杉村ぐうたら日記(1998年9月21日〜30日)

▲1998年9月21日:月曜日:男の子危機一髪
▲1998年9月22日:火曜日:台風接近
▲1998年9月23日:水曜日:1000円ポッキリ
▲1998年9月24日:木曜日:史上最低の犯罪金額
▲1998年9月25日:金曜日:食生活
▲1998年9月26日:土曜日:吾輩は読むのである
▲1998年9月27日:日曜日:チョーン、パッ!
▲1998年9月28日:月曜日:洋楽を聴くのは特殊な人
▲1998年9月29日:火曜日:松葉
▲1998年9月30日:水曜日:ともさかりえは天国的なお嬢様か?
1998年9月21日(月曜日) 男の子危機一髪
 一日の内、もっとも幸せな時間というと、やっぱし夜。それもさほど残業もなく早めに帰って来れた日に温めのお風呂にじっくり入って「極楽極楽」などと言いつつ出てきてパンツ&Tシャツのみで涼んでいる時だったりする。
 まさに今日の夜の時間がそんな感じだったのだ。
 お風呂から上がってぼや〜っとふやけた頭で「今日はTVで何をやってんのかな?」などと新聞のTV欄をチェックしつつ、フローリングの床に直接座り込んだ。
 「いつもやっているあの番組はスペシャル番組で無いのか・・・そうか、もう秋の番組改変の季節でこんな特別番組ばっかりの時期になってしまったのかぁ、えっと9時から・・・・・」  などと頭の中で考えていた時だった、突然、股間にかゆみを感じたのだ。
 ま、汗をかいて血液の流れが活性化しているので、そーゆー事もあると思う。私は何気なく股間をパンツの上からカイカイカイとかいた。
 しかし、その股間のかゆみ感は「痒い」と言うのとはちょっと違う感じで「モゾがゆい」と言う感じに変わったのだ。
 ??と思いつつ、さらに股間を無造作に掻いてみた。
 と、突然股間に激しい痛みが走った。それと同時に痛みのすぐソバでモゾがゆい感覚が激しさを増したのだ。  「うわぁぁっ!」
 と、慌ててパンツの左足が出ている側をめくり上げてその中の宝物殿をチェックした。
 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と私はさらに衝撃を受けてしまったのだ。なんと、その宝物殿のすぐ横、足と宝物殿の中間地点に2センチぐらいのちっちゃなムカデがかみついて、さらに体をうねうね動かしていたのだ。
 私は慌ててムカデを手で払いのけて、その床に落ちてジタバタもがいているムカデを手元にあった雑誌で叩き潰した(殺生しちまったぜ)。
 「はぁはぁはぁ」と息を荒くしつつ、そのムカデに咬まれた付近をチェックした。その姿は端から見たらかなりみっともない物だったりするだろうが、そんな事を言っている場合ではないのだ。ムカデを引き剥がした現在でもジンジンと痛み続けているのだ。
 その地点はちいさく赤く腫れていて、蚊に刺されたような状態になっていた。
 とりあえずツメを立てて掻いてみたが、ジンジンする痒みは一向に治まりそうも無かった。さらにかゆさと腫れが激しくなっていくような感じだったのだ。
 このまま腫れが酷くなって大きなしこりになって、3個入り宝物殿になってしまったらどうしたらいいのだろうか?などと意味不明の事を考えてしまうほど、その時は焦っていたのだ。
 このまま腫れてしまった場合は、やっぱし医者に行ってこの状態を見せなくてはいけないのだろうか?とか、陣内孝則がCMでやっている「かゆみぃぃぃ!」と言うあの薬は、この痒みに効くのだろうか?などと、色々な事が頭の中を通り過ぎて言った。
 そのうち、その痛み痒みは引いてしまったが、今でもそこを触ってみるとかすかな痛みが残っている。
 まったく、2階建てのそんなムカデなんかが出るハズの無い場所での事件だったので、かなりビックリしてしまったのだ。
1998年9月22日(火曜日) 台風接近
 今年は異常な程に台風が少ないねぇ
 などと8月の中頃に言っていたのだが、ここの所連続どかんどかんと台風が全部本土直撃って感じなのだ。いやぁまいったまいった。
 8月末に記録的な大水で近所が激しく冠水して、その傷跡も癒えぬ内の9月16日に台風が来てふたたび床下浸水した家多数という状態だったりする。
 確かに、東北や、ここ数日の四国などのニュースを見ているとこっちなんか比べようが無いほどの大水で、車が一気に40台だかが特撮映画のミニチュアみたいに(それ以上にもろく)流されていたりしているので、私の言っている大水なぞ甘いのかも知れないが、こっちはこっちなりに大変なのだ。
 8月末の大水で床上浸水した家なんかは、タタミはダメになるし、1階にあって移動できなかった電化製品はダメになるし(なんと冷蔵庫が浮いていたという)、最近の家は壁と壁の間に断熱吸音材などがあって、それが全部水を吸ってしまって壁を全部作りなおさなければいけなかったり、さらに家の中・周囲にはドブの臭いが充満しているというとんでもない状態になっているのだ。
 そんなこんなで家を完璧リフォームしなければいかん・・・という人は慌てて業者に頼んでトンテンカントンテンカン始めていたらしい。
 そんな所にまたしても大水で床下ぎりぎり浸水で、また配管や外のプロパンや下水などに被害が出て・・・結局、完全にリフォームするには150万はかかると言う状態になってしまったという。
 うーむなのだ。
 今、県東部大水害の義援金というヤツが多くの個人や企業から送られて来ているらしく、新聞によると総額は最終的に億の単位になるらしい。
 が、その義援金はあくまでも地方自治体に送られてきていて、あのTVニュースで写されていた水没した民家には直接送られることはない。山の中の崩れた所や、危ないところの修理補修に当てられてしまうのだ。
 少しだけ床上浸水した家なんかにも送られるらしいが、そんなのはリフォームに来た職人さんに「ごくろうさまです」と言ってお茶菓子を出したら終わってしまう程度の金額らしい。
 うむむむむ、と考えてしまいますな。

 しかし、以前も確かにこの地区は水が溜まり易かったのだがこれほどではなかった。
 何故なのか?という事なのだが、実は以前は完璧に畑(水田)が広がる農作地帯だったのだ。それがここ数年の開拓で、多くの畑に土を入れて少し高く盛り上げて・・・という状態で駐車場になったり宅地になったり、ビニールハウスを建てたりしているのだ。
 そのおかげで、以前ならば畑に逃げていた水が逃げ場を失って一番低い道を中心に大水没地帯になってしまったのだ。
 うむむ、これって結局人災だったワケっすね。

 今日、台風がやってくると言うのは昨日のニュースでも何度も何度も言われていた。
 しかもここがまたしてもルートになりそうなのだ。
 と言うことで、必要以上に神経質になってしまった近所の人々は雨の降っていなかった夕べの段階から我が家の前にある空き地に車を大集合されていたりするのだ。
1998年9月23日(水曜日) 1000円ポッキリ
 今日、痴漢をしてて捕まった男のニュースをやっていた。
 なんでも、電車の中で数回に渡って同じ中学生女子に痴漢行為をしていた男が、毎回毎回痴漢をした後に「お礼&お詫び」にその女の子のカバンの中に1000円札を入れていたという。
 そして何度目か判らないが、とうとうその女の子が意を決してその男を捕まえたというのだ。
 その男は50歳ぐらいで、つい最近女房と別れただかで「寂しくなってつい」と言ういいわけをしていたと言うが、本当にしょうがねぇなぁって感じがしちゃうのだな。1000円じゃなくて10000円だったらきっと女の子も訴えなかったと思うぞ、まったくそんな処でケチっているオヤジだから女房に逃げられちまうんだよ、などと言う問題ではなく痴漢行為自体が「最低」の行為だと思うのだ。
 性欲やら何やらのはけ口をオナニーとか風俗とかに求めるのだったら自分の勝手なのだが、痴漢行為は相手に嫌な思いをさせるだけって事に気が付いていないのかも知れない。

 知人で「女だって嫌がっていたって、結局感じるんだろ?女だって基本的にエッチな生き物なんだよ」などと、とんでもない事をいうヤツがいた。
 ハッキリ言って、それって三流エロビデオとか三流エロ漫画の見すぎなんじゃないの?
 確かにあーゆー作品なんかだと痴漢されても、はたまたレイプされても、いつの間にか女性の方も「はぁはぁはぁ」などと言って自ら積極的になってしまったりするのだろうが、なーんか現実感の無い男側の身勝手な想像って感じなのだ。
 いわゆる男の場合は(あくまでも一般的なイメージで)ある種、哀しい性で性的な気持ちを、恋愛感情とかなくてもぶつける事が出来たりする。つまり、風俗とかに行ってそーゆー事が出来たりすると言う事がそうなのだと思ってしまうのだ。
 そーゆー場に行って、どんな相手が出てくるのか判らないがランダムに出てきた相手と色々な事を出来てしまうってのは、うむむと思ってしまうのだ。私は残念ながら風俗に行った事がないしこの先も行く予定はないので、実際にそーゆー場に行った時に結果を出せるか判らないのだが・・・。
 僕が凄く特別な人間かも知れないので、この意見は凄く特殊な物かもしれないのだが、身勝手な痴漢行為はいかんよと思ってしまうのだな。

 自分がそーゆー「エロエロな気分を売りにする場や人間」が基本的に苦手なのかもしれない。いわゆるホステスさんなんかがいる様な店で、お仕事として必要以上に愛想を振りまいて体を密着させてくる女性に対して「エロエロ」な気持ちを抱く以前に「うっとぉしい」としか感じなかったりする。
 そりゃ、好きな相手と体を密着してエロエロな気分になるのは好きだが(二人だけの時っすよ)、なんか恋愛感情もなしに「女=大好き」みたいな図式はあんまし持っていない。
 そんな僕の立場から見ていると、ある意味で男ってヤツはその手の女性に簡単な存在として見られている様な気がしちゃうのだな。

 なんか、最終的にやっぱ愛がなくっちゃね。
1998年9月24日(木曜日) 史上最低の犯罪金額
 またしてもニュースネタだが、先日、住所不定で車の中に寝泊まりをしていた男がちょっとした犯罪を犯して逮捕された。
 その犯罪金額は「2円40銭」と言う超微量な物だった。
 なんでも、その男は車の中にTVなどは設置してあったと言う。そしてTVゲームの機械も持っていたと言うのだ。ま、最近はカーナビでゲームが出来たり色々あるのでそーゆーのもありなのかも知れない。
 が、この男、無職でこの様な状態を繰り返していたのでガソリンを買う金さえほとんど所持していなかった。だから普通ならばカーバッテリーから電源を引けば良かったのだが、そんな事情で節約しなければいけなくなってしまったのだ。
 そこで、町の片隅にあった自動販売機の電源をひっこぬいてそこにTVゲームのコンセントを差し込み、車内で楽しくゲームにいそしんでいたらしい。
 しかし、今の自販機って盗難防止の為に無理矢理開けたり、今回の様に電源を抜いたりすると、警報が警備会社の方に行くと言う仕組みになっていたりする。
 でもって、今回の逮捕と言うことになってしまったらしいのだ。
 その間に使用していた電気代が約1時間で総額2円40銭と言う状態だった。

 これまでも、駅の改札の人が乗り越し客の支払った40円を何気なくポケットに入れて、すっかり忘れてその金をジュースを購入する時に使った事がバレて、懲戒免職処分になったなどという低額犯罪のニュースはいくつかあったが、さすがにここまでの低額の犯罪はないだろうなぁ
 懲役は何年なのか、罰金はいくらなのか、凄く興味のある処なのだ。
1998年9月25日(金曜日) 食生活
 僕はあんましグルメではない。
 やっぱし牛肉は松坂牛だよなぁとか思わない、肉は肉だったらよっぽどひどい物以外は全て有り難いと思ってしまうのだ。
 食事にあれこれ文句を言うのなんて愚か者だと思ってしまうのだ。
 私には海原遊山の気持ちはぜーんぜん分からない。
 とりあえず腹が減って目の前に食事があれば、食べる。文句なんてほとんど言わずに。
 確かに好き嫌いって物もあるが、そんなに人生に取って重大な好き嫌いとしてあるワケではない。

 最近ハッキリ分かったのだが、僕が食に関して「嫌い」と言う場合の基本は「食感」らしい。
 ここで嫌いな物を少し列挙してみると「鍋焼きうどん」「刺身/生魚」「煮たナス」などがある。これを嫌いだと言うと「うどんが嫌い」「魚が嫌い」「ナスが嫌い」という感じで記憶されてしまうのだが、はっきし言って「うどん」も「魚」も「ナス」も嫌いではない。
 普通の釜揚げうどんは好きなのだが、鍋の中でぐつぐつと煮込まれたうどんが嫌い。
 焼き魚も干し魚も好きなのだが、刺身で出されるとかなりキツイ。
 焼きナスもナスの漬け物も好きなのだが、マーボーナスなどで出されると辛い。
 その嫌いに一致する条件は「ぬるぐちゃ」と言う事になる。
 どーして?と聞かれても理由がないぐらいに嫌いなのだ。こればっかしはどーしよーもない。

 そして最近特に思うのは自分は食に関してすごく淡泊だと言う事なのかもしれない。
 普通の人は「昨日の夕飯はラーメンだったから、今日は何しようか?」などと悩んでしまうかも知れない。あるいは食卓に昨日と同じ料理が並んでいたら「こんなもん喰えるかぁ!」と星一徹のようにテーブルをひっくり返すかも知れない。
 しかし自分は、毎日同じでも全然気にせず食べてしまうのだ。会社の食堂で1カ月続けてコロッケ定食を食べていても他人に指摘されるまで気が付かないような人だったりするのだ。
 あぁ面白味の無い人だなぁ

 そんなある日、本で作家の稲垣足穂のエピソードを読んで共感してしまった。
 この稲垣足穂も食に関してすごく淡泊な人だったらしく、食事なんて物を1日に何度もするのは時間の無駄遣いだと思っていた。しかも、食事をしてもどーせ半日から1日すればトイレで排泄しなきゃいけないと言う事にも無駄を感じていた。
 そこである日「合理的」な方法を思いついたのだ。
 どうせトイレで排泄してしまうのだからと、トイレにおにぎりを捨てたのだ。これで無駄な時間が削減されるぞと思いながら。

 かなりお間抜けな話だが、ある意味で僕も同じような事を考えてしまったりするのだ。
1998年9月26日(土曜日) 吾輩は読むのである
 私は基本的に本読みな人だったりする。
 小学校の頃からワシワシと読んでいたが、本格的に読み始めたのが中学の頃だった。それがずっと続いて来ている。さすがに学生時代と比べると時間的な余裕が無いので、読書をしたくても「その前にあれをかたずけないと」などと、色々大変だったりする。
 それでも年間100冊読書は自分に架した課題で、それを数年続けている。架さなくても、気が付くと100冊は読んでいたりするのだが、先日ふと思ってしまった事がある。
 いわゆる教科書などで書かれていたりする「近古典」と言う物を読んでいなかったのだ。
 児童文学とか子供向けに略された本ではなくて、ちゃんとしたのを読み始めたのが小学校の高学年からで、本格的にワシワシと読み始めたのが中学生になってからだったりするのだが、そんな生意気盛りの中学生は本を読んで中途半端に世界が広がってしまった為に「今更、過去の作品を読む必要ないじゃん」などと思ってしまったのだ。
 評価の定まった「名作」と万人が認める物を今更読んでも得る物は少ない。などと、生意気にも思ってしまったと云うことなのだ。
 そんでもって、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治や川端康成や・・・・ほとんど読まずに今まで来てしまった。  なんせ、中学の時にどどーんとハマってしまったのがSFで、推理小説でと言う感じで、その辺の文豪たちの作品とはかなり離れた処を歩く結果になってしまった。
 古典を読まない。名作と評価が定まった物を読まないなどと云いつつ、「やっぱSFはアシモフやハインラインからちゃんと読まないといかんよなぁ」などと云っていた、結局の処、ただ『教科書的』な臭いのする物に反発していただけだったのかもしれない。
 そんなワケで最近文庫で「夏目漱石フェア」などと銘打って多数出て、しかも本屋の文庫本コーナーで特集まで組んでいたりするので、その商業主義に見事にハメられて購入して読んでしまったりする。
 うむむむむ、これは・・・・と感心する事しきり。

 今から100年前にこのセンスをもって文章を書いていた夏目漱石という人は凄いのだなぁなどと今更感心したりする私がここにいたりする。
 やっぱし、多くの人から評価されている物って言うのは、それなりの理由付けがあって評価されているのだなぁと思ってしまうのだ。人がみんな「いい」って言うからイヤだなんて言う子供な意見はこれからなるべく辞めようと思うのだ。
 と、いいつつ発売1週間目で100万枚とか200万枚も売れてしまう様なCDは、何かがおかしいと思うけどね。
 だって、みんながそれだけの数、評価したんだろうけど、1年後には覚えられていないんだもん。
1998年9月27日(日曜日) チョーン、パッ!
 ふとTVを付けっぱなしにして本を読んでいた処、TVから変なリズムの言葉が聞こえてきた。しかも懐かしい言葉が。
 それはCMで、何度も「ちょ〜んぱ」「ちょ〜んぱ」と云っているのだ。
 その言葉は今から20数年前、かのドリフターズが鉛筆だかのCMに出演して、その景品として塩化ビニール製のメンバーの人形が当たるというヤツの名前「首ちょんぱ」以来、本当に久々に聞く言葉だった。
 そのドリフの人形は胴体の部分を握りしめると、空気圧の関係で首の部分が「ぽんっ」と音を立てて飛んでいくと言う激しくたわいもない子供だましの物だったのだが、当時見事に子供だった私はだまされて鉛筆をダース単位で買った記憶がある(もしかしたら鉛筆ではないかもしれないので、かなり曖昧な記憶だったりする)
 この話はかなり古く、なんせドリフと云っても志村けんはまだ所属しておらず、荒井注が「なぁ〜んだバカ野郎」と現在では放送コードに引っかかりそうなギャグを飛ばしていた頃の話なのだ。
 しかし、何故、いま「ちょ〜んぱ」なのだ?
 と思った瞬間、そのCMは終わり別の物に変わっていた。
 うぬぬぬぬぬ、と謎だけが残されてしまったのだ。どうもそのCMにはそんな「ちょ〜んぱ」などと云う物体は出ていなかった。何故だ何故だ???

 とある日、普通にTVを見ていた時、そのCMに遭遇する事が出来たのだ。
 かの渋々俳優の緒方拳が出ているCMで突然、その渋い声で「ちょ〜んぱ」などと言い出したのだ。そして横にいた子供(緒方直人ではなく本当の子役)も「ちょ〜んぱ」と言い出すのだ。でしばらく何度か「ちょ〜んぱ」と云う。
 うぬ? と聞き耳を立てた処それは「ちょ〜んぱ」ではなく「超音波」だったのだ。
 うーーーーーーーむ。
1998年9月28日(月曜日) 洋楽を聴くのは特殊な人
 いわゆる海外の音楽を総称して『洋楽』などと言う。
 が実際の事を言えば、インドや中南米の音楽などの事は『エスニック』などとして別のジャンルと区分されているらしい。

 私は音楽に関しては激しく雑食な人だったりするので、洋楽だろうと邦楽だろうと、英語だろうと日本語だろうと、ヒットしていようがヒットしていまいが、まーったく関係ない。
 聴く聴かないのボーダーはあくまでも自分の中の「好き」のスイッチが入った物と言うことになっている。だから、どーゆー曲が自分にフィットするのかを文面だけで説明するワケにはいかなかったりする。
 自分のCD棚を見てみると、とりあえずつい最近取り出しやすい様にと「洋楽」「邦楽」を分類として分けてある。邦楽の方が多いが、洋楽も普通に聴いている。
 で、最近の音楽の状況を考えていてふと思ってしまう事があるのだ。

 最近のヒット曲って言うのは「カラオケで歌う」と言うことが、大前提になってリリースされている様な気がしちゃうのだ。
 それを意識しない、あるいはワザとカラオケで歌いにくい曲と言うのもあって、それは案の定ヒットしないと言う事になる。
 あるアーティストによると、CDにカップリングとしてカラオケを入れるのと入れないのでは、明らかに売上に差が出てくると言うのだ。ま、純粋にそれは正しいとは思えないけれど、カラオケと言うのがどうしてもヒットへのキーポイントになってしまうのだと言う。
 だから、どの曲もカラオケで歌うことの出来る「ベスト盤」と言うのが最近のアルバムチャートの上位にいたりするのだ。「B'z」のベスト盤、「サザンオールスターズ」のベスト盤、どれもが売上記録を塗り替えたと言う。
 そんな事から、カラオケで歌えない曲を聴いている人と言うのは、現代においては思いっきり少数派と言うことになってしまうのかもしれない。
 以前(2年ほど前)にも書いたが、会社で昼休みにCDウォークマンを聴いている男がいたのだが、そこにそれの数年先輩の同僚がやってきた。
 「お、何聴いてんだ?」
 「華原朋美だけど」
 「女の歌手の曲なんて覚えたってカラオケで歌えないじゃん」
 うーむ、と言う程の極論だが、実際にあった会話で、ある意味ではこれに似た状況なのかも知れない。

 そんなワケでカラオケで歌えないと言う意味では、洋楽を聴いている人ってすごく変な人と言う事になってしまうのかも知れない。
 しかし最近のカラオケには洋楽なんかも入っていたりするのだが・・・・カラオケで洋楽を歌う人って、もっと変な人って気がしちゃうのだな。

1998年9月29日(火曜日) 松葉
 かわいいふりしてあの〜こ・・・・
 と最近、車のCMでこの曲が使用されている。
 そうかそうか、この曲もリリースから15年以上が経過しても残っているか・・・。
 しかし、あの頃あんまし好きで無かったので深く考えなかったが、この曲ってもしかしたらテーマは「不倫」なの?
 しかも、執念深く待ち続ける女の歌。
 へたすりゃストーカーだよなぁなどと現代では思ってしまう。
 つい先日読んだ漫画の「ぼのぼの」の中にも『恋愛の醍醐味は遠くからじっと好きな子の事を見つめている事だと思うけど、それって今はストーカーって言うからなぁ』と書いてあった。
 うんうん、時代はライトな方向に転がっているんで、思い詰めるって事が罪になっちまったんだな。ダメだったらダメで「じゃ、次いってみよ〜ぉ」といかりや長介の様に雄叫びをあげるしかないのだ。

 たとえばあの当時のドラマの中で、下手な演出家の作った熱血ラブストーリーなんかだと、必要以上に降りしきる雨の中で、彼女の部屋の明かりを見上げて男が「好きだ!」などと心に誓いつつ、クライマックスの決闘シーンへなだれこむ・・・などと言うのがあったりした。
 ある程度、主人公に感情移入をしながら見ていれば雨の中で彼女の部屋を見上げるのも絵になっているのかも知れない。が、冷静に考えたら怖いよなぁ
 ガラスを激しく叩くようなどしゃ振りの雨・・・いったいいつになったら止むのかな・・と何気なくカーテンの端から空を見上げようとしたら、窓の外にずぶぬれの男がこっちを燃えるような眼差しで思い詰めて見上げている。
 はっきし言って、相手が良く知っている人間だったとしても怖いっす。
 ちょっと好意を持っている相手だったとしても、その瞬間思いっきり成層圏まで引きまくってしまうよなぁ

 待つと言う行為、あるいは結ばれない恋に身をやつすと言う行為は、実はその本来の目的であった恋愛より、待つ自分、耐える自分っていうヒロイズムに酔いしれた行為に終始してしまう恐れがあったりする。
 基本的に「どーせ私は脇役よ」などとひねくれている人でも、一人になるとやっぱし自分が主人公だったりする。そこで悲劇のヒロイズムが顔を出してくるのだ。
 ま、それがそれで完結している間はいいけれど、物語が勝手に広がって、関係ない人や周囲の人を憎んだりしちゃう場合もあるから、これも怖いのだ。

 そんなワケで、あみんが「待つわ」と言う曲をヒットさせていた時、興味がまったくなかったのだ。
 その当時から、この曲に出てくる主人公の勝手な思いこみヒロイズムに、なにかいやな物を感じていたのだ、それが最近やっと解った。
 それは歌いだしの部分で、自ら「かわいいふりして」などと言い放っている事が「てめぇ自分の事かわいいなんて思いこんでんじゃねぇよ」という事だったのだ。

1998年9月30日(水曜日) ともさかりえは天国的なお嬢様か?
 和歌山県の砒素化合物混入カレー事件に始まる毒物混入事件はつい数日前のどっかの大学の農学部での事件まで延々と続き、しかも多くの事件が犯人が捕まらないまま今に至っている。
 死者が出たという悲惨な事件は、最初の和歌山のカレー事件で4人、そして8月末から9月にかけての長野の缶入りウーロン茶事件の1人と、幸いにも事件の数のわりに死者がその位で収まっているという、かなり消極的な安心の仕方になっているのだ。
 私もついついコンビニなんかで缶入り飲料やペットボトルを買うときには、底の方をチェックしてしまったりする。もっとも、あからさまに「チェックしてまっせ!」という態度はカッコ悪いので、何げに手に持ち他の商品を見つつ、誰にも気づかれない様に何気なく指先は缶の底をなぞっていたりするという感じなのだ。
 しかし、この事件で憤慨した1つの要因に、長野で起こった缶入りウーロン茶の毒物混入事件の際の報道でだった。
 缶の底にキリみたいな物で穴を開けて、そこから毒物を注入し、接着剤などを使用して穴を塞ぐという手口が、推理小説作家の北村薫氏の作品にヒントを得た犯罪だと、某新聞が書き立て、それによって「おぉそんな小説があったのか、そうかそうか、それじゃ犯人はそれを見て犯行を起こしたのに違いない」と便乗の形で「北村薫氏の作品を参考に」などと他の雑誌までもが書いたりしていた。
 しかし、缶の底に穴を・・・なんてのは、普通「毒物を混入しよう」なんて考える人だったら考えたりすることだと思うのだ。短絡的にそーゆー報道をしちゃいかんと思うのだな。
 逆に報道する相手が間違った事を言ったりした場合は徹底的に揚げ足をとるくせに、君たちってヤツは。

 そんなワケで私は北村薫氏の作品を何冊も読んでいて、かなり好きな作家なんですが、この北村氏の作品に「覆面作家シリーズ」という物がある。
 世間知らずのお嬢様が気まぐれに書いた小説により作家デビューし、さらに現実の事件でさえちょっとしたヒントで説いてしまう。という作品で、この主人公のお嬢様は天国的な笑顔の持ち主で、現実社会の垢にまみれていない無垢な感じという設定になっている。さらに複雑な設定もされているのだが、この小説の挿し絵を高野文子さんが書いていて、かなり自分なりのイメージに近かったりするのだ。

 でもって、この作品がNHKでドラマ化されると言うのだ。
 しかも主演のお嬢様役にともさかりえが配役されている。
 うむむむむむむ、と私は思っちまいましたね。自分のイメージの中にあるお嬢様とともさかりえではキャラクター的にかぶる部分がまったく無いんじゃねぇの?って感じがしちゃうのだ。
 小説や漫画のドラマ化に関してはまったく別物と考えた方がいいと昔から思っているが、かなり不安が残ってしまうのだな、作品が好きなだけに。
 ともさかりえに関しては「まったく似ていない」と言う物では、過去に「金田一少年の事件簿」でのミユキと言うのもある。が、あれも最初は原作のイメージと違いすぎているような気がしたが、見ている内に違和感も無くなってしまったのだ。そーゆー意味ではともさかりえと言う女優は器用なのかもしれない。
 ちょっと不安が残るが、楽しみでもあったりするのだな。