杉村ぐうたら日記145(1999年4月19日〜4月25日)

▲1999年4月21日:水曜日:BOXセット
▲1999年4月22日:木曜日:別れてそして
▲1999年4月23日:金曜日:応援合戦
▲1999年4月24日:土曜日:逆ストーカー
▲1999年4月25日:日曜日:トホホな気分
▲1999年4月26日:月曜日:パパ
▲1999年4月27日:火曜日:おまぬけ一代記
▲1999年4月28日:水曜日:キセル電車でGO!
▲1999年4月29日:木曜日:時代は変わる。自分も変わる。
▲1999年4月30日:金曜日:あやうく無断欠勤
1999年4月21日(水曜日)BOXセット
 ここ数年、往年のアーティストなんかのCDが数枚まとめられて、ついでに未発表曲1曲とかって状態になって「BOXセット」として売り出されたりする。
 なんつーか、私の場合、気に入ったアーティストの場合、オリジナルアルバムをガシガシ購入してしまうために、BOXセットってのは重複買いでしかないので買わなかったりする。
 だから基本的にベストアルバムってのでさえ買わない(新曲がある場合はすごく迷って迷って迷って迷って…、迷いすぎて中古CD屋に並ぶまで待ってしまったりする)
 写真集が付いていたりするけれど、アイドル的なアーティストの場合もあんまし興味ない。私はアイドルも基本的に歌で勝負していたりする。
 アイドルは顔じゃない、あの意味不明に軽薄な音楽に意味があるのだ!と思っている。あの辺は曲を作る方のテクの見せ方に一番の興味がある。

 ま、本当の「ファン」ってヤツは、どんな物でもパッケージ商品が出たら購入するのだろうなぁあぁファンは悲しいなぁとか思ってしまうのだが、惚れてしまうとそーゆー物なんだろうな。

 で、先日CDショップに行ったら「太田裕美BOX」と言うのが出ていた。値段のチェックはしなかったがたぶん1万円前後だとおもう。4枚組ぐらいで。
 うーむ、何故今太田裕美なのだ?と言う気もするが、やっぱし30代ぐらいの小金のある人々が過去に思いを馳せて購入するのだろうか?
 私も70年代から80年代にかけての「ニューミュージック」な気分の時代に、後のガールズポップスの先駆者として好んで聞いていた。後にデビューする松田聖子を始めとした「歌謡曲→ポップス」と言う流れを最初に作った人として芸能音楽史的に重要な人だと認識している。
 なんせ、80年代前記の歌謡界を決定づけた作詞家「松本隆」がほとんどの詩を書いていたと言うのも重要だったりする。
 ついでに、私の敬愛する作曲家「筒美京平」が初期作品を担当していたと言うのも重要だった。

 が、今BOXセットを購入するってのは・・・・ちょっと、と言う感じなのだ。
 確かに、以前出たQ盤シリーズの復刻アルバムシリーズを何枚か持っているけれど、あの豪華な値段の高い、しかも当時の太田裕美の写真を集めた写真集付きのセットを買うのって、う〜むと思ってしまうのだ。
 おととし辺りからキャンディーズBOXなんてのも出ている様だけれど、なんか私の中では釈然としないものが山ほどある。

 なんか、音楽は普遍の物だと思いたいけれど、実際の処時代の空気と言う物も存在しているし、新しい良質な音楽は山の様に毎月リリースされているので、あえて過去に戻ろうと思わないってのが、自分個人の意見だったりする。

1999年4月22日(木曜日)別れてそして
 なんつーか、男と女はどっちが女々しいか?と言うと、基本的に男のほうがどーしょーもなくダメダメ状態だったりする。
 別れた彼女の事を何年も何年も引きずって、新しく好きな子が出来たとしても結局引きずって、何かの機会に再会できる事が出来たら心の片隅に「もしかしたら復活できるかも?」なんて果てしなく甘い気持ちを描いたりしていたりする。
 それが男なのだ。

 元々「女々しい」って言葉は男尊女卑みたいな言葉の様な気もするが、結局この言葉は男性にしか使われない言葉だったりする。
 そんな言葉があるって事自体、男はどーしょーもない生き物なのだ。
 と、いいつつ私は確かに過去に好きだった女の子を精神的には引きずる部分もあるけれど「再会したい」とかはあんまし思わない。
 以前、中学の同窓会があったんだけど、その時も出かけるのをためらってしまったのが、この点だった(と言う意味で引きずっているのかも知れないけど)
 その当時、片思いだった女の子に再会したいと言う気持ちと、再会したくないと言う気持ちが、頭の中で古い漫画の天使と悪魔の様に囁き合っている図式があった。
 結局、当時の友人達に逢いたいって気持ちも大いにあったので、出かけてしまったのだが・・・・
 ま、彼女と再会したからって再び気持ちが再燃するワケではないし、単純に「あぁ彼女もちゃんと綺麗に歳を重ねているのだな」ぐらいにしか思わなかった。

 ま、知人なんかでも10数年前につき合っていた彼女の事を、心の片隅でいまだにくすぶらせている様なのもいたりするけれど、男はつらいのだ。

 某アンケートなんかを読むと「あなたは別れた彼氏彼女にもう一度逢いたいですか?」と言う質問に対し、男64%女12%と言う答えが出ていた。
 うーむ、想像通り。
 確かにドライと言えばドライで、多くの女性は長くつき合った彼氏と別れた、と思ったらすぐ次の彼氏が出来ていたりするパターンが多い(周囲を見ているかぎりでは)
 それに比べて男はとほほ…な人生を歩み始めたりするパターンが多い。
 女性の場合はドライって言うんじゃなくって、前向きなんだと思う。ダメな物はダメだし、醒めた物を簡単に暖め直す事なんて出来ないって思っているんだろうなぁ。

 そのアンケートの中でも「再会してしまった」と言う実例で、女性は「もう二度と逢いたくない」「なんかこんなにつまらない人だとは思わなかった、再会したおかげで思い出まで色あせてしまった」などと言う解答があった。
 が、それに比べて男性は「もし機会があればまた逢いたい」「つき合っていた当時より綺麗になっていた彼女に辛くなってしまった」などと言う解答が多かったらしい。

 なんか、男は未練たらしくて悲しい生き物だよねぇ。

1999年4月23日(金曜日)応援合戦
 まったくもー、朝7時から夜8時まで街頭演説していいからって、うっせーよまったくもー。
 などと思ってしまうほど、この処あっちこっちで選挙カーが騒音をまき散らしている。
 「住み良い社会を作りましょう」じゃないだろ、とツッコミを入れたくなってしまう程、騒音公害に悩まされてしまうのだ。
 とりあえず平日の日中は会社の中に入ってしまうと、外で何が起きようと全然解らないような職場にいたりする(天気も何も解らない非人間的な場所なんだけどさ)ので、とりあえず個人的には問題ないのだが、これが外や外に面した場所で仕事をしている人は、ノイローゼになってしまうんじゃないかってぐらいにうるさい。
 ま、しょうがないって言えばしょうがないのだろうが・・・・。

 とりあえず朝は7時から、夜は8時までってのが決められているので、通勤の時間にそこがぶつかる。
 でもって、運が悪いと立候補者の名前を連呼しながら走っている選挙カーが前や後ろについてしまう事があったりするのだ。そうなると、延々とあのばかでかいスピーカーで拡張した声が「行動と実行の人◎◎◎です。住み良い環境を未来に伝えます、◎◎◎です、沿道の皆様ご声援ありがとうございます、今日も一日仕事頑張って下さい」などと「おのれに言われんでも仕事はやるっちゅーねん!」とツッコミを入れたくなるような事を延々と言われたりする。
 とりあえず、その地区を抜ければ選挙カーは別の道に行ってくれるのだが、朝の通勤ラッシュにはまった中でこれをやられるのほど辛い事はない。
 元々、音に敏感なのか、この辺の騒音には激しくエネルギーを吸い取られてしまって、この1日仕事に身が入らないって感じになってしまうのだ。

 以前、某音楽コンテストに応募しようと一生懸命自宅録音に励んでいた頃。その週の土曜日消印有効が最終締め切りで、もう間に合わないと言うことで金曜日、思いっきりな私用で休暇届を出して朝から最後の生ギター&ボーカル録音をしていた。
 もうー必死こいていたワケですよ。遅くとも明日の朝までに完成させて、郵便局へ持っていかないといかん!と言うわけで。
 処が運悪くその時が選挙運動期間で「おっなかなかいい感じ」と思った瞬間に『◎◎◎でみなさまよろしくお願いします』などと遠くからスピーカーの声が聞こえて来るのだ。
 あぁ自宅録音の悲劇・・・・とか思いつつ、選挙カーの声が聞こえなくなるまで待って再度録音を開始・・・ 「今度×××党推薦で立候補しました××××です」などと、新たなジャマーが登場してきたりするのだ。
 結局、その日の有給休暇は無駄になり、ちゃんと録音開始できたのは、夜8時以降になってしまった。

 そんなワケで、選挙カーはひたすらうるさいのだ。
 が、先日もっとうるさいシーンに遭遇してしまった。
 まず最初「◎◎◎ですよろしくお願いします」と選挙カーが騒音をまき散らしながら走っていた、とそのとき前方から対立候補△△△の選挙カーが出現した。
 次の瞬間「こんにちわ◎◎党推薦の◎◎◎です、△△△さんも頑張って下さい」などと相手候補に対してエールを送り始めたのだ。
 そうなると相手の△△△も黙ってはいない。「△△党推薦の△△△です、皆様には大変おさわがせいたしております△△△です、◎◎◎も大変だと思いますが頑張って下さい。△△△です」などと、こっちも負けてはいられないとエールを送り返す。
 さらに「応援ありがとうございます。◎◎党推薦の◎◎◎も頑張っております、皆様に日頃からお世話になっております◎◎◎です。△△△さんも頑張っていきましょう」などと、自分の宣伝をどーんと折り込みながら相手候補を応援しちゃったりしているのだ。
 するとこっちも負けちゃいられない。「応援ありがとうございます。△△党推薦で立候補しております△△△です。皆様の応援あっての△△△です、明るい未来造りを目指しております△△△です。◎◎◎さんも応援ありがとうございます。お互い頑張っていきましょう。△△△も頑張っております」などと、さらにエスカレートしたワケの解らない事になってしまったりする。
 まわりの人は、じっと無口になり会社への道を黙々と歩くしかないのだ。

 なんと言うか、選挙カーほど嫌な物はない。選挙カーが騒音をまき散らして通るたびにチェックして、どんどんマイナス点をつけていってマイナスが少ない候補に投票するってのは、どうだろうか?などと思ってしまう今日この頃だったりする。
1999年4月24日(土曜日)逆ストーカー
 まったく知らない人間がいつの間にか自分のあらゆるデータを調べあげて、知人の誰よりも、家族の誰よりも自分の生活や言動や行動を知り尽くしていたら怖いっす。
 インターネット上の某伝言板で色々な書き込みをしている女性が、不用意に自分の通勤で使う駅名を描いたり、いつも何時頃に帰ってくるとか、1人暮らしをしているアパートの近くに◎◎◎があるとか、近隣の人ならかなり特定出来る個人情報を書き込んで、他のメンバーから注意を受けていた。
 確かに、掲示板とかそう言う場所で親しい関係になると完璧に友達気分で書き込んでしまうのかも知れないけれど、世の中そんなにいい人ばかりではない、と言うあんまし考えたくない事実もあったりする。
 その掲示板は誰でも自由に参加できるワケだし、常連達で盛り上がっている以外にまったく書き込まない人だってその何倍も存在している。

 常連だって、こう言っては悪いが、掲示板上の性格ってのはあくまでもネット上で作り上げた物で、実際に対面してみたらまったく違う可能性だって少なくない。

 某女性ネットワーカーも以前、オフ会に参加した後でその中の1人からしつこく付きまとわれたと言っていた。ネット上では明るくて楽しい人だったのだが、オフで直接逢った時の印象は目つきが悪く自分の自慢ぐらいしか話さなかったと言う。
 そのオフ後は、誰からか解らないHな内容のメールや、誹謗中傷するメールが何通も届いたと言うし、そのメールには彼女の家の近所の様子まで書き込まれていたりしたと言う。
 だから、悲しい事だけど人を見たら泥棒と思えみたいな自分で自分に対してセキュリティをすると言う事も必要になってしまうのかも知れない。

 などと言いつつ、私はこーして毎日バカ話を書き続けているワケで、個人情報があーだこーだ言える様な立場にはいないのだ。なんせ調べられる以前に、こっちから個人的な話題をがんがん読者に押しつけちゃっていたりするのだ。
 この日記を深く読んで、データベースでも作ってしまえば杉村ってヤツの生活パターンや、これまでの人生ってヤツや、住んでいる処まで激しく特定出来てしまうのかもしれない。
 などと言っても、こんな普通の男のことストーキングしても面白くないから誰もやらないけどさ。

 しかし、偶然出会ってしまう「あ、あなたがひねもすの杉村さん・・・いつも読んでますよ」などと言う読者に遭遇すると困ってしまう事がある。
 なんせ、こっちは相手の事を全然知らないのに、相手はこっちの何もかもお見通しってワケなのだ。

 とか何とか言って、毎日ここに描いている日記が実は全部ぜんぶ架空の物語で、作者は17歳の女子高生だったりしたら、凄い事だったりするかも知れない。
 実は小説・・・・・。
1999年4月25日(日曜日)トホホな気分
 そんなワケで、3月の「電脳フリーマーケット」ってのがついこないだだと思っていたら、あっと言う間に1ヶ月が過ぎて、本来の「恒例春のフリーマーケット」の季節になってしまったのだ。
 なんか、こう立て続けに来るとやる方としてはなんかパワーが入らない。
 前日になっても「あぁ明日だよなぁ」てな感じになってしまっていた。いかんなぁ。

 とかなんとか言いつつも、朝になればフリーマーケットが始まってしまうのだ。
 私は結局、朝6時台からうひゃーっ!どひゃーっ!と、あっちへ走りこっちへ走りをしていた。

 ま、去年の春から始まったフリーマーケット大作戦も今回で4回目って事で、徐々に定着してきた感もあるし、こっちもこなれて来たって感じなのだ。
 何も事件も起こらずつつがなくと言う感じで、フリマの終了を迎える事が出来た。

 何事もないまま・・・・・・

 はぁ・・・と溜息を付いてしまう私なのだが、今回は別の意味で色々あるハズだったのだが、見事に空振りに終わってしまい(詳しい事は書けないけれど)はぁ・・・・と必要以上に疲れてしまったのだ。
 そんなトホホな気持ちで、売店で売っていた「こんにゃく&ミソたれ」の余った物を10本を貰って帰る事にした。
 はぁ・・・と思った私の視界には、もしかしたらと取りあえず慌てて綺麗にした車が映る、トホホ・・・・
 もちろん助手席はいつもはCDやら本屋やらが散乱していたりするのだが、そこも片づけてあってトホホ・・・
 しょうがねぇよな、と気分を新たにしてキーを差し込みエンジンを掛けると・・・もしかしたらの時の為にグッドBGMとしてセッティングしておいたCDが見事に流れ始めて、トホホ・・・・
 などと思いつつ気を取り直して走り始める。
 と、助手席に置いたさっき貰ったコンニャク味噌おでんから、大量の味噌ダレが助手席にこぼれて、助手席のシートがグシャグシャになってしまったりするのだ。

 泣きっ面に蜂とはこのことなのだ、トホホ・・・・

PS
翌日、新たな気持ちで「くそー頑張るぞぉぉぉ」と家を出たのだが、車のドアを開けた途端に助手席のシートに染み着いたミソの香りが・・・・昨日のトホホな気持ちは、そうして続いていくのであった。
1999年4月26日(月曜日)パパ
 友人と子供の育て方と言うテーマで話し合った。
 と言っても、その場にいた5人の内、子供持ちは1人だけだったりするので、思いっきりな机上の空論と言うヤツだったりするのだが、話をした。
 さらに、酒なんか入っていたので、結局の所、自分の意見を述べるノミでその先に進む事は出来ない話藍だった。
 ま、原点が机上の空論なのでしょーがないけど。

 そこで、いわゆる子供に対して放任主義がいいか?それが良くないか?と言う部分になったのだが、結局の処、それはその場に立たされる子供の性格って物で、かなり意見や方向性は変わってくる。
 放任主義と言うのも良い部分と悪い部分があり、その逆も同様だと思う。
 子供だって1つの人格だから、親のエゴによって性格的な物を押しつける事は出来ないと言うのだが、結局「放任」と言うのも一方的な押しつけのエゴだったりする。

 子供が何を求めているのか?と言う部分がまず最初にあると思うのだ。

 甥っ子なんかを見ていると、一生懸命毎日何かを憶えようと必死になっていて好奇心のアンテナを広げていたりする。
 それがどんな些細な事で大人には当然な事でも、彼に取っては大発見なワケで「ねぇねぇねぇ」と話しに来たりする。それに対して「放任的」な部分でいちゃいけないと思う。
 やっぱし、そこで「1人格」として認めてあげる為には、対等な位置で接して一緒に驚いてみたり、もっと別の方向から見ることも出来るよって事に促してあげたりする事も必要なんじゃないかなぁ?と思ったりする。
 彼らは必死に気持ちを伝えようとしているんだから、それに答えてあげなくちゃいかんよなぁ。

 そこで喜んであげる事によって、もっと好奇心を広げようと物事に関して観察すると言う気持ちが広がっていくんだと思う。
 誉めてあげる事で、知的好奇心は広がっていくと思う。

 子供は特に孤独感に弱いと思うし、もし孤独という事が日常になった場合幼い段階から世の中に対して諦めてしまう気持ちが大きくなってしまう様な気がする。

 幼年期の教育ではない部分での大人の導きは必要なことだと考えた。

1999年4月27日(火曜日)おまぬけ一代記
 まったくもって日々、毎日毎日日記を書いている。
 どーも更新が1週間〜1か月に一度と言うペースになってしまったりするので、本当に書いているのか?と言う感じだったりするけれど、とりあえず毎日何かしら書いている。
 ま、諸事情があって机の前に座れないような日もあったりするので、確実にではないが、そーゆー日もネタを見つけたり、何かを思いついたりした場合は手帳にメモしたりしているので、とりあえず日記的な事を毎日していると言うことになる。

 ま、そんなに日々事件が周囲で起こるわけでもないし、特にここの所はほとんどTVをチェックする時間もないぐらいに忙しい日々を過ごしていたりするので、考えるキッカケになるものを見るチャンスも少なかったりする。
 そーゆー時は勢い日記の内容は過去の話になったりする。
 なんか、今まで大量に過去の話をほじくり出して書いているので、それを編集し直せば杉村ってヤツの幼年期から今までの歩んできた道ってのが出来上がってしまうかも知れないのだ。いわゆる「生い立ちの記」とか「一代記」ってヤツだ。
 普通はそーゆー物を出版したりする人は、何か事業を成功させたり、財を成した人だったりして、最終的には教訓めいた言葉が書かれていて「だから、君もこうすれば成功するのだ」などと言う、PHPな物語になったりするのかも知れない。
 ところが、杉村ってヤツぁ現時点で何も成功しちゃいない。もちろん財だって成してはいない。友人から買ったキーボードCZ1の代金3万円を1万円分しか返せないぐらいに財政は切迫しているのだ。
 そんでもって、私の文章は延々と読み込んでいても何も教訓がない!
 最終的には「あぁ20世紀から21世紀にかけて、そーゆーおまぬけな人が存在していたのね」ぐらいの感想しか残らないと言うブラボーな文章なのだ。

 まったく、そーゆー意味で偉いね、俺ってやつは。

1999年4月28日(水曜日)電車でGO!
 電車にひさびさに乗った。
 と言っても日付の4月28日の事ではなく、さらにそれ以前の話でもなく、ゴールデンウィークに入ってからの話なので、日付的に見たら未来の話で完璧に日記ではないけれど、とりあえず電車に久々に乗った。
 その前にバスにも乗った。
 東京に出かける為にバス電車を乗り継いで出かけたのだが、久々のバスはあのディーゼルのウガガガガガガガ・・・・と言う激しい震動&後部座席の異常なほどの振り回され方でちょっと気持ち悪くなってしまった。
 もう10数年自分で車を運転している為にどこへ出かけるにもちょちょいと車を運転して出かけている為に、本当にバスはひさびさだったのだ。
 たぶん・・・・10年以上乗っていないんじゃないか?
 電車の方はとりあえず東京に出かけるとき、乗ったりするので久々ではなかったが、やはり混んでいる電車は精神的にキツいっす。

 今回東京へ出かけるのは、美術学校時代の友人達との再会と言う目的があった。と、言うことで電車に乗っていて思い出してしまった事がある。
 時代は遥か彼方、その学生時代の事。
 貧乏を続けていた話は何度か書いたけれど、帰省ってヤツも大変だったりした。当時、住んでいた吉祥寺から伊豆三島までは吉祥寺→下北沢(井の頭線)から始まり、下北沢→小田原(小田急線)を使って最終的には、小田原→三島(東海道線)と言う経路で帰ってきた。
 たしか、その料金は2500円とかそんな感じだった。
 が、貧乏学生の私にはそんな金を捻出することも難しかったのだ。で、考え出したのはキセルと言うヤツ。行けない事なのだが、背に腹は変えられないと言う事と、もう15年以上前の話なので完璧に時効だと思うので、書いてしまうのだ。
 これをよんだ学生さんなんかが「そうか」と言って真似をしようとしても、今はそんな事が出来ないようなシステムになっているので、犯罪幇助にもあたらないのだ。どーだまいったか、って自慢するような事ではない。

 まず吉祥寺で最低区間料金の切符を購入する。
 でもってそのまま井の頭線に乗り込む、でもって下北沢で小田急線に乗り換える。
 この下北沢での乗り換えは改札口を通らないので、何も問題は発生しない。(今でもここはそのまま)  次の小田原乗り換えは、改札はあるのだが東海道線に乗り換える際には切符の提示もなかったりするので、最初の吉祥寺で購入した物で通り抜ける事が出来る。(今は出来ない)
 で、めでたく東海道線に乗ったらいよいよ三島駅なのだ。
 ここは出口と、伊豆箱根鉄道に乗り換える際に改札がある。ここで一芝居打つのだ。

 「あ、函南駅から切符を購入しないで乗りました」

 この函南駅ってのは無人駅ではないけれど、準無人駅みたいな感じで、夜遅かったり、次の電車までの時間が長かったりすると、切符販売所窓口がふさがっていて誰も出てこなかったりする。そんでもって、自動券売機なんて物も当然無かったりする。
 だから、慌てて乗り込んだり、朝早かったり、夜遅かったりする乗客は、車内改札か、降りる駅で精算すりゃいいやと言う感じだったのだ。
 その人々の善意と信頼関係に付け入って私は非道い事をしていたりするのだ。あぁ、おかげで吉祥寺−三島区間を300円ぐらいで往来してしまったりした。その先の伊豆箱根鉄道&バスの方が料金高かったりする。
 いやはや、今は函南駅もちゃんとしたんで出来なくなったと思うんで、真似しちゃダメだよん。

1999年4月29日(木曜日)時代は変わる。自分も変わる。
 私は現在この「ひねもす」の中で『現代用語の基礎的ではない知識』と言う、世の中のあれやこれやをナナメにみてしまう辞書を製作している。
 数人の人が「あぁこれってビアスの『悪魔の辞典』みたいなものでしょ」と言う事を言った。まちがっちゃいないが、微妙に違っていたりする。
 私が最初に「辞書」と言う形式でおもろい事が出来ると知ったのは中学の頃、文庫本で出ていた筒井康隆の『乱調文学大辞典』と言う物が最初だった。
 ちょうど、小学生向けの要約小説から一般的な小説に移行している最中の私はとにかく「大人的な世界」に憧れを抱えて入り込もうと、一生懸命にその辺の本を読んでいた。
 ちょうど文庫本と言うジャンルも角川出版が映画とタイアップで盛り上がっている頃だった。
 そこで星新一から始まった日本SF読みも、小松左京・筒井康隆あたりの大御所を読んでいた。で、筒井の『乱調文学大辞典』にぶち当たったのだ。
 中学生の自分は「面白い」と思っていたのだが、正直に言えばそこに書かれているネタの半分近くが作家同士のうちわウケだったり、文学界的な裏話をしらないと笑えない様な物が多かった。それを無理に「面白い」と理解したフリして読んでいたのだ。

 月日は流れて私はすっかり大人になった。でもって、ひょんな事からコンセプトが近い『現代用語の基礎的ではない知識』なんて物を作り始めた。
 その頃、中学生の頃に購入した『乱調文学大辞典』の文庫本を紛失してしまっていたので、もう一度読み返して見たいと思っていた。が、意に反して『乱調文学大辞典』はどうやら絶版になっているらしく、二度と本屋で見かけることもなくなっていた。
 そーなると、よけいに読みたくなるのだ。
 で、ついに東京に出かけた時に『乱調文学大辞典』を古本屋で発見して購入する事が出来たのだ。

 そして、久々に読み返して「あの頃は子供だったから理解出来なかったネタも多かったけど」と期待をして読み返してみて・・・・
 「あんまし面白くない」
 なんか拍子抜けする程面白くないし、やっぱし内輪受け的なネタが多く、さらに時代が完璧に過ぎてしまっている、あるいは元々面白くないって感じだった。
 うーむ、笑いのスタイルって物は確かに時代で変化していく物だと思うが、なんか自分の趣味に合わない物だった。
 これで考えたことは、笑いは不変では無い。やはり時代や、タイミングと言う物が最大限に重要になってくる。と言う物だった。

PS・『乱調文学大辞典』を古本屋で探し出してくれた橋本氏、サンキュー

PS2・作詞家の北山修が70年代中期に「自切俳人/じきるはいど」と名乗って出版した『天使の辞典』という本を知りませんか?
もしかしたら『現代用語の基礎的ではない知識』はこちらのほうが近いかもしれないっす。

1999年4月30日(金曜日)あやうく無断欠勤
 28日の仕事が終わるギリギリの時、何気なく仕事机の引き出しを開けて、中を整理していた。
 GWとかの直前はやっぱし、少し綺麗にしなくちゃねぇなどと思ったりする。
 と、引き出しの中に乱雑に入れてあった書類の間から、去年の暮れに貰った会社の祝祭日カレンダーが出てきた。

 で何気なく「今年の夏休みはいつからだっけ?」などと、GWを飛び越して既に遥か彼方の休日の事を考えたりするのだ。
 以前は、かなりハードな日々が続いて休日だってのにほとんど出勤していた事もあったので(夏休みがお盆も含めて1日も無かった事もあった)最近はちゃんと休める事に感謝しつつ、だけどこれって不況のせいだよなぁなどと考えていた。
 と、明日から始まるGWの処を見ると・・・・「あれ?30日が赤くなっていない」と言うことに気がついたのだ。
 私は、その時まで、28日の終業時間10分前までてっきり、明日の29日からどどーんと完璧にGW7連休だと思いこんでいた。で、まだ確信が持てず他の人に聞いた処「30日?出勤だよ」と、なに解りきった事聞いてんの?と言う感じで言われてしまったのだ。
 危ねぇ危ねぇ・・・・もしあの直前に気がつかなかったら、30日もどどーんと休んで朝のワイドショーあたりを寝ぼけながら見ていたかも知れない。うひーっ。

 そんなこんなで私はなんとか危機を脱して、一般社会人として真面目に出勤してきたと言うワケであります。