杉村ぐうたら日記(1998年9月11日〜20日)

▲1998年9月11日:金曜日:バカ×800
▲1998年9月12日:土曜日:急ぎすぎた報道
▲1998年9月13日:日曜日:背中を押す人
▲1998年9月14日:月曜日:キャンディーズと言う幻想
▲1998年9月15日:火曜日:幻の駄作
▲1998年9月16日:水曜日:サラリーマンはつらいよ
▲1998年9月17日:木曜日:目の中の光
▲1998年9月18日:金曜日:4年後
▲1998年9月19日:土曜日:スポーツの中のヒール
▲1998年9月20日:日曜日:主食戦線異常あり
1998年9月11日(金曜日) バカ×800
 静岡市の方にある中学校でバカ事件が起きたという。
 月曜日の朝、学校にやってきた人々はビックリしてしまったらしい、なんと学校の至る所に「バカ」と言う文字が釘の様な物で引っかいて書かれていたと言うのだ。
 黒板だろうと、廊下だろうと、ロッカーだろうと、とにかく何処を見ても「バカバカバカバカバカバカバカバカバカ」と言う状況だったらしい。
 その数はラジオのニュースで聞いただけなのでうろ覚えだが、800個だか、かなりの量あったという。
 犯行は土曜の夜から月曜の明け方までの間。
 犯人は必死に孤独と戦いながら延々とバカバカバカとクギで彫り続けたのだと思う。まるでその姿はかつて人間国宝だった棟方志功みたいな状態だったのかも知れない。
 まったくもって凄いヤツだぜ、と犯罪者ながら思ってしまった。
 なにかイヤな事が学校に対してあったのかも知れない。しかし、1個や2個のバカを書いただけでなく、かなりの長時間を割いてバカ彫りに没頭していたのだとすると、その持続する怒りや恨みってののパワーは凄いのだ。
 机に向かって鉛筆でバカ800個を書くのだってかなりの時間がかかると思う。
 ワープロでバカ800だってかなり大変だ。それをクギなんかでガリガリ800個も書いたのだから凄い事なのかも知れない。
 私はイヤな事があると、なるべくそれの事は考えずに居ようと思ったりする。だから、もし学校がイヤだったら学校から解放される放課後や休日にはまったく学校の事を考えずに別の事に没頭したりすると思うのだ。
 この犯人の場合そーじゃなく、学校から解放されているハズの時間に学校に出てきて、コツコツ作業って・・・ムチャ暗い・・・・。
 真夜中やったのか、明け方やったのか、昼間やったのか判らないけど、そのパワーをどっかべつの所にぶつけて欲しいと思ってしまうのだな。
 しかし、イジメられたとか、そーゆー理由なのかもしれないが、たとえイジメが原因だったとしたら「こんな事をするような性格だからイジメられたんじゃないの?」とか思ってしまうのだ。

 しかし、800個だか彫ったヤツも凄いが、それを一個一個数えた警察も凄いよなぁ、ニュースではちゃんと1桁まで言っていたから。
 でも犯人はそのニュースを聞きながら「あと3個バレていない」などと思っているかも知れないのだ。
1998年9月12日(土曜日) 急ぎすぎた報道
 数日前から読売ジャイアンツの監督の交代劇がスポーツ新聞を中心に大騒ぎになっている。
 長嶋監督が契約切れと成績不振によって解雇され、それに変わってかつて西武を何度も優勝に導いた森氏が新監督に就任するのではないか?という事が連日、騒がれている。
 と言ってもわたしゃ基本的に野球を始めとしてスポーツ一般に全然興味がない。
 興味があったとしても、そのスポーツを取りまく人間関係なんかの方だったりする。
 先日のアメリカ大リーグでマーク・マグワイヤ選手が世界記録のシーズン62ホームランを打ったと言う騒ぎの時も、確かにすごい数だと思うけど(なんせ日本で今年最高本数が松井の30本だってことを考えても凄い)そんな数の騒ぎより、別の処で「あのホームランが飛び込んだ所にあったコニカの看板は得したよなぁ」などとくだらない関係ない事を考えていたりする。

 結局、報道が先走りすぎて森氏が「直接球団側から話がない内に、マスコミに情報が流れる事が許せない!」とか、TVなんかでも街頭インタビューで「長嶋を辞めさせるのは許せない」などと言う意見が多数流され「まるで私が悪者扱いされている」などと怒り出しちゃったりするわけなのだ。
 さらにオーナーも勝手に専攻する話題に怒り出す。
 ついでに「長嶋辞任」の噂が出た途端に、ジャイアンツは突然6連勝しちゃって「弱い長嶋巨人」と言うイメージが吹き飛んでしまったりするのだ。
 そんなおかげで長嶋が来年も監督をする事になった。
 ま、現金なもので、留年決定と判って気を抜いたのか、その夜から連敗しちゃってるけど。

 しかしマスコミの報道のいい加減さはどーにかならないもんかね?
 今回も結局は憶測でガンガン書きとばして、その結果報道と現実が違うことになったのに「間違った報道をしました」と言う事をだれも言わない。
 それどころか、報道とは違った方向に新しく決まった事に平然と「こうなる事は当然だった」みたいに書いたりするのだ。
 芸能人の恋愛に関しても平気で憶測で書いているみたいだけど、あの神経ってのはどーゆーもんなんだろ。
 たとえ実際に付き合ったりしている場合だって、マスコミのせいでダメになってしまう物だって多くあるんだろうなぁ。
1998年9月13日(日曜日) 背中を押す人
 私は基本的に淡泊な人間で、友人関係にもベタベタなモノは求めたくないと思っている。かといって、頑なに「俺はみんなと違うんだ」と自己主張のつもりになっているワガママを押し通そうとは思っていない。
 でも、世の中の状況を見ていると他人に依存しちゃっている人が多すぎる様な気がしちゃうのだな。自分一人では何も出来なかったり、ひとりになると急に不安になってしまうようなタイプの人間が多すぎる気がする。
 でも、タチの悪い事にそーゆー人の多くが「俺は一人で生きてきた」的な自負を持っていたりする。などと書いているって事は、自分もそーなのかも知れない。
 ま、誰も絶対的に完璧にひとりで生きていけるワケではないのは判っている。他人に影響されまくって今の自分の人格があると言うのは判っている。

 でも基本的に自分は「個」として独立した存在でありたいと思っているのだ。

 そんな事は恋愛などにもつながっていて、実に「冷たい男」と言う部分が出てしまう事がある。
 あんましベタベタしているカップルになれなかったりするのだ。それは精神的にも肉体的にも。
 ま、二人っきりで部屋の中でイチャイチャするときは別として、それ以外の日常の中でも常に行動を共にして、常にビッタリとくっついているカップルと言うのを見たりする。
 それに対して「あぁぁぁぁぁうっとぉぉぉしぃぃぃぃぃっ!」と、イラついて胸をかきむしってしまったりするのだ。
 最近はそんなカップルが以前より大増殖しちゃったので、イラついてもキリがないと言う状態だったりするので、極力平常心を保つように無視をしていたりする。
 ま、二人はそれで幸せなのだから勝手にやってくれ、と思ったりする。
 この辺の事を言ったりすると「もてない男のひがみ」みたいな感じに受けとめられたりするのだろうが、全然違うのだ。・・・・いや、この様にベタベタしないからモテないのか? 等と言うかなり現実に直面した矛盾点に突き当たってしまったりするが、それでも私はベタベタカップルが好きではない。

 なんか、お互いに依存しているなぁと言う気がしちゃうのだ。
 これまで多くの友人カップルを見てきた。でもってその中にはベタベタ派と非ベタベタ派が存在している。やっぱし非ベタベタ派の方が大人のカップルだよなぁと言う気がしてしまうが、それは年齢が関係した事ではなかったりする。
 思いっきりベタベタしているカップルでも30をゆうに越えていたり、非ベタベタ派でも20代前半と言う場合があったりする。
 でもって、感じた事は非ベタベタ派のカップルは何らかの形で恋愛以外の核(コア)になる部分を持っているのだ。それは仕事である場合もあるし、趣味的な事の場合もある、音楽とか、絵画とか。
 それに比べてベタベタ派のカップルの場合、本当にのめり込んでいるモノが恋愛だけと言う場合が多いような気がしちゃうのだ。
 そうじゃない場合もあるけど、なーんかそんな感じがする。

 街角でくっついて歩くカップルを良く見るが、その中でいまだに「気持ち悪い」とか「うざったい」とか「何ンだよそりゃ」と思ってしまうものに、男が相手の女性の背中から腰に常に手を回しているというヤツ。
 普通に歩いている時にずっと、男が女性の脇に立ち後ろに回した手を腰から背中にかけて、触るか触らないかぐらいの感じで添えているというヤツなのだ。
 あれは一種の「女性の事を思いやってエスコートしてやっている」と言う行為なのかな?
 なんかマニュアルとしてあの仕草と言うのが存在してんのか?と言う感じに、やたらと見かける。
 見ていて、お互い歩きにくそうって感じがしてしまうのだが。

 そんな歩き方をするカップルが気になり始めたのが、もう10年以上前の事だからこれはカップルにとっては「やっていて当然」の行為なのか?
 一度見たのでは、そんなスタイルで歩いているカップルがいて、男の手は女性の背中から約5センチ程離れた宙で停止しながら歩いていた。
 と、突然、女性の方がスニーカーの靴紐がほどけたらしく何も前触れもなくしゃがみ込んだ。その時男はぼーっと脇の店を見ながら歩いていた為に女性がしゃがみ込んだ事に気が付かず、そのまま女性の後頭部にラリーアットを食らわしてしまった。
 これは今から12年前、前回の虎年1986年のネタ帳に書いてある実際に起こった事なのだ。その時点でさえ「何故あんなポーズで歩いているのだ?」と書いてある。
 でもって当時付き合っていた女の子に「どう思う?」と聞いたところ「ムズがゆそうでイヤだ」と答えている。そりゃそうだ。

 でも、あれって優しさの一種なのかな?
 その1980年代中期ぐらいから「フェミ男くん」と言う現象が出てきて、セカンドバッグを持つ男性が目立つようになり、デートの時にさして重くもない女性のバッグを持ってやるのが男のやさしさだみたいに思い込むヤツらが出てきたりしていた。
 なんか、そーゆー意味では私は恋愛に関して思いっきり古い人間なのかもしれない。(と言っても男尊女卑の時代まで遡らないけどね)

1998年9月14日(月曜日) キャンディーズと言う幻想
 今日、9時台の番組で「キャンディーズ」をやっていた。
 へぇと思いながらその番組をぼけぇっと見ていた。
 自分もそのキャンディーズの流行った時代をリアルタイムで経験してきたし、身近にも熱狂的なファンがいたのである種のノスタルジアを持って見させてもらった。
 ラン・スー・ミキの3人組だが、人気もラン・スー・ミキの順番になっていて、ランが10だとすると、スーが7と言う所で、最後のミキは4と言う感じの人気だったと思う。
 私はその当時好きだった女の子に何となく似ていると言う事からキャンディーズの中ではミキが好きだった。マイノリティになってしまうのはこの時代からなのだ。

 最近、CD-ROMでキャンディーズの歴史や曲などを見ることが出来るモノが出てきたり、この様な番組が作られるって事は、あの当時熱狂的にのめり込んでいた世代が、その様な物をディレクトする世代(30代後半〜40代)になったと言う事なのだと思う。
 大体、昔の物を懐かしがったりリバイバルと言う形で出てくるのは10年〜20年後、その多くがそのリアルタイムの時代を経験した世代が仕掛けた物だったりする。
 80年代初頭のグループサウンズのリバイバル、90年代初頭から始まった70年代ファッションリバイバル、そして最近の70年代後半から80年代初頭のリバイバルも同じ環境の中から誕生している様な気がする。
 僕は確かにキャンディーズのレコードをたぶんシングルはほとんど、アルバムもベスト盤以外はほとんど所有している(と言っても、シングル盤だけで1500枚ぐらい持っていたりするけど)。けれど、今更「やっぱキャンディーズが最高だったよなぁ」などと言うような人ではなかったりする。
 それは多分に、音楽に関しては許容範囲が広く何でも聞くと言うのと、次々に出てくる音楽を追いかけ続けているからなのかも知れない。
 同世代の人と音楽の話をして気が付いてしまうのが、みんな「あの当時の音楽」と言うヤツが一番好きだと言う事なのかも知れない。つまり中学校〜20歳ぐらいまでの間に聞いた音楽が一番好きなのだな、と感じてしまうのだ。
 だから以前、同級生とカラオケに行った時に高校時代に流行っていた甲斐バンドとかチューリップの曲が流れ、全員大合唱みたいになった時に「げげげ・・・」と思ってしまったのだ。
 これってガキの頃に何度か見た、第二次世界大戦経験者のじじい達が集まる度に「軍歌」を大声で懐かしそうに歌っていた姿と変わりがない。と言う事だったのだ。私は軍歌と言う物は、音楽的な成り立ちと共に音楽的にも、そしてそれを愛好する人々の姿も大嫌いだったのだ。
 だから「あの当時の音楽」と言うのを「一番」だと思っている姿はカッコ悪いと思ってしまったのだ。
 でも、ほとんどの人が音楽に人生観を繋げて聞いている訳ではなく「たかが音楽」なのだと思う。
 私のように、30代になって「やっぱ最近ではミッシェルガンエレファントがハードでいいよね」とか「鈴木亜美の声質が嫌いだ」とか言っている様なやつは特殊なんだと思う。

 ま、そんなワケでキャンディーズの番組なのだが、あくまでも冷静に時代の検証番組として構成されていた為に最後まで苦痛なく見ることが出来た。
 あの当時「全キャン連(全日本キャンディーズ連合)」などと言っていた団体のリーダーなんかもいい親父になってインタビューを受け手いた。今は冷静に過去を回顧しながら語っている。

 自分が凄く冷静に、突き放してあの当時のキャンディーズの解散劇を見ていたのは、もともと熱狂していたワケではなかったからなのだと思うが、熱狂も悪いことでは無いのかなと、少しだけ思ったりする。
 確かにマンガや小説、あるいはTVドラマでラストが近づいた時(ラストになりそうな時)作者やTV局などに「死なないで」「別れさせないで」と手紙や電話をする困った熱狂的ファンが居たりするけど、そーゆー人々はいつの時代もいたりする。
 かのスティーブンキングの『ミザリー』なんて、まんまそんなファンの話だった。

 燃え尽きる程に熱狂してあの時代を宝物だと思っている人がいて、それとは逆に不完全燃焼のままクールを気取って常に音楽を求め続けて来ている自分みたいな人がいる。
 そのどちらが幸せだなんて事は、今の段階では誰にも判らないのかも知れない。
1998年9月15日(火曜日) 幻の駄作
 とある雑誌の編集にからんだ仕事をしていたりする。
 でもって、作家先生から入ってくる原稿を編集部で整理して、思いっきり読みにくい字や、完璧な誤字などを赤ペン添削(原稿のコピーにね)した物をマックのDTPで段組みをしたり、広告を差し込んだり、と言う編集のラストの版下作業をコンピュータ上でやっていたりする。
 でもって現在、とある小説雑誌の編集をしているのが、雑誌の場合複数の作家が書いた物がバラバラと入ってきて、締切ギリギリまで待ったりする事になる。今回やった物でも、有名な作家、最近話題に成っている新進作家、いろいろな人が作品を書いていて、それを発行される前に全部読めたりするので「役得、役得」と言う感じだったりする。
 とりあえず連載物なんかもあったりするので、途中で担当が代わって別の人が作業をするとなったら哀しいかも知れない。編集しながら「この続きはどーなるのだ?」などと思っていたりする。
 あるいは以前「読みにくい字」と言う項目で書いたけれど、作家の直筆にお目にかかかる事も出来たり「この作家は万年筆」「この作家はサインペン」「この作家はワープロ」などと言う、知っていても役に立たない情報を得る事もできる。

 この手の雑誌を担当していると、発売前に読める・直筆原稿を読めると言う部分以外に、普通の人が味わえない経験がある。本読みとしては、結構うらやましいかも知れない特典なのだ。

 先日も数人の作家が書いた原稿がやってきて、それをコツコツと編集していた。
 これまで読む機会の無かった作家の作品に触れる事もできて、「へぇこの人ってこんな作品を書いているんだ、こんど読んでみよう」などと、思ったりしつつやっていた。
 編集作業はノンブル(ページの隅にある1とか2のページ数)を記入せずにバラバラに行われ、それを編集部に送って、そこでページ数の関係で掲載順番を決めたりするのだ。
 でもって、本文を一通り編集してから数日後、ページ数が決まり、目次と共に最終編集の指定が入ってくる。 と、見ると全部で11作家の編集をしたのだが、目次を見ると10個しかない。
 つまり1つの作品はボツになってしまったのだ。
 確かに編集中も生意気に「これはあんまし面白くないなぁ」などと思いつつやっていた作品がボツになっていた。
 その作品を書いたのは、デビュー5年という感じの中堅まで行かない新人+αの作家だった。文庫本も数冊出ている。

 この先、この作品が別の号や、別の雑誌に掲載されたり、単行本に書き下ろしとして掲載されたりするかも知れない。あるいは、そのテーマで別の展開をさせたリニューアルした作品として出てくるかも知れない。そして、あるいは永遠に封印されてしまうかも知れない。
 とにかく、人目に触れない可能性が高いのだ。
 マニアな趣味だけれど「ボツ原稿」を読めるって言うのは、かなり悪趣味で特殊な特権だと思うのですが、いかがな物でしょうか?

1998年9月16日(水曜日) サラリーマンはつらいよ
 15日から雨がドシャドシャ降っている。かなり激しい雨の音が外から聞こえてくる。
 15日夜現在:TVの中では台風が接近しています。翌朝の6時頃に上陸するでしょう。などと言っている。
 おいおいマタかよぉと思いつつ、二階から雨の状況を見ようと夜8時頃、窓を開けると・・・我が家の前にある空き地には前回以上の車がドヒャドヒャと避難して集結していた。
 (翌朝、母親が数えたところ30台停まっていたという)
 完璧に、2週間前に冠水してしまった地区の人々は神経質になっているようなのだ。
 さらに夜11時頃、窓の外を見ると避難が遅れた車が多数、右往左往して安住の地を求めさまよっていた。でもって、我が家の前を横切るドブがすでに氾濫して道と道路の境界線が曖昧になっていた。
 おいおい、大丈夫かよと思っても、さらに雨は激しさを増すし、台風が来るのはこれからだったりする。
 とりあえずベッドの中に入るが雨の音が激しく「こりゃ自分も神経質になっているかな」とか感じていた。
 夜中の2時近く、前回冠水した地帯を廻っている消防署の人々が「避難してください」などとスピーカーを使って叫んでいる声が、激しい雨の向こうからぼんやりしていた。
 そして、いつの間にか眠りについていた。

 翌朝(今朝)6時頃に目が覚めた。
 外は予想を裏切って、雨が止んでいたが、ニュースでは台風が上陸したと言い、あちこちで電車がストップしていると告げている。
 うぬぬ、と思いつつ私はサラリーマン、しかも今日やらなければならない仕事があるのが判っているので、いつも通りに車に乗って出かけるのであった。

 と県道に出る交差点にさしかかった所、左折方向には「通行禁止」の看板が出ていた。前回の大水でベンツが水没していたあの方向なのだ。そっちを見ると、前回ほどではないがやはり温泉場の入り口は冠水して車は絶対に通れない状態になっている。
 私は通勤に使う道が逆の右折方向だった。
 冠水している処も少し気にはなったが、会社へいかなければいけなのだと、右折しようとした所、その交差点に他っていた近所の顔見知りのおじさんがこっちに向かって手を振っていたのだ。
 僕はウィンドウを開けずに軽く会釈して通り過ぎた。
 しかし、その手を振ったのが「おはよう」のポーズで無かったのが判るのに時間はかからなかった。
 その交差点から少し行った所で道が無くなって川になっていたのだ。完璧に行くべき道がなくなり、激しい流れがそこにあった。ここがこの調子だから、この先にあるカーブした所にある(家で見えない)橋と、その先も同様なのだと瞬時に理解できた。そこは前回、渡し船が出ていた場所だったりする。
 車からとりあえず降りて、その激流の向こうから歩いてきた人に聞いたところ「あの調子じゃ、車が通れるのは午後までダメだね」と言う事だったのだ。

 うぬぬぬぬ・・・・と僕は腕組みをした。
 頭の中で黒い服を着た悪魔くんが「休んじゃえ休んじゃえ、今日だったら理由が明確で誰も反論出来無いぞ」などと囁いているのが聞こえてきた。
 それと逆の方向で白い服を着た天使くんが「でも今日やらなければいけない仕事があるだろ、今日休むと他の人に迷惑がかかるぞ」などと、かなり真っ当な事を言ったりしているのだ。
 うぬぬぬぬ・・・・私は、結局長年の経験で身に付いてしまったサラリーマン根性を発揮させてしまったのだ。
 「なんとかして会社に抜けるルートを確保しなくては」
 そんなワケで、この地区から抜けられるもう1本の道に急いだ。そこは畑と川に挟まれたやや広い農道という感じだったので、かなり危険な状況になっていたが、うっすらと水が広がるその道をどっしゃーっと水をはじいて車で走り抜けた。(道と冠水した畑の境界線が見えなくなっていた)
 さっきまで降ったり止んだりの小雨状態だったのだが、いつの間にか雨が降り始めて来た。ついでに台風らしく風も激しさを増してきた。あと、30分もしたらこの農道も通れなくなるかも知れない。

 僕はその農道を一気に走り抜け、その先の急な坂道を駆け上がり普段来たことのない道を、広い道路めざして急いだ。
 その坂道の途中にも何カ所か横に抜ける道が存在しているのが、そこにはすでに「通行禁止」の看板が出ていた。
 かなりルートが絞り込まれていると言う感じなのだ。
一瞬のうちに、前回の大水の時に冠水したとニュースで言っていた地域やルートを検索した。
 「あそこと、あそこは、たぶん今朝もダメだ・・・となるとこのルートだな」 前回の大水の時は完璧に地元に閉じこめられてしまった為に、それ以外の地区の状況は見えなかったがこの辺も凄かったのかもしれない。

 やっと県道に抜けたのだが、すでに道は大渋滞で完璧にノロノロ運転になっていた。
 その後も何カ所か「通行禁止」と言う看板が立てられており、その中をなんとか会社までのルートを走り抜けるのであった。

 途中、通勤道路の中で一番大きい、沼津にある御成橋の所でまたしても渋滞で止まってしまった。
 その大きな橋の下を濁流がごわんごわんと激しく、しかも橋にあと数メートルと言う高い水位で流れてゆく。
 川の周囲にある河原公園やイベントをする為の場所などは完璧に水没している。
 そんな橋の上で約3分ぐらい、まったく動けなくなった時は「今、橋が流されてもおかしくないよなぁ」などと恐ろしい考えになってしまうのであった。

 とにかく天災は恐ろしいのだ。

PS.
 前回の大水が出たあと、地域で話し合った所「今年の秋祭りは中止」と言う結論に達した。
 それ以外に地区の運動会も中止になったのだが、それは予定日が大水の翌週の日曜日だったから当然なのだが、秋祭りの中止は困った物なのだな。
 なんと今年は、私がお神楽の獅子の中に入って「獅子舞」を踊る予定だったのだ。
 秋祭りは10月に行われる予定だったが、10月なら大水も関係ないだろ?中止にする必要ないじゃん、と思われるだろうが、世間が許さないらしい。
 今、全国規模で「大水の災害にあった地域に義援金を送ろう!」と言う状態の運動があって、私の住む地域にも義援金が送られてくる事になったらしいのだ。
 でもって「義援金を受け取っている地域で、祭りなんかをやるのは言語道断です」と言う、感情もあるらしい。いろいろそういう事例が過去に別の地域であったらしく、結局「義援金」を受け取るのだったら「秋祭り」は中止と言う状態になったらしい。
 でも、秋祭りって農民信仰の一部で「今年の作物に感謝」「来年の作物に期待」をしたり、「来年は災害のありませんように」とお祈りをすると言う意味があると思ったのだが・・・・。
1998年9月17日(木曜日) 目の中の光
 私は基本的に日中はサラリーマンをしている為にワイドショーなどを見ることがない。(ついでに写真週刊誌と呼ばれる物も見ない)
 だからニュースは、行き帰りの車中でラジオか、夜10時台からのニュースが中心になる。面白そうな番組がないかぎり「ニュースステーション」を見たりする。
 でも、あの番組は番組の最初に「今日のニュース一覧」という状態の『ヘッドライン』をやらなかったりするので、途中のスポーツコーナーとか特集とかがじゃまだったりする。
 そんなワケで、ワイドショーで騒がれている「某相撲取り」とか「X-JAPANメンバー」の洗脳事件の話題はほとんど耳に入ってこない。
 どうやら、その辺がワイドショーでは大きく取り上げられているらしいのだが。

 私はどっちの人物にも思い入れはなかったりするので、あまり深い感想は持たないのだが、相撲取りの方なんかは「洗脳」されていたって勝てばいいじゃん。と言う気がしちゃうのだな。
 なんせ相撲を始めとしてスポーツなどの最終目的は「勝つこと」なのだから、精神的にどっちの方向に行ってしまったとしても「強い物が正義」と言うルールなのだと思う。
 お兄ちゃんと仲良く、パパや叔父さんとも仲良く、和気あいあいとアットホームなファミリーを見せられても相撲には関係ないと思うのだ。
 よくロック歌手が大麻などで捕まった時など、その音楽まで否定しちゃうような報道がなされたりする。そしてしばらくの間、放送禁止になったりする。
 そりゃ変だよな。とずっと前から思ってしまう。
 確かに大麻なんかは法律で禁止されていてやっちゃいけない物なんだから本人は逮捕されてもかまわないが、その作品の善し悪しってのは別次元なのだ。
 そんな感じで、洗脳されたからどーだとかって言うのは、結局意味のない事だと思ったりする。
 たしかに、数年前の「オウム真理教」の記憶がまだ生々しいので「洗脳=悪」と言う事になってしまうけれど、その本人がいいと思っているんだからいいんじゃ無いかな?
 ま、本当に近くの人々はそれに関して被害を被っているのかもしれないので、大変かもしれないが。

 この場合「洗脳」をしたとされている人物はこれと言って「宗教」をやっている人ではない。ここ数年、新興宗教を法人化するのが難しいらしいので、もしかしたら以前の様に規制が緩やかだったら宗教団体になっているような所なのかもしれないが。
 でもおかしいなと思うのが、新興宗教的な人物に教えを説かれてその考えによって別の思考方法に開眼する事を完璧に悪だと言っているような気がする。
 しかし、いわゆる普通に認められている様な新興ではない宗教の教えで開眼した場合は、洗脳とはあまり呼ばない。そんでもって悪いことだとは言われないのだ。
 その新興宗教か?、そうじゃないか?のボーダーラインはどこで引かれるのだろうか?と考えると難しい物があったりする。

 なんせ、今現在は学校なんかも経営している(宗教団体より学校の方が有名かも知れない)某宗教団体なんかの場合、その存在が世間に認められている為に信仰する事が悪いことだとは思われていない。
 が、歴史を調べていくとその教団のベースになる物は、戦前に誕生しているのだが、そのいわゆる教祖様は最終的に「信者の女性多くをだまして肉体関係を強要した」と言うことで逮捕されちゃっているのだ。つまり「愛の家族(だっけ?)」とか言う、フリーセックス教団みたいな物だったのだ。
 その後、第二次世界大戦が終わった頃、ナンバー2だった人が、それ以前の教典をほぼそのままに別の宗教団体名で再スタートを切り、現在に至っていると言う物だったりする。
 今、オウム真理教の残党が別の団体名で活動したらニュースネタになるでしょ。それに近い状態だったのだ。(いろいろ怖いので深い事はかけないけど)

 他人に迷惑をかけなけりゃ、自分の人生どー生きたっていいと思うのだな。
 でも、洗脳されちゃう人って結局、自分の中に核になる物がないって事だったのかな?
1998年9月18日(金曜日) 4年後
 いやぁイタリアに行った中田くんは調子いいねぇ
 日本人としてホコリに思っちゃうよ。
 などとはあまり思わないけれど、がんばっているって事はいいことだ。

 しかし、ふと思うんだけど、つい数カ月前だよね・・・・ワールドカップって。
 たしかあのとき、日本の何処を見ても「サッカー」「サッカー」と大騒ぎして「俺はサッカーファンなのだ、ワールドカップに日本が参加するこの日の事をずっとずっとずっと待ちわびていたのだぁぁぁぁぁぁぁ」と多くの人が叫んでいた。
 私は「おぉそうかそうか、よかったよかった」と思いつつ、多くの人がチケットをとれない状況などを冷静にシニカルに見ていた。
 そんでもって多くの人が「まったく、ワールドカップの時ばっかり騒ぐ、にわかファンが多くてイヤになっちゃうね」などとぼやいていた。
 私は「そうなのかそうなのか」と思っていた。

 しかし、ワールドカップも日本が3試合で大敗した瞬間、しゅるるるるるるる・・・と大きな掃除機のコードを巻取るような音と共に、騒ぎが納まってしまった様な感じだったのだ。
 まだ、本当の戦いはこれからだと言う時に既に日本ではワールドカップは終わっていた。

 そして、2ヶ月ほど経った。
 今は大リーグでマグワイヤとソーサがホームラン争いをしていたり、日本野球もパリーグが混戦の度合いを深めていたり、色々大変な事になっているのだ。
 そして、ふと気が付くと「え?サッカーってまだやっていたの?」と言う状況になっていたのだ。
 いわゆるJリーグの普通の試合が行われているらしいのだが・・・・・

 「ワールドカップもいいけど、Jリーグもよろしく」と言っていた中田はとっととイタリアのチームに移籍しちゃっているし・・・・・
 4年後の日本と韓国が協同開催するワールドカップの時までJリーグが存在していますように、などと秋の夜空にお祈りをしてしまう私であった。
1998年9月19日(土曜日) スポーツの中のヒール
 いつだったか、高校時代の友人が「俺は子供の頃、野球に誘われるが大嫌いだった」と言った。
 僕も少年時代、運動が好きか?嫌いか?という状態で考えた時には激しく「嫌い」の方にベクトルが傾いていたりするような、内証的な子供だった。基本的に3月生まれと言うのは小学校低学年にはかなり不利な状況だったりするのだ。なんせ4月生まれの同級生とはほぼ1歳も離れている。あの時代の1年というはの恐ろしいものなのだ。
 そんな理由もあって、小学校の出だしに「体育の授業嫌い」と思いこんだ僕はその後もずっとスポーツとは無縁の人生を歩むことになってしまったのだ。

 しかし友人の「野球が嫌い」というのは根本的に違う理由だった。
 友人の場合まず「とうぜん俺はピッチャーなんかにはなれない」という部分から全ての理論はスタートする。
 「となると、野球マンガなんかではピッチャー以外は物語の脇役でしかない」という部分がまず嫌いだったらしい。
 さらに「しかし1つの試合にピッチャーはこっちと向こうに2人存在している。もしかしたら物語の主人公は向こう側のピッチャーで、それに相対する俺は『敵役』つまり『悪役』という事なのかもしれないぞ」
 そんな理由で子供の頃から野球が嫌いだったと言っていた。

 うーむ、それはかなり屈折しちゃっているかもしれないぞ。
 しかし、マンガや小説以外の部分でも基本的に盛り上がるのは「敵」という存在があったりする場合だったりするのだ。
 恋愛なんかでも、二人を阻む障害が大きければ大きいほど勝手に盛り上がっちゃったりする。あるいは職場なんかでも、徹底的にウザったい同僚なんかを目の敵にする事で、それ以外の職場のメンバーが盛り上がって一致団結しちゃったりする場合がある。
 それはスポーツでもそうなのだ。
 その辺りにいち早く目を付けたのがプロレスってヤツで、外国から来た得体の知れない相手はみんな「悪役/ヒール」だったのだ。
 基本的にスポーツってヤツは、鍛錬した技と技のぶつかりあいで、それ以外の部分ではお互いに普通の人間同士だったりするのだ。
 それを完璧にショーアップして、悪役レスラーはとにかく普通の会話が成立しないほど乱暴者で、ちょっとでもスキがあれば暴れて、隠し持った凶器で攻撃を仕掛けてきて・・・・と、ことさら悪者ぶりを演出したりするのだ。(人間的感情を持ち合わせていないハズなく普段はちゃんとした生活をして、パスポートだってちゃんと作っているのだ)
 でもって、その憎たらしさが頂点に立った所で、日本の正統派レスラーが、少し苦戦したりしつつ、最終的にはえいやったぁぁぁぁ!と見事にぶちのめし、観客は「やっぱし正義は必ず勝つのだよなぁ」などと考えたりするのだ。
 ときどき、悪役が勝ってしまう事もある。しかしこれの場合は、通常1話完結のプロレスのスペシャル企画で「連続物」として次回の試合を盛り上げる為の手段だったりする。
 かのウルトラマンシリーズなんかでも(最近のは知らないけど)、ときどきとてつもない強敵が出現してウルトラマン最大のピンチ!という状態で翌週へ続いたりする。
 そーなるととにかく盛り上がったりするのだ。
 空を飛べるハズのウルトラマンが「あの怪獣は周囲にバリアを張っている!それを飛び越せなければ勝ち目がない」などと言って、人間の姿に戻って森の中でジャンプの特訓をしたりするのだ。

 そんな訳で盛り上がる為にはスポーツにも悪役が存在する必要がある。
 もっとも悪役と言っても、ちゃんとルールに則っているワケだからなんら問題は無いのだが、とにかく態度がでかいとか、悔しいぐらいに強くてふてぶてしい、などと言う理由で悪役的存在になったりする。
 でも、そんな悪役にもちゃんと熱狂的なファンが付いたりするのだ。
 で、さらに盛り上がる。
 いいことだ。

 大リーグに行った伊良部なんかは、典型的な「態度悪い」タイプの悪役なのだ。顔つきも元々「いい人」には見えないのでそれは正しい選択だったと思うが、あくまでも悪役的な自分のスタイルを崩さない伊良部はかっこいいと思う。(強いのかどーかは興味ないので全然知らないが)
 それに比べて、例の中田くんはあの態度をヨーロッパでも貫き通して欲しかったっす。

 そんなワケで、今年はオリンピックだ!ワールドカップだ!横浜悲願の優勝だ!と色々なスポーツが盛り上がっている中、ちょっと地味だった相撲ですが、ここも突然盛り上がりを見せている。
 なんと言っても品行方正が基本のいい子チャンの国技・相撲にひさびさに「悪役/ヒール」が誕生したからなのだ。
 それも、ついこないだまで優等生の頂点にいた貴乃花が突然のヒール宣言をしたからなのだ。
 普通、それまで正義の味方だったウルトラマンとか仮面ライダーなんかが暴れ出して悪役になったりしちゃった場合、考えられる理由は「実はそっくりに見えるが偽物/マフラーの色がわざとらしいくらいに違う」「電子回路を電波などで狂わされ遠隔操作をされている」という辺りがポピュラーなのだが、貴乃花の場合は後者の理由だと言う噂なのだ。
 しかし、おかげで千秋楽で兄弟対決が!!!!!!!などと、かなり無責任にサンダとガイラ的に盛り上がってきているのだ。

1998年9月20日(日曜日) 主食戦線異常あり
 普通、ドラマなどに出てくる田舎と言うと、町まで1時間とか、あまり文明に毒されていない処を言うのだろうが、僕が育った場所は田舎と言えば田舎で、我が家の前にはまだそこそこ田園風景(農地改革で稲作農家は減ったが)が広がっている。
 バスは確かに夜の8時で終わってしまい、自家用車などの交通手段を持っていない人はそれ以降は、暗い夜道を延々と歩くか、駅前でタクシーを拾って帰るしか手段はないのだ。
 しかし、買い物をしようと思えばちょっと出れば何でも揃うし、駅も1駅行けばそこから新幹線に乗れるし東京までも新幹線に乗れば1時間って処だったりする
 ついでに、僕が小学校中学校の時代というのは、この僕が住んでいた町は高度経済成長期と列島改造論の影響で「日本で一番人口増加率の高い町」と言うワケの判らない順位で1位を取ったことがある。
 なんせ小学校に入学した時1学年4クラスしかなかったのが、卒業する時には7クラスになっていたのだ。
 たぶん「東京まで新幹線を使えば1時間」と言う事で通勤圏内に入った事も要因だと思う。

   中途半端な田舎で育った僕は高校を卒業したあと、東京に出た時もそれほどカルチャーショックは無かった。
 たしかに、下北沢などを中心にした演劇文化とか、タウン誌を中心とするミニコミ雑誌と言う物は田舎までには流れてきていなかったし、音楽の好みの問題でも田舎はいまだに音楽は70年代フォークブームを引きずっていたのに対し、東京はロッカーズ・シーナ&ロケット・モッズなどをベースにしためんたいロックなどの時代でRCサクセションなどが出てきていた。
 僕の中にある私的音楽史ではそこでキッチリと「フォーク期」と「ロック期」に分類する事が出来ている。
 カルチャーショックは生活の中ではほとんど無かった。
 なんせ、美術学校なんて処に入ってしまったので、そこで知る美術的な事の方が刺激が大きかったと言うのがあるのかも知れない。

 しかし、食生活の中でカルチャーショックを受けた事が1つあった。
 高校時代の友人の山田くんも東京に出てきた1人なのだが、ある日僕の住んでいたぼろアパートにやってきて「吉祥寺でケンタッキーフライドチキン買ってきた」などと言って、いい臭いのする箱を目の前に差し出したのだ。
 僕はあまり肉関係が好きでは無かったと言う理由と田舎にはケンタッキーが無かったと言う理由で、その年までそれを食べたことが無かった。
 で、山田君は「冷めないうちに食べようぜ」などと言って無造作に箱を開けたりするのだ。
 僕の古本と絵の具の臭いしかしない四畳半に突然、あの臭いが広がった。
 はっきし言って肉の臭いと言うより、スパイスの臭いと言う感じなのだが、僕の初体験はそんな感じで訪れたのだ。
 うむうむと味わいつつ、しばらくして「はっ」と衝撃的な事に気が付いてしまったのだ。
 「こ・・・・この食事には主食がない!」
 そうなのです。根っからの日本人の私としては「基本は米」と言うのが純然とあり、その周囲におかずが存在していると言う図式以外の食事は考えられなかったのだ。
 しかしケンタッキーフライドチキンをわしわしと食べている現在ここには主食と言うべき「米」も「パン」も無いのだ。
 これまでの人類の食生活の歴史を考えて見ると、肉食中心と言われる欧米でも小麦をベースにしたパンと言う存在が主食としてある。なんせ有名な「人間はパンと水だけでいきるにあらず」と言う言葉があるように、キリストさんも「パン」を主食として認めているのだ(←キリストの言葉ではないかも知れない)
 あるいはアメリカに昔から住んでいるインディオさん達(ネイティブアメリカン)の場合は、トウモロコシを原材料にした物を食べていたという。
 いわゆる穀物と言うことで「米」「小麦」「トウモロコシ」と言う物は当然の様の存在しているのだ。
 それをケンタッキーフライドチキンを貪り喰っているその場では「主食=鳥肉」と言う状態になっているのだ。そして「おかず=鳥肉」と言う感じだったりするのだ。
 田舎で育った自分は家庭で出てくる「ごはん」「おかず」「みそ汁」そして箸休めと言われる「漬け物」と言うセットが食事と認識していたので、この「主食=肉」と言う形態の食事はカルチャーショックだった。

 しかし、今考えて見ると、フライドチキンの周囲の皮に当然小麦粉を使用しているので、あれが主食なのかも知れないなどと思ってしまったのだ。