杉村ぐうたら日記134(1999年2月1日〜2月7日)

▲1999年2月1日:月曜日:カッコ悪いっすか?
▲1999年2月2日:火曜日:カッコいいっすか?
▲1999年2月3日:水曜日:イチョウは胃腸にいいちょう・・・
▲1999年2月4日:木曜日:文庫本サイズのマンガ本
▲1999年2月5日:金曜日:リング最終章
▲1999年2月6日:土曜日:100→50→33.333
▲1999年2月7日:日曜日:それは不幸だ!
▲1999年2月8日:月曜日:エッセイストは楽しい
▲1999年2月9日:火曜日:男と女の決定的な差
▲1999年2月10日:水曜日:どんどん不器用になる
1999年2月1日(月曜日)カッコ悪いっすか?
 某氏と話をしていて「今、俺の車ノーマルだからカッコ悪くてさ」と言う話が出てきた。
 私はその時、全然意味が判らなかったのだ。
 新車で購入したばっかしの車だったりするから、私の感覚で言えば「まっさらで新しいんだぜぇ」と自慢したくなっちゃうのでは、と思っていた。
 が、基本的に走り屋で、週末の夜は箱根でドリフトだぁぁぁぁきゅききっきききぃぃぃぅぃぅぃぃぃと言う某氏にとっては、マフラーを替えていない、エンジンをチューンナップしていない、スポイラーを付けていない車はダサいの一言で済まされてしまう存在らしいのだ。
 うぬぬぬぬぬぬ、そうだったのかぁ。
 私はその感覚の差と言う物に気が付き、目からボロボロとウロコが墜ちてしまいましたね。

 つまりカッコいいと言う感覚はひたすら自分の属している世界での価値観が全てで、そこにあるのは冷静な客観性ではなく熱狂的な主観性だと言う事。あるいは自分のスタイルの中での美意識の集大成と言う事になるのだ。
 他人から見たらどーでもいいことなのだろうが、その人に取ってはすべてを差し置いての価値基準になってしまうのだと思う。

 たとえばファッションなんかでも、興味ない人には同じに見えるような部分でも、それぞれの所属する人間の間では、それぞれのセンスと言う物が激しくシビアに競われていたりするらしい。
 なんせ、かのルーズソックスなんかででもその種類、履き方と言うのはかなりバリエーション豊富・・・らしいのだ。まったく圏外の人には「最近の女子高生は同じ様なルーズソックスを履いて」てな風にしか見えなかったりするのだが、そのメーカーの差から、種類や履き方で色々、激しくバリエーションが存在していて、彼女たちはそれを使い分けていると言うのだ。
 まったく、そこに属していない人間からしたら「どれも同じじゃん」と言う物なのだが、どーも違うらしい。それも「激しく」違うらしい。

 いぜん深夜のTVをぼーっと見ていたら、中年のおじさんが若い女の子に「同じ様なファッションをして」と意見をした処「みんな全然違って個性を大切にしてるじゃん。それに比べてオヤジ達ってみんな同じカッコしてて区別つかないしぃ、カッコ悪いって思わないのかなぁ」などと、基本的にどんなに話し合っても交わる事のない会話が展開されていた。
 その4人ほどの女子高生はみごとなぐらいに典型的とされるコギャルな人々で、当時流行っていた造花を髪の毛や腕に付けていた。
 でもって「みんな眉毛を同じように細くして」と言う意見にも「みんな違う形でしょ、それも判ンないなんてアンタ終わってるよ」と言う事になってしまったのだ。
 ま、確かに眉毛の形と言う見方をすればどれもこれも違うのかも知れないけど・・・・、ファッションの向かっているベクトルが全員同じだって事だと思うのだ。

 そして確かにオヤジ'sも同じ様なと言われればそーゆースタイルをしている。
 それはなにぶんにも、私がそのどっちの世界にも属していないので、みわけが付かないと言う事なのだ。  つまり多くの人間様が猿山の猿の顔が見分けられないのと同じなのだな。(キッパリと極論)

 今、世の中は方向性の多様化が叫ばれ、長いこと「個性の時代」と言う物が言われている。
 でもって、小さな頃からそーゆー事を聞かされて育って来た子供達は「個性的」と呼ばれる個性を身につけたと思い込ンじゃっているのだな。
 「俺は誰にも影響を受けてねぇよ」と言いたがるチーマーくずれも実際の事を言ったら「タトゥー」だとか「ボディーピアス」だとか、今って時代だからやっているんでしょ?
 そーゆーのに属している人々がみんなやっているから。そーゆー仲間に属していながら、健康志向で酒煙草をやらず服も髪型もアイビーでキメている人がいたら、それは本当にカッコいいかも知れないけど。
 なんせ髪の毛のメッシュの入れ方だって、思いっきり流行に左右されちゃっているし、ロンゲのスタイルだってヘアバンドだって、何もかも「今だから」と言う流行に左右されて、自分の属している世界の中で当たり前になっている事を、その属している世界の中でしか判り得ない個性を発揮しているのだと思うのだ。

 だからこそ、マンガやドラマの中に紋切り型として登場させられる「オヤジ」や「チーマー」や「コギャル」と言うジャンルの人物が記号として存在しえたりするのだな。そーゆーカッコをさせれば、そーゆー人で、そーゆー生活をしてて、そーゆー言動をはいて、そーゆー性格だってのが誰にでも判別できるって事で。

 そして、きっと自分たちはカッコいいと思ってやっている事は「今」しか通用しない事だと気づくのは、数年後、そのスタイルがギャグとしてしか機能しなくなる時だと思うのだ。
 つまり流行に踊らされたカッコよさは、次の瞬間にギャグになる、と言うのはこれまでの歴史が繰り返してきた事だったりする。

 やっぱし、もっと自分に自信を持って、自分だけのヒットチャートを心の中に持たないと、この先も延々と流されていっちゃうのだ。

 さらにカッコ悪いなぁと思ってしまうのは、そーゆーライフスタイルを送っている人々なんかで『だって今しか出来ないっしょ?』みたいな事を言うヤツなのだ。
 昔から20歳を過ぎたらいつまでもハンパしてられねぇから暴走族を卒業するみたいな伝統があるけど、それって凄くカッコ悪い生き方だと思うのだ。
 かと言って、そのままヤクザな世界に行っちゃうのも考え物だけどさ。
1999年2月2日(火曜日)カッコいいっすか?
 前の話が続いてしまうのだけど、世間で流行っている事に対して「カッコいいか?」と思う事が多くなるのは、ある種「ジジイ」になったという証拠なのかも知れないなぁと思ったりする事がある。
 と書くと、前日に書いた事とまるっきり正反対っつー事じゃネェのか?あぁ、こらどーゆーつもりだ、こらあぁ?  などと凄まれてしまうかも知れないのだが、ときどき理解不明の「カッコいい」が登場する時に激しく「?????」と思ってしまう事も事実なのだ。

 ぱらぱらとスキー&スノボー関係用品のカタログをめくっていた。
 別に買う予定などなかったりするだが、この手のカタログを見るのが好きで、意味無くディノスのカタログなんかも読んでいたりする。そんでもって、下着関係のカタログで「徳したぁ」などと思ってしまう私がいたりするのだ。
 ま、スキー&スノボー関連のカタログはそーゆー意味ではお得度数が激しく低いのだが、それでも暇つぶしでぱらぱら読んでいたりする。
 そんでもって「うーむこんな板が何故にこんなに高いのだ」などと思ったりするのだが、最近「?????」度数が高まってきたのが、スキーウェアのデザインで「本当にこれカッコいいつもりなの?」と言う物なのだ。
 確かに「旅の恥はかき捨て」などと言われるように、スキー場は果てしなく現実世界から逃避できる世界なので、冷静なファッションセンスから逸脱した物でさえ許されるのかも知れないのだが。
 も、ちっと冷静に人生を見つめ直しなさい、胸に手を当ててよ〜く考えなさい。と言う、ひたすら派手派手なだけのウェアなんかが当然の顔して掲載されている。
 が、きっとスキー&ボーダーには認知されているファッションなんだろーなぁ
 と考え込んでしまったりする。

 以前から思っている事に「私はゴルフをやりたくない」と言うのがある。
 それは、あのスポーツ自体には罪は無いと思うのだが、そこに展開される人間的な物がいやだったりする。
 「やっぱ大自然の中で旨い空気を吸いながらやるゴルフって最高だよな」などとか「こうしてグリーンを歩くって言うのが体にいいんだよね」などと、オヤジ達はおっしゃる。
 しかし、木を大量に伐採して、ブルドーザーでなだらかに歩きやすいように均した山を自然と言うのか?責任者出て来ぉぉぉぉい!って言う感じなのだ。
 そんなに山歩きと自然が好きなら、ハイキングしなさい、ロッククライミングでもしなさい、まったくもー。
 と言うのが前提にあったりして、もっと嫌だと思う理由に「何故、ゴルフウェアってダサいの?」と言う現実的な問題があったりする。
 よく芸能人ゴルフ大会なんて物があって、たくさんの芸能人がワキアイアイしちゃっていたりしますが、その映像を見て「マジかよ」と思ってしまうのが、そこに参加している人々のセンスの悪い服装だったりするのです。
 普段はスタイリッシュできまっているトレンディな人でさえ、ゴルフウェアになった途端に普通の人以下のダサダサになってしまうのだ。
 もしゴルフってをやる場合、絶対的にあんな状態にならなくてはいけないのならば、一生やらなくてもいい!と思ってしまうのだ。
 しかし、あれはあれで、部外者の私には全然理解不能な部分で「センスのせめぎ合い」があるのかも知れないのだ。

 うむむ、ファッションは奥が深い。
1999年2月3日(水曜日)イチョウは胃腸にいいちょう・・・
 風邪が蔓延しちゃっているワケで、空気が乾燥しちゃっていると言う事になるワケですな。
 だから自分も、朝起きるとどーもノドが乾いてガラガラになっていたりする。
 いかんいかん、と言うワケで会社に行く途中で「のど飴」などと言う物を購入したりするのだ。
 一口にのど飴と言っても、最近は各社が大量の種類を出しているので、選択肢が異常に多かったりする。でもって基本的に新し物好きな私は「新製品」と言う文字に踊らされてしまうのであります。

 で、手に取りレジに行く時にそののど飴を見た。
 メタリック系のオレンジ色のパッケージに『金ののど飴』とかかれたソイツは森永の新製品だった。
 ふ〜む金ののど飴かぁと、そのパッケージの文字を読み進んでいくと「イチョウ葉エキス配合」と書かれているのだ。
 うぬ?イチョウって・・・・あのイチョウ?
 とさらに読み進んで行くと「今注目のイチョウ葉エキス配合の金色ののど飴」などと書かれているのだ。
 ふ〜〜〜〜〜〜〜む、と私は思いっきり考え込んでしまったのだ。
 君の言いたい事はよ〜く判った、この中にその「今注目」の「イチョウ葉エキス」が配合されていると言うワケだな。で、そのエキスが配合されているって言うから、何ンじゃっちゅーのや、われ?
 などと意味無く後半は関西弁になってしまうのだが、そーゆー風に「何々配合!」とか書かれている物をよく見かけるのだが、実際の処、その配合されているから何がどーなるのか?と言うのが不明な物が多かったりする。

 たとえば、それがビタミンCだとかだったら何ンとか判る。ベーターカロチンあたりになると、かろうじて判ると言った状態だったりする。
 が、それが最近流行の「ポリフェノール」あたりになると「確か体にいいって事は聴いたことある」ぐらいになっていく。
 それがさらに、薬系で「タウリン」とかそーゆーのを歌い文句にしてあっても、全然意味不明なのだ。でも購入する時に「タウリンって言うきっと体にいいはずの物が100mlも配合されているんだから、体にいいに違いない」と思い込んで購入してしまうのだな。
 なんせ現代日本は激しく健康方面に傾こうとしている。全てはみのもんたの陰謀と言う説もあるが、とにかく今のキーワードは『体にいい』だと思うのだ。

 だから、何ンだかよく判らないが『イチョウ葉エキス』ってヤツが配合されているのがキャッチコピーになってしまうのだな。

 で、イチョウ葉エキスって・・・・・・・?
1999年2月4日(木曜日)文庫本サイズのマンガ本
 最近、本屋の文庫本コーナーが激しく「漫画本」で浸食されている。
 うむーーーーーーーっと私は思ってしまう程の文庫本マニアで、このように普通の文庫本の置かれるスペースが少なくなることは歓迎していないのだ。
 それでなくても、近所の大型店は私の興味をそそらないジュニア文庫やファンタジー系文庫なんかが場所を占めているっつーのに。

 などと言いながら、最近その文庫本漫画を何冊も購入していたりする。
 文庫サイズの漫画は絵が果てしなく小さくて、あんまし購入したくはなかったのだが、とある陰謀にはまって購入し始めてしまったのだ。
 実は会社で印刷所関係から、その手の漫画文庫本が大量に『ご自由にお持ち帰り下さい』状態で回って来たのだ(出版関係仕事の特権っす)そこで、数冊貰ったのが『スケバン刑事』と『みかん絵日記』と言う、基本的に少女漫画なのだ。
 しかし読み始めるとなかなか面白くハマってしまい、結局「この続巻は・・・・」と本屋に向かう事になってしまった。うぬーもしかしたらこれは陰謀では無いのか?と思いつつ、続巻読みたい症候群は押さえる事ができなかった。

 しかし、今その漫画文庫のカタログを見ると、かなりの数が出版されていて、いままで読みたくても読めなかった過去の名作なんてのも大量に出ていたりする。
 で、一度崩れてしまった私は、止めどなく崩れていくワケで、徐々に本棚に漫画文庫本が増えていくのであった。

 だけど、かの手塚治虫氏が生前言っていた言葉で「漫画は文庫本のサイズで読む物ではない」と言う言葉を今でも覚えている。
 しかし手塚氏も出版社側の要請で生前に何冊か出していたが、あんまり気持ちのいい物では無かったと思う。そのためなのか、生きている間は「火の鳥」「ブッダ」などの氏にとって意味のある作品は文庫化されなかった。(死んだ途端にどんどん出たけど)
 たしかに、漫画を書く側からしたら、あのサイズの小ささは困ったものだと思うのだ。
 実は漫画の文庫本ブームは2度目で、最初は70年代の後期にあった。
 しかし、その時発行された物を見ると、安い紙にあんまり精密ではない印刷で、かなり細かい線などはつぶれてしまっていたりする。
 今は製版技術の向上により、かなり細かい線でも表現できる様になったけれど、やっぱしサイズの小ささは問題だと思うのだ。
 なんせ、漫画の原画ってのは雑誌のサイズの1.2倍と言う大きさで書かれている。それをあのサイズまで縮めるワケだから、作者の思った様な迫力が出るわけないのだ。

 確かに文庫本は収納が楽だったりするのだろうけど・・・・買いつつも、いまだに反対だったりするのだ。
1999年2月5日(金曜日)リング最終章
 今、映画館で『リング2』が上映されているらしい。
 でもってビデオでも、それの前作『リング』『ラセン』がレンタル回数ランキング上位になっていると言う。
 うーむ、と思いつつ今、毎週木曜日の10時から『リング 最終章』と言うヤツをやっている。
 いったいどれがどー繋がってどれが本筋なのだ?と言う感じになっている。

 実は私は映像に関しては、現在TV放映中の『リング 最終章』しか見たことがないのだが、原作はとりあえず読んでいる。
 と言うのもずっとずっと昔で、まだ映画になる前の話で、文庫本が出たばっかしの頃だった。
 それ以前から書評誌などでは「怖い、近年まれに見る傑作ホラーだ」と書かれていたのを読んでいたのだが、基本的にホラーはあんまし読まないのとハードカバーで読むべき種類の作品ではないなぁと思って、触手を伸ばさずにいた。
 それがある日、本屋に行くと文庫本になって出ていた。私は何も考えずにその本を購入したのだ。
 まさかそれが恐怖への扉を開ける事になろうとは露知らず・・・。

 それは深々と寒い冬の夜の事だった。
 私は風呂から上がりほかほかしたままベッドに潜り込み、枕元の明かりだけで「リング」を読み始めた。
 その事件の発端はホラーと言うより推理小説に近く、その事件の真相を探ろうとする主人公に勘定移入して読み始めたのだ。
 そして物語は急速にスピードを上げ、ホラー的要素を膨らませていく。しかし確かに怖い話だが、そーんなに恐れるべき物語ではないなぁと思いつつ読んでいた。
 が、ある瞬間からその物語の驚くべき事実に気がつき、怒涛のごとく恐怖心が盛り上がって来てしまったのだ。
 主人公が事件の発端をさぐり東京から出発しついた処が、熱海と函南をつなぐ幹線道路の「熱函道路の料金所」だったのだ。
 そしてさらに・・・・

 僕ははっと顔を上げて部屋を見渡した。
 枕元の明かり以外に明かりのない部屋は、必要以上に静まり返っていた。
 その恐怖とは、物語の場所が、現在自分がいる場所のかなり近い場所だと言うことなのだ。
 ハッキシ言って私は事件の発端になった「伊豆の函南」に住んでいる。例の井戸があるとされる場所は車を飛ばして数分と言う感じなのだ。
 うひ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ
 もしこの本を読んでいる瞬間、本の中でドアを開けるシーンがあって、それと同時に自分の部屋のドアが音もなく・・・・。
 その後は恐怖心もありつつノンストップで読み切ってしまったのだ。
 なんつーか、ホラーと呼ばれる小説で始めて恐怖心を感じたっす。

 そのインパクトがあったので、その後の映画なども一切見ていなかった。
 かなりビビリな人なのだ、私ってヤツは。
 今回のTV版は、そのペンションがあった場所が伊豆ではなかったけど・・・・
 しかし事件の発端がビデオって事なので、やっぱし映画だと客もそのビデオを見るワケだろぉ、もし本当に偶然に呪いのビデオを作ってしまったらどーするのだろうか?などと考えてしまったのだ。

 TV版は14日後に死ぬって話なので、もしかしたら3週目以降の視聴率は思いっきり悪かったらどーしようか。なんせ、第1回目放送を見た人が全員死んじゃったりするワケでしょ。(正確には1週目の45分あたりでビデオが流れたので、丸々14日後は第3回放送中の45分あたりで、3回目放送を見ている最中に死ぬという計算になる。)

 などと果てしなく下らない事を考えていたりする私だったりするのだ。
1999年2月6日(土曜日)100→50→33.333
 近所に「BOOK OFF」と言う古本屋と言うにはやたらと綺麗なチェーン店形式の古本屋がある。
 ここにいくと新刊でもかなり早い段階からあったりするので、大量本読みISTの私はかなり重宝しちゃったりするのだ。
 でもってその中に文庫本100円コーナーと言うものがあったりする。この100円コーナーみたいな物は普通の古本屋さんにもあったりするのだが、普通は「売れないカス本」と言う感じだったりするのだが、この店では「新しい物でも大量に出て在庫がダブついている物」だったりすると100円だったりするのだ。
 だから、つい先日出たばっかしと言う本まであったりするのだ。
 その中で、ずっと気になっていた物があった。

 それは講談社文庫のパトリシア・コーンウェルの『検屍官ケイ』シリーズだったのだ。
 以前から書評誌でも面白い面白いと評判のシリーズで『検屍官』『証拠死体』『遺留品』『真犯人』『死体農場』『私刑』『死因』『接触』『業火』と9冊のシリーズが出ている物なのだ。
 確かに以前から読んでみたいと思っていたが、なんせこの本、どれもが500ページ以上あるヤツで、それがすでに9冊かぁと言う、すでに「先は長い」と言う感じで、躊躇していたのだ。
 ついでに文庫本だが1冊800円以上と言う感じで、購入するにしても、うぬぬぬぬぬと言う感じだったのだ。

 そのシリーズの6冊までが今100円コーナーにある・・・・・つまり1冊の値段以下で6冊買えるのだ。と思いつつ、何故かその日は買う気が起こらず店を後にした。
 その数日後、店に立ち寄ったとき、驚く事になっていた。
 その100円コーナーに『100円コーナーの本、2冊で100円』と言う張り紙があったのだ。つまりこのシリーズ6冊で300円。こりゃ安い!と思ったのだが、店内をうろついている間に前々から探していた本を見つけてしまい、そのうれしさからレジへ直行し、すっかり忘れたまま帰ってしまったのだ。

 その数日後、店に立ち寄ったとき、さらに驚く事になっていた。
 なんと100円コーナーに『100円コーナーの本、3冊で100円』と言うにわかには信じがたい事が書かれていたのだ。つまり6冊で200円。  躊躇している場合ではないのだ!
 私は即座に購入して店を後にした。
 なんつーか、本の運命は最近はそんなに果てしなく短いのか?

 そんなワケで「長そうだしなぁ」と思っていたのだが、読み始めるとハマるハマる、一気に読み込んで、その勢いで普通の本屋さんで普通の値段で売っている残りのシリーズも購入してしまったのだ。
 まったくもって、簡単にハマる人だったりする。
 だが、このシリーズは本当に面白いっす。

 しかし安く購入できるってのは嬉しいけれど、それだけ安いってのは、そんな価値しかないのかなぁ

▼今日の占い
1999年2月7日(日曜日)それは不幸だ!
 たとえば音楽なんかをこよなく愛して、ある程度の年齢になると新しい音楽を耳にする度に
 「この音楽はあーだし、こーだし、やっぱし音楽の本質があーだし、こーだし、アレンジセンスがあーだし、こーだし」
 とあーだしこーだしを言うのが日常になっていく。
 それは、小説読みだったとしても、漫画読みだったとしても、何にしてもある程度キャリアを積んで、いっぱしの「音楽聴き」になったり「小説読み」「漫画読み」になると、同じように評論家もどきに成長してしまうのだ。
 確かに、それまで自分が積み重ねてきた記憶のストックの中で「そんなの過去にあったよ」「あの作家だったらもっと違う観点で切り取るね」などなどと、おめーはいったい何様だ?と言いたくなるような態度を取りたくなってしまうのも判らないではない。しかし、あたかも冷静に分析をしているが如く、その作品をぶった切ったりしちゃうのって、端から見ていて楽しそうではないって気がしちゃうのだ。

 と、今ならビシッと言えるのだが、実際の処じぶんも、経験が無いクセに頭でっかちだった高校生から20代前半の頃は、かなりそんな風に、あたかも冷めた視線で音楽や文学なんかを語ってしまうような場面があった。
 なんつーか、ほんとうに世の中の断片をかすかに経験しただけで、その価値観が全てだと勘違いしちゃってすべてを対等な位置まで引きずり下ろして語ってしまうってのは・・・・・いやはや恥ずかしいかぎりですな。
 特に自分の場合、音楽はビートルズで目覚めて、漫画は絶対的に手塚治虫だ!などと言うバリバリ正統派だったので、顕著だったかもしれない。

 でも、ある日ふと自分の態度を振り返って思ってしまったのだ。
 何か自分って「音楽が嫌い」「小説が嫌い」「漫画が嫌い」みたいな事を言っているんじゃないか?って気がしちゃったのだ。
 本当はスキでスキでたまらないわけで、音楽が無ければ1日は始まらないし、小説が無ければ1日は終わらないのだ。基本的に今でもそーなのに、何故「嫌い」と感じてしまう様な発言をしてしまうのだ?

 最初の頃は単純に好きと言う部分で聴いたり読んだりしていたので、凄く幸せだった。
 それがいつの間にか、ポーズも含めそんな評論家になってしまっていたような気がするのだ。
 それは不幸な事だよなぁ自分にとって。
 単純に「好き!」と言いながら音楽を聴いたり、本を読んでいた時代は、本当に幸せだった様な気がする。

 そんな事に気が付いたのが22歳かその頃、それから批評をしてもしょうがないって事に気が付き、完璧雑食ドカ喰いな人になってしまったのだ。
 単純に、中学生の頃みたいに「音楽って好き」などと言える状態は楽だったりする。

 でも、周りを見ているとええ歳をしても、相変わらず根拠の無い批評を繰り返す人や、若い世代に向かってじじい理論を爆発させている人もいて、かわいそうになぁ、楽しんでいないんだろうなぁなどと感じちゃう事もあるのだ。
1999年2月8日(月曜日)エッセイストは楽しい
 実を言うと、僕が日々ワッセワッセと書いているこの『ぐうたら日記』と言うヤツの名前のベーシックな所にあるのは、遠藤周作と言う作家だったりする。
 僕が遥かかなたの中学生時代、児童文学ではない文学に目覚めた頃に、ひたすら読んでいたエッセイの作者が遠藤周作だったのだ。
 エッセイではあとは北杜夫。作家は星新一、小松左京、筒井康隆と言うSF作家だったりする。
 遠藤周作は狐狸庵と言う称号で「ぐうたら」シリーズ、北杜夫は「ドクトルマンボウ」シリーズを書いていた。
 でもって、文章を書くと言うことに関して色々な部分で影響を受けたと思っている。
 とりあえずこのHPを立ち上げる時に「日記の名前はどーしよーかなぁ」と考えた時、かなり安易にこの名前を付けたのだが、約1年経って最近「あ・・・ぐうたらって言うエッセイのシリーズはもともと遠藤周作だ」とやっと気づいたと言うわけであります。いやはや。

 そんなエッセイの達人、遠藤周作氏もかつては連載していたエッセイのネタを探すのに苦労したみたいで、自分から事件を起こしたり、ちょっとした実験をしてみたりして、無理矢理それをエッセイにしていたと言う。
 先日ラジオで聴いた息子さんの話には考え込んでしまった。
 息子さんは現在TVプロデューサーだかをしているらしいが、彼が学生の時代の話。
 ガールフレンドなんかから時々家に電話が掛かってくるのだが、その電話はことごとく父親である遠藤周作氏に取られてしまっていた。普通の家庭ならばそんな事はないのだろうが、文筆家をしている遠藤周作氏は当然常に自宅にいて、当然の如く電話は手の届く所にあるので、家に掛かってきた電話は誰よりも早く取ってしまうのだ。当時は親子電話なども無かった。
 でもって、女の子から電話が掛かってくると、そんな事実はどっこにも無いのに「あぁいつもお話は伺っていますよ、こないだ箱根に一緒にいった◎◎さんですね」などと、架空のよけいな事を言ってから息子に電話を取り次いだりすると言うのだ。
 当然、その後掛けてきた女の子に、まったく事実無根な事を激しく突っ込まれて息子はしどろもどろになる。

 またある時は、取り次ぐ時にワザと受話器の送話口を押さえず大きな声で「おーい、◎◎さんから電話だぞぉぉ、えっいないって言ってくれって?しょーがないなぁ」などと一人芝居をした後で受話器に近づき「すいません、どうも息子は外出しているみたいで」などと、とんでもない事をしてくれていたらしいのだ。
 おかげで学生時代、息子氏は周りの女性から総スカンをくらった事もあると言う。
 これもすべてエッセイの為なのだな。

 そんな事を私の周囲にいる人も肝に銘じておきなさい。
1999年2月9日(火曜日)男と女の決定的な差
 安室奈美恵が最近、歌番組に出て歌っているのを何度か見かけた。
 やっぱし芸能人はなによりもスタイルを大切にするってワケで、出産したとは思えない様なスリムな体になって出ている。
 変わり無くと言う感じなのだろうが、ふと気が付いた事は「何ンか声質が変わった様な気がする」と言う事なのだ。

 うーむ、別にそれ以前も熱心に聞いていた訳ではないのだが、何か声質が違うように聞こえてしまった。最初は、久々に歌うんで声が出ていないのかと思っていたのだが、根本的な部分が違ってしまった様な感じがする。

 色々な所で話を聞くのだが、女性は妊娠・出産を経験すると体質が変わってしまうというらしい。あんまし詳しくは判らないのだが。
 判りやすい所では、太りやすくなったり、逆に太らなくなったりすると言う。
 なんか女性ってのは、その辺の作業と言うヤツが凄いよなぁと、無条件で感心するしかないのだ、男としては。

 男はいつまでも子供の心で・・などと言ったりするが、それって基本的にそーゆー大事な物を抱えていない無責任さから来ているんだろうなぁなどと思うのだ。
 女性は無自覚の内に、子供を産むと言う超現実的な事をリアルに感じとっているのだと思うのだ。だから、良い意味でも悪い意味でも「現実的」と言う物を抱えてしまうんだと思う。

 男は所詮、種蒔きのみで、いわゆる全力疾走で500メートル走った分のカロリーだとか言う物くらいしか使用していないのに対して、女性は自分の身を削って新しい魂を作り上げるのだから、こりゃどー考えても男は女にかなわないワケだよなぁ、どんなに偉そうにしていたって。
1999年2月10日(水曜日)どんどん不器用になる
 いわゆる我慢強い性格なんだと思う。
 辛いとか、哀しいとか、そーゆー部分を相手に見せるのが苦手で、ついつい胸の奥の方にじっとしまい込んでしまう事があると言う事を自己分析で感じている。
 それが良い事なのか、悪い事なのかは、時と場合だと思うし、よく判らない。
 でも、そんな性格が自分自身の精神によくないっつー事は判っている。ストレスをため込み易いのだ。でも、そのストレスが貯まりまくってしまって、他人に会うのも話をするのも嫌になって、世捨て人として生きてしまいたいなどと極論まで考えてしまう事もある。
 が、とりあえず会社に出かけてお仕事をして何がしかのサラリーを貰って生活をしているワケで、ついでに責任感なんて物もあって、見た目は普通の顔して人前に出てしまったりするのだ。
 つまりストレスまで押さえ込んでしまうのだ。これじゃ体にいいわけないよ。

 それと反対に、とにかくわがままの限りを尽くして、他人がどーだと言う前に自分の感情だけで行動している人もいる。
 その理論の全ては「俺様主義」で、何か嫌な事が起こると必ず「それはアイツが悪いから」とあくまでも自分の責任ではないと思いこんでしまうのだ。と言うか、思いこむ以前の問題で、そーゆー人は微塵も「自分の責任」と言う物が欠落しちゃっているのだ。
 だから、「それはキミが」などと言おう物なら「アイツは俺に対して敵対心を持っている」と言う事になってしまうのだ。うーむ、厄介君。

 と周囲にこう言う人が一人でもいるとかなり空気が重くなって、何を言うにもするにも気を使わなくてはいけなくなってしまったりするのだ。
 あぁぁぁぁ疲れる。
 と思う反面、自分の様についつい他人と言う物を意識してしまう様な人間は「ある種うらやましい」などと思ってしまう部分もある。
 あーゆー生き方は凄く楽なんだろうなぁと思う。たとえ周囲の人から影で煙たがられていたとしても、そーゆー性格ならば関係なく生きていけると思うのだ。そんな状況でさえ、自分に問題があるワケでなく、圧倒的に「他人のせい」にして生きていけるのだから。

 しかし、この二つの性格の差ってのはどこから来るのか?などと考えてみたりする。
 ずっと小さい頃にまで遡ってみると、基本的にすべての人は「わがまま」な方向に行き着いたりするのだと思う。
 生まれたばかりの赤ちゃんは基本的に、周囲のすべての人間や物に依存して生きている。
 お腹が空けば泣く、暑ければ泣く、寒ければ泣く、眠たければ泣く、気分悪ければ泣く、とにかくひたすら泣く事で他人に自分の感情をアピールするのだ。
 そうすれば誰かが助けてくれる。
 その事を本能的に知っているワケで、赤ちゃんは基本的に地球は自分の為に回っていると思いこんでいる節がある。
 それが人間界で1年2年と生活をしていく内に、言語と言う物を覚えてくる。
 そうすると泣くと言う事ではなく「お腹空いた」「暑い」「寒い」と言う事を意味としてアピールする事が出来ると言うのを学習していく。しかし、まだ言語と感情のバランスが取り切れていない頃は、何かを言葉で表現したいと言う気持ちより感情が突出して「泣く」と言う行動に向かってしまう事もあるのだと思う。
 あるいは言葉で言っても親などが反応してくれない場合は、極論としての「泣く」と言う感情に至ってしまうのではないか?などと思うのだ。

 それが段々、情緒や社会性を身につけて行くにしたがって「我慢する」と言う理念に感情が支配されて、人間的に成長していくのではないか?
 ここで、最初の「一人立ち」と言う物を精神的に行うのだと思うけれど、まだ不安のある子供は「甘えん坊」になったり代償行為でぬいぐるみなどを手放せなくなってしまうのかもしれない。
 それが、大人になった時にまだ他人に依存する部分が大きく残っている場合は、極論として暴力などで相手を屈してしまったりする方向に向かってしまうのかもしれない。
 あるいは根拠の無い自信を振りかざしたり、普段は気が小さいのに車に乗った瞬間ハードコアな性格に変身したりするのかも知れない。

 そんなワケで、ついつい相手の事を考えすぎて感情を表現する事が苦手になってしまっている自分の自己弁護的な理論なのかも知れないけれど、そんな事を考えていた。
 何をするにも相手の事をついつい考えすぎてしまって、意味不明に疲れてしまう事もある。いわゆる将棋で言うところの100手先まで読むと言う思考をやってしまうのだ。
 もし自分がこんな行動に出た場合、相手は迷惑なのではないか?とか、色々な事を考えてしまうのだ。それは相手の事を思いやると言う気持ちと同時に、自分への防御策だったりするのだと思う。
 やはり「好きだ」とか「嫌いだ」とか言う感情は、言葉に出して、態度に表していかなければ相手に伝わらないのかも知れない。最近、特に自分が相手に気持ちを伝えるのって思いっきりヘタだよなぁぁとずっと悩んでいたりするのだ。
 他人を思いやる気持ちも凄く大切だと思うけれど、自分の感情をストレートに伝える事も、必要だと思う。
 何にしろ行動しなくちゃ、現実はそれに付いて来ないのだ。

PS
 最近、とある理由で保育関連のHPを頻繁にチェックしている為に、そんな事を考えた。人間は言葉や思考する事を覚えていけばいくほど、伝達能力がストレートじゃなくなり不器用になっていくのではないか?
 ついでに、最近新井素子の「くますけと一緒に」と言う、ぬいぐるみを手放せない女の子の話を読んだ事も関係していると思う。