杉村ぐうたら日記(1998年11月11日〜20日)

▲1998年11月11日:水曜日:消費税還元セール!
▲1998年11月12日:木曜日:好きになる条件
▲1998年11月13日:金曜日:視線の彼方
▲1998年11月14日:土曜日:視線の彼方・2
▲1998年11月15日:日曜日:隠れたカレーの名店
▲1998年11月16日:月曜日:隠し撮り大作戦
▲1998年11月17日:火曜日:早稲田大学教育学部
▲1998年11月18日:水曜日:星に願いを
▲1998年11月19日:木曜日:判りやすいドラマ
▲1998年11月20日:金曜日:時代は和歌山!(か?)
1998年11月11日(水曜日) 消費税還元セール!
 景気がどどーんと底をついてから早数年、「ここが底」と言われていた底も実は上げ底で、さらにその下に本当の底があったりする。
 最近ではそれをさらに下がって地下室の底にまで景気が到達しているらしい。

 ボキャブラリー貧困(通称ボキャ貧)のオブチだかオブツだか判らない首相が、あいかわらずヘラヘラと緊張感の無い顔をしてインタビューに答えて、大事な場面で駄洒落を飛ばしたり、天然ぶりを発揮している。
 景気を立て直す名人として、引っぱり出されてきたビンテージ政治家の宮沢も、この低迷ぶりには手が出せずに「辞めたい」と言う顔をしている。
 「経済のことならば」と出てきた境屋太一も結局は、これまで財テクなどを活用できたのは「時代がバブル」だったからと言う感じで、低迷している時には成すすべがないのを実感させてくれた。

 景気回復だっつー事で、何故か税金を払っていない15歳以下の子供に商品券を出すという法案が具体化して来ているが、何故かその商品券でパチンコを楽しむことも出来るらしい。
 しかし政府の「景気回復策」ってのも子供だましって感じだよなぁ
 15歳以下の子供に商品券を渡し、その商品券で買い物をして買い物をする楽しさを覚えて貰えば、その子供達が大人になった時にそれが大きくなって帰ってくる・・・て、アンタ発想の理論展開がおかしいよ。
 結局は他の党が考えたアイディアを採用して、恩を売って連立政権を立ち揚げるのが目的だっていう裏の事情がバレバレだったりする。
 そんでもって商品券をもらえない大人達は「ばーろー」と怒り、結局、大手のデパートやコンビニが「消費税分の5%を還元します」などと言うセールを開催し、かなり大きな反響があったらしい。

 おぉやるじゃん!
 と思っていたのだが、ハッキシ言って5%安くなるだけなのに、そんなに大挙して押し掛けるような騒ぎか?と思ってしまうのだ。

 普通のデパートなんかに「全品5%値下げ」と書かれていても、なんか魅力感じないでしょ?
 値引きっつーと普通「15%」ぐらいから始まって「50%off」なんつー感じのイメージがあるのだが。
 しかし「消費税」と言う諸悪の根元みたいに思われている税制を突破らってくれたデパートに感謝して、必要以上に無駄な買い物をしちゃう様な気がしている。
 「消費税分を還元します」と言ったって、デパート側は売上の5%を消費税として税務署に支払わなくてはいけないワケだから、結局、そこで販売されている商品の5%は税金なのだ。
 普通、「1000円」の買い物をすると消費税がプラスされて「1050円」になる。それを「1000円」で販売するとなると、本体価格「952.4円」消費税「47.6円」と言う事になってしまうのだ。

 結局、ある意味で税金が徴収されなければ社会は動いて行かない。でもやっぱり税金は少ない方がいいよなぁと言う、どっちつかずの結論で、じっとおとなしく景気が回復するのを待つしかないのかもしれないのだ。
1998年11月12日(木曜日) 好きになる条件
 杉村ってヤツがいわゆる芸能人を「ええなぁ」と思うのに、ある程度の条件が必要だと言うのにここ数年やっと気が付いた。
 まず、人を好きになるのに第一条件として「見た目」というのがある。
 「人を外見で判断するのなんて最低!」
 などと、正義の人は言うかも知れないが、そんな事言ったって誰だってまず最初は「見た目」でしょ。
 その見た目の好みだって、「文句の付けようがない美人」が好きか「間が抜けている美人」が好きか「ひたすら三枚目に徹している人」が好きか、「痩せている人」「太っている人」「背が高い」「背が低い」千差万別あって、誰だって「自分の好み」と言う意味では最初に「見た目」を重視するのだと思う。
 私の場合、そこの見た目で言った場合「すっきりしている」と言うのと「ヒラメ顔」と言うのが、どうやら好みらしいと言うのに最近やっと気が付いた。
 何故か、その手の人を好きになるパーセントが高いのだ。
 「ヒラメ顔」と言うのは完璧に自分の造語で、あんまし世間的にはいいイメージでとらえられないかも知れないが、芸能人で言えば「渡辺満里奈」とか最近では「本上まなみ」など的な顔っつー事です。
 と、言う所でまず第一段階クリアなのだが、その後に性格的なモノがついてくるのだ。
 「おとなしい」だとか「明るい」だとか「気が強い」だとか、そーゆー要素をクリアして本当に好きになったりするのだと思う。
 これは誰だってそーでしょ?

 そんでもって私の場合、さらにその後にもう一つ条件があるのを、最近気が付いてしまったのだ。
 その条件ってのが「声」だったりします。

 で、どーゆー声かって事を聞かれてもこれが説明しようがないのだなぁ。あくまでも感覚的な問題だったりするので、「これっ!」と断定できるタイプの声は無い。
 でも、声を聞いて「好き」になったり「興味が無い」になるのだ。

 最近では前述の「本上まなみ」がそうなのだが、CMやグラビアで見たときは「おぉぉぉ」と思っていた(ついでにショートカットも好きだったりするので)。
 私は基本的にドラマをほとんど見ない人なので、本上まなみが演技している所もこれまでまったく見たことが無かった為に、その声をほとんど聞いたことがなかったのだ。
 で、現在放映中の「眠りの森」と言うドラマを見て、そこで初めて演技をする本上まなみを拝見することが出来た。
 そして声を聞いて「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」とうなり、徐々に興味を失いつつあるのだ。
 凄く、一方的な好き嫌いの話なんだけど、私の場合「声」というのはどうもかなりのパーセントで重要らしい。

 それ以前に声を聞いて醒めた芸能人に鶴田真由と言う人もいたりする。
1998年11月13日(金曜日) 視線の彼方
 以前コミュニケーション不全症と言う本を読んだとき、自分と自分の認知している知人以外が視界に入らない人と言うのがあった。
 作者が幼稚園に子供を連れていった時、人にぶつかってきたりしても平気な人がいた。ぶつかったとしても謝りも何もしない。それ以前に目の前にいる人にぶつかるって事自体が変な話だと作者は思っていた。
 だから、この人はそう言う部分が欠落してしまった人なのだと思っていた。その内にその人と、同じ幼稚園に子供を通わせているお母さん同士と言うことで話なんかをする知り合いになった。と、以前と同じ様な状況でもぶつかるって事はなくなってきた。が、客観的に見ていると、その人は他の人にいまだにぶつかっている。そして謝りもしない。
 さらに観察するみたいに見ていくと、その人がぶつかる人と言うのは、その人と知り合いではない人と言うのが解った。自分にとって知っている人にはぶつからないのだ。つまり自分が知人として認知した人物以外はまったく見えていない。自分とは関係ない異世界の物体としてしか把握していなかったのだ。
 確かに、精神病の一種としてその手の、認知能力の欠落している人はいるらしい。認知できないと言うのではなく、自分しか見えていないのだ。

 数年前は「神経症」と言うのがかなりクローズアップされていて、潔癖症が度を超してドアノブや吊革を素手では触れないと言う人の報告をよく聞いた。いわゆる除菌クリーナーなどが発売されて、何にでも「抗菌剤」が使われ始めた頃の話。
 それが最も盛り上がっていたのは、今から5年ぐらい前の話で、いわゆるバブルの後遺症が色濃く残っていた時代だったように記憶している。それの少し前は、女性が一斉に「汗くさい男嫌い」とか「アブラギッシュな人イヤぁ」とか「スネ毛って気持ち悪い」とか言っていたわけで、それに対して男もエステに通ってすね毛剃ったりしてたわけだ。
 あの時代ってのは異常なほどに「他人の視線恐怖症」と言うのが世に蔓延していて、自分は他人の目にどう映っているのだろうか?と言うのが、ある種のキーワードだったような気がする。
 所詮世の中は内証的な方向に向かっていて、自分中心に廻っている。その自分が他人からイヤなヤツとして見られているのが恐怖の対象だったのだ。
 だからこそ、就職の為に「笑い方セミナー」なんていう冗談みたいな物だって存在していた。素敵な笑い方があなたの人生を変えるとか言って。

 しかし、この「他人の視線」と言うのは、若者にとって永遠の命題で(と言っても、若者は常に入れ替わっているので答えも出ないんだけど)時代時代のファッションというのは、いくら「俺は俺が気に入った物を着てるだけなんだよ」と言っても、絶対他人にどう映っているのか?が基準になっている。
 この2〜3年のワイルドなギャングでクールでヒップな人たち(笑)だって、自分の中からにじみ出た物ではなく、演出としてのワイルドを作っている。なんせ「無精ひげ」を毎日カットして揃えているんだもんなぁ(それは無精ひげじゃない)

1998年11月14日(土曜日) 視線の彼方・2
 そんな自意識過剰な若者と言う存在があって、その「他人に見られる」と言う部分を飛び越し遮断して自分の世界に自己を埋没するというのも方法の一つだったりする。
 それは1970年の末にウォークマンと言う物が誕生して、分かり易い図式を作り上げた。あれは、自分が客観的に風景を眺めている世界に浸ることが出来る道具なのだ。
 私ゃウォークマン反対論者でも賛成論者でもないっすけど、以前、おまえぇぇぇぇぇ!と思った事がある。

 某ネットのオフ会に参加する事になって、待ち合わせの駅に到着した。
 そのネットのオフ会に参加するのは始めてだったし、参加者の顔は2人知っているだけで、それ以外の人は完璧に初対面だったと言う事もあって、真面目に50分も早く到着したのだ(ちょうどいい時間の電車が無かったせいもあるけど)
 で、そこにいくと「いかにも」パソ通者系の人がぼんやりとウォークマンを聴きながら立っていたので声をかけてみると、その通り、オフ会参加者だった。
 うんうん、実にジミめでどんよりとした正統派のパソ通的な人だナァと思って「で・・・」と、自己紹介も含めて何か話をしようとおもったら、その人はさっき外したウォークマンをまた耳に当ててぼーっと立っているのだ。まったく会話が出来ないっす。
 結局、次のメンバーが来るまでの20分間、何も会話もなくぼーっと隣から聴こえてくるシャカシャカ音を聞きながら立ってることになってしまったのだ。

 で、メンバーが揃ったので「じゃ、店を予約してあるから」と歩き始めた・・・・と、背後からまだシャカシャカ音が聴こえている。
 ハッと振り返ると、さっきメンバーが集まったときは一度外したハズのウォークマンを彼はまたしているのだ。
 周りには10人ほどのオフ会参加者がいろいろと話をしながら一緒に歩いているのに、自分だけは音楽の中に埋没して、ぼーっと流れに乗って歩いている・・・・。

 そんな感じで、意味なくウォークマンで自分と他人を遮断するのも考え物なのだ。

 で、最近ふと思うのだが「路上チュー」なんかが、この三島やら沼津やらでも見かけるようになりましたが、あれってのも自意識が過剰を通り越して、自分の周辺しか見えなくなったケースっすね。ま、二人だけの世界って事なんだけど。
 あれと言うのは、体育会系の集団宴会状態と同じ様なもので、うわぁぁぁと盛り上がって他は見えない状態。
 なんつーか、熱中することがあるというのは良いことなんだろうが (笑)

 でも、あの「他人の目を気にしない」と言うのも実は「あたし達って他人の目を気にしていないもんねぇ」という形で周囲を気にしながらアピールしてんだよなぁ
1998年11月15日(日曜日) 隠れたカレーの名店
 俺の知っている店なんだけどさ、これがガイドブックなんかにもまだ見つけられていない穴場の旨い店なんだよ。ここのカツカレーは俺の知っている店の中でもトップクラスに位置していると思うよ。

 僕と友人がある休日、ぼけぇっと目的もなく時間を潰すかの様に車を走らせていた時に、別の知人から聞かされていた「隠れた名店」の話を突然思い出した。
 時間も昼時を少し過ぎたあたりで「何喰いたい?」などと言う感じの話も出ていた時だった。
 その話に出ていた旨いカツカレーを食べさせると言う店は、その時走っていた場所からやや離れていたのだが、コレと行って予定も目的もない二人は「少しぐらい遠くても旨いと言うのなら一度は喰ってみなくては」と意気投合してその店まで車を飛ばしたのだ。
 街を抜け、いわゆる観光ルートの途上にあるその店への道のりはいかにもドライブと言う感じで、しかも前後に殆ど車も走っておらずかなり軽快に車は目的地に向かっていた。
 男二人と言う状況はあまり歓迎すべき状況でないのだが「旨い物」と言う誘惑の前にはそんな事はまったく関係なかったのだ。

 そして、いよいよ知人に聞かされていた場所に・・・・・

 どー考えても、その道にはそのプレハブに毛の生えた程度のドライブイン形式の食堂しか無かった。
 「こ・・・ここでいいんだよね?」
 「たぶん・・・ここまでの道のりにそれらしき店は無かったし・・・」
 二人は少し躊躇していたが、ここへ来るまでの道のりですっかり胃袋の状況は食事喰いたい体勢にシフトして「一刻の猶予もない!」と言う状況で緊迫していたりするのだ。
 意を決して二人は立て付けが悪いプラス砂ボコリで滑りの悪くなったプレハブサッシのドアをガタガタと開け店内に足を踏み入れた。

 その店内は場末のドライブインなどと言う表現で表すには、あまりにも褒め言葉なのではないか?と言う様相を呈していて、あえて言えば「9月の海の家」と言うような、実に閑散と漠然と雑然とした佇まいをしていたのだ。
 ま、それでも一応観光ルートにある店なので窓際の席に座れば、外の風景は素晴らしい。
 本来ならば、やっと窓際の席が取れたね。風景が綺麗だね。と言う感じなのだろうが、この店の場合どの席も座り放題と言う感じで、その事からも「本当に旨いカツカレーを食べる事が出来るのか?」と言う不安を煽られてしまうのであった。
 とりあえず、席に着いた処でウェイトレスと言うにはちと横文字が似合わないぞと言う感じオバチャンが水の入ったコップをお盆に乗せ注文を取りに来た。
 とりあえず、店内の品書きを眺めて選んでいる振りをしつつ、二人ともカツカレーを注文した。

 僕は工事現場の簡易宿泊所プレハブ的な店内を見渡し、かなり激しく不安になりつつ「いやいや、こーゆー意外な店でこそ旨い物が出てきたりするのだ」などと、無理に自分に言い聞かせたりするのであった。
 とりあえず、コップに入った水を飲み、その内出てくるだろう最上級カレーの為に準備をする事に・・・・・み・・・水がぬるい・・・。
 この時点で不安指数が50から85にどどーんとアップしてしまったのだ。
 こりゃ、基本中の基本だろ?こんな状態で旨いカレーを食わせるって事はありえないのだ!と一気に僕は逆上をしてしまった。
 いや、まてよ?大昔読んだ漫画の「包丁人味平」の中で、カレー勝負の際にまったく水をださないと言うエピソードもあったハズだ。うむむ、もしかしたらカウンターの中にいる料理人はワケあってここにいるが、実は凄い人なのかも知れない。
 うむうむ。

 10代の頃にインドへ渡り本格的なカレー修行をして、各種スパイスについて研究に研究を重ね、すべてを知り尽くした後帰国し、日本で一番本格的高級カレー店の「タジマハール」の総料理長として迎え入れられたのだが、そのタジマハールの店長の娘(さっきの水運びオバチャン)と恋仲となった二人は、許されぬ道へ落ち、逃れ逃れ行きついた先がこんな人知れぬ観光地のドライブインと言う、むちゃ凄いドラマを抱えたカツカレーかも知れないのだ。
 偏見や外見だけで何事も判断してはいけないと小学校の時に教わったではないか。
 汚い老人だと思っていた相手が、実は青年を試すために扮装をしていた神様だったという話もあったではないか。
 このぬるい水だって何かこの先出てくるカレーへの伏線かもしれないのだ。

 僕は今までむやみやたらと疑っていた自分を恥じてしまったのであった。
 が、一緒に入った友人はまだ不安を隠せない様子で「このテーブルの上に醤油とかソースなんかが、そのままの小瓶で置いてあるってあたりが、なんか不安をそそるよね」などと言っているのだ。
 あぁ神よ、疑いという狭い心の持ち主の彼にもどうぞ神の御加護がありますように。
 そんなワケで僕は、穏やかな気持ちでカツカレーの登場を待ったりするのだ。

 と、思ったより早くカレーが到着した。
 二人の前に出現したカツカレーは、予想していた以上にハッキリとした黄色で、何故か異様につややかな光沢を帯びていた。
 「じゃ、頂きましょうかね・・・・」

 「ん・・・・・・・・・」
 「ん・・・・・・・・・」
 食事中の二人は無口だ。
 カレーを一口運んだ瞬間二人の動きは完璧に止まった。
 僕は、ゆっくりと顔をあげ正面の席の友人を見た。
 どうやら彼も同じ感想を持ったらしく、同じように顔をあげこっちを見ていた。その目は、何かを訴えるような、あるいは怯える子犬の様な悲しげな色をしていた。
 僕は、カウンターの中にいるインド修行をしてきたコックに聞かれないように小声でつぶやいた。
 「これは・・・・ククレカレーだ・・・・」
 と間髪を入れずに友人が
 「しかも甘口」
 二人の見解は一致したのだ。
 継いでカツにも挑戦して見たのだが、これがどーしたらこんなに筋張った脂身ばかりを集める事が出来るのだ?と言う程の芸術作品で、これならばハムカツの方が高級品なのではないか?と思わせる程のカツだった。

 友人は無口に数口食べていたが、もう我慢できないと「・・・ソースかける」と言い放ち、テーブルの上に置いてあったブルドックソースをカレーにドバドバかけはじめたのだ。
 僕も、小学生以来そんな食べ方はしていないが、それに従わざるを得なかった。

 その店を出た後の二人は、異常な胸焼けを起こし、あわててコーヒーをのみに出かけたのであった。
 しかし、最初にこの店を旨いと言った知人にも悪気は無かったと思うのだ。やっぱし食い物というのは、音楽なんかと同じように人によって好き嫌いが激しく異なる物だと思ってしまった。
 かの長編グルメ漫画みたいに、誰も彼もが「う〜んこの芳醇で新鮮で膨らみのあるまったりとした味が」などと感激する事はないと思うのだな。
 徹底的にジャンクフードが好きな人だっていると思うワケで、人の趣味にとやかく文句を言える物ではないと思ってしまうのだ。

 が、今回だけは苦戦をした・・・。
1998年11月16日(月曜日) 隠し撮り大作戦
 ひょんな事から2台目のデジカメとしてマビカを中古で購入する事になってしまった。
 いわゆるフロッピーディスクに保存するっているタイプのデジカメで、おかげで「メモリー容量がどーのこーの」とか言う心配がなくなってしまった。
 なんせ1Mがそこらのコンビニでさえ100円もせずに買えたりするのだ。
 こりゃ発想の転換として凄いモノがある。

 あと発想の転換によって変化したモノがある。
 内蔵メモリータイプのデジカメの場合、コンピュータへの接続ケーブルってヤツが必要になって、それを購入しない事には何の役にもたたないと言う事になる。
 でもって、これが高いんだ。
 店でデジカメを「お、安くなったね」と購入しても「接続ケーブル」「取り込み用ソフト」を別途購入せねばならず、結局あんまし安くない買い物になってしまうのだ。
 その点マビカの場合、そんな必要がない。
 うんうん、良心的かもしれない。
 ついでに電池がビデオなんかにも使っているリチウム電池なんで、少し重さはあるが長時間の使用にも耐えてくれる。
 FDを使うと言うのでカメラのサイズ的には大きくなってしまい、私のカメラにおける基本事項「ポケットに入るコンパクトさ」と言う条件を激しく逸脱していたり。現在主流のメガピクセルではなく35万画素なのだが、そんな欠点を許せてしまう部分がある。
 でもってこのデジカメが最大に凄いところは「10倍ズーム」搭載っつー事なのだ。

 はっきし言って普通に写真を撮るときには3倍ズームぐらいが適当だと思うのだな。10倍ズーム最大にすると手ブレがかなり激しくなる。  が、やっぱし10倍ズームは凄い。
 かなり遠くに見えるモノが間近にどどーんと迫ってくる。風景写真なんかでも富士山の頂上部分だけ撮影出来たりする。
 人物写真でも相手がカメラを意識する事なく写真が撮れたりするので、かなり自然な間の抜けた写真を撮ることが出来る。
 いわゆる隠し撮りと言う感じなのだ。

 そんなワケで私は以前より会社の行き帰りに目を付けていた場所へ出かけて、10倍ズームの威力を最大限に生かした隠し撮り大作戦を敢行する事になった。
 清水町役場を少しだけ西へいった所にある河原にそっと下りた私は、自らの気配を殺しながらゆっくりと草むらを進んでいった。
 奴等はかなりの確立でそこにいるのだ。
 枯れ草を踏みしめると、小さくぱきぱきと音がする為にかなり神経を集中させて奴等に近づく事になった。しかし、なんと言ってもこっちには10倍ズームがあるのだ。必要以上に近づかなくとも奴等の行動をすべて納める事が可能なのだ。
 私は枯れ草の向こう側にその動く影を見つけた。
 デジカメの電源をそっとオンにし、ズームを最大にし被写体を確実に捕らえたのだ。完璧に奴等は安心しきって、普段どおりの営みをしている。私は慌てず冷静にデジカメのシャッターを押した。
 デジカメの利点の一つにシャッター音がしないと言うのがあるが、このデジカメはワザと音をさせる事もできるが、ここはちゃんと無音モードにしてある。
 そしてFD一枚ぶん20枚の写真を撮り上げた私は満足して、その場を後にした。

 やっぱし10倍ズームのデジカメでのバードウォッチングっていいよねぇ。
1998年11月17日(火曜日) 早稲田大学教育学部
 たぶん今年の大学受験でもっとも競争率が高いのではないか?と思われる所が『早稲田大学教育学部』だったりする。
 いわゆる、広末涼子が推薦受験をする学部なのだ。
 なんだか凄い事になっているらしい。
 春頃から「広末涼子が早稲田を受験するらしい」と言う噂は流れていて「早稲田に簡単に入れるハズないから、絶対に裏口だ」とか「年々受験生が減っている早稲田大学の客寄せの為の卑怯な手段だ」とか言われ、その為に校門の所に「広末涼子早稲田大学入学絶対阻止すべし!」などとワケの判らない看板まで出ていた。
 そんな事もありつつ、結局、自己推薦制度というのを利用して広末涼子がこのたび早稲田を自己推薦制度を利用して受験する事になったらしい。
 そんでもって、その受験会場にはいる所がテレビで映し出されていたのだが、おまえら一体どーゆーつもりなのだ?と言う感じで、大勢のマスコミ報道陣&野次馬でごったごった返していた。
 普通の神経じゃないよなぁ

 普通受験とかって言ったら「なる〜べくそっとしておいてやりましょ」とか思ってしまう物だと考えてしまうのだが、とにかく早稲田校内に入って行こうとする広末涼子を阻止しようとでもしているかの如く、カメラマンが前に立ちはだかりその表情をとらえようとしている。
 もしこんな事で、受験に遅れたらどーするのだとか思ってしまうが、ま、そんな事は無かったみたいで安心安心。

 しかし、広末が早稲田に入るって事が決定したら、前述の「受験生を増やすための手段」ではないが、受験するヤツも増えちゃうんだろうなぁ。
 東大でも狙えちゃいそうなヤツでも「早稲田だったらオッケーか」などと受験しちゃうかもしれないのだ。
 なんせ現在早稲田の1年生がインタビューで「広末涼子が合格したら、俺、留年しようかなぁ」などと言っているのだ。うーむ。

 しかし、問題はこの受験の騒ぎだけじゃ済まない様な気がするんだけどなぁ
 なんせ、先日、某雑誌に「広末涼子ストーカービデオ」などと言う記事があって、彼女の通学風景から、学校の朝礼、体育の授業、その他諸々の私生活を移し続けたビデオ写真が掲載されていた。
 そんでもって、彼女が駅の階段を駆け上がるシーンではいわゆる逆さ撮りってヤツでパンチラまで映されていたりするのだ。
 まさか、今回の受験の様に毎日毎日の通学や授業にボディガードを付けるってワケにはいかないだろうしなぁ。高校は女子校らしいので、その程度のビデオで済んでいたけれど・・・・・

P.S. 1998.11.25 広末涼子の早稲田大学合格が決定しました。
でもって翌朝のスポーツ新聞の半分はその事で持ちきりだった。残りの半分は紅白歌合戦の出場者が決定して、そこが安室奈美恵の復帰ステージになると言うもの。
そんなにビックニュースかぁぁぁぁ?と思うのだが、なんせオブツ首相まで「広末とかって言う娘の事はよく知らんが、早稲田って事はワシの後輩になるワケだな、よかったよかった」などと、相変わらずノンキに答えているし。
1998年11月18日(水曜日) 星に願いを
 なんか世間では「獅子座流星群」と言う物が大騒ぎになっていて『今世紀最後最大の天体ショー』だとかって言われている。
 おいおい、たしか去年の「ヘールボップ彗星」の時もそんな事を言っていなかったか?(ヘールボップ彗星って去年の3〜4月の話だけど、人々の記憶の中ではもっと遠くへ飛び去ったらしい)
 さらに、それより10年ほど前の「ハレー彗星」の時もそんな事を言っていた様な気がする。
 そんでもってその度に天体望遠鏡が大量に売れると言う寸法なのだ。

 今回の獅子座流星群と言うのが一番ハッキリ見れるのが18日の夜明けの4時あたりという事で、世間では「今日は早く寝よう」などと言う人が多くいたのだ。
 とりあえず、物見遊山でミーハーで、人が楽しんでいる事を経験しないのは「損しちゃったなぁ」と言う、貧乏性な私もとりあえず早めに寝ることにした。

 いつもは何かしらの個人的な作業をして、さらにベッドの中に入っても「よっしゃぁ!」と潔く眠りに入っていかず、とりあえず小説本などを読みながら、文字を追いかけても頭の中に意味が入って行かなくなる限界まで起きていたりする。
 そんでもって、フェイドアウトする様に激しい眠りの谷へ墜ちてゆくのだ。
 それを、いつもより早い時間にベッドに潜り込む、強制的に「寝る!」と言ってもそう簡単に眠れないだろうなぁと思っていたのだ。
 が、意に反して私はベッドに潜り込んだ瞬間に意識を無くし、そのまま朝まで激しくぐっすりと惰眠をむさぼったのであります。
 「あ〜あよく寝た」
 と本当に自分でも「しっかり寝たよなぁ」と判るほどに、純粋に11月18日の朝を迎える事が出来た。
 「あぁ今日は晴れ晴れとした気分のいい日だなぁ」
 しばらくボクはベッドから上半身を起こした形で、爽やかな朝を満喫していた。
 そして手元にあったテレビのリモコンを使いテレビを付けた。
 その画面には『昨夜、各地で獅子座流星群を見ようとした天文ファンが・・・』
 「あ・・・・・・」

 見渡すとベッドの下には、4時あたりにベルを鳴らすようにセットされた目覚まし時計が停止ボタンを押された形で転がっていた。
 うむうむ、と思ったが「もし流れ星を見れたらお願いしたい事」の一つに『肩こり&偏頭痛を無くして下さい』と言うのがあったので、とりあえず星に願いをせずとも1つの願いは成就しちゃったという事なのだ。
 もう一つの大事なお願いは・・・星なんかに頼っていないで、自分で解決しろっつー事なのだな。

1998年11月19日(木曜日) 判りやすいドラマ
 ここ数年、ちゃんとドラマを見ることがあんまし無い。
 毎週同じ時間にキチンとTVの前に座っている事が無いってのが、連続ドラマから縁遠くなる理由だと思うのだが、不意に仕事が立て込んだりするのが常なので、基本的に8時台のドラマは毎週見ることが出来ない、9時台のドラマでなんとか見ることが出来るかも知れない。と言う感じなのだ。
 今はビデオって言う文明の利器があるのだけど、そこまでして見たいと思わないので結局、ほとんど見ることが無くなってしまうのだ。

 最近、レンタルビデオなんかでも「TVドラマシリーズ」が大量に出て、かなり高回転しているらしい。ってのは、自分だけじゃなくって他の人にとっても、やはり昔と違い夜の時間に毎週毎週キチンとTVの前に座って見ることが出来なくなっていたりするからかも知れない。
 などと思う今日この頃だったりする。

 だから今年前半の『ショムニ』みたいに、1話完結で1回2回見逃してもストーリーにはなんら支障がないというタイプのドラマが受けるのかも知れない。
 TVガイド雑誌(TVほとんど見ないのに毎号買っている)なんかを読むと、どーも最近はその手の1話完結っぽいものが多くなっている様な気がする。
 なるほどなるほど、と言いつつ私はこの秋から始まった『眠りの森』と言うドラマにはまっていたりする。
 そんでもってこのドラマが、1回2回見ただけでは全然物語が見えて来ないまま、延々と「次週へ続く」状態で物語は泥沼に突き進んでいるのだ。
 この小説はたしか「江戸川乱歩賞」だかを取った小説のドラマ化だと思ったけど、サイコホラー的な要素がなかなか良くて、謎が謎を呼び・・・と言う感じだったりする。
 毎回「この先はいったいどーなるのだ?」と言う興味で次へ進ませる。

 と私は思っていた。
 が、先日聞いた話では「あのドラマ2回まで見たけど、全然意味が判らないもんで見るの辞めちゃったよ」と言う感じだった。
 その場にいた数名も同じ様な意見で「うーむ、そうなのか」と思ってしまったのだ。
 ボクは元々推理小説とか好きだからなのかも知れないけど、得体の知れない謎を徐々に解きながら、また新たな謎に直面すると言う話が好きだったりする。
 しかし、どーやら時代はそんなに複雑なモノを求めてはいないと言うことなのかも知れない。

 *と言いつつこのドラマはこの秋のドラマの中で一番視聴率を取っているらしい。

 と言う事を、言ったら「そんなのキムタク人気だよ」と、見事に言い切られてしまった。
 どうやら、その場にいる人々が特殊なのかもしれない。

PS
 どうも、中山美穂の婚約者が仲村トオルっつー事なんで「いつ清水宏次郎が出てくるのか?」などと思ってしまった・・・・って、そりゃビーバップハイスクールだな。
1998年11月20日(金曜日) 時代は和歌山!(か?)
 なんか和歌山が今年はムチャクチャ騒がしいっす。
 例のカレー事件からだけど、それに絡んで事件が起こって全然解決していないその直後に、そのカレー事件が起こった地域の町長だかが、青森だかのお祭りを見に言って「これは仕事の一環で前から決まっていて、毎年恒例の物だから」などと言い訳をしたり、それ以外にもホテルだから全焼して多数の死者を出したとか、なんか悪いニュースで盛り上がっている。

 そうか世紀末と言う時代は和歌山だよなぁ

 と言っても、ふと考えると和歌山って・・・・実際の所、何があったっけ?と言う状態だったのだ。
 確か、和歌山の旧名が「紀州」だから・・「紀州梅」って有名じゃなかったっけ?
 あとミカンもあった様な気がする。
 うーむ、どうにもその程度しか思い出せない。
 これを読んでいる和歌山関係者の皆様には失礼なのだが、私の認識度はそれくらいなのだ。
 自分の書いている『HAPPY BITHDAY'S CLUB』で和歌山を検索してみると(検索犬ポチと言うテキスト検索を使用)和歌山出身の有名人は・・・・・
よく知らない人はそこそこいるが、誰でも知っていると言うと
●小林稔侍(俳優)和歌山県[A]笠田高
●坂本冬美(Vo)和歌山県上冨田町[O]熊野高
●明石家さんま(タレント)和歌山県[B]
て感じっすかね。
 明石家さんまは和歌山生まれだけど、育ちは奈良県だと思った。
 あとは野球の人は多い。

 なかなか和歌山って、謎に満ちているっす。

PS
凄く不謹慎なのだが、某雑誌に「インターネットで発見した」と言う事で、昔のボンカレーのパッケージ写真のパロディで、その中の人物(昔の女優の松山容子だったと思う)の代わりに、例の林ますみが笑顔を振りまきながらカレーを注いでいるヤツが掲載されていた。
でもってボンカレーではなく「青酸カレー(ヒ素味風味)」などと書かれているのだ。
うーむうーむ、凄く不謹慎なのだが・・・・・すまん、笑ってしまった。