杉村ぐうたら日記(1999年3月11日〜21日)

▲1999年3月11日:木曜日:恐るべき世代/アンファンテリブル
▲1999年3月12日:金曜日:くいしん坊ばんざい
▲1999年3月13日:土曜日:誕生日の素敵な思い出
▲1999年3月14日:日曜日:3月の一番長い日
▲1999年3月15日:月曜日:男の美学って・・・
▲1999年3月16日:火曜日:アクセス増加作戦
▲1999年3月17日:水曜日:あくまでも道具
▲1999年3月18日:木曜日:難しすぎる名前
▲1999年3月19日:金曜日:風邪と共に去りぬ(1)
▲1999年3月20日:土曜日:風邪と共に去りぬ(2)
▲1999年3月21日:日曜日:風邪と共に去りぬ(3)
1999年3月11日(木曜日)恐るべき世代/アンファンテリブル
 宇多田ヒカルの1stアルバム『First Love』を買った。
 うーーーーーーーーーーーーむと唸ってしまう程完成している。ま、音はかなりクラブサウンド寄りになっていて個人的には好みではない部分もあるが、それを差し引いても宇多田ヒカル本人の存在感が凄いっす。
 普通に聴いても凄いのだが、さらに彼女がこれを作詞作曲して録音した時が15歳だったと言うことを聞くと「おそれいりました」などと思ってしまうのだな。(現在16歳)
 さらに母親がかの演歌歌手「藤圭子」だと言うことを聞かされてしまうと「もう許して」と言う感じになってしまうのだ。なんせ藤圭子の歌う演歌は「怨歌」とか「恨み節」とか、うひょぉぉぉ怖ぇぇぇぇぇぇって感じに70年代に言われていた訳で・・・。

 自分の15歳(高校1年)の頃を振り返って見ると・・・・・ただのガキ以下のガキだった様な気がする。
 いわゆる最近のキレる子供とかって次元とは全然違う牧歌的で体制に反発するなんて事すら考えつかない様なボケなガキだった。
 ただひたすら「音楽好き〜ぃ」と言ってギターを書き成らして「漫画好き〜ぃ」と言って授業中でもワシワシ徹夜してもワシワシと漫画を書いて「小説好き〜ぃ」と言って毎日学校帰りに本屋に立ち寄って数日掛けて一冊の本を読み切ったり・・・そんなガキだったのだ。
 確かに高校1年の頃から作詞作曲なんてものもやっていたが、恥ずかしくて人前に出せるたぐいの物ではなくて、現在では封印しちゃってあったりする。
 何というか同じ15歳でも激しく差があるのだなぁと感じてしまう。
 とある人は「どーせ親の七光で、バックにはゴーストライターがいるんだよ」みたいな事を言っていたが、そりゃ違うんじゃないかなぁ  なんせ自分の頃の15歳と、今の15歳じゃ圧倒的に情報量が違う。しかも選択の余地がある。
 ニューヨーク生まれ育ちの彼女は多分子供の頃からそれなりの音楽を聴いていたと思うし、少なからずとも歌うと言う事の姿勢では母親の影響はあると思うし、まったく血とか肉になっているベーシックな部分が違うのだ。
 いわゆるセンスとか資質と言う部分が、しみこんでいるのだ。

 最近デビューしてくる若いミュージシャンなんかのインタビューでも「親がポップス大好きで子供の頃から聞いていた」みたいな発言が何度もある。
 その辺の染み込み具合が、中学あたりでポップスを聞き始めた人間との差かも知れない。
 ここ数年、沖縄アクターズスクールの卒業生がチャートを席巻していたりするが、あれだって考えてみれば沖縄と言う土壌が子供の頃からポップスを聴いてきたと言う環境を作っているのかも知れない。
 今は、日本中関係ないかも知れないけれど、やはり差はあると思う。
 僕が子供の頃でも、沖縄から「フィンガー5」や「南沙織」と言う歌手が出てきた。そして、まだ土着的な「ザ芸能界」で情緒に訴える泣きの歌謡曲が主流を占めていた時期に、思いっきり突き抜けたポップスを展開していた。
 それは、その資質を読みとってそれなりの曲を作る事の出来たスタッフも偉いのだが(フィンガー5は徳倉俊一、南沙織は筒美京平が作曲を担当していた)あの突き抜け方は今聞いてもカッコイイ。

 そんな感じのセンスを小さな頃から身につけた子供達がこの先続々と出てくるのだと思うと、恐ろしいと思う反面、日本の未来の音楽(を含めたアート活動)に期待出来ちゃうかもしれないので、嬉しかったりする。

 なんつーか土着的なドメスティックジャパニーズな私は、次世代の子供達に多大なる期待をするのだ。

PS
 某HPでは彼女が売れたのは綿密なマーケティングと情報操作による物だ。彼女の年齢とか親の事などが相関関係として機能している。
 と言うことが書かれていた。
 ま、ある意味では正しいと思う。商業としての音楽だから、マーケティングを一切していない物なんて市場に出てくるハズない。
 で、藤圭子の子供だって事が、はたして現在のリスナーにどれだけ影響を与えるんでしょうか?かえって「藤圭子の娘デビュー」なんて見出しが最初から翻っていたら、若い世代は逆にひいてしまう様な気がするんだけど・・・。(その前に藤圭子を知らないか)
 かつて北島三郎の息子がロックバンドでデビューした時は本人とは関係ない所で音楽雑誌なんかにその事が書かれていて、自分はちょっと音を聞く前だったためにひいてしまいました。
 宇多田ヒカル以外に、最近では「ドラゴンアッシュ」のボーカルは古谷一行の息子だし、「トライセラートップス」のボーカルはイラストレータ和田誠&平野レミの息子だったりする。
 でも、どちらも先に音を聞いて気に入っていたんで、後からその事を聞いてもひかなかった。
 もし逆にデビュー前から「今度、古谷一行の息子がロックバンドでデビューする」なんて話を聞かされていたらひいていたかも知れない。(と言いつつ、どっちのバンドもいいから、聞いてみてやってね)
 宇多田ヒカルは、藤圭子の娘だとか年齢を聞く前に「いいじゃん」って思っていたから、私の場合、某HPの様な相関関係はないっす。
 相関関係があるっているのならデビュー前から「ビートたけしの娘がデビューする」って聞かされていた北野井子、あれは曲もよく無かったけど、ひいちゃったなぁ。
 それまで、ビートたけしはラジオや本で常に「二代目タレント」のどうしょうもなさを言い続けていたのに、自分の娘がデビューするとなったらプロモーションビデオまでたけしが監督&出演して、自分が司会する番組にまでゲストで呼んで・・・・・さぶ。

 あと売れなかった「KeeTee」とかって歌手が角川春樹の娘だとか、去年デビューした「tohko」ってのが堀越学園高校の会長の孫だとか・・・・・
1999年3月12日(金曜日)くいしん坊ばんざい
 先日、母親が「買い物に行くから運転手して」などと有無をいわせぬ態度で命令をし、他に予定があったのにつき合わされてしまった。
 ま、大きな荷物をうんしょこらしょと持ってバスなどに乗り込み、バス停から家までへこへこ歩くのは大変なので、しょうがないのだが、まったくもーと言う感じなのだ。

 でもって、最終的にスーパーキミサワに寄りそこで食料品を買って帰ると言う事になった。
 私はぼけっと母親の後ろから、あちこちを見ながら付いて行くことになった。これと言って買いたい物がない買い物につき合うと言うのは、どう時間をつぶしていいのやらと言う感じなのだ。
 そこで、結局試食などがあると食べたくも無いのにとりあえず一口食べてみたりする。
 でもって、試食コーナーのおばちゃんに捕まって「これ美味しいでしょ、どう1つ?」などと満面の笑みで迫られたりする事になってしまう。

 その日も、肉などのコーナーを通りがかった時、そこに試食のコーナーがあるのを発見した。
 しかも何故か押し売りおばちゃんも立っていないのだ。
 そこには半分に切ったウィンナーを炒めた物、唐揚げを4分の1に切った物、そして生ハムが細かく切られた物が大量に置いてあったのだ。そしてマスタードが皿にどどーんと大量に入れて置かれていた。
 これはマスタードを売るための試食コーナーなのだ。
 見た感じでは、試食コーナーを準備して「これから声をかけまっせ」と言う段階で、おばちゃんが用を思い出して持ち場を離れてしまったという感じだった。
 で、さっそく僕はそこへ行き、いかにも「うむうむ、ここにある試食は美味しいかな?もし美味しければ買って帰ってもいいのだぞよ」と演技をしながら、爪楊枝にウィンナーを刺しマスタードを付けて食べた。ここで純粋に「喰う」と言う態度を見せるというのは、自分の美学が許さないのだ。あくまでも何気ない仕草が大事なのだ。
 うむうむ、美味しいのう
 と言う表情を作りつつ「はたして、唐揚げはどうなのだ?」と、隣で待機している唐揚げにおもむろに爪楊枝を刺したりする。

 この試食コーナーと言うのは「最初の1人」と言うのが勇気がいる物で、まず誰かが食べ始めるまでは、その周囲を歩く他の人々も視線を斜めに落としながらもじっと静観の構えで通り過ぎたりすると言う事になる。
 誰しもが「ここで突然食べにいって周りからガッツイているなどと思われたら嫌だわ」と言う考えが働くに違いないのだ。なんせスーパーと言うのは基本的にその地域の奥様たちの社交場と言うことになっている。いつどこから市原悦子の様に覗き見ている人がいないとも限らない。
 そんな事から私が今回は口火を切らせてもらう事になった。
 そして、僕に続けと数人の主婦や子供たちが、その試食コーナーに立ち寄り一口食べ去っていく、と言う状態になった。私のささやかな勇気がこうして多くの人々に至福の時を与える事になったのだ。あぁ、迷える子羊たちよ遠慮せずに食べたまえ、人は水とパンのみで生きているのではないのだ。
 多くの人が何気に通りすがりの一瞬でめぼしい物を食べ去ってゆく。その様子を少し離れた所でみながら「私の業績はこうして人々に継承されて行くのだな」と感慨にふけっている時だった、何か異様な動きを感じた。

 何か一見自然で平和な風景に見えるこの試食コーナーなのだが、その水面下で何かよからぬ事態が発生していると言う悪寒が全身を駆け抜けたのだ。
 その元凶は真っ赤な派手なダウンベストを着た1人のおばちゃんによってもたらされていた。
 一見、普通のどこにでも居るようなおばちゃんなのだが、その佇まいの中には異様な物が潜んでいる事が感じとれた。
 おばちゃんは他の客と同じように、買い物カートを押しながらその試食コーナーに近づき、やはり普通に手に爪楊枝を握りしめた。
 そして目にも止まらぬ神技を発揮するのだ。

 まずウィンナーに手を伸ばし、爪楊枝をウィンナーの乗った皿に近づけ、普通に刺した。
 しかし指先を見ると爪楊枝にウィンナーを刺すように見えていてその実、その指で一気に3・4個のウィンナーを手中に納めるというかなり高等な試食喰いワザを展開しているのだ。
 周囲の買い物客にはまったく気づかれない様な絶妙な持ち方で、すばやくその手を口に運ぶ。
 そしてその手中の3・4個ウィンナーを一瞬のうちに口の中に押し込む!ハッキリ言ってその周囲にいた人々には、身近でそんな恐ろしいテクニックが駆使されているとは気づいていないみたいな感じだった。
 そのおばちゃんは口の中で数回咀嚼を繰り返した後、ごっくんと飲み込み、またしても何気ない風情で爪楊枝を隣の唐揚げに向け、再び一気3・4個つかみを展開するのだ。
 そして最後は生ハムだが、さすがにこれは手で取りにくいだろうと思ったのだが、爪楊枝を絶妙のバランスでスライドさせ一気に数枚の生ハムを爪楊枝に刺し、目にも停まらぬ速さで口に押し込むと言うテクを見せてくれたのだ。
 私はその時通り道の反対側の卵売場の蔭で、市原悦子状態でその行動を観察していた。
 うむむむ恐るべし、試食喰いのプロ!
 そのおばちゃんは3種類の試食を食べ、心は満足しつつ、表情は変化させずに、何事もなかったかのように他の買い物客達の波の中にまぎれ、消えていこうとしていた。
 うむ、生活力とはこーゆー物を言うのだろうか?主婦の恐ろしさとはこーゆー事なのだろうか?

 「やっぱ、足が地に付いたプロの主婦は違うなぁ」と感動をして、私はまだ肉コーナーで買い物を続けている母親を待ち、さらに試食コーナーの人々をウォッチングし、次なるプロの出現を待った。
 さて、次の鉄人はどんな人なのか?

 と、思っているとさっきの赤ダウンのおばちゃんがさっき去っていった方向とは逆の方から出現したのだ。つまり、ぐるりと、棚を一つ廻ってはじめてここに訪れる様な顔をして再び出現したと言うことになる。
 そして、案の定おばちゃんは試食コーナーで再びあのテクニックを披露するのだ。しかも、試食コーナーに近づく時もストレートに近づくのではなく、さっきも一度見たはずの商品を一つ一つチェックする様な仕草をしつつ、ジリジリと試食ににじり寄っていくのだ。
 おそるべし、赤ダウンのおばちゃん。彼女は再びさきほどのテクを復習でもするかのように繰り返して見せるのだ。
 表面は平穏なスーパーの風景。しかし彼女の手の中、口の中では激しく鍛え上げられたテクが炸裂している。
 おぉぉぉぉ、と思っている内にその一連の動作を終えて彼女は試食コーナーから去っていった。
 なんか、ほとんど1食分は浮かしたのではないか?と言う感じだったりする。あぁ素晴らしきプロの技。

 と気を許したのもつかの間、再び赤ダウンおばちゃんはまた出現し、はじめての様な顔をしてなんと3度目のチャレンジをするのだ。
 ハッキリ言って3回の試食でかなりの量を食べていると思うが、それでも表情を変えずに試食テクを、誰に見せるワケでもなく淡々と繰り返しているその姿に『職人』の技と言う物を感じざるを得なかったのだ。

 私はその姿にモーレツに感動してしまった。
1999年3月13日(土曜日)誕生日の素敵な思い出
 あぁ明日開催する「電脳フリーマーケット」の準備がぁぁぁぁぁぁと、私はあっちへこっちへ走り回っている。
 なんで自分の金にもならない事でこんなに頑張っているのか判らないが、動き出してしまったイベントだから成功させるしかないのだ。

 と、走り回っていて突然気が付いた。
 「あ・・・・・今日、自分の誕生日だ」
 なんてこった。こんな忙しく、誰にも祝って貰えない誕生日になるとは、ちくしょぉぉぉぉぉぉぉと叫びながら私は、明日の為に画用紙を買いにいったりするのであった。

 と言うワケで、私の誕生日だった今日の話は終わり!
 てのも寂しいので、過去の誕生日の話を書きますです。

 ま、その年の誕生日も誰も祝ってくれそうにない寂しい物だったが、そんなのとは関係なく週末にあたりまえの様にショウイチと言う男とマルと言う男が遊びに来ていた。
 その頃は本当に毎週の様に・・・しかも、我が家でビデオを見るため(ショウイチは映画マニア)、TVゲームを思う存分やるため(以前、金曜の夜から日曜の夜まで連続で桃太郎電鉄99年をやった経験あり)、漫画を読みふけるため(漫画単行本が目に付く所だけでも3000冊はある、全容は誰も判らない)、爆睡するため(ベッドが2個&宿泊設備は揃っている)などと、単純にヤツラは我が家を『別荘』と勘違いして、私の事を『管理人』だと思っているフシがあった。
 なんせ「新入荷した漫画本は?」などとか平気で言うし、動詞も形容詞も接尾語も付けずに僕に向かって「コーヒー」と一言言い放つ時だってあると言う、素敵なマイフレンド達なのだ。

 その日もいつもの様に我が家に来てグダグダしていたのだが、昼近くメシを喰いつつ買い物に行こうと言うことになって出かけた(当然の様に僕が運転手)
 で、その車中「あ、今日お前の誕生日だったよな」と言う話題になった。
 いつもは何ンだかんだ言ってもやっぱり長くつき合っている友達だよなぁ押さえるべき所はシッカリ押さえているじゃん、と僕は少し見直した。
 で、ショウイチは「やっぱ誕生日と言ったらケーキ食べなくちゃ」などと言い出すのだ。
 そうかそうかケーキか、まさかそんな事を言ってくれるとは思わなかったが、嬉しいじゃないっすか。そして通りにあったケーキ屋に寄る事になった。
 ショートケーキを1人2個と言う計算で購入して・・・・「あ、俺いま金ないや」とショウイチ&マルが見事に声を揃えて言い出すのだ。
 結局、自分の誕生日ケーキを自分で購入する事になってしまった。
 でも祝ってくれるって気持ちが嬉しいじゃないの、そのぐらいのはした金でウダウダ言うような俺じゃないよ。

 我が家に戻ってテーブルにケーキを並べて「さてと」と言うところで、ショウイチは「誕生日おめでとう!」と言う変わりに「コーヒーは?」などとさも当然の様に僕に向かって言い出すのだ。
 え?僕が主賓じゃないの?と言い返す僕にショウイチもマルも「だって俺あのコーヒーメーカーの使い方判らないし、豆の量も判らないからさ」などと、もっともな意見を言い返すのであった。

 うーーーーーむ、などと考えても始まらない。コーヒーは結局ここにいる3人の中で自分しか作れないと言う結論に達しているのだ。
 しょうがねぇなぁと隣の部屋に行ってコーヒーを作る。
 しかし、コーヒーを煎れながら考えるのだが、ハッキリ言ってこのコーヒーメーカーは全自動だぞ。豆を入れて水を入れてスイッチを押せばあとは完成まで待つのみってヤツだ「使い方判らない」なんてのは、お子様の言い訳じゃないのか?などと、すごく簡単な詭弁で動かされている事に気が付いてしまった
 うぬぬぬ、てめぇら!
 と、部屋に戻って見ると二人は既にケーキをワシワシと食べ始めているのだ。おいおいおいおい、主賓はここで・・・。
 何かぶつけようの無い怒りを抱えた状態でコーヒーを三人分入れてテーブルに戻ってくる。その時にはすでにヤツらは1個目のケーキを食べ終えて、次のケーキの回りに付いているビニール(って言うのかな?)を外し始めていた。
 ま、ここで怒ってもしょうがない。とりあえず誕生日だ誕生日だ、とケーキにフォークを突き刺した瞬間、ショウイチが一言。
 「コーヒーの砂糖はないの?」
 「・・・・・・・」
 マルが追い打ちをかけるかのように
 「クリープは?」
 「・・・・・・・」
 ハッキリ言って僕はいつもブラックで飲んでいた為に砂糖やクリープは用意していなかった。
 ここで怒りを一気に爆発させて星一徹の様にテーブルをひっくり返すと言う事も出来たが「誕生日だ誕生日だ、こんなめでたい日に怒ってもしょうがない」と胸の中でつぶやき、素直に立ち上がり、階下へ降りていった。

 我が家ではいつもコーヒーにも紅茶にも砂糖など入れないのでどこにしまってあるのかよく判らないのだ。とりあえず台所をガタガタ探し回り、食卓回りを探し、応接セットの近くを探し、やっと砂糖&クリープを見つけだした。
 もーこの先、どんなワガママを言い出しても聞かないぞ、なんせ今日の主賓は自分なのだ!もう何を言われても聞かないぞ!と決意を繰り返し繰り返し頭にたたき込んで階段を昇った。
 さぁどうだ!もうガタガタ言うんじゃねぇぜ!とテーブルに砂糖&クリープを置いて「やっと一口目!」を食べようとした瞬間だった。またショウイチが言い放った。

 「あ、俺ケーキ食べ終わったからもうコーヒーいらない」

 そんな素敵なマイバースデー&マイフレンド
1999年3月14日(日曜日)3月の一番長い日
 結局3時までかかってしまった。
 3時と言っても昼の3時ではなく、真夜中の3時なのだ。
 明日、と言うか既に今日の事だけど、14日は杉山バラ園エルローザで『電脳フリーマーケット』と題してコンピュータを中心にしたフリーマーケットを開催しようと言うことになっているのだ。
 もっとも、この企画は自分の為じゃなくて、中古コンピュータの販売店をはじめている「ちまちゃん」の店を有名にしようという事でスタートした物だったのだ。
 つまり、いくら大盛況になっても、ワシにはちぃぃぃっとも見返りのない企画なのだ。
 が、基本的にお祭り人間らしいので、企画が立ち上がるとワッセワッセと頑張ってしまうわけだったりする。  しかし、この3月と言うのは本来の仕事の方もかなり忙しいワケで、毎日遅くまで残業残業で休日はボロボロになっていたりする。が、頼まれると嫌とは言えない性格なのか、責任感ってヤツなのか、判らないが休日は全部フリーマーケットの関係で走り回る事になってしまう。
 なんか、自分の生活が全然無いよなぁなどと思ったりしちゃうのだ。
 そんな日々の仕事の忙しさの関係で、当日までに作っておかなくてはいけない、駐車場への誘導看板とか、受付で記入して貰う用紙だとか、その他もろもろの小道具を夜中せっせと作ったりしていた。
 で、結局3時になってしまった。
 やべえやべえ、と無理矢理ベッドに潜りこんだ。
 なんせ、会場となるホールは土曜日の夜遅くまで別の業者がイベントを開催していたりして、前もって出店者用の線を引くことなど出来なかったのだ。だから、出店者が来る前にバラ園に出かけ、線を引いて、駐車場に看板を立てて・・・・かなりヘビーな事になっている。
 フリーマーケットは10時始まりだけど、出店する人は搬入もあるから8時前に来ているからなぁ・・・7時にはバラ園に到着して作業をはじめないといかんよなぁ・・・・て、ことは家を6時半に出なけりゃ・・・・しかし基本的にはバラ園のイベントなのになんで自分一人で全部運営してんだ・・・あぁそれにしても天気の方はどうかなぁ・・・・などとぶつぶつ考えている内に眠りに付いて、「あっ一瞬寝ていた」と思った時には目覚まし時計のベルが6時を知らせていた。

 外はどうやら天気らしい、よっしゃぁぁぁ!と無理矢理自分に渇を入れて飛び起き、準備をして家を出る。
 さすがに日曜日の朝6時半は空いている。7時少し前にバラ園に到着し、さっそく臨時駐車場などに看板を設置し準備を始める。
 と、7時10分と言うところでさっそく一番早い出店者が到着し、あわてて最初の線を引く。
 と、またしても参加者が、あぁ線引いていない、参加手続きもしなくちゃいけない。と結局ワケの判らないほどの忙しさに背中を押され、スタートした午前10時の段階ではぁはぁぜぇぜぇ状態になってしまった。

 ま、こうなる事は判っていたんだけどさ・・・・。

 そんなこんなで、色々とその後もあったが、やはりフリーマーケットは企画したり参加するより、無責任な調子で見に行くってのが一番楽しいのだよ。

 などと言いつつ、今回のフリーマーケットは特別なイベントで、実際の毎年恒例の春のフリーマーケットは4月25日に開催されたりするのだ。
 で、結局その運営も当たり前の様にボクに任せられていたりする・・・・あぁ。
1999年3月15日(月曜日)男の美学って・・・
 私はタバコを吸わない。
 かといって、山本コータローの様にヒステリックに嫌煙権を叫ぶつもりはない。が、異常神経質の嫌煙権の反対側には、異常無神経なタバコ吸いな人が多いと言うのも事実だったりするので、嫌な人はとことん嫌になるのだと思う。
 なんつーか、子供の頃、映画やドラマの中で主人公が渋くタバコを吸う姿を見て「おぉ!」とか思ったが、残念ながらあの姿はあくまでも架空の物で実際にあんなにかっこよくタバコが吸える人は存在しない。もしいたら、それはギャグでしかない。
 なんと言うか、私も一時期ほんの一時期だがタバコを吸っていた事があるが、貧乏をこじらせて辞めてしまった。それ以来一度も吸っていない。
 そんなワケで、周囲にいる多くの煙草吸いを見ていて感じる事は、煙草のけむりと言う物が人に迷惑を与えているって事に気が付いていない人が多い。
 いわゆる「嫌煙草」的な問題になると、ついつい出てくる理論で「吸っていない人まで肺ガンになる可能性がある」と言う物があって、煙草から立ち登る煙には口から吐き出した煙より多くの有害物質が・・・などと嫌煙権を主張する人は言うけれど、そんなの私は考えた事はない。

 うーむ、有害無害って問題以前に「煙が嫌や」って言うのは、理由にはならないんですかね?
 ま、服や髪の毛に煙草の臭いが付くってのもあるんだけど、煙たいのっていやだなぁと思うワケですよ。だから、近くで煙草を吸われるといやだって言う、単純な理由で私は煙草を吸っている人に「無神経っすね」と感想を持ってしまう事がある。

 ま、煙草を愛飲している人にとっては、あの煙草の煙や臭いが「いい香り」って事になるのかもしれないっすけど、嫌いな人からしてみたら「嫌な臭い」でしかないワケっす。
 私が溺愛する納豆を関西の人が激しく拒絶するように、このへんは相いれない物かも知れない。

 実は自分が煙草を吸っていた時は、この煙草の煙や臭いは嫌いではなかった。むしろ好きだったかも知れないが、煙草を辞めてしばらくした頃から、煙草の煙や臭いを疎ましく思うように感じはじめる様になった。この辺が不可解なのだが、そーゆー事なのだ。

 で、さらに社会人になった時、前の席に座っていた人がヘビースモーカーだったおかげで、常に煙を吸い込んでいる内に、小学校の頃に完治したと思っていた蓄膿症が再発して常に鼻をずびずびしている様になってしまったのだ。
 その人と席が離れてから、蓄膿症は直ったけれど、なかなか嫌煙権は主張するのが難しいと言うのが、実際に困り物なのだ。

 以前、ラーメン屋で友人一同と食事をした事があったが、その店は異常に狭い作りになっていて、隣の人と肩が触れ合いながらムリして食べるという店だった。
 で、その中の友人はとにかく食べるのが早くて、他の人が半分食べる前に終了してヒマを持て余していた。
 で、そんなギュウギュウ詰めの中でさも当然と言う顔で煙草を吸い始めたのだ。
 煙が来るとかって状態以前の問題で、すぐ30センチも離れていない場所で食事をしている人がいるってのに煙草を吸い始めたのだ。
 うーむ、こういう人に嫌煙的な事を言っても無駄な様な気がしちゃうんだな。

 「え、なんで?」
1999年3月16日(火曜日)アクセス増加作戦
 アクセス解析と言うサービスの話をこれまで数回書いたけれど、あれは解析するとかって名目ではなく、なかなか楽しい。
 こんなマイナーな項目で飛んでくる人もいるのだなぁと言う事が判り、ありとあらゆる芸能人にはそれなりにファンがいるのでは無いか?と考えてしまう事も多い。あるいは、本人が検索している可能性だって捨てがたい。
 以前TVで林家こぶ平が「インターネットで自分の名前を検索したら」と言う話を喋っていたし、かの糸井重里氏もヒマな時は自分の名前を検索して世間の人がどんな悪口を書いているのか見て廻るなどと雑誌に書いてあった。
 マイナーな芸能人になればなるほど検索で直接飛んできてくれる可能性だって高くなると思う。そんなワケで私の作っている「誕生日データ」は凄い事になっているのかも知れない。

 でもって、先日もひさしぶりにアクセス解析を覗いて見るかな・・・と言うわけでインフォシークから飛んできている人がいたので、何の項目で検索したのか?とチェックしてみると・・・・
『小島聖>裕木奈江>ヌード』などと言うもので検索して、この「ぐうたら日記」に飛んできていた。
 確かにその写真集が発売された頃にそんな話題を書いたのだが、いやはやそーかねそれで来たかね、写真が無くて残念だったね、と言う感じなのだ。
 多分「小島聖>ヌード」や「裕木奈江>ヌード」で引っかかる物は多いと思うが、その両方を兼ね備えている所と言うのはかなり絞り込まれてしまうので、ついつい私の所へ来てしまったのだな。
 なるほどなるほど、と言うことは新たに同じ様な検索をした人は本日の日記にジャンプして来ちゃう可能性は大なのでありまして、多くの健全な男性諸子の多大なる欲望と期待を一気にしぼませてしまうヘナチョコHPでゴメンねと言う感じだったりするのであります。

 と言うことは、それ以外の時代のキーワードを何気なく散りばめた文章を書けばアクセス数爆発と言うことになるワケですな。
 そんなワケでやっぱし時代はMP3(MP3)だし、Linuxだと思うのだ。ワシはMAC使いでMIDIもやっていたりするが壁紙やスクリーンセーバーには凝っていないワケでチャットもあんましやらないのだ。アイドルって言ったら広末涼子や奥菜恵や安室奈美恵や藤原紀香や鈴木あみや深田恭子もいいけど期待できるのは田中麗奈かもしれないワケでSPEEDはこの先どうなるのだろうか?宇多田ヒカルはアイドルじゃないよね。インターネットと言えばアイコラだしエロ系ネットが基本でモロ見え投稿無料サイトで女高生コギャルを見るのが醍醐味だよなぁ、それにしても「だんご3兄弟」は凄い事になっているけれど、ファイナルファンタジー7も売れてるっすね、売れていると言えば携帯電話の着メロ本も売れているけど、認可になったバイアグラはどれくらい売れるのだろうか?プレイステーション2(PS2)はDVDが見れると言うので興味があるのだ。
 しかし、こんな文章でアクセス数が増えると言っても、何かムナシイ・・・・・

 ここまでの文章のせいでアクセスしちゃった人ごめん。とりあえずおもろいネタをたくさん用意してあるんで、だまされたと思って他のページも見てやってくださいまし。なんてね。

1999年3月17日(水曜日)あくまでも道具
 はぁいみんなコンピュータ生活してるかい?
 「俺コンピュータなんて怖くて難しそうで触った事ないよ」と言う人は最初っから、HPに書いてあるこの文章を読むハズないので、最低限でもコンピュータをいじれてインターネット接続が出来る人が最低限の前提になっているのでありますな。
 そんなワケでコンピュータ生活と言うと、私は果たしてそー呼ばれる程の生活をしているか?と言う初歩的な疑問に立ち返るワケでありますが、確かに毎日コンピュータを触っている。たぶん、1度も触らない日は無いと思う。少なくともこの数年は。
 などと書いても、仕事でコンピュータを使っているので触らないワケにはいかないし、家に帰れば取り合えずメールチェックでもせにゃいかんかなと、電源を入れたりする。
 でもって、ワシワシと文章を入力をしている。誕生日データを追加したりしている。
 でもって、すでに周囲の人には「杉村」と言うキャラクターはコンピュータを使って何やらやっている人と言うイメージが出来つつあるのかもしれない。
 さらにインターネット経由でこの文章を読んで杉村を知った人にとっては「インターネットの中の人」でしかあり得ないのかもしれない。
 そーかそーか、コンピュータ生活な人だったのか杉村は。

 などと言いつつ、実際の事を言えばいたってアナログで手書きでぐにょぐにょでヘロヘロなデジタルとはほど遠い人だったりする。
 コンピュータに精通しているなどと言われる人とは180度反対側に居たりするような人だったりする。
 なんせ、今この世界からコンピュータが消滅したとしても、まったく困らない人なのだ。なくなっちまえ!とは思わないが、その程度のコンピュータ使いだったりする。

 とりあえず、自分の作品として文章を書いたりする道具だったり、以前はMIDIで曲データを作る道具だったりしたけれど、それはあくまでも道具として使っているだけで、無くても全然支障をきたさなかったりする。
 しかし、MIDIも10年以上やっていたり、パソコン通信から数えると通信歴は8年目に突入しちゃっているので、色々なコンピュータ的な人々や作品を見てきた。でもって、コンピュータに依存しているよなぁと言う物を多く見てきた。

 特に自分はもともと絵を描いていた人だと言うので、CGと言う物にも興味があったりするので、その手の作品を見ることも多いのだが・・・・なんか「ただコンピュータで書きました」と言う範疇でその作品のコンセプトが終了している物が少なくなかったりする。
 根本的なデッサン力とか、色づかいに対するセンスだとか、もっと根元的な絵を描くと言う姿勢だとかがかなり希薄な物が多い様な気がする。
 10年前のコンピュータ絵と言うのは、マシンの性能の問題で思いっきりチープな物だったので、実際の絵などとは比べようがない程の独自の文化としてあった。しかし、ここ数年は怒涛の快進撃で手書きの絵に使い物が掛けるようになってきた。その結果、簡単に描けると言う部分が、問題を生じはじめてきた。
 はっきり言ってコンピュータで描く絵と言うのは、誰でもある程度簡単に綺麗な物が出来る。なんせ色塗りが楽だから、しっかりベタが利いた絵が出来るのでムラが無い。グラデーションも圧倒的に綺麗に濡れる。
 しかし、何かそれまでと言う気がしちゃうのだ。
 デッサンが全てでは無いけれど、ムチャな物が多い。
 特に3D的な作品の場合、デッサンのなさは致命的になるのだが、それでも作品としてまとめる事が出来て、しかもそれでプロとして仕事をしている人が多くいたりする。
 80年代初頭にあふれていたヘタくそなエアブラシの絵と同じレベルなのだ。デッサンがしっかりしていないのに塗りだけは上手で立体感溢れていたりするのは困り者だったりする。
 まるで漫画家のアシスタントを10年以上やっている為に、背景だけは異常に上手くて、そのワリに人間がムチャクチャへたくそな人って感じ(実際にいたのですよ昔、松本零児のアシスタント出身の人で)

 MIDIなどにしても、誰にでも演奏が出来たり、作曲した物をまとめる事が出来たりするけれど、なんか根元的な部分で「生演奏」を聞いたことがないんじゃないか?と言う物が多かったりする。
 最初からMIDIを聞いて音楽をはじめて、結局MIDIしか音楽を聴いたことの無いような人も実際にいたりする。
 たしかに音楽にしても絵にしても、コンピュータと言う道具は参加する楽しさを教えてくれる物だと思う。それまで個人レベルでオーケストラを指揮する事など出来なかったのがバーチャルに出来る様になる。
なんか凄いと思う。

 でも、もっとベーシックな所のセンスと言う物だけは、個人の資質に委ねられると思うので、その辺を磨かなくてはいかんよ、などと思ってしまうのであります。
1999年3月18日(木曜日)難しすぎる名前
 毎月、町内便りと言う感じの小冊子が郵送されてくる。
 そこには今月のイベントやら、工事箇所だとかが掲載されている。
 でもって、その最後のページには今月生まれた赤ちゃんと、今月お亡くなりになった方々の名前が掲載されていたりする。
 でもって、ふむふむふむと読んでいると、ときどき「多分コイツ小学校の時の同級生だよなぁ」みたいな名前に遭遇したりするのだ。
 そして、最近特に感じてしまうのが、そこに掲載されている赤ちゃんの名前なのだが、とにかく小難しい読みをしたり、いったいどこの国の人なのだ?と言う名前が少なくない。
 ハッキシ言ってフリガナが付いていなければ絶対に読む事が出来ない様な物が多いのだ。
 そこでクイズです。次に羅列する赤ちゃんの名前を読んで下さい。

1.未空   2.実結人  3.花菜
4.魁星   5.穂乃佳  6.恭仁  
7.和咲   8.栞那   9.璃瑚  
 どーです?どれくらい読めましたか?全部ちゃんと読めてしまった人は、ハッキリ言ってちょっとおかしい人だと思います。なんつーか、文字離れが進む現代、漢字の読み書きがままにならないこの頃だと言うのに何故その流れに逆行するかのような難読漢字のオンパレードなのだ?
 もしかして、勉強が嫌いなワリに意味無く漢字で文章を書きたがる暴走族的発想なのか?そこんとこ夜露死苦!尊皇攘夷、天地天上唯我独尊、七転八倒四捨五入なのか?
 まったくもー皮ジャンでアメリカンスタイルのバイクに乗ってコカコーラを飲みながら尊皇攘夷もあったもんじゃないが、とりあえず漢字を使って難しい名前にしちゃっているのだ。(↑意味判っていないかも知れない)

 今から15年以上前の話だけど、バイトで子供の似顔絵描きをした時、最後に「お名前は?」などと聞くと、かなりのパーセントで『げんき』とか『ゆうき』などと言う名前が帰ってきた。
 それは、それの数年前、彼らが生まれた頃の漫画に「がんばれ元気/小山ゆう」や「野球狂の詩(主人公が水原勇気)/水島慎司」てのがあったからなんだろうけど、なんつーか流行なのだ。
 きっとその時の子供達は今頃、20歳ぐらいだと思うのだが、親も考えているようで、安易なのだ。
 その当時流行っている漫画の主人公の名前を付けてしまうと言うパターンは、ここ数年多いのだ翼ちゃん。
 しかし、80年代中期に、双子が生まれたからって「達也」「克也」なんて名前を思わずつけちゃった家もあると思う、まさか連載途中で片方が死ぬとは思わなかったよなぁ。
 先日高校バレーがTVでやっていて、ちらと見たときそこには高校生の「柴田恭平」君が映っていた。あぁ16〜17年前だよなぁ東京キッドブラザースが有名になったのは、などと思ってしまった。
 去年、高校野球で野球に興味がない人まで興奮させてしまった現・西武ライオンズの松坂大輔(平成の怪物)ですが、去年の高校野球に出場した選手には『大輔』と言う名前が多い。
 これってのは彼らが生まれた当時に、松坂と同じように高校野球を熱狂させた「荒木大輔」にあやかった物だと思うのだ。
 そんな名前を付けるのは当然のごとく星一徹になりたくてしょうがない野球馬鹿一代な親だと思うのだ。て言うことは、子供の意志とは関係なしに小学校低学年時代からリトルリーグなんかに入れて英才教育をしちゃったりするのだと思うのだ。
 だから当然の様に高校野球にも出てくる。
 そんなワケで松坂大輔が大盛り上がりを見せた去年から、16〜18年経った頃もきっと「大輔」と言う名前の少年達が甲子園を沸かせるかもしれない。

 かつて田中角栄と言う総理大臣が「日本列島改造論」などという構想をぶち挙げ、日本中をほじくり返し建築土建関係の人々から神さまの様にあがめられていた頃、調子に乗って生まれて来た息子に「角栄」などと言うマンマな名前を付けてしまった田中さんがいた。
 でもって、その子供が小学校に上がった頃、本当の田中角栄はロッキード事件で犯罪者と成ってしまったために、学校でその子がイジメられると言う事件になってしまった。
 そこで、改名する事になったと言うニュースもあった。

 結局、名前の選択権は本人には無くて親の身勝手から始まるのだと思うのだ。
 よく「エミリーとかアリサとか外人みたいな名前を付けちゃって、子供の頃は可愛いけれど年取った時はどーするんだろうね」みたいな事を言ったりするけれど、そのぐらいの年齢になった頃にはその手の名前が老人の名前という認識になっているからいいと思う。
 それより大変なのは、その手の子供がわんさか同時に入ってくる学校の先生達だと思うのだ。絶対的に出席簿にはフリガナを振らないと大混乱を招いてしまうと思うのだ。


▼静岡県民だけが味わう事の出来るカタルシス
1999年3月19日(金曜日)風邪と共に去りぬ(1)
 数日前から何か体の調子がダルくおかしな感じがしていた事は感じていた。
 けれど、その程度の事で仕事を休めるなんて言う甘い事はやっていないので「ファイトォォォォッ!イッパァァァァァッツ!」と自分に気合いを入れて出勤していた。頑張れ日本の勤労人と言う感じだったりする。  先週までの「電脳フリーマーケット」の準備などの個人的理由の忙しさは終わったが、仕事の方の忙しさはまだ終わっていなかった。
 4月発売の本の編集が最終締切までのラストスパートをかけていた時だったので、いつも以上に激しく、いつも以上に根を詰めて、いつも以上に慎重に、と肉体&精神力&頭脳をこの1週間ほどはフル稼働させて仕事をしていた。
 など言いつつ、やっとこの週末で作業は終了し、あとは印刷工程にデータを回すだけって感じになったのだ。  おかげで明日からの土日&振替休日の3日は完璧に休める事に成りそうなのだ。あぁ休日出勤にならなくてよかった。などと私は、最後の最後のまとめをしていた。しかし肩こりが酷い事になっているなぁ・・・・・・・あぁダルい・・・・・あぁダリぃ・・あぁ・・・・あ・・・・

 ふと気が付くと私の体は必要以上に熱を帯びている様な感じになっていた。別にハードな仕事をしているからオーバーヒートしたワケではない。さらに気が付くと、ノドもガラガラして痛みだしていた。
 「あ・・・・風邪ひいちまったか?」
 などと思いつつ、とりあえず午前中で締切の仕事のまとめが終わって、昼休みに入った。
 なんかどんどんダルくなってくる・・・あぁ食事なんて取っている場合じゃないや・・・・あぁぁぁぁぁぁと、午後は完璧に半病人で何をしたのか記憶も無いような状態になってしまった。
 で、そんな調子で残業もせず、帰りに本屋に寄ろうと朝は思っていたのだが、そのまままっすぐ帰宅をした。

 こりゃどー考えても風邪だよなぁなどと思ったが、帰宅する時間すでに病院は閉まっている。あぁ明日の土曜日午前中に病院に行かなくちゃ・・・・などと思いつつ、自宅にあった常備薬の風邪薬を飲んで、水枕をして早めにベッドの中に潜り込む。
 普段なら、完璧に眠くなるまでベッドの中からTVをぼけぇっと見ていたり、本を読んでいたりするのだが、今日はそんな悠長な事をしている状態では無かった。頭の方もぐにゃぐにゃしちゃって、TVの音がズキンズキンとうっとおしく感じちゃっていたのだ。早く寝て、明日病院に行こうと激しく決意をしていた。
(続く)
1999年3月20日(土曜日)風邪と共に去りぬ(2)
(続き)
 ところが夜中、胃の具合も緩くなり何度もトイレに起きるハメになり、うとうと・・・ぐるるる・・・・うとうと・・・・・ぐるるる・・・の繰り返しがエンドレスで続けられ、おかげで肩こり・頭痛がぶり返して来て、関係ない歯まで痛いような錯覚に陥り、もー何がなんやら判らない状態に突入していた。
 そして結局寝付けたのが明け方5時過ぎ。
 そのせいで、お馬鹿な事に「はっ!」と目が覚めた時には、すっかり世間は昼食の準備をしている12時直前だったのだ。
 しばらく、はっきりしない頭脳のまま壁に掛かっている時計と、つけたままだった腕時計を見比べ「あぁぁぁ」などと意味無く枯れた声を上げていた。そして、しばらくたってからやっと稼働し始めた頭脳で  「あぁこの時間じゃどこの病院ももうアウトだぁ・・・・・・・でもどっかの病院はまだやっているかも知れない・・・あぁ確かどっかは土曜の三時までだったような気がする・・・ええええと、どこだっけか・・・・あぁぁぁぁぁぁ」
 などと、やや断片的な思考をムリにつなぎ合わせていたのだが、出かけるどころか起きあがる気力も無くなっていた私は、そのままベッドの中で天上を見上げているだけしかできなかったのた。
 結局、この土曜の午前中を逃すと後は日曜&振替休日月曜は病院が開いていないと言うことになる。
 どうしよう・・・・と思いつつも成すすべもなく時間は経過していくのであった。

 結局、土曜日は常備薬と暖かい飲み物(固形物がノドを通らなくなっていた)でなんとかしのいだ。
 日曜日になんとか外へ出れる状態になって、薬局で栄養ドリンクや利きそうなクスリを購入。
 翌月曜日もベッドの中で過ごす。
 火曜日は結局、状態が良くならずやっと病院へ行き、太い注射を射ってもらう。
 と言いつつ、水曜日もまだ体調は芳しくなく、休んでしまった。
 そんなワケで土曜日から水曜日まで5日間(有給休暇2日)をベッドの中で過ごす事となってしまったのだ。

 こんな風に何日も体調不良が続くと「俺このままずっとダメなままかなぁ、俺一生こんなダルい状態で過ごすのかも知れない、もしかしたら死ぬのかも知れない」などと意味不明に弱気になってしまう。
 ま、今回は風邪ひいて寝込んだと言っても身近に家族もいるし、会社へは電話連絡をしたので、多くの人が「杉村が風邪をひいて寝ている」と言うのを知っているのだが、以前は本当に誰にも風邪の事を知られる事無く「あぁ俺はこのまま死ぬんだ」と激しく弱気になっていた事があった。
(続く)
1999年3月21日(日曜日)風邪と共に去りぬ(3)
(続き)
 それは僕が18歳の春、東京で独り暮らしを始めた4月になってすぐの頃の事だった。
 高校まで地元でウダウダ過ごしていた自分にとって、全てがリニューアルされて、回りに自分を知っている人がいないと言う生活を、ある意味で満喫していた。
 自分はどちらかと言うと「いつも誰かいないと寂しい」と言う感情はほとんどなく、1人ならばそれでいいって事で思いっきり個人的趣味生活に突入してしまう様な人だった。
 で、学校が始まって1週間もしない、最初の週末の事だった。
 金曜日から何か調子が悪いよなぁと感じていた。
 で、土曜日の明け方、激しい悪寒と寝汗ではぁはぁ言いながら目を覚ましたのだ。
 「やばい・・・完璧に風邪だ」
 と思ったのだが、もうどうしようもない。とりあえず、保険証は持っていたがハッキリ言って近所のどこに病院があるのか全然判らないのだ。
 引っ越してきてしばらくの間、近所を徘徊していたがチェックを入れるのは本屋とかレコード屋とか自分の趣味的な所だけだったのだ。しまったと思った時はすでに遅く、どうにもこーにもならない事態に陥っていた。
 それでも、熱が少し引くと体力の関係でぐったりした気分で眠りにつき、しばらくしてまた熱で目が覚めると言う、ウトウト状態を続けていた。
 気が付くと時計は昼近くになっていて、少し熱も下がったかな?と言う所で重い体を無理矢理起こして「たしかあそこのスーパーには薬局が中に入っていたと思った・・・・」と出かけるのだ。
 頭がガンガンして周囲の音がウワンゥワンゥワンと変な反響をしている。
 それでも、とりあえずクスリや栄養剤を飲まなければいかん、とかなりせっぱ詰まった状態で自分の声明を維持する為に表へ出た。
 意識が遠くになりながら、やっとの事で戻ってきた私はクスリ&栄養剤と一緒にグレープフルーツなども購入して来たのだ。
 とりあえず調理をしなくても食べられる物。ノドを通りやすい物、と言うことで買ってきた。

 結局そのまま土曜日〜日曜日と寝込んでしまったのだが、じっと1人、知り合いも居ない東京で直るとも判らない状態で天上を虚ろに見上げていた僕は、激しく弱気になって
「あぁこのまま、ここで人知れず死んでいくのかなぁぁぁぁ」
 などと、今と変わらない意味不明の弱気を出して悲観的になっていたりした。

 とりあえず、現在こうして文章を書いている私がここに存在しているってことは、その風邪も治って生命にも問題は無かったと言うことなのだが、あのときは本当に世界中の悲劇をひとりで背負い込んでしまったかの様に辛い風邪だった。

 今でも、あの時ラジオのヒットチャート番組から流れてきていた曲を聞くと、その辛かった風邪の日を思い出す。