杉村ぐうたら日記(1999年3月22日〜31日)

▲1999年3月22日:月曜日:情報伝達ゲーム(1)
▲1999年3月23日:火曜日:情報伝達ゲーム(2)
▲1999年3月24日:水曜日:情報伝達ゲーム(3)
▲1999年3月25日:木曜日:情報伝達ゲーム(4)
▲1999年3月26日:金曜日:情報伝達ゲーム(5)
▲1999年3月27日:土曜日:情報伝達ゲーム(6)
▲1999年3月28日:日曜日:情報伝達ゲーム(7)
▲1999年3月29日:月曜日:東京には空が無い
▲1999年3月30日:火曜日:批判=自己弁護
▲1999年3月31日:水曜日:そりゃヤボってもんだぜ
1999年3月22日(月曜日)情報伝達ゲーム(1)
 ふと思い出したのだが、数年前友人が交通事故で入院した時のエピソード。
 当事者の名前を出すのは差し障りがあるかも知れないので、その交通事故に遭った友人の名前を仮に『○さん』として話をすすめる。
 その金曜日の夜10時過ぎ、僕は休日出勤をしたくないので夜遅くまでかけて残業と云う形で仕事を終了させて帰り道を急いでいた。
 その日は、仕事量も多かったのだがあまりに仕事を終了させる事ばかりを考えていたので昼休みもパンとコーヒーだけの簡単な物ですませ、夕飯なんかも全く食べずにワシワシと仕事をこなしていた。いわゆる本の編集という特殊な仕事の関係上、一度手を付けてしまった仕事は基本的に一人が最後まで面倒を見るという形なので、他の人に仕事を分担してラクをすると言う事もできなかった。
 こんな夜遅くまで残業した時の帰り道というのは、目的を達成したと言う充足感より、空腹と疲労による倦怠感と孤独感に襲われてしまうのだ。そんな道すがら夜遅いと言うのに煌々と明るいコンビニエンスストアーや吉野屋などに引き込まれてしまう自分がいるのだ。

 いわゆる誘蛾灯の様な状況なのだが、以前、本当に仕事がまとまって忙しく、毎月140時間残業&タイムカード以外でのサービス残業(実質的には月180時間残業)を半年ぐらい続けていた頃、やはり精神的な孤独感に漬け込まれた様に毎夜毎夜コンビニに立ち寄って真夜中2時とかにおにぎり等を購入している私がそこにいた。おかげで約半年の間に体重が15キロぐらい増えて、今に至っている。
 その時は、肉体的&精神的にボロボロでもう勘弁してぇと周りに同情を引きたかったのだが、客観的に見ると深夜の食事のせいで以前より太って脂ぎって血色も良く、誰も同情をしてくれなかったのだ。
 その時の15キロは恐ろしい事に、3年以上経った今も戻ることなく見事に蓄積されている。

 話はすっかり深夜のコンビニ食生活になってしまったが、そんなワケでその日も「腹減ったぁぁぁ」と思いながら車を運転していたのだ。
 ま、明日は土曜日で休みと云う事もあるので、今晩の夜食を食べた代わりに明日を質素な食生活にすればいいのだ。などと考えていた。
 ここの処、コンビニ弁当も制覇してしまった感があったし、いくら電子レンジで暖めたと言っても、何か虚しい感じがしてしまうので、やっぱほかほかの御飯がある「吉野屋の牛丼」だよなぁ。と自分の中で確固とした決意をしたのだ。

 この吉野屋の凄いと思う事は「安い牛肉をいかに上手く食べるか?」と言う点にパワーを注いでいると言う点なのだ。
 実際の事を云えば牛肉の中でも嫌われ者のすじ肉ってヤツを徹底的に煮込んで軟らかくしまくっている。この徹底的に煮込んでさらに煮込んでと言う部分が凄いのだ。
 いわゆる本格料理店で「牛丼」なんて云うと、注文してから肉を取り出して(良いところね)ジュッバッストトンジャーッザクッザザザッジュウゥゥと、ひたすら料理人がテクニックを披露してしまったりする。でもって、ジューシーなお肉に上品に絡まった甘い秘伝のタレをすーっと流しイッチョ出来上がり!となったりする。
 が!だ。吉野屋の牛丼はもー四の五の云わない、云わせない。レシピをここで書くと「とにかく必死に煮込む」の一言で全てが完結してしまうのだ。(ま、タレの味付けはあるだろうが)もー単純明快。豪快にして愉快と言う事になる。
 一般的な日本人が牛肉を食べるようになって歴史は100年という処だろうが、その間、必死に肉料理を日本料理として定着させようと躍起になって来たのはよく判る。トンカツに代表される洋食的な和食は完成されていると思う。ステーキも和風に醤油味&大根おろしと言う形も完成されていると思う。
 しかし、そんな料理はまだある種の権威主義の上に乗っ取った「大臣料理」なのだ。
 その点、吉野屋が作り出した物は素晴らしい。もう完璧に庶民の味方なのだ。徹底的に安く肉を食べる!と言う点に的を絞っている為に、肉以外の材料と云ったら「玉ねぎ」そしてオプションの「紅しょうが」ぐらいしかないのだ。恐ろしいまでに素晴らしく合理主義に則っている。
 そのおかげで安く食べる事が出来るというワケなのだ。

 よくレトルトパックで「牛丼」と言う物があるが、あれを食べた時に何か「違う!」と憤りを感じて、腕をわなわなと震わせて思わず手に握りしめた割り箸をバキリッと折ってしまった経験のある人も少なくないと思う。
 あのレトルト牛丼の中に使われている牛肉はスジではなく、ちゃんとした肉なのだ。ハッキリと牛肉の味が判ってしまう様な牛肉が入っている。これは違う様な気がする。
 私たちは吉野屋で出される物を「牛丼」と認識して食べているが、味覚の中に「牛肉」の味がひとかけらも入っていないことを掌握している。
 多くの人が吉野屋の牛丼を食べたい!と思う時に頭の中に牛肉の味は存在していない。
 そこにあるのは純然たる「吉野屋の牛丼」と言う「牛肉」とは別の存在なのだ。
 だからこそ受け入れられているのだ。その辺をレトルト牛丼を制作している人は気が付いていないと思うのだ。
 さらにレトルト牛丼に対して云いたいことはある。
 「何故、白滝が入っているのだ」「何故、玉ねぎではなく長ネギなのだ?」と言う事なのだ。
 これは、どー考えても「すき焼き」ではないか?
 確かに自宅ですき焼きパーティをした場合、翌朝残ったすき焼きを温め直して御飯にかけると美味しい。だが!それはあくまでも「すき焼き丼」なのだ。
 レトルト業者はその辺をぜーんぜん把握していない。

 ・・・・が、不味くはないので時々食べてしまう自分がここにいたりするのだが。

(激しく続く!)
1999年3月23日(火曜日)情報伝達ゲーム(2)
(続き)
 そんなワケで話はすっかり、正しい牛丼の生きる道についての意見発表の場になってしまったが、そんなこんなでその日の帰り道に「吉野屋の牛丼」のテイクアウトをしよう!なんて考えたのだ。
 吉野屋の店内で食べてもいいのだが、明日は休日って事もあり、この1週間留守録をしておいたビデオなんかを見ながらダラダラと食べるのが私のルールなのだ。
 私がビデオデッキを購入したのは今から15年ほど前で、この頃はまだビデオデッキを持っているのなんて少数派だった頃だった。
 だから、会社でほとんど話なんかしたことの無かったヤツが僕がビデオデッキを買ったと言う事を知った時、突然「お!俺、裏ビデオを手に入れたんだけどビデオデッキが無くて今まで見れなかったんだよぉぉ!」と周りに聴こえない様な声をうわずらせながら言い出したりしたのだ。そのぐらいにビデオデッキはまだ普及していなかった時代に購入した。
 なんせ、当時、その手のエロビデオの通信販売の広告に『今、エロビデオ10本とビデオデッキをセットで15万円!』なんてのがあった。これなんか、どっちがメインの商品なんだか判らないけれど、そんな感じでビデオデッキが普及したのはエロビが自宅で見れると言うのが大きくあったハズ。
 今は、当たり前に街に溢れているレンタルビデオショップもあの当時はエロビデオを借りることが出来る!と言うのが最大の売りだった。
 たぶん静岡東部で一番早くレンタルビデオを扱ったのは、1981年頃に沼津のイトーヨーカ堂を少し北にいったあたりにあった店だと思う。
 妖しげな店に足を踏み入れると、2畳ほどの本当に狭い店内にレジと当時全盛だった角川映画なんかのビデオがどどーんと並んでいるだけの店構えになっていた。
 が、よーく見ると一番端っこの棚の処に奧に入る隙間があったりして、そこをスルリと越えて中に入ると6畳ほどのスペースが広がっていて、そこにはいわゆるエロビがずらずら〜と並んでいたのだ。
 もっとも、その当時のエロビは70年代のにっかつロマンポルノのコピー物がメインで、現在の様な撮りおろしでエロエロシーンばかりの作品ってのは本当に少なかったのだ。
 うむ、またしても話はまったく関係ない処に進んでしまった。

 そんなワケで、比較的早い時期にビデオデッキを購入した私なのだが、その目的は多くの男性のベクトルは確実に違う方向に向かっていて「音楽番組の録画」と言う物が基本的な目的だった。いわゆる若い男性がビデオデッキを購入する目的の基本が『エロ』だった時代において実に不純な目的で購入したと言う事になる。
 その当時はビデオテープもまだまだ高価な物で、どどーんと大量に購入するワケにもいかず、音楽番組でも自分の好きな歌手が出てくるまでポーズ状態で待ち続け、インタビューや歌い始めたときにスタッ!と録画し始めるのという状態だったので、精々1年間でも20本ぐらいしかテープは溜まらなかった。
 が、そのうちテープが安くなりはじめたのと、仕事が忙しくなって夜9時台の番組が始まるまでに帰れそうにないパターンが増えて、留守録をし始めたのだ。
 最初の頃は、その当時2台目のデッキを購入したと言う事もあって、流し撮りした音楽番組を編集して好きな歌ばかりのテープを作ったりしたが、そのうち撮りっ放しのテープが溜まり始めたのだ。そーなると歯止めが利かなくなる。
 基本的に当時は「夜のヒットスタジオ」&「ベストテン」は全部録画していた(今は「MUCIS STATION」&「HEY HEY HEY」)その為に、現時点で我が家にはどうやら1500本以上のビデオテープが保存されているらしい。したがって録画したまま、見ていない物も多数存在しているのだ。
 ま、そんなワケで吉野屋で牛丼弁当を購入して家に帰ろうと考えていた。
(・・・・なんか随分文章を書いた様な気がするが、話はまだ「残業で遅くなって吉野屋に寄ろうと思った」と云うことしか説明していない気がする)

 普段ならば、136号の熱函道路を越えて伊豆よりに少し進んだ処にある吉野屋に寄るというのがパターンなのだが、何故かその日は国道1号の当時ジャンボエンチョー(現在すみや)の近くにある吉野屋に寄ろうと思ってしまったのだ。
 こっちの吉野屋に寄る場合、いつもと違う道を通らなければならないし、吉野屋に入るためにはガンガントラックなんかが走っている道を右折しなくてはいけないので、普段はパスしているのだが、何故かこの日はこっちの吉野屋の気分だったのだ。それが数奇な運命に操られていた為だとはその時点では気が付いていないのであった。

 その吉野屋の駐車場に車を入れて、素早く店内に入った。
 この吉野屋の入り口のドアと言うのはタッチ式の自動ドアと言うヤツで、ドアの本来取っ手があるべき場所にセンサーがあり、そこに触れるとドアがシュタァァァァと左右に開く仕掛けになっているのだ。
 このドアはそれまであった、赤外線センサーが人を関知すると開くタイプは、狭い店の場合ドアの出入りとはまったく関係ない場面でも突然スワァァァァァと開いたりしてしまうのだ。
 その点、この自動ドアはよっぽど込み合って居ない限り、自動ドアと云えども開く事はない。

 が、問題はそんな処ではない。このタッチ式自動ドアというのに不慣れな人もいたりする。その手の「自動ドア」と書かれた物はそのドアの処に立てば勝手に開いてくれると思っている人も少なくない。

 実は、今回の話で主人公を演じようとしている『○さん』が、かつて事件を起こしたことがある。

 1号線から136号線へ降りてしばらく伊豆方面に向かって走った処に牛丼屋ではない「吉野屋」と言う名前の本屋がある。この本屋に『○さん』と一緒に行った時の事だった。
 僕はさきにタッチ式の自動ドアを開けて中に入って、少し遅れた形で『○さん』がドアの処に立った。その時、ドアは既に1度閉まった状態だったのだ。
 僕は何気なく自動ドアの方を振り返った処、その自動ドアの処で『○さん』が立ちすくんで本来ならばセンターのある左右を見たり上方を見たりしているのだ。当然ドアは閉まったままなのだ。
 ちきしょう開きやがれ!と江戸っ子気質の伊豆人間『○さん』は次の瞬間、まったく躊躇せずにドアとドアの隙間に無理矢理指を差し込み、うがががががががが!と力任せにドアを左右に開いてしまったのだ。
「おいおいおいおいおいおい」と思って慌てて駆け寄った時には『○さん』は「てやんでぇ」と云った風情で本屋の中に足を踏み入れていたのだ。
 (ドアはちゃんと、その後閉まったので安心安心)

(さらに激しく続く!)
1999年3月24日(水曜日)情報伝達ゲーム(3)
(続き)
 と、話はやっと本題に戻るが、残業帰りにその吉野屋(牛丼屋)の中に入った時に、店の中程に知った顔が何人か居たのに気が付いた。
 その連中は、杉山バラ園・エルローザと言う処で働いている連中だった。
 このバラ園って云うのは、高校時代の友人の兄が社長をしている処で、その同級生もその中で役職は常務として色々仕事をしている場所なのだ。そんでもって、時々ダイレクトメールや顧客管理の名簿の入力なんかがある時にアルバイト的な事をしたり、イベントなんかがあるとかり出されたりしていたのだ。
 その同級生と云うのは杉山オヤジ(仮名)と云う男で、僕の苗字が杉村って事で、少し考えるとすぐ判ると思うが、名前順のクラスでの席順で前後の関係と言うことで、高校入学と同時に話をし始め、何かあると同じ班に振り分けられたりしている内に親しく付き合うようになったヤツなのだ。
 高校と言うと、それまで中学の入学なんかと違って、かなり広範囲のあちこちの学校から人があつまるパターンで、とりあえず近所に座ったヤツと言う事で話しかけたのだ。
 なんつーか、同じ中学同士で小さくまとまっている連中もいたが、そんなの面倒くさいって思って、すぐ後ろに座っていた杉山オヤジに声をかけたのだ。

 あの当時中学ってのは坊主頭がまだ主流の時代で、ご多分に漏れず僕の中学も坊主頭だった。しかしこの杉山オヤジの通っていた中学は長髪可の学校だったので、同じ年齢と云えども大人びて見えたのだ。
 と、思ったのがよーく見ると、それは髪型が原因と言うワケではなく、もう杉山オヤジ自体の顔の造形・体の造形・その他全てをひっくるめた総称として、大人びてを通り越していたのだ。高校1年生って云ったら入学時は基本的に15歳って処なのだが、杉山オヤジに関してはこの先どんなオヤジになるのかすでに見えていると言う状態の男だったのだ。

 とりあえず、名前順の出席番号なので入学後の新入生研修なども全て同じ班になり、かなり親しくしていた。
 その中で強烈なエピソードと云えば、お互い親しくなる為に腹の内をさらけ出すって事で、色々話している内に中学時代に好きだった女の子の話題になった。お互いにとって相手の女の子の名前は知らないワケだし、ま云ってもいいかぁてな調子で、それまで誰にも云ってなかった好きだった女の子の名前を杉山オヤジに話してしまったのだ。
 とりあえず「ここだけの秘密だけどな」と言う注釈付きで。

 が、なんとその翌朝、登校して玄関で靴を上履きにはきかえている最中だった。同じ中学出身だけど、中学時代にはほとんど話した事のないヤツが突然近寄ってきて(高校では隣のクラス)「ねぇねぇ杉村って○○○○子の事が好きなんだって?」などと云うのだ。
 がーぁぁぁぁん

 結局、たった1日で中学時代に僕がその子の事を好きだったと言う事が知れ渡っていたのだ。
 そんな精神的大打撃を受けたのをキッカケに、ずっと腐れ縁が今に至っているのだ。

 腐れ縁と言えば不思議な物で、この杉山オヤジとはその高校で同じクラスになり知り合ったワケで、それとはまったく関係なく、別の友人「チマ」とは高校2年の時、アニメーションを自主制作しようという「をた」な関係で知り合った。
 それまで僕はギター部なんて所に所属をしていたのだが、それを期に美術部に移る事になるのだ。(そして美術学校へ)
 チマとは、クラスが関係ないのでそーゆー関係だったのだが、このチマと杉山オヤジも当然クラスも部活動も、出身中学も裾野市と清水町とかなり違って、つながりはまったく無い様に見えていたのだが、実はもっと意外なつながりで知り合いだったのだ。

 その話は中学時代にまでさかのぼる。
 なんと中学時代に、チマは柔道をやっていたらしいのだ。
 で、その柔道の大会で杉山オヤジと知り合いになったという関係だったのだ。それも試合で逢った、組み合った、話をした程度の知り合いではなく、何故か意気投合したチマは、中学時代、杉山オヤジの家へ遊びに行っていたりするのだ。
 うーむ、この辺もなんかよく解らないが濃い腐れ縁的なつながりを感じちゃったりするのだ。

(なんだか話の本題が見えないが続く!)
1999年3月25日(木曜日)情報伝達ゲーム(4)
(続く)
 そんなワケで、その杉山オヤジの関連でバラ園に頻繁に顔を出している為、従業員たちのこともよく知っていた。が、その日、吉野屋に集まっていたその従業員たちは、いつもなら陽気に大声で「杉村さぁ〜ん」などと声を掛けてくるのだが、何故か暗く落ち込んでいるように見えた。
 僕は、その席にいき「なんか暗いじゃん」と声をかけたのだ。

 「あ、杉村さん・・・・・」
 「どしたの?」
 「○さんの事知ってる?」
 「○がどうしたの?」
 「今日、帰り道で事故って入院しちゃったんだよ」
 「えっ?」

 その『○さん』とは、杉山オヤジと同じように高校の時の友人で、現在は杉山バラ園で働いているのだ。
 話を聞くと、夕方6時半頃、仕事が終わっていつもの様にバイクで帰っていった『○さん』が、その途中でトラックとぶつかって入院したらしいのだ。しかし、ここにいる従業員たちはそれ以上詳しい事は判らないと言う。
 実際に、事故が起こった直後、バラ園に連絡が入って(バラ園の制服を着ていた)杉山オヤジがその現場に行ったらしいのだ。

 僕は吉野屋で牛丼を注文せず、取りあえずそのまま杉山オヤジの家へ車を走らせた。

 杉山オヤジの家はバラ園の近くにあり、奥さんと子供2人(当時は)と暮らしていた。
 僕は家の中にうっすら明かりがついて居るが、不気味な感じに静まり帰った杉山オヤジの家の玄関を静かに開けた。
 小さな声で「ごめんください・・・・」と声をかけながら、玄関に足を踏み入れ家の中を覗き込むと、奧の部屋の電気が一番暗い状態になって付けてあり、そこに杉山オヤジらしい姿が動いているのが見えた。
 「ちょっとおじゃまします・・」と云いながら、静かに家にあがりその部屋へいくと、薄暗い明かりだけの中でコタツに椅子の様に腰かけた杉山オヤジがいた。

 「○さん・・・事故ったんだって?」と、そっと杉山オヤジに話しかけると、深いため息を付きながら「あぁ」と一言云うだけだったのだ。

 そんな感じに杉山オヤジがため息を付くような姿を、長い付き合いの中で初めて見た僕は、なにかとんでもない事故が起こってしまったのだと直感した。
 「○さんの具合はいったい・・・・」
 杉山オヤジはうつむいたまま「まだ、どうなるか判らない・・・・とりあえず、○さんの兄貴には連絡したけれど、ヤツのおふくろさんは高齢だから心配かけちゃいけないと思って、まだ連絡はしていない」
 「そんなに、ひどいのか?」
 「・・・・とりあえず、今晩がヤマだと思うけれど・・・」
 「明日、面会に云って大丈夫かな・」
 「いや・・・まだどうなるか判らない。逢えるかどうか・・」
 そう云うとまた杉山オヤジは深くため息を付くのだった。
 結局、会社の帰りの通り道にある某会社の営業用トラックが右折して会社に入ろうとしていたのにバイクが巻き込まれたらしいのだ。それ以上の事はまだ明日にならないと判らない。
 僕はしょうがなく、そのまま家へ帰り、時間的には11時を少し過ぎた処で迷惑かもしれなかったが、富士宮に住む友人橋長夫婦と、土肥に住む友人に連絡を付ける事にした。

(物語は佳境に向かって続く!)
1999年3月26日(金曜日)情報伝達ゲーム(5)
(続き)
 富士宮の橋長は今さっき夜勤の仕事に出かけたと云うことで、奥さんが電話に出た。
 そして『○さん』の状況を話した処「面会ダメかも知れないけれど、取りあえず明日病院に行ってみる」と奥さんが言っていた。
 そして土肥に住んでいる農協職員、高橋の携帯に電話をした処、何度ベルを鳴らしても反応をしない。
 この男は、携帯電話を持っているクセして家に置き忘れて出かけると言うのがパターンなので、たぶんそんな状況だと思うのだ。しゃあねぇな、と自宅の方に電話してみると、お母さんが電話に出て「明日休みだから飲み歩いてんじゃないのかなぁ?」と云う事だった。そして何時に帰ってくるか判らないとの事だった。
 しかし、用件が用件なだけになるべく早く連絡がいった方がいいと云うことで、高橋のお母さんに用件を話して(お母さんも何度も逢っているので○さんの事をよく知っている)メモでもいいから、ヤツに伝えて欲しいと頼んでおいた。

 この高橋と言う農協職員は、私がこれまで生きてきた人生の中で、チマと双璧とも言える程の濃い男だったりする。
 実際には、しっかりして頼りになったり、人間関係も広く深くしているナイスガイなのだが、その一方異常とも思える部分があるのだ。その異常さは「我が道を行く」と言う事なのだ。そんじょそこらの「我が道を行く」じゃない。

 以前のある日の金曜の夜、高橋が突然やってきた。
 「よぅ」と笑いながら言う高橋のその手にはレンタルビデオが4本あった。
 この男はとにかく映画が大好きで、かつて脚本家になる事を夢みていた事もあり、その当時書いた甘く哀しいラブストーリーが何かのコンテストで賞を取ったこともあるのだ。見た目はかなりゴッツイのだが、その心の中は実にロマンティストなのだ。
 で、土肥にあるレンタルビデオの店はあんまり品揃えがよくないので、ときどき我が家にやってきて近くのすみやなんかで大量にビデオを借りてきて、我が家で見倒して帰っていくのがパターンだった。
 そんなワケでその日の夜レンタルビデオを4本持ってやってきた高橋は「明日さぁちょっと静岡の方に行かなければいけない用があるんで泊めて」との事だった。
 ま、我が家は色々な人の簡易宿泊施設になっているし、その為にベッドも2つ用意されていたりする。その辺は良しとしよう。その後の一言が高橋だった。
 「静岡の帰り、日曜日の夜にも一回寄るからそれまでにこれダビングしておいて」
 「・・・・・」
 しかし、基本的に素直な私は黙って土日をかけてダビングするのであった。

 それ以外にも特殊なエピソードは多い。
 いつもの様に「明日の夜泊めて」と連絡があったので待っていたが一向に来る気配が無いので、いつのまにか僕はウツラウツラと眠り始めた夜中の3時頃だった。
 突然、耳元の電話が鳴り響いた。その電話の主は高橋だった。「ワリィ遅くなっちゃって、今外に来ているから開けて」との事だった。「うにゃにゃ、開けてあるから勝手に上がって来て」と言うと、しばらくして高橋が階段をとりあえず真夜中モードで静かに上がってきた。で、開口一番
 「ワリイワリイ、とりあえずおみやげ持ってきたから食べて」と、吉野屋の牛丼弁当(特盛り)を差し出すのだ。で「冷めると美味しくないから、食べて食べて」と促すのだ。
 僕は寝ぼけつつ、何故か言われたまま牛丼を食べたりする。完璧に半分眠っている状態で催眠術にかかっている様な感じだったのかもしれない。
 しかし寝起きの午前3時に特盛り弁当・・・・キッツゥ。
 この高橋と言う男は数週前の誕生日の話に出てきたショウイチと同一人物だったりするのだが、彼のエピソードだけで簡単に本が何冊も書けてしまうと言う、話題の宝庫だったりするのだ。

 そんなこんなで、高橋の母親に連絡を入れて結局空腹のまま、その夜は過ぎていった。

(衝撃の事実が判明する次話に続く!)
1999年3月27日(土曜日)情報伝達ゲーム(6)
(続き)
 翌朝、10時少し前に高橋から電話が入った。
 僕は病院に行っても逢えるかどうか判らないと言う話も聞かされていたし、高橋からの連絡もあるかもしれないので、自宅でヤキモキと時間を過ごしていた。
 「で、○さんはどうなった?」
 「いや、あれから杉山からも連絡入っていないし・・・」
 「かなりひどいのか?」
 「ヤツの話ぶりでは面会もダメだって云っていたから・・・」
 「とりあえず、面会出来なくてもそっちに行くから」
 と云うことで高橋も土肥から急遽出てくる事になった。

 普段よりスピードを出して、約1時間後に高橋がやってきた。この高橋は農協の保険関係の仕事をしていたりするので、その手の場面にも詳しく、さらに○さんのバイク保険も担当していたりする。
 そう言うワケで人一倍、事故などの場面に遭遇しているので、色々な意味で心強いのだ。
 が、面会謝絶かも知れないと言う、かなりハードな状況設定があった為にかなり動揺している様子で「とりあえず最悪の場合を想定して車に喪服も積んできた」などと云うのだ。

 「で、どうする?」「杉山の処に連絡してみるか?」と思った時だった、タイミング良く電話が鳴った。
 その電話はどんな知らせを運んでくるのか判らないので、二人は一瞬お互いの顔を見合わせた。
 そして意を決して僕はゆっくりと受話器を上げた。

 「あ、よしみっちゃん?」
 その電話の相手は、富士宮の橋長の奥さんだった。
 「今、病院にお見舞いに来たんだけどさ・・」
 「ど!どうだった????○の具合は」
 「ぴんぴんしているよ」
 「え?」

 その電話によると、橋長夫人はとりあえず逢えるかどうか判らないけれど面会に病院へ行ったらしいのだ。
 受付で看護婦さんに入院している階と部屋番号を教えてもらい「とりあえず面会は出来るんだ」と少し安心しながら、その病室へと向かったらしいのだ。
 で、指定された部屋へ行くとそこは6人部屋だったので「6人部屋って事はそんなに怪我は重くは無いんじゃないの?」と思いつつ中を覗きこんだ。
 と、そこで衝撃的なシーンを見てしまったのだ。

 なんと、○がいるハズのベッドには誰も居なかった。
 「何故?」
 と橋長夫人は少しおののいて、どうしようかと取りあえず廊下に出てみたのだ。その時、背後からペッタンペッタンと不気味な足音が・・・・
 それと同時に
 「おう!来てくれたんだぁ」
 と、あいかわらず横柄な言葉遣いの○がそこに立っていた。

 「面会謝絶・・・じゃ?」
 「なんか退屈でさぁ、今トイレ行って来たんだけど」
 と橋長夫人が足を見ると確かに包帯を巻いて、そこから血がにじんで出ていた。

 そんな電話を聞いた僕と高橋は、思いっきり拍子抜けしてしまったのだ。
 特に高橋は、僕が高橋のおかあさんに話した「トラックにぶつかって」と言う話が「ダンプが突っ込んで」と言う話になって伝わっていたらしかったのだ。

 それいぜんに、一番問題なのは杉山オヤジは実際の事故現場にいって病院にも付き添ったらしいのだが、とりあえず僕が深刻そうな顔をしていたので、それに合わせて「深刻な設定にしなくてはいけない」と考えて、夕べのような話の展開になったと後日言うのだ。
 うーむ、それはサービス精神なのか?

(おいおい、てな感じで大団円に続く)
1999年3月28日(日曜日)情報伝達ゲーム(7)
(続き)
 しかし今回の事故で判った事は[事故]→[杉山]→[杉村]→[高橋母]→[高橋]と伝達する内に、どんどん雪だるま式に話が大きくなっていったと云うことなのだ。(途中の杉山が犯人だけど)
 世の中の伝達と云うのは実際そんな物なのかも知れない。

 いわゆるファッションにしても、地方へ行けば行くほどファッションは過激になっていくと言う法則があったりする。
 かの細野晴臣氏だと思うが、80年代のパンクムーブメントの時「地方のパンクスほどモヒカンの髪の毛が長く立派に立っている」と云っていたのだ。

 たしかに、かのマハラジャなどのブームだった時代、東京・神奈川周辺のディスコなども過激なファッション(を通り越していたが)が話題になっていたが、その次の大阪はさらに激しくなり(やっぱノーパン喫茶などの発症の地らしく)ヌードに近い状態で踊り狂う姿がTVなどでも紹介されていた。
 と思ったら、負けてはならない!と名古屋のマハラジャなどはもう、ニプレスと前バリだけ状態のファッション(とは云わないって)で踊り狂う姿が見られたらしい。これあたりは「東京モンに負けてなるものか!」と言う気持ちと、東京に対する憧れなどが入り交じった状態でディスコ文化が伝達されて行き着いてしまったのだと思うのだ。

 ま、そんなワケで伝言ゲームは色々怖いのだ。

 情報の伝達と言うと、世間一般ではTV/雑誌などを経由したマスコミ情報が一番大きいと思う。
 が、ここ数年パワーがあって怖いのは「クチコミ」なのかも知れない。

 このクチコミというのは「ここだけの情報っすけどね」とか「まだ誰も知らない情報なんだけどね」と言う、選ばれた人と言う自我を満足させる事の出来る情報伝達方法だったりするのだ。
 いわゆるニュースが一般的になった時に「そんなの前から知っていたよ」と云いきる事の勝ち誇った気分と言う物があった りする。
 たとえば「今コギャルの間では」的なマスコミのインタビューに対して、勝ち誇った様に「そんなの前から云ってたしぃ」と応えていたコギャルさんも居たが、それなんだと思う。
 それを逆手に取って「まだ一般的じゃないけど」とか「次にブレイクするのは」と言う前置きを置いて、ななにげにニュースを流し流行させることが完全に可能になっている。
 自分たちが、その手のマスコミや流通に踊らされているとは気が付かないで。

 ま、クチコミはそれ以外に勝手に一人歩きをしてしまうから楽しかったりするのだ。

 最近映画やTVになった「リング」というホラー小説がある。
 物語の発端は、とあるペンションにあったビデオの中には不思議な映像が録画されていた。そのビデオには呪いがかけられていて、見た人は一週間以内に誰かに見せないと死ぬ。と言う物なのだ。
 と、ある時、会社に置いてあった雑誌をパラパラめくっていた処、読者の投稿欄にこの「リング」とまったく同じ状況設定の話が載せられていたのだ。
 違うのは、その投稿の一番最初に「友人の聞いた話なんですけど」と書き添えてあった事ぐらいなのだ。(映画やTVになる以前の話)

 そんな形で、物語は本当に現実に起こった物として成長を初め、不幸の手紙の様に若い人の間を(本なんか読みそうにない層の間を)この先ずっと、うねり続けていくのかも知れない。

 同じ様な物で、関西から来た「当たり屋集団」と言うネタもあったりする。
 今から10年以上前、僕が社会に出たばかりの頃、朝礼で上司が
 「え〜最近、関西方面から30人以上の当たり屋集団というのがやって来ているというニュースがある。当たり屋と言うのは特定の人間に目星をつけ、二台の車で前と後ろを挟むようにして走り、前の車が突然止まり急ブレーキを踏ませ、その後ろの車が突っ込むという手口だ。そして一番前の車はそのまま逃走、突っ込んだ車からは怖い人が出てきてイチャモンをつけるという物だ。みんな気を付けるように。」
 などと言って、その当たり屋たちのナンバーが羅列されたコピーが手渡された。
 そのコピーはコピーのコピーと言う状態で文字の輪郭が激しく甘くなっていた。

 それから5年後、別の会社に再就職していたのだが、またしても同じ様な事が朝礼で言われふたたびナンバーを列記した紙が回ってきた。
 さすがにワザワザ前のコピーを保存していなかったが、たぶん同じ物だった。そして文字の輪郭は前にまして甘くなっていた。
 それからさらに5年後、今度は新たにワープロで打ち直された車のナンバー一覧が回ってきた。
 ・・・・・そこに列記されている車のナンバーは「神戸」だとか「浪速」なのだが、今では見ることがほとんどない1桁の「神戸6」とか「浪速8」とかだった。
 もう2桁でさえ足りずに3桁になると言う話が出ている時に・・・・
 友人達と話をして判ったのは、この当たり屋のコピーはかなり多くの確立で色々な所を5・6年かけてぐるんぐるん回っているらしいと言うことなのだ。いわゆる、増殖しない不幸の手紙。
 と思っていたら、去年だかはインターネット上でこの情報が回っていたという噂もある。
 情報は伝達されてどんどん架空の話になっていくのだなぁ。
 (なんせ最初に見た15年ほど前の段階でコピーがボケボケだったから、ヘタすると70年代から回っている情報なのかも知れない)

 うーむ、本題だったハズの「○ちゃんが事故った」と言う話は、随分少なかった様な気がするが、つまりそーゆー事なのだ。


▼朝まで生不審船
1999年3月29日(月曜日)東京には空が無い
 なんか、寒いままに、もうすぐ3月が終わろうとしている。
 たしか3月中旬まではかなり暑く「もうすでに5月並みの気温です」などと言われていたのだが、やはり昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる様に、お彼岸を過ぎたあたりからぐっと寒くなってきた(って普通と逆か?)
 しかし、寒かろうと季節はすっかり3月末なのだ。
 てぇ事は、現時点で多くの学生や社会人がこれから新しく始まる生活に期待と不安でドキドキワクワクしちゃっているのかもしれない。
 あぁ社会人をダラダラと長く続けていると、その手の期待と不安に対する刺激ってのが無くなっちゃまってつまらないっす。

 ま、私の場合小学校・中学校・高校とかなり近場で済ませてしまった為に、その辺の卒業&入学って物にはあんまし「世界が新しく始まるのだ!」と言う興奮はなかった。
 でもって、高校卒業後は東京の学校に進学って事になった時は、かなり興奮しちまったっす。
 それまでダラダラと続いていた初恋みたいなモヤモヤも完璧に打ち切って、それまで長く腐れ縁だった友人達ともしばしの別れで、生まれてこの方18年暮らした家とも町ともしばしのお別れ、てな事になって、私は感傷的になったり、やけに建設的になったり、思考回路がムチャクチャになっていました。
 高校時代から作詞作曲なんて物をやっていたんだけれど、その当時に書いた詩を読み返してみると、赤面するぐらいに青春しちゃってんの、困ったことに。
 明日を夢見て走り出すのだ!的な森田健作かお前は?みたいな詩もあるし、この住み慣れた町ともさようなら、そして君とも……………………などと、意味無く「………………」みたいな「とりあえず余韻を表現してみました」みたいな詩も書いていた。
 いやぁ感傷的だねぇ。
 でもって、その辺の恥ずかしい詩に曲を付けたのを多重録音とかしちゃったりしてカセットテープに録音して、当時好きだった女の子に「これ僕の気持ちだから」なんて言ってプレゼントしちゃったりしてんの。
 いやぁ青春だねぇ、なんつーか若気の至りっつーヤツだったりして、別れ際の未練たっぷりの恥ずかしい過去だねぇ。
 しかもその女の子からの感想で「歌上手じゃないね」なんて言われていたりするし。まったくもって、とほほな思い出っすよ。
 今、そーゆー季節を迎えている人はどさくさに紛れて、振り返った時に赤面するような思い出作っていますか?

 ま、そんなワケで、とりあえず高校三年の冬は「別れ」と言うテーマと東京での新生活と言うテーマが私の中で渦巻いていたワケです。
 だから、その年の年賀状なんて物も基本的にそれがメインで、中学時代の友人も東京の学校に行くと言う話を聞いていたので「おおそうか」と、かの作家にして彫刻家の高村光太郎が奥さんの事を書いた「智恵子抄」の一説を引用して
 「智恵子は東京には空が無いと言いました。富士山の上にあるのが本当の空だと言いました」
 などと、本物を少し変えた物を、隅っこに書いた。

 その友人と、3月の卒業式が終わった後、あと少しで引っ越すぞと言う時期に偶然、電車の中で遭遇した。
 そこで開口一番、こう質問をされてしまったのだ。
 「あの年賀状に書いてあったサトル・ケイコって誰の事だ?」
 ・・・・・・・しまったヤツは「智恵子抄」を知らなかった。
 うーむ、確かに周りを見渡しても「智恵子抄」や、中原中也なんかを読んでいるヤツなんて居なかった・・・。俺は時代とズレた中途半端古典好き少年だったのだ。

 そんな失敗をしながら、3月、僕は東京での一人暮らしをはじめたのだ。

PS
 で、話はかつて「電脳たこやき便り」に書いた「関町物語」迷子の話
 そして2週間前の風邪の話に繋がるのであった。
PS.2
 完璧に中断していますが、たこやき便りに書いた「関町物語」は絶対に続きを描きますよ。
 アーリー80'Sの名も無き若者達の無気力で馬鹿な青春記を。
1999年3月30日(火曜日)批判=自己弁護
 何かと言うと他人の事をけなしたり、批判したり、否定的な事を言う人がいる。
 きっとここで何か文句を言うだろうなぁと思った所で、間違いなく言ってくれたりする。
 「あいつ生意気なんだよ」とか「あいつ不細工だよな」とか・・・・・

 そーいう事をとにかく常に言うキャラクターが私の周囲に何人かいる。凄く対応するのに疲れてしまうのだが、そー言う事を言っている人だから、きっと僕がいない所で僕の事を「杉村って○○○だよな」と言っているだろう事は想像がつく。
 なにげに観察していると、周囲の全ての人に対して不服があるかのような発言をしている。
 ま、そーゆー人は次第に周囲の人から敬遠されてしまうってのは、当たり前なのだが、それに気が付かないで今日も今日とて人の批判に忙しい。

 で、その手の人が他人に対して批判的な事を言う種類を見ていると、「生意気」だとか「容姿の事」だとか「知識的な事」だとか、分類できたりする。
 そして、その手の事を言う人物自体を客観的に観察すると「それはおまえもだよな」と言う言葉に行き当たってしまったりする。
 どーも、容姿の優れない人ほど、他人の容姿の醜悪の欠点をあげつらう傾向が多い。
 あるいは、いつも「何をそんなに偉そうにしているの?」と言う根拠のない自信を振りかざしている人ほど、他人の振る舞いの中から偉そうだったり、自信たっぷりだったりする部分をチョイスして揚げ足を取るような発言をする。
 結局、そこで批判されている他人の部分と言うのは、それを発言している人にとって最も重要なバロメーターだったりするのかも知れない。
 いわゆるコンプレックスを他人に向けて爆発させている様な感じだったりする。

 だから、その人の発言なんかを客観的に聞いていると「そんなに言うほど、あの人は不細工じゃないよ」だったり「生意気だとかって感じなかったけどなぁ」と言う感じがしたりする。
 コンプレックスをその事に対して持っている人ほど、他人のその部分に敏感に反応してしまうのはよく判る。

 そんなワケで、自分が他人に対して否定的な意見を述べた時には、少しクールダウンさせ、それが自分のコンプレックスではないか?と考え直してみる事も必要なのかも知れないっす。
1999年3月31日(水曜日)そりゃヤボってもんだぜ
 こないだの日曜の「電波少年スペシャルはだか祭り」で遂に『懸賞生活』のなすびがゴールインした。
 いやぁ拉致されたのが去年の1月か2月頃だったから長い話だよなぁ、とりあえずめでたしめでたし・・・・なのかな?

 しかし、色々な所で「あの番組はヤラセだから」などと言う話を聞くし、姉妹番組の「雷波少年」でのロバのロシナンテの経歴詐称事件(よく知らない)とか、色々な話題が盛りだくさんだったりする。
 その辺のヤラセ事態も番組の構造として取り入れて「ヤラセとはこうして作られる」的な番組として楽しめる。
 と思って見ていたんだけど、なーんか真剣に「だまされた!」とか憤慨している人もいるみたいで、どこかのインターネット掲示板で熱い意見が交わされていたりした。
 それはそれでいいと思う。やらせだとしても、ある種この手の番組は感情移入だとかして見るとかなり面白い。だってドラマってヤツだってあらかじめ「フィクション」と断ってあるけれど感情移入して見るほうが面白いでしょ。
 だまされたって、たかがTVの中の出来事だもん。

 その某掲示板では「ヤラセだとかでだまされる方が悪い、あんなのに感情を預けるってのがおかしい」などと反論意見があって、さらに「例のサムシングエルスの曲だって、あんな見え透いたヤラセの構造やマーケティングにだまされて曲を買ってしまうバカがいるから番組が成り立っているワケだし、さもない曲がチャートの2位とかを取れてしまうんだ」などと過激な意見も出ていた。
 ま、確かにサムエルの「ラストチャンス」はあの番組が無かったらあそこまでのヒット曲にはならなかったと思うけど、とりあえず「いい曲」だと思うから、別に問題ないと思うけどなぁ。
 人の趣味であれを「凡庸な駄作」と思う人もいると思うけど、ヒットしても邪魔にならない曲だと思うのだ。コーラスワークで聞かせる曲ってのも少ないからね。

 話は元に戻るけれど、確かに普通人間が3カ月、1日少量のキムチだけで生きていけるか?と言う疑問はあったりする(途中、タコとか当たったり、間違えてデリバリーして来たラーメンとかあるけど)でも気にしないのだ。
 最初は見ているのは懸賞が当たる事が目的だったけれど、次第に「なすび」と言うワケの判らない人の1人コントを見ている様な状態になったので、細かい事はいいと思う。

 意地悪な見方をすればいくらでもアラは出てくる。
 たとえば、韓国編の最後の方では突然「タコ」「キツネの襟巻」などが当選し一気にゴール!となった。その辺も怪しいと言えば怪しいが、とのキツネの襟巻が当選した夜、ゴールしたって事で突然ディレクターが出現し、再びなすびはアイマスクをして拉致される事になる。で、こないだのスペシャルの会場に連れてこられて・・・・
 これを考えれば、あれだけの会場を押さえて、客を集めて(あれは前日にでもTVで発表すれば、春休みだし暇な学生がドッと押し掛けるとは思うけど)という作業を、キツネの襟巻が当選した直後からやらなくてはいけない。
 はたして、あれだけのキャパのある会場を1日ぐらいで用意出来る物なのか?と言う疑問が出てきたりする。

 さらにステージ上に作ったセットの部屋になすびを連れていって、そこでアイマスクやヘッドフォンをはずさせ「じゃちょっと待ってて」とディレクターは部屋を出ていって、その後突然部屋が崩壊し・・・
 というシーンで、ディレクターが部屋を出ていく時、なすびはアイマスクもヘッドフォンもしていないワケだからディレクターがドアを開けた時、そこから会場の様子がみえないハズがない、みえなくてもライトとか雰囲気とかで気づかないハズがない。

 さらにその後、なすびに「今、TVや雑誌で大人気なんですよ」などと説明があり「え?そうなんですか?」とキツネにつままれた様な表情をする。
 でもよく考えて見ると、去年の暮れまで日本で生活をしていたなすびは、懸賞をする為にとりあえず人一倍雑誌を読んでいたハズだよね?特に懸賞のページ、さらに懸賞のみの雑誌なんかで、なすびの事に触れていないワケがない。

 もっとも一番最初の「この企画はとりあえずTV放映はしない、実験の為にやっている」みたいな事を吹き込まれたなすびによって行われているって言う設定自体が無理臭いっす。
 あと、すでに7カ月以上前の「なすびの夏休み」で連れていってもらった島で見たロッコツマニアが残した『R』の文字を鮮明に覚えているってのは・・・・・

 などと「これってヤラセだよな」などと色々と会話を交わしたり文章に書いた時点で、実は日本テレビの『思うつぼ』って気もしちゃうのだ。

 しかし番組のラストのラストで、ディレクターに毛布を肩からかけて貰って退場するなすびがチラと映し出されていたけれど・・・・なんか、別の企画がスタートしていそうな気分。

PS
 以前、某所で「昔、西条秀樹が出演していたカツラのCMでベッドの中で寝ぼけた表情をしていたのってなすびだよね?」と言った所、誰もそのCMを覚えていなかった為に無視されてしまったが、先日の「お宝映像」系の番組で紹介されていたっす。

 あのCMがTVで再放映されてしまった今、とりあえず我が家にあるお宝映像は、本人&事務所の意向で封印されていると言う、ラ王のCMで前園の子分役でギャグを飛ばして笑いを取っている中田だったりする。