現在この二週間ぐらいの間に購入してきた漫画本が未読のまま数冊部屋の片隅に転がっている。
 あぁなんか思いっきりパワーダウンしている。
 早く冬にならないかなぁぁぁぁ などと、確か半年前も冬の寒さにメゲながら同じ様な事を言っていた様な気がするのだが、きっと気のせいだと思う。
 なんか思い出すことさえおっくうになっている私がここにいる。

1998年8月18日(火曜日) ゆでたまごの謎
 会社の食堂&売店の所で素敵な文字を見つけてしまいました。
 ハッキシ言って仕事で赤字修正などをやっていたりするので、ついつい赤鉛筆で修正を入れてしまいそうなほど素敵な文字でした。
 その文字は

 『湯で玉子』

 なんか、ほのぼのと良い言葉だと思ってしまうのだ。
 凄くイメージが伝わってきて「コッチの方が正しいのではないか?」と思ってしまうようなスガスガしさを感じてしまうのだ。
 意味的にも間違いは無いような気がする。正確に言ったら玉子を茹でる時は水から徐々に茹でていった方が割れにくいんだけど、そんなのはこの際関係ない
 きっとこの文字を書いた人は、思いっきり「茹で玉子」を「湯で玉子」と信じていままで生きてきたのだろうと思う。そんな人に向かって「これ本当は茹で玉子って書くんだよ」などと間違いを指摘しちゃったりするのは、完璧なるアイディンティティの崩壊を意味するのではないか?
 おぉぉぉぉおれは今まで間違った人生を歩んでいたのかぁぁぁぁ
 と悩んだあげく、哲学者になるか、新興宗教に助けを求めてしまうかのどちらかしか無いのだ。
 しかし誰にでも勘違いのまま覚えてしまった物はあったりする。
 最近、新しいソーリ大臣が決定したのでその決意表明をしたりしていたが、私は最初にこの漢字を間違えて覚えてしまった為に、今でも意識しないと間違えた方を選択してしまう。
 いわゆる「しょしんひょうめい」をずっと「初心表明」だと思っていたのだ。実際には「所信表明」なのだが、前者の間違いの方が正しいような気がしちゃうでしょ。
 うむむ、漢字は難しいのだ。

1998年8月19日(水曜日) 中田になる夏の日
 ある日突然「俺は変わるのだ!」と決心してしまう事がある。
 それまでの冴えない自分をかなぐり捨てて、新しい自分に生まれ変わろう!と思いっきりな決心をしてしまう事がある。
 借金取りに追われてやむおえなく変身しちゃうなどとの理由以外で「生まれ変わろう」と思いたつ場合、環境の変化と言うものが多くあったりする。
 地味で陰湿なウジウジ性格を直したいと思っていても、周囲の知人はみんな自分の事を「ウジウジ君」だと言うことを知っている。だから突然「はぁ〜い変身したっすよ〜ん」などと言っても気持ち悪がられるだけで、「あいつ変だぜ」などと敬遠され本質的な所はまったく変わることの出来なかったりする。
 そーゆー場合、転校や転勤、あるいは進学などで周囲の状況を完璧にリニューアルできる場合にこれを目指そうとしちゃったりする。
 だいたいの場合が暗い自分を変えたいと言う事なんだろうけど、ハッキシ言って「暗い人はどこに行っても暗い」と言うのが現実だったりするので、なかなか人生と言うヤツは難しいのだ。
 もっと決意しちゃった人の場合、今までの俺を知っている人は殆どいない!と言う事から、整形やカツラなどに走ったりする事もある。
 この辺になると決意は尋常ではない。でもって整形なんかの場合「美しくなった」と言う自己満足から性格まで変わってしまう事もあると言うので、一概に整形が良い悪いとは言えないところがあったりする。ま、カツラの場合はなんかそれ以前より卑屈になったり、性格的に問題を抱えたり、異常に神経質になったりしちゃいそうで、これもこれで別の人間模様があったりするのだ。
 そんな状況の凄く軽い物で「夏休み」と言うやや長めの休暇で変わってしまう人も居たりする。高校生ぐらいだと、いわゆる「高校デビュー」なんつって、突然派手になったりする人がいたりする。どー考えても「夏休みの間にヤッたな」と言う感じミエミエの場合があったりするのだ。うーむ人間模様なのだ。
 そんなワケで、サラリーマンになると夏休みなんて物は本当に一瞬のうちに通り過ぎて変身しているヒマもないと思っていた。しかし、変身しちゃった人がいたのだ。
 会社の人で、基本的に一緒に仕事をしているワケでないし、はっきり言って名前も知らない人なのだが、毎日のように顔だけは見て知っている人の話。
 この人物はいつみても、ぬぼーっとしていて「やる気」とか「覇気」とかって言葉とは無縁そうな印象の人だった。(あくまでも客観的な印象だけど)髪の毛も適当な長さでいつもバサバサで、目つきもとろん、口元もいつでもベロンという、どー考えてもダラダラしちゃっている人だった。
 その人を夏休みあけに見かけた。
 突然髪の毛を短くして(サイドは刈り上げ)、茶髪にしていた。そんでもって、それまで銀縁の特徴のないメガネを掛けていたのを、黒縁で細いメガネに変えていた。ついでに、無精ヒゲなんつーのも生やしていた。
 ありゃりゃりゃ・・・・・こりゃ、どっからどー見てもサッカーの中田のコスプレだよ、おいおい。てな感じになってしまっていたのだ。
 たしかにこのスタイルだと「目に力無くトロ〜ン」も「口元も意味不明に開いている」事さえファッションになってしまうかもしれない。
 うーむうーむうーむ、などと思っているのだが、このスタイルだと「きゃー中田に似ているぅ」などと宴会の席でも話題になるんだろうなぁ
 それも人生だと思ってしまうのだが・・・・。

1998年8月20日(木曜日) 衰える私
 そーゆーワケで、私はどーやら若く見られるらしい。
 などと書くと「この作者は実は50歳ぐらいなのではないか?」などと勘ぐられてしまうかもしれないが。ワシャまだまだ若いモンにゃぁ負けないズラなどと言う程の年齢ではない。
 若く見られると言うのは今に始まったワケではなく、高校時代は中学生(と言っても、私の学区の中学は坊主頭だったので、中学生に間違えられる事はなかった)、その後も成人してからもどーも若く見られると言う現象が続いている。
 ときどき、成人しているのに異常に若く見えて、身長を計算しないと顔つきが小学生に見えると言う人がいる・・・しかし、じっくり見ると異常に老けても見える・・・うーむ、と言う感じの人がいたりするが、私はどうやら中途半端に若く見られるらしい。
 などと書いていたりするが、これは自慢でもなんでもない。
 困ってしまうのが、ときどき若く見えると言う事を異常なほど自分のステイタスにしている人がいたりして、そーゆー人は言動や若い人に接する時とかファッションとか髪の毛とか、一生懸命に若く見えそうな選択をしていたりする。でもって「俺って若く見られちゃうんだよなぁ」などと、とりあえず困った振りをしたりする。
 私はどーも、そーゆーのは嫌いらしい。
 とりあえず「若く見られる」と言うのも、あんまし好きではないのかも知れない。

 なんせ「なめられる」と言うのがある。
 世の中には思っている以上に、年齢の上下関係で威張ったりする人が多くいる。普通に生活している人はあんまし感じない事かもしれないが、こんな風に若く見えると言うポイントを持っている人は、最初イバられる・・・年齢が判って突然敬語になると言うのを何度か経験してきた。 ま、そーゆー下らない人をチェックできるからいいのかもしれない。
 私は年齢が上だ下だって言うので特別な感情を持ったりしない人だったりするので、そーゆー面倒な人はパスしたいのだ。

 とかなんとか言っても、そこそこ年齢を重ねてくるとやっぱし「若い」と言うのは重要になってくるのかもしれない。
 先日のお盆休みで甥っ子が我が家に泊まっていたのだが、上の双子は現在中学1年生で幼児の事からしっかりと自分の事を「お兄ちゃん」と呼ばせていたので、とりあえず「お兄ちゃん」と呼んでくれる。
 ま、年齢的な意味の「オジチャン」ではなく、姉貴の子供って事での「叔父ちゃん」なのだが、やはり20代前半だった私はその呼ばれ方に抵抗があったので、しっかりと「お兄ちゃん」と言う呼び名で教育をしたのだ。
 しかし、姉貴はわざわざ、ことさらイヤミたらしく「オジチャン」と私の事を呼んだりするのだな。
 そして、随分離れた弟は現在3歳なのだが、母親が「オジチャン」双子の兄貴が「お兄ちゃん」と呼んでいるのを聞いていて、戸惑っていたのかもしれない。
 先日、私の事をその3歳の甥っ子が「オジチャン」「お兄ちゃん」の中間を取って「オジイチャン」と呼ぶようになってしまったのだ。
 うむむむむむ。