杉村ぐうたら日記137(1999年2月22日〜2月28日)

▲1999年2月21日:日曜日:『本の雑誌』
▲1999年2月22日:月曜日:『鳥人大系』の時代
▲1999年2月23日:火曜日:男はそれを我慢できない
▲1999年2月24日:水曜日:プライバシーを売り渡す人達
▲1999年2月25日:木曜日:責任転嫁
▲1999年2月26日:金曜日:古くてごめん
▲1999年2月27日:土曜日:デカ頭
▲1999年2月28日:日曜日:鉄骨 DASH !!
1999年2月21日(日曜日)『本の雑誌』
 私が激しく本を読むきっかけになったのは中学の頃、SFでは星新一・小松左京・筒井康隆、エッセイでは遠藤周作・北杜夫、推理小説では横溝正史・江戸川乱歩あたりを読み始めた事による物だったりする。
 いまでは、あまりにもその内容はオーソドックスだと言うことになってしまうのかもしれないけれど、それが少年文学から一般的な大人も読める文学なんつーモノに移行したばかりの中学生にはちょうど良かったのかも知れない。
 でもって、今のように激しく文章を書くキッカケになったのは、作家・椎名誠が編集する書評誌『本の雑誌』と言うモノを読んだ事による。
 ちょうど東京の吉祥寺あたりを徘徊していた貧乏学生だった自分が、とある駅裏のゴチャゴチャした本屋で、薄っぺらな表紙はグレイの紙にブルー系インク一色でヘタクソな絵&字が書かれている恐ろしく「同人誌」的な雑誌を見かけた。
 それが『本の雑誌』だった。
 当時この雑誌は見た目の通りに同人誌で、いわゆる本の流通機構に属していなかったので、関東近郊のめぼしい書店に編集人やスタッフが自ら車を走らせて「置いてください」と頭を下げて置かせてもらっていたモノだった。その為に、別の本屋の常連だった僕はそれまで見ることがなかったのだ。
 編集の椎名誠氏もその当時はまだ最初のエッセイ集が出たばかりの完璧かけだし新人作家のひとりで、まだ会社勤めをしながら日々文章を書いていると言う時代だったのだ。

 その『本の雑誌』は当時まったくと言っていいほどなかった「出版された本を読んであーだこーだ言う」と言う書評誌で、物珍しさもあったが、その雑誌の発している意味不明なパワーに引かれて即決購入してしまったのだ。
 それからこの雑誌を毎号読むぞ!と決意したのであった。
 が、この雑誌の凄い処は「とりあえず年6冊、隔月刊誌」と言う形態だったのだが、実際の処は「編集が間に合わず結局今年は4冊しか出せなかった」等という、出版の常識からいったらとんでもない雑誌だったのだ。
 だから読者も「いつでるのだ?今日あたり出ているかもしれない」などと、そろそろ次の号が出るのではないか?と言う頃になると、用もなく日々本屋に出向くという事になってしまうのだ。
 しかし、出ないモノは出ない。
 さらに、どの本屋にも置いてあるモノではない為に「あの本屋においてなかったけど、あっちの本屋には最新号があるかもしれない」と期待を抱かせて、遊牧民のように本屋ジプシーをする事になってしまうのだ。

 そんな『本の雑誌』ですが、いまではちゃんと流通にも乗って、日本津々浦々まで配送されているらしいです。よかったよかった、などと言いつつ「そんな本、見たこと無いよ」と言う人も多いかもしれない。
 なんせ、置いていない本屋の方が圧倒的に多いと言うのが現実なのだ。
 ここ私の居る静岡県東部では、現在確認済なのが沼津マルサン書店(アーケード店)・清水町サンテラス駿東・函南町戸田書店(熱函店)ぐらいなのだ。
 と言っても、ここに毎号置かれている冊数がほかの雑誌みたいに20冊30冊と言う感じではなく、どーも1冊2冊と言う感じなのだ。
 とりあえず毎月1日発売と言う事になっているが、その近辺に本屋にいっても置いていない事がある。
 もしかしたら誰かがふと目に留めて「なんか面白そう」と購入してしまった後かもしれないが、私は過去の『本の雑誌』を経験しているので「もしかしたら今月号は出ないのでは?」などと思ってしまったりするのだ。
 それ以上に「ついに廃刊になってしまったかも知れない」などと思ってしまうのだ。

 かつて、別の本屋にも置いてあった事があって、会社帰りに立ち寄り易いと言うことで、そこで毎号購入していたのだが、そこがどうやらある時店に置くのを辞めてしまったのだ。
 そのある時をさかいにぱたりと音沙汰の無くなった『本の雑誌』
 私は本気で「潰れたか・・・」などと思ってしまった。
 いやはや、悪かった疑ってしまって。

 実際の事を言えば、近所の常連本屋に注文して毎号取って置いて貰うという事も充分可能なのだが、この雑誌に関してはやはり「待つ」「探す」と言う、無意味な徒労が必要儀式だと感じていたりするのだ。
 そんなワケで、私はまた発売日になると本屋を徘徊するのであった。
 (などと書いていますが、発売日じゃなくても日々徘徊しているけどさ)
1999年2月22日(月曜日)『鳥人大系』の時代
 手塚治虫が70年代に雑誌「SFマガジン」に連載していた『鳥人大系』と言う漫画がある。
 とある事により、鳥が人間並みの知能を得、しだいに地球を支配していく物語だった。
 と書くと、子供だましの荒唐無稽SFの様な気がしてしまうけれど、そこは巨匠・手塚治虫、しかもSF専門誌連載という事もあって、かなり淡々と深い話になっている。
 ま、その結果はやはり鳥達も最終的に人間と同じ道を歩んでいき、次世代の支配者の台頭により・・・・と言う感じなのだ。

 その話の一番最初のエピソード、鳥達が知恵を得て人間に反旗を翻した事件。
 鳥達が、口々に火の付いた枝をくわえ、人家に放火して回ると言うのがあった。
 それを始めて読んだ高校の頃は「ま、人類も一番最初に猿と決別した決定的な瞬間は、火を使った所からだと言われているからね」などと気楽に思っていた。
 たぶん手塚治虫も、動物などは基本的に火をこわがると言う部分から、火を扱える様になると言う意味で、最初の進化を描いたのだと思うのだ。
 ま、あくまでも漫画の中の出来事として。

 しかし、その話が冗談じゃなくなってしまいつつある。
 岩手だかで、一昨年、そして去年の2回起こった山火事の原因が、まさにこの『鳥人大系』のオープニングエピソードと同じだったのだ。
 新聞によると、山の山腹にある墓地から、カラスが火の付いた線香を加えて飛び立っていったと言う。
 そして山火事の起こった発火点付近には、墓地にあったハズのロウソクも落ちていたと言う。
 なんでも、その近辺のカラスは口にくわえたビニール袋を空中でほおり投げて、別のカラスがさらに空中キャッチすると言う、どー考えてもキャッチボールをして遊んでいたりすると言うのだ。
 カラスと言うのは元々頭のいい鳥だと言われていて、くちばしで割る事の出来ない堅いクルミなんかを、自動車が走る歩道の上に置いて(何度も、場所を動かし自動車のタイヤの走る位置に置くらしい)クルミの中身を楽して食べたりすると言うのだ。
 あとカラスは九官鳥の様に、教えれば人間の真似をしてしゃべるとも言われている。
 なんか着実に、しかも進化という現象のスピードから見たら、爆発的なスピードでカラスは進化しているのかも知れない。

 実は、日本猿の間にも進化がいつの間にか起こっているらしい。
 以前読んだ本の中では、海岸にすむ日本猿がある日を堺に、海の水で食べ物を洗ってから食べると言う事を始めたと言う。
 それは衛生的とかでなく、海水の塩味を付けていたのかもしれないが、たちまちその近辺の日本猿たちは洗って食べるようになったらしい。
 で、不思議な事に、それと時をほとんど同じくして、かなり離れた場所に(太平洋側と日本海側)生息していた日本猿の一群も何故か、まったく同じように海水で洗って食べるという事を覚えたと言う。
 いわゆるシンクロにシティと言う同時多発的偶然と言うヤツなのだが、なんか凄い事になっているのだ。
 さらに日本猿の場合、性生活でも異変が起こっていて、普通はマウンティングと言うオス猿が後ろに乗っかってと言うポーズが基本だが、最近、ときどき人間と同じように向かい合っている例も発見されていると言う。

 なんか、異星人との共存より先に、新たに次世代人間候補として成長してきた彼らとの共存を考えた方がいいのかもしれない。
1999年2月23日(火曜日)男はそれを我慢できない
 ニュースを見ていて、びっくりしてしまった。
 なんと、医学的に無理をすれば男性が子供を産むことが可能だと言うのだ。
 あんまし詳しい話は判らないのだが、男性の大腸の部分に子供を育てる機能を移植する事によりそこで、臨月まで子供を育て、その後は帝王切開で出産させるという事が出来るらしいのだ。
 うむむむむ、クローンに続いて医学と言うヤツは自然の摂理に反することをビシバシ行ってしまうのだな。

 案の定、クローンの時と同じに宗教的見知から「それは神への冒涜だ」と言う声が挙がっていると言う。
 僕は宗教的がどーのこーのって意見は持ち合わせていないけれど、やっぱし「そりゃまずいんじゃないの?」と思ってしまっている。
 なんか別の所では、脳の神経細胞に電極を通して、その人物の記憶や思考を電気的データとして取り出す事も、あるいは挿入する事も可能になりつつある、と言う話も聞いていて、なんか21世紀に近づいて本当に、かつて言われていたSFの世界が現実化している様な気がしちゃうのだ。
 しかも、そういう未来を提示していたSFの多くが「そんな未来は危ないよ」と言う事を結論として持ってきていたので、怖いのだ。

 話は最初の「男が妊娠可能」と言うのに戻るけれど、その手の技術が可能だとしても、いったいどのようなメリットがあるのだろうか?
 やっぱり自然的な流れでいったら、出産後は授乳とか色々な部分で本能的な物が発生してくるんだろうけど、そうやって無理矢理男性が出産すると言うことになると、どうなってしまうんだろうか?
 出産した側の男性だけでなく、そういう状態で生まれてきた子供と言う物は。
 かなり、特殊な事なので、なんか予想できなかったりする。

 どういうケースで・・・と考えると、いわゆるゲイなんかの人なんかが「あたしはいくら男の人を好きになっても、その人の子供を産むことが出来ないのよ、よよよよ」と何かの番組で嘆いていたが、そんな嘆きも関係なくなってしまったのだ。
 好きな人の子供をいくらでも産むことが出来ると言うことになってしまった。
 なんだか複雑なのだ。
 しかし、たぶん男性の大腸の部分に女性の子宮の何かを移植するのだと思うが、そうすると母胎になる男性A・精子の供給男性B・子宮の供給女性Cの三人の子供と言うことになって、なんだかワケの判らない問題も発生しそうなのだ。

 ま、別のケースでは女性の方が妊娠できない体だったりする場合(妊娠出来ても妊娠中毒になってしまうとか色々なパターンがあると聞く)、その旦那の方が「よっしゃ俺に任せときぃ!」と言う事になるのかもしれない。
 しかし、そーなると会社側は男性にも「出産休職」を適用してくれるかが新しい問題として出てくるのだ。

 ついでに、この出産は帝王切開が前提だが、これがもし普通分娩と言う状態だったら・・・きっと、男は我慢できないと思う。
 何かの本によると、女性は出産を経験する為に男性に比べて痛みに対して我慢できるように出来ていると言う。
 大昔、バカな大学生を集めて「ザ我慢」なんて番組が開催された。
 80年代の中期だったと思うけど、オールナイトフジとか大学生参加型番組全盛で「大学生=バカ」と言う図式がなりたっている頃で、冷たい物や、気持ち悪い物や、熱い物をどれだけ我慢できるか?我慢しきれた人には賞金!なんて言う果てしなく下らない、脳味噌トロトロ番組があった。(特番で年に4回程放映されていた様な気がする)
 それで、たしか女子大生が徐々に熱くなる熱湯をどれくらい我慢できるか?と言うので、水膨れが出来るまで我慢しちゃって大問題になった事があった。
 あれは、女性だから我慢しきっちゃったんじゃないか?などと思ってしまうのだ。

 しかし、やっぱしいくら医学的に出来るからと言っても、男性が妊娠するってのは、踏み込んじゃいけない領域だと思うよなぁ
1999年2月24日(水曜日)プライバシーを売り渡す人達
 なんかTVをぼけっと見ていると、夫婦が出てきてお互いの欠点をあげつらったりする番組があったりする。あるいは、嫁姑が家庭内のいざこざを公表したりする。あるいは、カップルが出会って何回目にエッチしたとか、そのときのテクニックがどーだとか言い合っていたりする。
 何故だ?
 と僕は思ってしまうのだ。

 元々、そーゆー番組制作者側の頭の悪さとアイディア貧困を露呈させている様な、だらだら番組は好きじゃないので基本的に見ないのだが、TVが付けっぱなしになっていたりするとやっている。
 何故だ?普通、そーゆー事はお互いの間だけにしまって置く物ではないか?
 TVと言うメディア以前に、普通、周りの人にも言わないんじゃないか?と言う事まで、面白いエピソード、普通とは違うエピソードとして発表してしまう、その露出狂的精神構造がまったく理解出来ないのだ。
 しかもTVっすよ。日本中で何万人が見るか判らないTVで「うちの旦那、早いんですよ」とか言うか?

 そーゆーのに出るのは、ええ加減に歳をとって羞恥心の無くなった人だけだと思っていたのだが、最近は深夜のTVで若いカップルがその手の物に出ていたりする。
 たまたま、ある日TVを付けたままでうたた寝をして目が覚めた真夜中、TVの中では「いかにも」って感じの隠しカメラの映像がとあるアパートの一室を映し出していた。
 カメラの位置は、天井に近い場所にあって、その部屋の中では男と女がTVを見ながら「今日さ、ヒロシのヤツが事故っちゃって」とか「ナオミがまた男替えてさぁ」等という、たわいもない話をしていた。
 僕は、寝ぼけつつ「なんか深夜の実験的ドキュメンタリー形式なドラマか?」と思いつつその画面をぼーっと見ていた。
 が、不思議な事にドラマらしき物がまったく始まらないのだ。(途中、編集されている事が判る)
 やがて二人はカップラーメンなんかを食べはじめ「そー言えば、来月でつき合って一周年記念じゃん」「早いねぇ」などと、あいかわらず意味無い話を続けているのだ。
 で、やがて「風呂でも入っか」「うん」と言って、二人は画面から消えていくのだ。
 そして番組テロップ・・・終・・・・・

 うむ?????
 と思ってしまったのだが、これがその番組の全容で、後で判ったのだが「カップルの部屋にカメラを設置して、その生活している姿をそのまま映す」と言うのがコンセプトで、いわゆる「他人の生活を覗き見る」番組らしいのだ。
 なんじゃ?と思っていたが、その番組に出演したいと言うカップルは多数いるらしく、抽選でめでたく覗き見される事になるらしい。
 ある雑誌によると、その手の若者向け番組の一般出演者は「あわよくば有名人になれたら」などと言って応募してくるのが多いらしい。
 「ほらオレってイケてるっしょ?だけどチャンスがないんスよね、そんでこれがキッカケになればいいかな?なンてかんじででたワケっすよ、どっかのゲーノープロダクションのひと、みてないかなぁ」などと、ほとんどひらがなとカタカナだけで答えつつ、出演するらしい。
 うーむ。

 あるいは深夜枠でロンドンブーツが出演している物で「ガサイレ」と言う物がある。
 男が「今つきあっている彼女に二股かけられているみたいっすけど調べて欲しいっす」と言う依頼をして、吉本興業所属のチンピラ「ロンドンブーツ1号2号」が女の子の部屋へ押し掛け、有無をも言わず上がり込み、部屋の物色、ノート、携帯電話、そして聞き込みによってその事実を無理矢理突き止めると言うバラエティなのだが・・・。
 なんつーか、そーゆー二人の間の大事な事を第三者、しかもTV放映ありに委ねるってのが理解不能っす。
 もし二股かけられていたとして、そんな事を放送された彼女が自分の元に帰ってくると思うかね?
 あるいは二股かけられているかも知れないってのが、男の思いこみだけだったら、彼女は疑われた事を許すかね?
 そんでもって二股かけていたって事をTV放映されちゃった彼女は、世間にどー思われるのかって考えているのかね?
 ついでに、そんな事をTV放映する事を依頼した自分って存在を世間はどー思うかね?

 なんか、わざわざTV放映するって事に関して、一般参加にデメリットばかりあるような気がするのだ。
 でも、こんな時でも先ほどの「もしかしたら、これがキッカケで芸能界デビューできるかも」と言う気持ちがあるらしいのだ。話によると。

 うーむと思うが、中には男と女が最初から「TVに出たい」と言う事で、このガサイレに応募して来たりするパターンも多いらしい。
 なんか、プライバシーと言う部分はそんなに安い物なのか?

 それとか「元気が出るテレビ」あたりから始まった「告白」をTVですると言う物。
 あれの意味が分からない。なぜ、TVでやらなくてはいけないのだ?
 もしかして、自分の一世一代の劇的なシーンをさらにTV中継で盛り上げて欲しいとかって考えているのかね?
 なんか、その手のTVに出ている人の露出狂的趣味には全然ついてゆけないのだ。

 などと言いつつ、自分の身辺雑記を日々インターネットで書いていたりする私(でも、秘密な話は書かないのよ)
1999年2月25日(木曜日)責任転嫁
 先日、会社の帰りにガソリンスタンドに立ち寄った。
 でもっていつものようにカード支払いをして出ようとした時の事だった。
 このガソリンスタンドってのは、普通のスタンドのように出口と入り口が別々で給油後そのまま直進して外に出られると言う形にはなっておらず、バックしてさっき入ってきた処から出るというスタイルになっている。
 ま、出口の処に広いスペースがあるのでUターンはあんまし問題ないのだが。
 そんなワケで、いつものように店員の誘導でバックを始めた時だった。右のサイドミラーを確認し、ちらっと左のサイドミラーを見た時、僕の視界に何か変なモノが映った。あれ・・・・?
 と、次の瞬間どこか車の後方で「パキーン」と何かプラスチックか何かが割れる様な音と、軽い震動が車から伝わってきたのだ。
 その瞬間、道に近いところに立ち誘導をしていた店員が「ストップ!」と叫び、僕の車の後部に駆け寄ってきた。
 僕は、後部に駆け寄った店員の姿を確認しようと左側のサイドミラーを見た。そこに映っていたのは、何故か開いたままになった給油口だった。
 結局、僕の車にガソリンを入れた後、給油口のフタを外し、下に置いたままになっていた為、バックした車が引いて割ってしまったと言う事らしい。
 とりあえず、ちゃんと締まっているか確認しなかった運転手の自分も悪いが、基本的にはガソリンスタンド側の過失と言う事になるのだ。
 店員がその割れたキャップを見せながら説明をし「とりあえず、現状でもキャップが出来てこぼれませんが、至急新品を取り寄せますので車検証をお願いします」などと言うのだ。
 普通ここで車をムチャ愛している様な人ならば烈火のごとく怒り、あわよくば何かオイルでもタダで貰えればなどと考えるのかも知れないが、基本的にのほほ〜んな私は「ま、いいッスよ」と軽く許してしまったりするのだ。
 根本的に「怒り」と言う要素が希薄な人なのだな私は。

 その車検証を事務所に持っていって書類に何かを書き込んでいるらしい間、僕はぼけ〜っと待っていた。
 と、そこにさっき給油をしていた担当の、見るからに少年がやってきて「すいませんでした!」などと激しく頭を下げるのだ。
 こっちが恐縮しちゃって「いやいや、いいっすよ、これから気ぃつけてくださいな」などと、物わかりのいい大人になってしまったりするのだ。
 と、さっきの車検証を持ってスタンドの責任者らしき人がやってきて「取り寄せますので2・3日かかると思いますが、入り次第電話をさせてもらいますので」などといいつつ「どうもバイトが不注意をしまして、すいません」などと言うのだ。
 僕は、ふたたび店員に誘導されて道へ出ていく。

 どーも最後の「バイトが」と言う言葉が引っかかってしまったのだな。
 何故そこでワザワザ「バイトが」と言う言葉を出さなくてはいけないのか?ま、あんまし深い意味もなく言ったんだと思うけれど、そこには「あくまでもミスをしたのは正社員ではなくバイトなんすよ」と言う感じが漂ってしまったのだ。
 なんかねぇ、客としてはそこで働いている人がバイトだろーと正社員だろーと、金出して接しているワケだから、ちぃっとも変わらンのだよ。と思ってしまったのだ。
 その辺の考えがあるのだとしたら「おぅおぅ随分とぉ甘くみられちまったもんだなぁおぅ」てな感じなのかも知れないのだ。
1999年2月26日(金曜日)古くてごめん
 車の中でラジオを聞いていた。
 その番組ではパーソナリティの女性アナウンサーが「自分の最近読んだ本ベスト5」みたいのを紹介していた。
 ほほう、そうかねベスト5かね、と思ってしまったのが、以前何かの雑誌で読んだもので「年間読書冊数」とかって言うので圧倒的に多かったのが、年間1〜2冊と言う感じのものだったのだ。
 本が読まれなくなった、若者の活字離れなどと叫ばれて久しいが、やっぱし世間ではこんな物なのか?
 年間1・2冊に続いての第2位が「1年の間、1冊も読まなかった」と言う物だったのだが、確かにそーゆー傾向はあるかもしれない。
 ハッキシ言って、僕の周囲に「最近読んだ本で」と言う話題をする人は皆無だったりするのだ。だから激しく自分は特殊な人になっている様な気がしちゃうのだな。
 以前、酒癖が悪い知人に「本をたくさん読んでいるからって偉そうにしてんじゃねぇぞ」と、ワケも判らない状態で絡まれたこともあるのだが、この「本読み=偉い」っつー発想事態が、学校教育の弊害だと思ってしまうのでありますよ。
 小説だろうとエッセイだろうと、僕の中ではTVドラマ、映画、ゲームなどなどと同じ「ただの娯楽」だとしか考えていないんだけど、その知人の頭の中には「学校教育=勉強=知的な物」的なイメージとして「読書」と言う物が存在しているのかも知れないと感じてしまったのだ。

 ま、そんな考えもありますが、その女性アナウンサーは少なくともベスト5を選べる程に本を読んでいると言うことになるのだ。
 なんでも、時々発作的に「本が読みたい!」と思い何冊も本を買い込んで読み始めるのだが、途中で忙しくなってしまい読まずに積み上げられてしまう本も多い。でもって、次の「本が読みたい」と言う時には、新しい本を買ってきて・・・の繰り返しらしいのだ。
 確かに自分も本屋に行った時は思わず数冊購入して、結局読む時間がつくれないまま、次の購入をしてしまうと言う事を学生時代から続けているので、蔵書はとんでもない数になっている。
 たぶん文庫本だけでも3000〜4000冊あるかも知れない・・・が、怖くて数えた事がない。
 (年間100冊は読んでいるけど、追いつかないっす)
 でもって、そこで紹介する時に「最近やっと読んだんですけれど、ちょっと古い作品ですいません」みたいな事をしきりに言うのだ。そこで紹介された「古い作品」と言うのが、約1年程前に発行された某漫画家のエッセイ集だった。
 この辺の「古い作品」と言う発想が「今」だよなぁと感じてしまった。

 とくに文庫本なんてその傾向が強いんだけど、最近は新刊の時に買っておかないと、二度と目にしないと言う文庫本が多くなっている。
 たしか「文庫本」と言う物が最初に造られた時は「名作をいつでも誰でも手軽な値段でどこでも読める様にする」と言う目的があったハズ。
 その為に、70年代頃までは文庫本にされる作品と言うのは、ある程度世の中に認知された作品と言う感じだった。
 それがいつの間にか「文庫本書き下ろし」等という物も出てくるようになり、さらに「今じゃなければ読む価値がない」的なスタンスの雑誌レベルの文庫本まで出てくるようになった。
 (この傾向は80年代の角川書店が作り上げて、文庫本雑誌も各社で作られた。現在継続して残っているのは講談社のIN-POCKETぐらい。100円で内容は濃い)
 そして、以前は文庫本を出している出版社と言うのは限られていて、その結果月間新刊数も限られていた。
 ところが、今や各出版社が文庫本をそれぞれの方法で出版していて、ある種「文庫本を出す事が出版社のステイタス」みたいな感じもあり、新規参入出版社も多い。
 そんな極度の過当競争の中では「売れない為に廃版」と言うのも多いのだ。出版社もそんなに多くのカタログを抱えているワケにもいかない。
 そんな感じで、今や出版社も過去の名作よりも「今売れている新刊」がメインになってしまうのだ。

 それを突き詰めて読者側に持ってくると「ちょっと前に出版された本は古い本で、いまさらって感じ」になってしまうのかも知れない。まるで雑誌感覚。

 だからラジオを聞きつつ「わざわざ古い作品って断らなくてもいいと思うんだけどなぁ」と思っていた。
 名作はいつの時代でも名作なんだからさ。
1999年2月27日(土曜日)デカ頭
 「すみや」の本屋へ行った。
 ここの本屋では文庫本はかなり隅に追いやられて、果てしなく人気がない状態のスポットになっている。他の本屋なんかだと、大々的に「新刊文庫本!」みたいな物がコーナーになっているのだが、どーもここの文庫本コーナーはやる気がない。
 ま、本屋を利用する私にとっては逆に、すいていて良い、と言う事になったりする。

 その日もいつもの様にぼけぇっと文庫本コーナーの推理小説の処で「何ンか面白そうなのないかね」と物色をしていた。
 そして、いつも通りそのコーナーには自分一人しか立っていなかったのだ。

 その時自分の背後にある本棚の蔭から誰かが歩いてくる様な感じがした。
 ま、ここは一般本屋なので他の客がいても当然なので、別に気にとめる必要もないのだが、その人物(男)は何かをぶつぶつ言っていた。その為にその気配にすぐ気が付いた。
 「あいつ・・デカ頭だな・・・」
 その男は僕から2メートル程離れた処で、そんな意味不明の事を言い出した。
 僕は本を読んでいるフリをしつつ顔を僅かに傾けて視線でその男を見る。どうも、その男はふらふら歩きながらこっちを見ている様な感じだったりする。当然ここには自分とその男しかいないので「あいつデカ頭だな」と言う言葉は、自分に向けられている言葉らしい。
 しかし、たしかに頭が小さいワケではないが「デカ頭」と言われた事はないぞ。しかも初対面のキミにそんな事を言われる筋合いは無い!とか思ったのだが、その男の様子がかなり変な気がしたのでそれ以上顔を動かす事もできなかった。
 そしてなおもその男はブツブツ言うのを辞めなかった。
 「なんだよデカ頭、こんな処にいるんじゃねぇよデカ頭。まったくデカいな、ふざけんなよ」と、あんまり抑揚のないしゃべり方でボソボソと言い続けているのだ。
 怖・・・・・・

 さらにその男はゆっくり歩きながら僕の後ろを通り過ぎていくのだ。
 本当におかしい人で、突然背中を刺されたらどーしよーなどと、少し身構えながら、その男が通り過ぎるのをまった。
 「まったくデカ頭はしょうがねぇよな、それでいいと思ってンのか」
 などと言いつつ、その男は本棚の角を曲がっていったのだ。
 ほっ・・・・・・

 無事に何事もなく生還できた・・・・あぁよかった。
 と安堵のため息をつくと同時に僕は「オチは無いが、これで今日のぐうたら日記のネタが出来た」などと思ってしまったのだ。

1999年2月28日(日曜日)鉄骨 DASH !!
 日曜日の夜7時からNTV系で毎週TOKIOがひたすら何かにチャレンジする「鉄腕 DASH」と言う番組がある。
 そのテーマは「凄い」から「くだらない」まで多種多様だが、かなり大げさで無意味なドキュメンタリーと言う感じで面白かったりする。

 でもって、先週の番組終了直前に「実はインターネットで不思議な物を見つけてしまったのですが」と司会の福澤朗アナが言いだし「鉄骨 DASH !」と言う、かなり類似した事をやっているらしいホームページが画面に映し出された。
鉄骨5人衆がチャレンジを続けていると言う事がそこには書かれていて、しかも「絶賛放映中!」と言う文字も。
いったいコレは?
と言う所で番組は終わった。

よくあるパロディ系のHPかもしれない。
あるいは番組が勝手にでっち上げて、あたらしいキャラクターとして登場させる為の前振りかも知れない(TOKIOと対決させるとか)などと考えたのだ。
で、番組が終わって自室に帰ってきた時「本当にそんなHPあるのか?」などと思った。
こりゃ調べてみるしかない。
と言う事でさっそく、インフォシークの全文検索で「鉄骨&DASH」を検索したのだ。

・・・・と、嘘でも冗談でもなく「鉄骨 DASH」と言うHPがありました。
うぬぬぬ、と思いつつ読んでみるが、そのページは異常な程重く、読み込みにやたらと時間がかかるのだ。と言っても特別重くなるような画像とかがあるような感じではない・・・・
と、そこで気が付いたのが「日本全国で僕と同じ様な考えの人が一斉にこのHPを見に来ている」と言う事だったのだ。
だから、ホストがその負荷にヨロヨロになっているのかも知れない。
うーむ。

 そんな感じで、やっぱインターネットというのはリアルタイムに物事を調べる事が出来て凄いやと思ったのだ。
 何かに対して疑問を持った時には、何かしらの答えを見つける事が出来る(見つけるテクニックも必要になるけれど)
 かなりマニアックな事も調べる事が出来たりする。逆にマニアックな方が検索にひっかり易いのかもしれない。

 ある日は、ふと「昔の友人でインターネットをやっていそうな人物」と言う事で、何人かの名前を全文検索にかけて遊んでいた。
 ま、いないだろうなぁとか思っていたのだが、その中でもう15年程逢っていない知人と同じ名前を見つけたりもした。
 同姓同名かも知れないからなぁ・・・・と思いつつ、その名前が掲載されているHPに飛んでみると、そこはプロフィール欄で色々な事が書いてあった。
 学歴とか仕事とかは書いてなかったし、顔写真なども無かったのだが、誕生日と、バイクが好きで20年以上乗っているとか、写真撮影が好きだとか、なんか「これって・・・」と言うことでおそるおそるメールを送ってみた。
 もし間違えていたら、かなり迷惑&間抜けなメールだよなぁなどと思いながら。
 と、翌日メールの返事が返ってきて、見事にその友人その人だと言うことが確認出来たのです。
 あぁ懐かしい・・・・
 そんなワケで15年程前に借りたままになっていた「写真のネガ」返します。

 インターネットと言うのは、メディアをボーダーレス化するし、距離もボーダーレス化して、なんかとんでも無く、これまで考えもつかなかった特殊なメディアになっていくのかも知れない。
 さらに電話ではなく、ケーブルをつかったメディアになった時、新しい時代が開かれて行くような気がする。
 いわゆる、参加型メディアと言うことで、TVやラジオなんかでも使用される事が多くなりつつあるし、逆に一般な人がメディアの発信側になる事も、凄く簡単な事だったりする。
 もちろん自分なんかも、その一端を担っているかもしれない。
 そんな、新しい時代の目撃者になっているのだ。