杉村ぐうたら日記(1998年11月1日〜10日)

▲1998年11月1日:日曜日:地動説の人
▲1998年11月2日:月曜日:持続する怒り
▲1998年11月3日:火曜日:自己顕示欲と言う名の自己表現(1)
▲1998年11月4日:水曜日:自己顕示欲と言う名の自己表現(2)
▲1998年11月5日:木曜日:自己顕示欲と言う名の自己表現(3)
▲1998年11月6日:金曜日:自己顕示欲と言う名の自己表現(4)
▲1998年11月7日:土曜日:縁日の屋台の前でもがき苦しむ男二人
▲1998年11月8日:日曜日:昭和30年代の食堂
▲1998年11月9日:月曜日:侵入者
▲1998年11月10日:火曜日:槙原敬之は恥ずかしい
1998年11月1日(日曜日) 地動説の人
 ときどきニュースになったりする事件に「自殺予告」と言うのがある。
 いわゆる「テストを中止しないと自殺するぞ」とか「文化祭を中止しないと自殺するぞ」と「体育祭を中止しないと自殺するぞ」とか、そんなヤツ。
 とある学校でも「クラス替えをしたら自殺する」と言う手紙が校長あてに届いて、結局そのままクラス替えを出来ずにいってしまったらしい。

 確かに、その現場にある深刻な事情というのは部外者が推測で思う以上の物があるのかもしれない。思い詰めて思い詰めた末に導き出した結論なのかも知れない。
 そこで何故そんな事をしたのか?と言う事になると、そこに「イジメ」が存在していたと言う話にすぐ持っていかれてしまう。たとえ校長が「うちの学校にはイジメなんてありませんよ」と言っていたとしてもだ。もっとも校長は1つも生徒のことを判っているとは思わないけれど。

 弱者側に立って物を考えてみれば「しかたがない」と言う方向に考えは傾いていくかもしれないが、さらに押し進めて「何故、弱者なのか?」とか「何故いじめられるのか?」と言う部分まで考えていくと「こんな自殺予告をするようなヤツだから」と言う感じがしてしまうのだ。
 確かに体力的に弱くていじめられてしまう人、あるいは知能的な物でいじめられる人なんかがいる。だけどもっと根本的な部分もあるような気がする。

 この自殺予告に関して言えば、自分は被害者なのだからと言う「傷ついた者理論」がある。この傷ついたと言うのは、何か最近のキーワードになっているような気がして、被害者意識が増大して、他人にまで自分の被害者意識を押し付けるような感じがある。
 この被害者意識・傷ついた者理論ってのは、1年ほど前にヒットした某アニメなんかにもしっかり取り込まれている(私には読解しきれませんが)
 この「傷」を自覚する人は、いたって物事を内証的に見つめる作業に終始し、自己とそれを取り囲む周囲の関係に意味を見いださず、自分が他人にされた事のみを考えてしまうのじゃないかと思う。社会における自分のポジションと言う物、自分が行動する事によって起きる波状を考慮しないで、自己のみしか見えていない状態を抱えている人が多いような気がする。

 基本的に人間は自己中心的だ。
 特に生まれたての人間という存在は、ギブ&テイクの「テイク」の部分のみの存在だったりする。相手に要求するだけの存在。
 それが、家族と言う完璧保護状態から一歩外に出た「幼稚園」などの場において徐々に勉強をし始める。世の中は自分だけの為に回っている物ではない。と。
 いわゆる最初は自分を中心に世界は廻っていると言う「地動説」だと思っているのだが、実際の所、自分は社会という名前の太陽の周囲を動き廻っているのだと「天動説」の存在に気が付くのだ。このコペルニクス的転回を、子供の頃に徐々に悟っていくのが通常なのだ。(徐々に悟る事はコペルニクス的とは言わないかもしれないけれど)否応なく、自分が社会の一員であることを自覚せざるを得なくなるのだ。
 駄々っ子の様にオモチャ屋の前でダダをこねても、何も世の中は変わらないと気が付くのだ。

 それを上手に習得できなかった人が結局の所「社会適応性のない」とか「協調性がない」とか「利己主義」とかになってしまうのでは無いかな?と考える。
 もっとも、利己主義になったとしても、世の中は自分について廻ってくれないのは、普通に生活していれば気が付いてしまう。そう言う人は、壊れた人間になってしまったりする。

 よく強者の理論で「いじめられる方にも問題はある」とかってのがあるが、それに対して「でもいじめるのは悪いことだ」と反論があったりする。
 これに関しては部外者の私は「どっちももっともだ」とか思ってしまうのだ。
 イジメはいけないと思う。実際のことを言うと、僕は小学校の頃は背が学年で2番ぐらいに低く、体力もなく、病気がちの子供だった。そーなると、当然イジメの対称になりやすいのだ。
 普通その手の子供の場合パターンは2つある。ガキ大将に取り入って子分になる、あるいはイジメられる。
 僕はどっちも選びたくなかった。基本的にヘラヘラしているのだが、ある日イジメっ子がちょっかいを出してきたとき「いい加減にしろ」と一言いったのだ。で、それからイジメられなくなったのだ。
 結局、イジメっ子ってのは自分より圧倒的に弱いと思っている相手しか狙わない。

 なんか話がそれてしまったけれど、イジメられる理由の一つに協調性のなさ。というのも存在していると思う。
 結局「僕が自殺したら困るだろ?困ると思ったら文化祭を中止しろ」なんて言って「地動説」を唱えている様な人間は、元々イジメられる資質を持っているんじゃないか?と思ってしまうのだ。
 自分の命を人質にとって脅迫をするってのは卑怯以外の何物でもない。誰にも、その人質を救出できないのだから。
 もしかしたら、放火魔の心理にあるという「俺が起こした事件でみんながあたふたするのが愉快だ」なんて意識もあるのかも知れない。「普段は目立たない俺だけれど、あんなのは本当の俺じゃない、イザとなれば俺にだってこんな大きな騒ぎを起こすパワーがあるのだ」なんて考えているんじゃないか?なんて想像してしまうのだ。

 僕なんか文化祭に生活のすべてのパワーを注ぎ込んでしまうようなバカ野郎だったから、自分がそんな事件の起こった高校の生徒で、自殺予告なんかで文化祭を中止されたりしたら、本気で怒るよ。
 イジメられた相手のみに復讐するのなら「勝手にやってくれ」とか思ってしまうけど、関係ない他人を巻き込むようなヤツは死んじゃったて構わないなんて、極論まで考えてしまうのだ。

 もし自分が楽しみにしている事を、関係ない他人によって邪魔されたら、キミはどう思う?
 そんな風に、自分以外の人の立場にたって物事を考えられる事が、最低でも必要なんじゃないかな?と思う。

  たまには社会派
1998年11月2日(月曜日) 持続する怒り
 会社からの帰り、家の近くのセブンイレブンにちょっと寄ろうとした時の事だった。
 そのセブンイレブンの駐車場のちょっと手前の少し奥まった道にパトカーが停まっていた。そのパトカーの中に警察官がいたのを、横を通り過ぎる瞬間にチェックした。
 私はこれと言って悪いことはしていないのだが、何故か異様に焦り、異様に緊張して「少しでも挙動不審な行動をしないように!」と必要以上に挙動不審なぎこちない動きでセブンイレブンの駐車場に車を停めて、ぎこちなく車から降りた。
 もしここで「あ〜ぁキミキミ、ちょっとこっちへ来なさい」などと警察官に声でもかけられでもしたら、即座に「すっすいません!こないだイトーヨーカ堂で買い物をした時におつりが40円多かったのを黙っていました!」と、懺悔してしまうかもしれないのだ。
 いかんいかん、権力に従順だというのは私のポリシーに反する事ではないか?
 ちっとは、和歌山の夫婦の徹底した黙秘権を見習うべきなのかもしれない、いかんいかん。
 などと思いつつ、やっぱし緊張しながら、そのパトカーが停まっていた方を見た。

 「ねずみ取りをしている様でもない・・・・」
 と私は首を傾げていた所、そのパトカーの向こう側の坂道から消防士が数人下りてきて、パトカーの中の警察官となにやら話をし始めたのだ。
 むむむ?火事?
 と、冷静に鼻を利かせてみると、微妙ながら何かの焦げたような臭いが・・・・ 

 家に帰ってから判った事なのだが、そのセブンイレブンの近くの住宅街で「痴話喧嘩による放火事件」と言うものがあったらしい。
 なんでも別居している夫婦が、電話で話している内に公論となり、勢い余った旦那の方が車にポリタンクに入った灯油を積み込んで、その別居先の家へ行き、火を付けたという話らしいのだ。
 火事の方は延焼もせず、その家の中を焦がしただけにとどまったらしいのだが・・・・・。

 しかし、翌日の新聞で判った事は、その旦那が住んでいた家が車で飛ばしても30分以上はかかる所なのだ。
 そう考えると、この旦那は電話で怒ったテンションを下げることなく30分も車を運転していたと言う事になる。かなり凄い人かも知れないのだ。持続力と言う意味では怒りの絶倫男と言う事なのかも知れない。
 私の場合、淡泊さんで怒りなんて物が元々希薄なのだが、それを30分も持続させる事が出来なかったりするので、ある種この怒り続ける旦那って尊敬に値する人物だよなぁと思ってしまったのだ。
 普通なら30分も車を運転していれば、そのうち段々とテンションが下がって、冷静に考えてしまうと思うのだけど・・・・

 私も「怒り」と言うのを感じる事があるが、その場で「むきーっ!」となっても、その場だけの話ですぐ醒めてしまう。
 よく「怒り」を別の場や別の人にまでむけて爆発させて、関係ない他人にまで「怒り」の伝染させる人がいたりするけど、それって結局最初に怒りを感じさせた人と同じ事を自分もしているって事に気がつかないのかねぇ。

 なんか、もっと大人になろうよぉとか思ってしまうっす。
1998年11月3日(火曜日) 自己顕示欲と言う名の自己表現(1)
 いまだに写真なんかを映すときに意味無くVサインなんかをしちゃう人は少なくない。「あのな〜お前らいったい何が「V」なんだよぉぉぉあれはなぁビクトリーの意味の「V」なんだぞぉぉぉ」などと心の中で私は叫んだりする。
 これっていつ、一般化されたんだろうか? たぶん1960年代の初頭にはすでに子供はVサインをやっていた様な気がする。たぶん1964年に開催された東京オリンピックでもさかんにVサインは使われたのだと思う。
 1960年代の後半、時代はフォークだったり、ベトナム戦争反対や安保反対の時代にはVサインと共に「ピース」と言う概念も輸入されてきた。
 いわゆるウッドストックだの、フラワーチルドレンだの、平和運動が盛り上がって世間に「ピース」の輪が広がっていた。
 1970年代の中期に、自分にとって少し前の世代が屈託なく「V」とか「ピース」なのを見て、「あーゆー事をやっているのって格好悪い」と思ってしまったのだ。僕個人としては。
 周囲ではあいかわらず記念撮影なんかだと「Vサイン」をしていた。

 私の修学旅行の写真なんかででも友達はニカッと笑いながら何の迷いもなく人差し指と中指を立ててVのマークを作っている。記憶では写真を写す瞬間、友達はVサインを作りながら「ピース!」と云った様な気がする。
 おいおい、そこで云うのは普通「チーズ」だろ?と思ったが、その堂々とした態度に私は突っ込みを入れることが出来なかった。
 よく考えて見ると「勝利」のマークを出しながら「平和」って云っているって事で、うむむ、修学旅行のどこが「勝利」で「平和」なのだ?しかも広島で(平和公園だったからピースはいいのかも知れないが・・・違うような気もする)

 友人の中にも「Vサインを意味無く出すのって格好悪いよな」と言う意見の奴がいた。
 おぉ同士よ(笑)
 彼はある種、屈折した性格の持ち主で、そのVサインを出すヤツらの事をおちょくる様に写真を撮影する時に、ことさら派手にワザとVサインをすると言う暴挙に出た。
 しかしだ。自分の意識の中ではワザとおちょくる意味でVサインを出している。と言う状況なのだが、そんな事を知らない周囲からは「ことさら嬉々としてVサインを出している馬鹿な人」みたいになってしまっていたのだ(笑)。

1998年11月4日(水曜日) 自己顕示欲と言う名の自己表現(2)
 最近はやっと「Vサインはダサい」と言う事になりつつあるらしい。
 と言いつつ、そのダサいと思っている人々はカメラに向かって手のひらを突き出したり、手のひらを内側に向けたり・・・・と、自称ブラザー系のポーズ(別名:eggポーズ)をするのがイケてると言うことになっている。
 それって何かダサい。

 ま、この写真でのVサインとかってのはかわいいから許すとしよう。私が、さらに理解不能だなぁって思うのが、TVカメラに向かってVサインを出す集団のガキ。
 なんか街角からの中継って云うと、レポーターを押しのけるような感じで両手でVサインを作りながら満面に笑みを浮かべた馬鹿少年が大量発生する。もーとりあえず画面の中に収まるぞぉぉぉって感じでパニック状態を引き起こすのだ。もー手しか映っていないが、その手もしっかりVサインになっていたりする。うむむむ。  そんな風にパニックを引き起こすのは高校生〜大学生ぐらいの世代。

 で、もっと怖ろしいと思ってしまうのが、最近の小学生ぐらいの世代。
 こいつらもカメラが廻っているってのを知ると、カメラを覗き込むような感じでVサインをしたりする。・・・・が、異質な感じを受けてしまうのだ。大騒ぎをする馬鹿大学生の群と違ってこいつらはパニック状態にはならない。やたらとおとなしい。
 で怖いと思ったのが。そのTVの画面の中に映ってVサインをしている多くの小学生の顔に表情がないのだ。
 無表情でカメラ目線を送りながらVサインをする小学生の群。これって怖すぎる。

 ふと最近気が付く事に「無表情の人が多い」って事なのだ。
 なんか特に最近そーゆー無表情な人が多い様な気がする。別に普段からヘラヘラ笑っていろとかって事ではなく、顔の筋肉がゆるんで口元が中途半端に開いたままで「ぽか〜ん」って感じの人が多い様な気がする。
 こういう人ってヤッパシ怖いのだ。
 愉しいんだか、悲しいんだか、つまらないんだか、怒っているんだか、全然判らない。
 こないだも某所でブルースセッションと言うのを観たんだけど、そこでステージで演奏している最中、なーんかつまらなそうだなって感じがしちゃったのは、演奏者が無表情だったのだ。演奏中にヘラヘラ笑うってのは良いのか悪いのか判りませんが、もっと楽しそうに演奏しろよぉって感じだったのだ。
 それに参加していた私の友人は笑いながら演奏していたけれど・・・・。
1998年11月5日(木曜日) 自己顕示欲と言う名の自己表現(3)
 個性を消し去るファッションみたいな部分でいくと、女性の場合「細眉」と言うのが、異常に流行っていて誰彼関係なく眉毛が細くなっていたりする。
 先日も雑誌で元おニャン子クラブの生稲晃子が載っていたのだが、眉毛を細くしてしまっていたので、まったく別の人になっていた。本当にそこらに居そうな人。

 いわゆるヤクザ系のファッションで「眉毛剃り」と言うのがある。
 あれって眉毛を全部剃ってしまうと、顔に表情がなくなって怖くなる。と言う効果を狙っての物だったりするのだ。
 実際、指なんかで眉毛の部分を隠して鏡に向かってみると、なかなか凶暴な顔つきになったりする。表情のない爬虫類っぽい感じとでも云うのかな?
 それと同じで、今の「細眉」って云うのは、表情があるような形に眉を整えているんだけど、そこで表情が止まってしまっていたりする。つまり、どんな時でも同じ表情。これって怖いっす。

 なんか価値基準が全然違いそうなんで、どーゆー状態がかっこいい・かわいいとして居るのか不明なんですが、あれって個性という部分では、個性を殺していると思うのだ。実際の所、自己顕示様が強いくせに自己埋没させるような状況を作るってのは理解しにくいな。
 が、その細い眉毛を必死に書いている人々に言わせると「え〜、みんな違う書き方してるじゃん、そんなのもわかんないなんて終わってる」と言う事になってしまう。凄〜くマニアックな差で他人と差別化しているらしい。

 自己顕示欲と言う意味で云うと、「プリクラ」ってヤツも、冷静に考えるとうむむってヤツだな。
 それ以前の普通の考えで云ったら、自分の顔写真をシールにしてそこらに貼っているって、すげー馬鹿だよな。って事になる。ま、今の現状では「誰でもやっている」から恥ずかしくないんだろうけど。
 少し前までは自分の持ち物にわざわざ名前を入れたりするのって事自体が、恥ずかしい事だったと思うんだけど、今やそれがトレンディを飛び越して、写真入りのシールまで行ってしまった。名刺替わりに交換していたりもするけど、なんかうむむって感じなのだ。
 これがプリクラの流行る前に同様に、自分の持ち物に自分の写真とか貼っていたら、それってかなりイタイ人だった様な気がする。
 流行っているから、認知されているから、やれる事って言うのは、自分なりの価値観の中ではかなりイタイ部分を含んでいる様な気がするのだ。
1998年11月6日(金曜日) 自己顕示欲と言う名の自己表現(4)
 自己顕示欲と言うと言葉として良くない。じゃ「自己表現をしている」と言い換えてみる。
 が、そう云ってみると、あの埋没している個性ってヤツは自己表現とは言えないよなぁ。

 プリクラと同時期に流行った物としては、オートフォーカスカメラで友達と記念写真を撮りまくる。って云うのもある。
 これは同時プリント「0円」なんてのもあって流行った部分があると思うが、これも自己表現の一部なのだな、彼女たちにとっては。
 たしかに写真って云うのは自己表現とかの手段になりえる。誰にでも簡単に。
 4年ぐらい前にちょっと名前を聞いた「ヒロミックス」と言う女性フォトグラファーの場合も(それ以降は聞かないけど)、いわゆる女子高生と同じようにオートフォーカスカメラでバチバチ撮りまくった物をまとめて「写真集」として発表した。
 何というか、自分の目でみた感じでは普通のスナップ写真。それを「アート」の名の下に発表しちゃっているのだ。さほど新しい物でもない。
 このヒロミックスの凄い所はそれを「作品」として発表してしまった所にある。その作品自体が意味を持つのではなく、それを作品として発表してしまった所に意味がある。のである。
 いわゆる、実際にはさほど優れた発明をしていないのに「発明家」とまず名乗ってしまったドクター中松みたいな物だ。
 作品がアートなのではなく、行動がコンセプトアートとして認められたと言う事なのだ。
 もっとも、オートフォーカスで日付入りの写真を堂々と作品として発表するのなんて、かの天才アラーキーが昔っからやっていたりするんだけどね。

 でも、最近の女子高生曰く「ヒロミックスみたいな写真を撮ってフォトグラファーになりたいな」だそうだ。
 あれなら誰でも手が届きそう。つまり、自分も「アート」しています。と言う自己顕示欲を満足させることが出来そうなのだ。
 だけどヒロミックスの場合は、写真が目的でなく手段だったワケで、一般の女子高生には第二のヒロミックスにはなれない。ついでに「普通の写真を写真集にする」と言うコンセプトのみの作品だった為に、第2段はありえない。
 コンセプトアートは伝承できる物ではない。
 ま、そこらの軽薄な出版社が「新進女子高生フォトグラファー誕生!」と言ってデビューさせてくれるかもしれないけれど。

 ま、それぞれが自分を顕示する為の手段を探している(新たに探すと言う意味でなく、誰かが成功した方法を探している)だけど、中途半端に突出するのはいやなのだな。
 どうせ目立つのなら、尊敬されるぐらいまで、目標にされるぐらいまで目立ちたいなんて思っているのだ。

 私はずっと「TBC」とかって云うエステのCMは嫌いだったりする。例の「私、脱いでも凄いんです」で有名になって、その後はhitomiとかを起用したり、ナオミキャンベルなんかが出ているCMのシリーズ。
 それの1年半ぐらい前のヤツが、なんか変でさらに嫌いになった。
 画面はTVの中で歌っている女性歌手(名前忘れたが、確かこの人も小室哲哉プロデュース)そして、それをダラけて観ている女4人。この4人が、それぞれ美人なんだろうけど、全員個性のない顔をしている。
 で、その中の一人が「あったしも、デビューしよ〜かな〜」と画面に顔を近づけて云うと、その横の女が「その前にTBCでしょ」とか云うヤツ。
 このCMの中に現代の安易な自己顕示欲な部分が現れている様な気がしちゃうのだな。
1998年11月7日(土曜日) 縁日の屋台の前でもがき苦しむ男二人
 その日は、友人のちま氏と共に宛てもなくブラブラと三島沼津の町中をさまよっていた。
 で、ちま氏がコンピュータ関係で見たい物があると言う事で、沼津のハズレにあるOAナガシマと言うコンピュータショップに立ち寄ったのだ。私はとりあえず自宅でも仕事でもコンピュータをいじっている人なのだが、基本的にコンピュータには全然興味がない人だったりするので、そのようなショップに行ってもぼけーっとするのがパターンだった。
 何と言いましょうか、あくまでも自分の創造することを形にするツールと言う使い方はしているが、基本的には道具って事で、その道具をパワーアップしてどーのこーの、スピードがどーのこーのと言うのは、さほど興味が無かったりする。
 あくまでも「自分が何をしたいか?」と言うのに基づいて、そこにコンピュータがあればいいのだ。
 結局、コンピュータがなくたって、自分は同じ物を作れるぜ!と言う段階で物を作っているのかもしれない。あくまでも道具の1つ。

 うーむ、話はずれてしまったが、そんなワケでコンピュータショップと言う処には、本当に年に数回しか行かないような人間だったりする。

 で、その日はたまたまOAナガシマのすぐ近くで秋祭りみたいなのが行われていた。
 と言うことで、フラフラとその縁日に引き寄せられてしまったのだ。

 そこそこで美味しそうな匂いを発生させる屋台が立ち並んでいたので、「据え膳喰わぬは男の恥」(←意味違う)とばかりに、その誘惑に引きつけられたこ焼きを購入した。

 その「たこ焼き」ってのが、かなりのクセ物で、通常の2倍くらいはありそうな大きな物だった。が、私たちはそんな状態なのにいつも通りに何も考えずにたこ焼きを口の中にほおりこんだ。

 ・・・・・・・・・・・・・

 店のおやじさんが気を利かして、たった今、焼いたばかりのたこ焼きをパック詰めにしてくれていたから、そりゃ大変な事になってしまった。
 口の中で、むちゃくちゃ熱いたこ焼きが幸せそうに暴れているのだ。もう「うがー」なんて言うことも出来ないぐらいに、口いっぱいにその大型たこ焼きが詰め込まれた状態で。

 ま、イザとなれば吐き出すことも出来たのだろうが、この場と言うのが幸せな縁日の人混みの中だって事が問題なのだ。
 小さな子供を連れた若い夫婦。ヤングメンの諸君。綺麗なお姉ちゃん達の集団。もー色々な幸せそうな人々が大量に行き交っているのだ。
 さすがにその人並みの真ん中で、いったん口の中に入れた食物を吐き出す暴挙に及ぶことはできなかった。が、熱い。

 「ングウング・・」と、意味のないうめき声を出しながら身もだえする男が二人、そこにはいた。
1998年11月8日(日曜日) 昭和30年代の食堂
 三島駅前にある田代グリルと言う食堂に入って食事をした。

 ずっと小さな幼少の頃からそこにひっそりと佇んでいた店で、たぶん記憶の中では一度も入った事がない店だった。
 やはり、5歳とか6歳ぐらいの子供の頃、外食をするとなるとすぐ近くにある派手な不二家レストランに入って、ケチャップでべとべとのチキンライス(チャーハンじゃない)の上に旗が立っている、しかもヤクルトがついていると言う御子様ランチを頼むのが幸せの瞬間だったのだ。
 その時の気持ちはまさに「今まで生きて来た中で一番幸せです」と言いたくなってしまうような感じだったのだ。

 それから、ずいぶん時間が経って僕もすっかり大人になった。と、いいつつ最初、不二家レストランに入ろうとしたんだけど混んでいたんであきらめたワケなのだ。そして、どっしようかねぇと、歩いていてこの店にたどり着いたのだ。

 自動ドアがくぅぁぁぁぁっと音を立てて開いた瞬間、そこに広がっていたのは昭和30年代のハイカラな日本だった。

 ハッキシ言って、私はファミレスに慣らされ過ぎている為に、自動ドアが開いた次の瞬間、音もなく店員がスサッと近寄って、どう見ても入ってきた客が2名しかいないのに「何人様ですか?」とわざわざ聞いて、効率よく人数に合わせた席に案内してくれるって状態を期待してしまったのだが、そんな気配はこの店にはない。

 がらんとした店の中に自分で足を踏み入れ、自分の意志で席を決定することになったのだ。
 うーむ、昔の人は今とは違って確固たる意志を持ってレストランに入った物なのだな。うーむうーむ、と優柔不断な人でも生活しやすい状態の時代とは違う何かを感じたのだ。

 店内の床、テーブルなんてのは本当に素気ない物で、しかも何か居心地の悪い様な、あるいは逆の気楽な様な感じを受けた。なんかいつもファミレスなんかに入った時と違う状態を感じてしまったのだ。
 その理由は、充分にスペースを取ってあると言う物だった。

 ファミレスなんかの、狭い敷地内にパズルのピースの様に、無駄なく最大限のテーブルを配置して、テーブルに座るためにずるずる横座りをして奧に潜り込むって状態に慣れてしまった私は、この店の余裕どどーんのスペースの取り方に違和感を感じてしまったのだ。
 ファミレスなんかだと、横のテーブルの人の眼を盗んでポテトフライなんかをチョロまかせそうな感じの集団密集住宅状態なのだが、ここは隣の席まで、十分すぎる程スペースを確保してあるのだ。
 しかし、その違和感の原因が判明した後は、凄く快適な環境になったのだ。

 壁の状態、天井の電球の傘など、古い物だが、昭和30年代のオシャレな感じの、いわゆるあの時代の映画なんかに出てくる、いい雰囲気の状態なのだ。ちょっと、最新のビールのポスターなんかが貼ってあったのは減点対象になるが、そんなの関係ないぐらいにオシャレだ。

 なんか、小津安二郎の映画で原節子あたりが食事をしそうな店だし、クレイジーキャッツの無責任シリーズで植木等が演じる平均(たいらひとし)が会社のかわいこちゃんを誘って昼食を食べに来そうな感じなのだ。
 ウェイトレスのおねえさん達も、昭和30年代からそのままチェンジしないで働いているような年期物だし (笑)なかなか味わい深い。
 ひとり、美人系な若いおねえさん(遠山景織子似)もいたが、なんか今の人って言うよりあの時代の人って感じ(おぉぉとか思ってワクワクしていたが、帰り際レジを操作している時に、左薬指に指輪を発見(笑))

 食事の方は、僕がアイスコーヒーとドリア、そして一緒にいった、友人がアイスコーヒーとカツカレーを注文した。
 ま、色々と一緒に入った友人と話があるので暇を持て余したワケではないが、いわゆるファミレスなんかで注文してから出てくるスピードより待ち時間がゆったりとあった様な気がする。
 なんか、高度成長経済直前の優雅だった時代のスピード感覚で、気持ちがのほほんとしてしまったのだ。なんか、こーゆったりした感じっていいねぇ。

「やっぱし、ファミレスなんかと違って『解凍するだけ』ってんじゃなくって、調理してるから時間かかるんだろうなぁ」
「なんか、いい感じだよなぁ」
「うん、気持ちがゆったりしちゃうよなぁ」
 などと、実に優雅な気分を満喫している時にアイスコーヒーが運ばれてきた。

 で、突然その年期の入ったお姉さんがアイスコーヒーをテーブルに置くのと同時に、僕に擦りよるようにして小声で重大な事を言ったのだ。
「すいません、伝票の間違いで調理済みだと思っていたので・・・」

 うむ?私たちが頼んだドリア&カツカレーは、すでに調理してお客さんに出した物として伝票を処理されていたらしい。
 うーーーーーーむ、さっきの言葉は撤回する(笑)

 が、お詫びとしてアイスコーヒーはサービスで無料って事で処理してくれたのだ
 そんな部分に「うむ、やはり義を重んじる正しい日本の血がながれているのだ」などと思ったのだ。
 最近のこの手の店では、どーんな間違いがあろうとも簡単に「すみません」程度で終わってしまうのだ。とりあえず謝っておきゃいいかぁみたいな感じで、感情がこもっていないのだ。
 ウェイトレスなんかも「だってぇ悪いの私じゃないも〜ん、なんであたしが謝んなきゃいけないのぉ?」てな感じで、とりあえずマニュアル通りに謝っておこうってな感じがしちゃう。
 別に、それでイチャモン付けようってワケじゃないけどねぇ。
 食事自体も、美味しかったし、なかなか味わいのあるいい店だと思う。

 こーゆー店に女の子を連れてきて、実に地味で質素な食事をするってのが正しいデートの様な気がする。そんでもって、こーゆー店の良さを理解できない女とは付き合いたくないとか思ってしまったのだ。
1998年11月9日(月曜日) 侵入者
「えぇ、確か6日前に一度ヤツを見かけました」
「と言うことは、すでにその頃から家の中に侵入しようと機会を狙って、周囲を徘徊していたと言うワケですか。実に用意周到な犯人だな」

「まさか、あんな事をするとはその時は思ってもいなかったので、別にヤツに対して警戒らしい気持ちは持たなかったんですよ」
「と、言うとあなたの家の周りっていうのは、ヤツみたいなのがよくうろついたりしているんですか?」
「ま、そう毎日ってワケじゃないですけれど、こう天気のいい日が続くと、陽気に誘われてっていうんですかね、時々見かけますよ。だけど、これと言って悪いことをしていると言う証拠もないわけじゃないですか、ただ家の周りに立っていたとかそんな理由で警察に通報したりは出来ないですからね」

「ま、確かにそうですけれど。で、こないだヤツに遭遇した時、何か不審な態度とか、いつもと変わった態度とか気がついた事はありましたか?」
「いやぁ、あんましヤツに対して特別に興味があるワケじゃないですからねぇ、ただあの日は目と目が合ったぐらいですね」
「ほほう、ヤツはその視線が合った時、なにかリアクションはしましたか?何か、こう心にやましいことがあるかのように、おどおどしていたり、逆に睨み付けるような反抗的な態度をとっていたとか」
「さぁ、いつも通りだったんじゃないですかねぇ」

「ヤツが家に押し入った時って言うのは」
「あ、私がすでに会社に出かけていた時間で、10時ぐらいですかね?女房が会社に突然電話してきて、大変な事になったって叫んでいるんで、私も驚きましたよ」
「じゃ、その時は家には奥さんが一人しかいなかったんですか?」
「えぇ、息子も幼稚園に行っている時間だったので助かりましたよ。もし、もう少し早い時間だったらと考えると、恐怖で身震いしちゃいますよ」

「で、ヤツが侵入してきたのは?」
「大胆なヤツで、玄関から侵入してきたんですよ、その時、女房が家の中の掃除をしていて玄関を開けっ放しにして置いてたらしいんですけど」
「いや、この玄関から堂々とってのが意外に多いんですよ。それでその時、奥さんはどちらにいたんですか?」 「運がいいことに、二階にある物干しの方に行ってたらしいんですよ。それで1階の方で、何か不審な物が聴こえてきたのんで、恐る恐る階段を下りていったら・・」
「そこにヤツがいたってワケですね」
「えぇ、ヤツはなにかパニックを起こして、暴れ回っていたらしいんですよ」

「完全な単独犯行ですか?」
「仲間はいなかったらしいですね。でも、そこら中ひっくり返して、障子は破って、凄い事になっていたみたいですよ。それを見て女房が思わず悲鳴を上げてしまったらしいんですよ」
「で、ヤツが」
「えぇ、その悲鳴に驚いて近くにあったガラス窓に突進して、窓の枠ごと外に逃げ出したって言うんですよ」

「なるほど、じゃ、取られた物とか、奥さんに怪我は?」
「その辺は幸い無かったんですけどね」
「ヤツの遺留品は?」
「たぶん無いとは思うんですけどね、ただガラス窓を突き破って逃げた時に怪我をしたらしく、外に血痕が点々と残っていました」

「うーん、そうですか。で、もう一度お聞きしますが、ヤツの特徴は・・」
「なんて言うんでしょうか、ちょっと上品そうな感じもするんですけれど、何か危険そうな感じもあって・・・、子供には見かけても近寄っちゃダメだって教えてあるんですけどね」
「なるほど、体型はどうです?平均的な感じですか?それとも小さいとか大きいとか」
「私もすぐそばに近寄った事はないんでね、いぜん、一度見かけたときに声をかけようかな?と思って近づいたときには、慌てて逃げていってしまいましたからね。大きいかどうかは解りませんね、基本的に平均ってどのくらいかも解りませんから」
「そうですか」

「ただ、毛深いですよね」
「ほほう、毛深いですか」
「まだ夏に対応した感じじゃなくって、なんかあれじゃ暑いだろうなって感じでした」
「そうですか」
「あと、角がかなり伸びていたんでちょっと恐い感じがしました」
「解りました、今日、山狩りをしてヤツを絶対に掴まえます」
 以上が、会社の同僚の家にある日、突然起こった大事件をやや脚色してお送りました。

 話を分かり易く書くと、富士宮市にある会社の同僚の家に、ある日突然、前触れも断りも予約も無しに、野生の鹿が乱入してきたって事件なのだ。
 そんでもって家の中で大暴れをして、さらに鹿は脱出しようとパニックになってさらに大暴れをして家の中を滅茶苦茶にしてしまったらしい。
 結局、最終的には窓ガラスを破って、そこから裏山に逃げていったと言うのが事件のあらましなのだ。
ま、とりあえず危険な鹿って事なので、消防団だか青年団が山狩りをするらしいが、なかなか大変なのだ。

 しかし、同僚の話による「こないだ目と目があったけど」と言うのは事実で、さらにその同僚の話だとそれは普通の事らしいのだ。うーむ、おそるべし、富士宮市。
で もあたりまえの様に鹿に遭遇するか・・・うむ。

 この話にはもうひとつオマケがある。

 この鹿大乱闘事件が起きた直後、隣の家のおばちゃんが早速カメラを持ってやってきたらしいのだ。そして、その場にいた人に、破られたガラス窓を指さすポーズを指示して、写真を撮影した。
 ま、近所で事件が起こったのだから、何かに記録しておこうって気持ちは分かる。
 しかし、このおばちゃんは違っていた。なんと、その写真を新聞社に売りつけようと電話をしたのだ。
「鹿が窓ガラスを突き破った直後の写真」
しかし、新聞社の反応は一言「いらない」だったらしい。

 うーむ、何というか、このぐらいに何かにつけ金になるんじゃないか?と考えているようでないと、金は貯まらないって事なのか?と思ったりもする (笑)
1998年11月10日(火曜日) 槙原敬之は恥ずかしい
 実際の事を言ってしまえば、男なんてモノは必要以上にグチグチしてて、過去の事をネチョネチョ思い出したり、いろんなモノをズルズルと引きずっている見苦しいモノなのだ。
 よく、そんな状況を「女の腐った」などと表現したりするのだが、よーく考えて見ればこの「女の腐ったの」と言う事を指摘される先には「男」がいるワケだな。
 女に対して「女の腐ったの」等という表現は使わないから「女の腐ったの」とはほぼ100%の割合で男に向けた言葉と言うことになるのだ。
 そんな言葉が古びもせず現代にも生き残っていると言うことは、基本的に男は女よりグチグチ度合いが高いのではないか?という結論に達してしまうのだ。

 確かに、もう何年も前に分かれた彼女(あるいは振られた女性)をいまだに思い続けているなんていう、未練ダラダラ男はたくさんいる。
 結局そんなモノなのだ。
 一般的な場所であえて公言しないが、そんな未練ダラダラ男があっちにもこっちにも存在している(もっとも、たまたま新しい恋が始まってしまえばほとんどが忘れちゃうんだろうけどさ)。
 それが実は男の本質なのかもしれない。

 と言うわけで、マッキーこと槙原敬之の曲を聴くとそんな男のオンパレード。
 ま、未練引きずりながら「でもさ何とか頑張ってみるよ」などと分かれてしまった彼女に届くわけもない独り言を言って強がっていたりするんだけど、かなりの確立で「未練ダラダラ」の「見苦しい」男が描かれているのだ。
 だからなんだと思うけど、男でハッキリと「俺、槙原敬之の曲好きだよ」などと言える人が少ないんだと思う。
 なんつったって、槙原敬之の曲を聴いてしまうと「共感」しちゃっていたりする自分が、ある意味で嫌になり、ある意味で自虐的に「あぁ判るよ判るよマッキーぃぃぃぃ」などと、うなずいている自分がいて、凄く激しく怒涛のごとく自己嫌悪に陥ってしまうのだ。

 女性の場合「中島みゆき」を聞いて、ずず〜んと落ち込んで「みゆき様判ります」などとうなずいている図も絵になる(かもしれない)と思う。
 でもねぇ男の場合やっぱし、他人から見てキツイと思うのだよ。

 それ以前のみっともない弱い男の代表として「さだまさし」とか「大江千里」とか存在していたが、それどころの比では無いような気がするのだ槙原敬之に関しては。
 悔しいが楽曲としてもよく出来ているし、その歌詞も現実的な言葉を散りばめて実に共感し易く作ってある。
 そんなワケで今まではあえて避けていた槙原敬之を、先日、中古CDで購入してから、危惧していた通りに坂道を転げ落ちるように・・・・・・

 あぁもう恋なんかしないよなんて言わないよ絶対・・・・・