杉村ぐうたら日記147(1999年5月3日〜5月9日)

▲1999年5月1日:土曜日:青きひとり独裁者
▲1999年5月2日:日曜日:携帯電話無い3兄弟
▲1999年5月3日:月曜日:哀愁の関町に小雨が降るのだ
▲1999年5月4日:火曜日:あぁ同志よ! どうしよ・・・・
▲1999年5月5日:水曜日:縁起でも無い事は言う物ではない
▲1999年5月6日:木曜日:沈むコロッケ
▲1999年5月7日:金曜日:好きです北海道?
▲1999年5月8日:土曜日:美術会系の人々
▲1999年5月9日:日曜日:盆暮れGWの注意点
▲1999年5月10日:月曜日:HPって何?
1999年5月1日(土曜日)蒼き独り独裁者
 電車にひさびさに乗ったと言うことは数日前の日記に書いたけれど、本当にひさびさに乗ったのだ。
 最初、東京へは車で行こうと思ったんだけど、その先の吉祥寺−関町訪問などなどの際に移動手段として車は楽だが駐車が大変だというのがあって断念した。
 実際の話、東京生活者は電車やバスなどの交通網が充実している為に自動車を持つ必要があまりないと言う。実際、自分の東京在住の友人などで免許証を持っていない人は多い。もしかしたら、持っていない方が多い。

 ま、そんなワケで電車に乗っていた。
 この電車に乗るっている行為はどちらかと言うと好きで(満員でなくて、座れればだけど)本を集中して読むこともできるし、変な人に遭遇するチャンスもあったりする。
 今回の電車では残念ながら変な人には遭遇しなかったが、なかなか今回の東京行きのテーマ「学生時代の友人に久々に逢う」と言う物にピッタリな人物に逢ってしまった。

 僕が座っていたシートのすぐ横に、途中から乗り込んできた学生風の男2人が座った。
 見た目はいわゆるモード系だとかではなく、激しく普通の、どちらかと言うとファッションには興味なさそうな地味な二人だったのだが、座ったと同時にたぶんホームで話していた話題の続きから話し始めた。

 「だから、あの授業ってのは教授が古いんだよ、凄く自分の固定概念で何でも決めつけているから」
 「そっか・・・でもさ、3Dは全然理解していないから、いいか悪いか解らないんだけどさ」

 などと学校の話題をしていた。
 話を聞くとは無しに聞いていると、どうやらこの二人はコンピュータ関連の学校でCGを勉強しているらしいというのが理解できた。
 その会話の内容は、昔からやっている人の感覚の古さ、今プロでもてはやされている人のアイディアの枯渇状態、そしていかに自分がセンスがあって、アイディアがあって、それから自分がこの先の時代この業界をリードしていくのだと言う根拠のない自信を振りかざしていた。
 あぁ・・・・・青い。
 と言うか、自分のかなり恥ずかしいと思っている過去の自意識過剰だった部分を再現されているような感じだった。

 自分の時は美術界系な話題だったけれど、やはり高校卒業したばかりの頃は「自分は誰にも負けない才能がある」とか「理解者は少ないかもしれないけれど、その内自分が主流になるのだ」だとか、かなり生意気で自分本位で周りを顧みない様な事を熱く議論していた。
 ま、いわゆるクリエイティブな物を目指そうと思っている人間には多かれ少なかれその傾向はあるハズなのだ。

   なんかカッコ悪いと思いつつ、頑張れ青少年!などと心の中でエールを送っていた私であった。

1999年5月2日(日曜日)携帯電話無い3兄弟
 ま、そんなワケで今週書いている「電車に乗った」「筒井康隆の『乱調文学大辞典』を手に入れた」「若く蒼い未来を語る少年」などなど、ひさびさに学生時代を過ごした町に遊びにいった話を連続で書いていたりする。
 でもってこまった事にこの話は、この日記の日付「5月2日」より先の3日・4日の話だったりする。
 おいおいそりゃ日記でも何ンでもないよ、と言う感じかもしれないけれど、どーせ私の事だから更新して発表するのはずっと先になってしまうのだろうから、その辺の事はどーでもいいじゃないか? と言う様な実に甘えた考えになってしまっていたりする。
 そりゃイカンよな。と言う意見があったり、それって毎日書くネタが無いんじゃないの?などと言う意見もあったりする。
 はいそのとおりです。
 近頃の私は謙虚で素直なのであります。
 何ンと言いましょうか、やっぱり人間素直に他人の言った事を認めていかなければいけないよなぁなどと思って、さらに意味不明の自信過剰で、世の中で自分は一番偉いんだとか、間違った事は1つも言っていないなんて考えはいけないよなぁなどと思ったりする。
 だから私はこんなに才能があって、センスも人一倍で、誰にも負けない努力家なのに、自分の事を偉いなんて言わないのだ、まったくもって謙遜しちゃっている出来た人間なのだ。えっへんどーだ参ったか!

 ま、そんなワケで明日の3日に東京に行って来たワケだけれど(日本語おかしいぞ)、まず吉祥寺のダンキンドーナッツで待ち合わせた。
 先日インターネット上で約15年振りの再会を果たした橋本からメールで『自宅の電話番号は』と言うことを教えられていた。でもって、ボクは下北沢あたりに到着したらもう一人吉祥寺に来る事になっている清原の自宅に電話する事になっていた。
 ここで、ちょっとおかしい事に気が付けば良かったのだが、私はその辺に疎いので気が付いていなかった。

 とりあえず12時と言う事になっていたが、電車の連絡が良く11時ちょい過ぎって時間に吉祥寺に到着した。で、久々の吉祥寺をウロついたが、当時愛用していた古レコード屋が店舗移転だとかでシャッターが閉まっていた。このあたりで「あぁ時間は激しく過ぎているのだなぁ」などとノスタル爺イになりつつ、ウロついた。
 で、約束の12時近くになってダンキンドーナツの2階、しかも駅側が見おろせる席が空いたのでさっそくそこに陣取って橋本&清原を待つことにした。
 が、約束の12時になっても両者とも来ない。
 10分過ぎても、15分過ぎても来やしない。と言う所で、変な部分に気が付いた。
 「橋本からも、清原からも携帯電話の番号を教えて貰っていない」と言う事だった。
 最近の待ち合わせのパターンってのは携帯電話無しでは成り立たないと言っても過言ではない。多くの場合が待っていても来ない場合「おい今どこにいんだよ!」と携帯電話に連絡を入れて「ワリイワリイ、今やっと駅に着いた所でこれから乗るからあと10分ぐらい待ってくれ」などと、とりあえず待たされても相手があとどれくらいで来るか?などと言うのが判ったりする。
 あるいは、混雑する祭りなんかでも「じゃ、1時間後にもう一度ここで」などと言ってひとまず自由行動したりする時も重宝したりする。
 が、その時気が付いた事は「二人の携帯電話の番号知らない」と言う事で、そーなると連絡が付かないと言うのは明らかだった。なんせ、集合時間から15分経ってまだ自宅にいるって事は無いだろうと想像出来るからなのだ。
 うーむ、と思っている時、ダンキンドーナッツの店内階段の方でコーヒーを手に持ってこっちを見ている男がいる事に気が付いた。
 「あ・・・・・」
 そして向こうも
 「あ・・・・・」

 そんな感じで橋本と約15年振りの再会を果たしたのだ。
 お互いに「似ているけれど・・・・」と言う感じで、15年前最後に見た姿と弱冠変化のある姿を見て躊躇していたりしたのだ。
 あの時代から比べるとお互い「当社比150%」と言った感じの体重増だったりするので、しょーがないと言えばしょーがない。
 もしかしたらと言う想像で、もっともっと一瞬では過去の顔を思い出せない位に変化しちゃっていると言う、最悪のパターンも想定していた。
 某友人などは、高校卒業後数回逢って、それから約6〜7年逢わない時期があった。でもって、本当に久々に遭遇した時に「えっ?」と絶句してしまうほど容貌が変わってしまっていた人もいた。
 いわゆる頭髪関係の変化が著しかったのだ。
 厚化粧も困るけど、薄毛症も困ったりしてしまう。
 ま、そんな事もなくめでたく再会できたと言うワケなのだ。
 で、それからしばらくして清原も来たのだが、私も含めてこの三人はこの時代に『携帯電話を持っていない』と言う素晴らしい状態だったりする。
 ボクは何故持たないか? と言うのは「必要ない」と言うのと「自由時間を縛られたくない」と言う理由があったりする。
 一人で行動するのが好きな自分は、そんな時間を突然邪魔されたくないのだ。どこに行っていてもすぐに捕まると言うのは趣味ではない!

 と、言うことを「この時代に携帯電話もっていない3人って珍しいよね」と言う話の際に言ったのだが、どうも他の二人も同じ様な意見だった。
 うーむ、遠く離れていてもやっぱし同じ臭いを持つ仲間だなぁ・・・・

1999年5月3日(月曜日)哀愁の関町に小雨が降るのだ
 そんなワケでやっとGWに東京に行ってひさびさの再会をした!と言う話が日付とリアルタイムになったのだ。
 橋本とは15年振りと言うことだったが、東京時代に住んでいた練馬区関町に行くというのも15年ぶりって感じなのだ。最初はバスで行く?みたいな話も出たが、私のわがままで歩いて行くことになった。

 で、ひさびさに吉祥寺からの道を歩いてみて思ったのが「こんなに狭い道だったのか」と言う事だった。よく小学校の頃の記憶にある場所に行くと思っていた物より、小さくて狭くて・・・と言う事を聞くが、あれってのは自分基準に記憶している為に小さくなった様な錯覚に落ちるのだと言う。
 が、東京時代すでに高校卒業をした私の成長期は終わっていた(横への成長期はまだ止まっていないが)ので、そんな錯覚に落ちるハズはないのだが、なんか記憶より狭い道だった。

   そして私の通っていた銭湯が・・・・マンションになっている。たぶんここだと思うと言う、なんか曖昧としてしまった記憶の中から探った場所にはマンションが立って見る影も無くなっていた。
 やっぱし、この時代に銭湯ってのは無くなる運命なのかなぁ
 と思いつつ歩いていくと、よくお総菜を買っていた小さな店はちゃんと健在だったので、少し安心して先に進むのだが、自分の住んでいたアパートへの入り口が・・・・あれ?どこだっけ?と言う感じになってしまっていた。
 確か、入り口の所には銀色のフィルムが張ってあるエロ本の自販機があって(当然今は無い)野菜とか売っている店が・・・と探していくと、その日は休みだったのか、その八百屋とかが入っていた所にはシャッターが下ろされていたが、「確かにここだ」と言う狭い道を発見した。
 で、そこを入っていくと「道がない」
 なんと当時は人がやっと通れるような狭い道があったのだが、そこは行き止まりになっていた。
 が! その行き止まりの先にあるブロック塀の向こう側に、あの伝説のボロアパートが存在していたのだ。

 そのアパートへ行くためにはかなり大廻りをしなくてはいけなかったが、なんとかたどり着く事が出来た。
 まだ建っていたか・・・・・と言うのが、三人の偽らざる気持ちだったと思う。なんせ、ボクが住んでいた時代でさえ「もう限界だな」と言う感じで、廊下はウグイス張りになっていたりする風流な所だった。
 なんせ中身は四畳半のみで押入は半畳のみ、台所&トイレ共同、と言う素晴らしい作りで「女人禁制」と言うか「女人は絶対に近付かない」と言うアパートだったのだ。
 表札を見るととりあえず10部屋の5部屋は埋まっているらしい。
 うーむ、住んでいるか・・・・・

 ま、なんか話的には面白い話があったワケではないのだが、色々と自分の過去を振り返ってしまう、印象的な日になってしまったのだ。

1999年5月4日(火曜日)あぁ同志よ! どうしよ・・・・
 そんなワケで久々の再会となったワケで、つのる話もたくさんあるのだが、それぞれがそれぞれに逢わない間、それなりの人生ってヤツを重ねてきて、馬鹿な若者なりに馬鹿な大人へ成長してきたのだなぁとしみじみ思ったりする。

 ま、その中で判りやすい変化と言えばそれぞれの体重増と言うテーマがあったりする。
 自分の事は棚に置いておくとして、15年ぶりに再会した橋本は以前のイメージがどっちかと言うと神経質そうに痩せていると言う感じだったので「なんかイメージ違う」と思ってしまったのだ。
 ま、私は元々丸顔系なので、どんなに痩せていた時期でも「痩せたねぇ」などと言われた事がないと言う特技を持っている。

 そう、私の場合、ひさびさに逢った人から毎回のように「太ったんじゃない?」と聞かれるのがパターンだったりする。
 体重的に変化がない時期でも同じように聞かれたりするので、適当に「いやぁちょっとねぇ」などとごまかしたりしていたのだが、逢うたび逢うたびに言われるって事は、日々是成長あるのみと言う感じだったのか?

 ま、そんなワケでこんな私でも「痩せよう!」などと考えたりする事もあるのだが、『徒然なるままに日暮らしコンピューターに向かひて、心に映りゆくよしなしごとを、そこはかとなく打ちつくれば、怪しうこそ物狂欲しけれ』と言う生活を延々とエンドレス状態で続けている私にとっては、積極的に「痩せるのだ!」と運動をする時間さえ惜しいと思ってしまうのだ。
 でもって会社から帰って来ても、ワシワシと入力をしたりして「あぁ疲れた」と気がつく頃には時計は日付変更線を超えた頃、フランスセーヌ河のほとりで小粋なパリジャンがカフェオレを飲んでいるかも知れません、ジェットストリーィィィム、今晩は城達也です(故人)と言う様な状況になっていたりする。
 でもって「あぁノド乾いた」などと言って冷蔵庫を開けてみたりするのだ。
 12時過ぎ、寝る直前、思いっきりダイエットの大敵ですな。

 でもって、日々増大していく私に危機感を持っていたりしたのだが、ひさびさに逢った旧友たちが同じく増大しているのをみて、少し安心しちゃったりする私であった。

安心しちゃいかんよな。

1999年5月5日(水曜日)縁起でも無い事は言う物ではない
 同窓会話はまだ続く。
 関町訪問を果たしたあとは、福生に住んでいる高橋の家に行くことになった。
 で、さらに林治(リンジ:漫画用のペンネーム)と言う旧友もやってきて、ひさびさの馬鹿騒ぎとなった。

 この福生に住んでいる高橋と言うヤツも、なんだかワケ判らないのだが行動力があって、美術学校と言うどっちかと言うと「体力より理屈」「行動力より地道な日々」みたいな中にあって、かなり特異な存在だった男なのだ。
 その行動力は2年目の夏休みに爆発した。

 「今年の夏は北海道旅行をする!」と高橋は突然宣言をした。
 それも、3泊4日とかって旅行ではなく、風に吹かれて宛てもなくと言う、おいらの寝床は星の下みたいな旅行らしいのだ。いわゆるユースホステルを利用して、旅先で人々とふれあってなどと言う形の、思いっきりディスカバージャパン的な旅行に出かけると言うことになった。
 その頃、僕は前述の清原&林治と「雑誌作ろうぜ!」と鼻息荒くふんがふんがと興奮しつつ、興奮のワリに地味に写植の機械を毎日かつんかつん打っていた。
 このグローバルな行動派と、ミニマムな内証派の落差は凄い物なのだ。
 で、夏休みになっても僕らは地味に学校に出てきてかつんかつんと写植打ちをしていた。
 そんな所にワザワザ「今から行ってくるぜ!」と高橋は現れて、これから起こる素晴らしい冒険の日々、触れあいと感動的な出来事に思いを馳せたりしているのだ。
 東京でかつんかつんやっている私達に、これから先起こるであろう事は、写植が完成したあと、赤字校正をして、レイアウトを決めて、印刷予算の見積もりをして・・・と、どこまでも言っても地味な作業しか訪れないのだ。
 東京居残り編集人は「てめぇぇぇ自慢しやがって!」と激しく暗い情熱を胸の奥でたぎらせたりするのであった。
 そんなこんなで見送りの意味も込めて、夏休みで使っていなかった教室の黒板に僕はナップを背負った高橋の似顔絵を書いて「これが高橋を観た最後の姿になったのであります」などと縁起でもない文章を書いた。
 まさか、それがその後高橋の身に降りかかる衝撃の未来を予知していたとは、その時その場にいた誰にも想像できなかったのだ。

(続く)
1999年5月6日(木曜日)沈むコロッケ
 その年の夏は激しく暑かった。
 もうどーにでもしてぇと言うぐらいに暑かった。
 僕らは「編集」と言う名目で日々学校に集まり、その実、アイスを食べたり、近くに出来たほか弁を食べたり、古本屋に出かけたり、意味無くフォトセッションだとか言い出してバシバシ写真を撮影したり、結局ダラダラしているばかりで、その作業は遅々として進んでいなかった。

 ほかほっか弁当と言うと現在では定着してしまったが、この時期がかなり初期の乱立時代だったのかも知れない。
 確か「ほかほか弁当」「ほっかほか弁当」「ほかほっか弁当」など、微妙に違う名前の店がいくつもあって、元祖がどーだこーだと言うことで裁判ざたになるならないと言う話もあった。
 で、学校の近くにあったほっかほか弁当のすぐ横には肉屋があって、ここでコロッケが確か30円で売られていた。
   で、さらに横にはラーメン屋があったりするのだ。
 で、このラーメン屋のメニューには『コロッケラーメン』と言う物が存在していたのだが、この値段が普通のラーメンにあきらかに隣で買ってきたコロッケが浮かんでいるだけと言う実に清い物なのだが、値段は80円もアップしていたのだ。
 おいおい、隣で買ってきた30円のコロッケ1個入れただけで、中間マージン50円かぁ?そりゃ取りすぎじゃ無いのか?
 などと考えたのだが、もしかしたら同じように見えているラーメンだが、実はコロッケラーメン用にコロッケの風味を最大限に引き出せるような特殊なスープになっているのかもしれない。
 それは50円なんて値段で出せないようなスペシャルサービス品かもしれないのだが、貧乏な学生にとっては憤懣やる方ない断固抗議するのだ!と革マル派的実行強行突破も辞さないのであったと言った状態になっていた。
 で、私達はこの現状を如何にぃ!打破すべきかをぉ!慎重にぃ!検討した処ぉ!と意味無く学生運動のアジテーション状態に突入しちゃいますが、密かな実力阻止抗議行動に出ることになった。

 なんと隣の肉屋で購入した30円なりのコロッケをそれぞれがカバンなどに忍ばせ、ラーメン屋に見事潜入したのだ。
 いつもと変わらない穏やかに見える午後、そのラーメン屋では夏の恒例高校野球をTVで流していた。店のオヤジもそっちに意識がいっているみたいなのだ。これ以上のシチュエーションはありえない。
 実行に移すことになった。
 何気なく普通のラーメンを注文して最初はゆっくりと普通に食べ始める。最初の段階で不穏な動きを悟られてしまったらすべての計画は消えてしまう。
 ひたすら普通の客を装いラーメンを食べ始める。
 と、その時だったTVの中でバッターが逆転に繋がりそうなフライを打ったのだ。
 1塁2塁にいたランナーは思いっきり走る。外野に転がったボールを必死にライトが追いかける。
 ランナーが3塁を蹴ってホームに向かって走る。やっと追いついたライトが全身を使ってキャッチャーへボールを返す!
 当然、店のオヤジを含めて、ラーメン屋の中にいた全ての人の視線はTVに吸い寄せられていた。

 その瞬間、隠し持っていたコロッケをすばやくラーメンの中に沈める。
 麺の下に滑り込ませて外見からではまったく変化の無いように見せるのだ。

 「あぁアウトかよぉ」店のオヤジが悔しそうにつぶやく。
 その瞬間にはすでに抗議行動は完了していた。見事な程に「無血革命」は私達の手によって成されていたのだ。

 その後の注意点は、コロッケを表面に浮かび上がらせない事は当然、コロッケを食べる時はスープを呑むがごとくドンブリごと持ち上げてカウンターの中から見えないようにする事。
 さらにコロッケはスープの中で崩れてしまうので、ヘタにスープを全部飲み干してしまうとコロッケの残骸が発見される恐れがあるので、呑むのならその辺をちゃんと始末出来るようにする。

 そんなこんなで、僕らの夏は東京の関町と言う実にローカルな場所でせせこましく過ぎていった。雄大な北海道を旅行している高橋とは比べようもないほど、せせこましく。

(続く)
1999年5月7日(金曜日)好きです北海道?
 北海道の夏と言うとイメージ的には、東京なんかのジメジメムシムシギラギラした夏なんかと違って、サラっとすっきり汗の臭いもしませ〜んと言う「8×4」のCMみたいな状態になっているイメージがある。
 俺達はどーせ、毎日かつんかつんだよぉ!けっ
 と、北海道旅行をしている高橋の話題が出るたびに、みんなは突然不機嫌になり、学校の屋上に駆け上がってごろごろ意味不明にばーろーばーろーと叫びながら日焼けなどをしたりしていた。
 が、その年、何故か北海道には例年では考えられないような天候不順が続き、何度も何度も台風に襲われて「何10年に1度の台風当たり年」などと言われていたのだ。
 そんなニュースを見ながら、みんなは突然うけけけと笑顔になり、学校の屋上に駆け上がってごろごろ意味不明にうひゃっほぉう!と叫びながら日焼けなどをしたりしていた。
 結局、何ンでかんであっても屋上でごろごろしっぱなしで、目的の雑誌制作は暗礁に乗り上げていた。

 しかし、あまりにも何度も「北海道では記録的に大きな台風が」などとニュースで報道されるのを観ながら「おいおい高橋大丈夫か?」などと心配をもしたりした。
 心根はいいヤツらなのだ、ぼくたちは。
 しかし、そんな不安をよそに、ヤツからの連絡などは一切なかった。
 普通、旅先から絵はがきなんかをよこすってのは、その手の旅人のお約束ではないのか?
 などと言いつつ、時計台とかの写真の裏に「こっちは最高です。やっぱり夏の北海道っていいよね」なんて、脳天気な文面が踊る手紙が来たら来たで「けっ自慢しやがってぇ前から気に入らない野郎だと思っていたんだが、心底イラつかせる野郎だぜ!」などと言って破り捨ててしまうかも知れないが。
 ま「便りの無いのは無事な証拠」とか言うからね、などと意味不明な事をいって、私達は今思うと学生時代最後のそれなりに時間的には優雅な夏休みの日々を無駄に過ごしていた。

 そして9月に入り夏休みが終わった。
 が、その年は異常なほど暑さがしつこく、9月中旬だと言うのに、まだ暑い日は続いていた。
 そんな暑い中、学校の授業は再開されたのだが、高橋はまだ帰って来ていなかった。
 まさか「これが高橋を観た最後の姿になったのであります」などと出発前に書いたあの文章が本当のことになったなんて事はないよな・・・などと考えていたのだが、そんな心配をよそに1週間経っても高橋は学校に姿を見せなかった。
 「いったい高橋の身に何が起きたのだ?」と言うのが、学校でも、帰りにたむろしていた前田珈琲店でも話題になっていた。
 「かなり激しい台風が襲ったからなぁ」
 「大雨で川に流されて、そのまま鮭と一緒に放流されちゃったらしいよ」
 「キツネが憑いて山の中で暮らしているらしいよ」
 「そのまま択捉島からロシアへ渡った所で抑留されているらしいよ」
 「流氷が見たいと言って北に向かって泳いでいく姿が目撃されたらしいよ」
 などと、勝手な想像を膨らませていたのだが、そんな事を言っても高橋は帰ってこない。

 と、ある日、学校にいくと、あの高橋が出かける前に増して、にやけた幸せそうな顔つきで教室に立っていた。
 「おうっ!やっと帰ってきたぜぃ!!」
 おうっ!じゃねぇだろ、心配させやがって。と高橋を見ると、頭にはアイヌ系のバンダナ巻いて、『好きです北海道』の文字がプリントされているTシャツを着て・・・・こいつって、思いっきり判りやすい。
 と「ほれ北海道の土産だ」と、どことなく北海道的なイントネーションになって高橋は、高橋らしくヒネリも全くない「バター飴」を差し出すのであった。

 その後、高橋はことあるごとに「やっぱ北海道ってのはさぁ」と北海道土産話をどこでも展開させ、周囲を思いっきりウンザリさせていた。  もー高橋という存在自体が北海道になってしまったぐらいに北海道に魅せられてしまったヤツは、またしても突然「俺、北海道に住む」などと宣言して、本当に出かけていき、そのまま北海道に家を借りて住み始めてしまったのだ。(数年後に帰ってきたけど)

 この事から覚えた教訓『何も考えていないヤツの行動力にはかなわない』

1999年5月8日(土曜日)美術会系の人々
 そんなワケで美術学校時代の友人とひさびさに集まって、懐かしい話をしてしまうほど私達は年齢を重ねたのだな。
 と言う部分と、でも全然変わっちゃいない。と言う事がよく判った。
 学生時代と違う事は、それぞれにそれぞれなりの生活を抱えているがやっぱし学生時代の友達は大切だよねぇと言う事なのだ。

   で、そこで「よく体育会系とか理数系とかって言うけど、美術学校なんかの人々の事はなんて言えばいい?」と言う話題になった。
 文系って言うワケでもないし・・・・
 と言うことで、清原が突然として『美術会系』と言う言葉を言いだした。
 ま、確かに他の分類と比べるとそーゆー呼び方になるんだろうけれど、なんつーか『美術会系』って思いっきり弱そうだよなぁ
 弱い上に、他の系に比べて結束力全然なさそうだし、責任感も無さそうだし、その上仕事的にも使えそうにない感じがする。確かにそれが『美術会系』なのかも知れない。
 ええ年して、未だに夢を追いかけていたりして「ちったぁ落ちつけ」などと言われそうな感じだったりする。
 私もとりあえずまっとうなサラリーマンとして日夜勤労しているが、結局の処、世間からはドロップアウトしているような部分もあるワケで、定義通りのいかにも『美術会系』だったりする。

 自分の周囲にはありがたい事に存在はしていなかったが、美術系学校にどっぷりはまりこんでアートになっちゃっている人ってのは、普通の生活でも使えそうになかったりする。なんせ価値観が誰とも同調しなかったりするのだ。その辺が辛いのだが、それが『美術会系』なのかも知れない。

 そんなワケで私はこの先も使えない人として『美術会系』の道を極めていくしかないのであった。

1999年5月9日(日曜日)盆暮れGWの注意点
 ま、GWも同窓会を含めて色々あったが終わってしまい、再び勤労の毎日に突入して、早くも「夏休み早く来ないかなぁ」などと思ったりするのです。
 そんなワケで日常が再スタートしているのですが、そこで「えっ」と思う事がときどきある。

 何気なくいつものように、会社の通勤途上でセブンイレブンなどに立ち寄り、その曜日に発売されているハズの雑誌を・・・ありゃ無いや。ま、GWだから休みなのか。
 などと購入を諦めてコーヒーだけ買って出てきたりする。
 で、翌週の同じ曜日に再びセブンイレブンで「ありゃ無い」などと言う事を経験したりするのだ。
 まさかGWを挟んであの雑誌が廃刊になってしまったなんて事はないよな・・・などと思うが無い物は無い。
 と言う事で結局その週も購入を断念して、翌週の同じ曜日にセブンイレブンに立ち寄り、ひさびさの再会を果たしたりする事になる。
 そんでもって読み始めると、どうもおかしい。うむむ、と読み込んでいくと「前の号を読んでいない」と言う事に気がついたりするのだ。
 実はGWに2週分の合併号が、いつもの曜日ではない曜日に発売されていたりして、結局それを購入・読み逃してしまったと言う事になったりする場合があったりするのです。
 なんつーか、休みでも気を抜くな!と言う事だったりする。

 同じ様な事は、8月中旬のお盆時期と年末&新年にも起こったりするので要注意。


▼胆略:ヒットの証
1999年5月10日(月曜日)HPって何?
 そんなワケでこーやって日々、自分のHP「ひねもす」と頼まれて作っているHP「杉山バラ園エルローザ」をワシワシワシワシと作っている私なのでありますが、なんと言いましょうか私のばやい、現状ではインターネットって何?ホームページって何?と言うと、何かを発表する場所って感じになってしまって、あんまし他のHPへ出歩かなくなっている様な気がする。
 なんか孤独な1人遊びが好きな子供みたいだなぁなどと突然思ってしまった。
 ま、1人遊びって言ってもちゃんと読者がいるって事を前提に作っているツモリなので、その辺のニュアンスはちとズレているけれど、なーんか本当のHPってヤツのおもしろさを体験していないのかもしれないなぁ。
 などといいつつ、時々検索エンジンでバカな単語を入力して、バカだったり、以外と高尚だったりするHPを覗いたりしている私なのであった。

 とりあえず、1年で1万人を越えたって言うのはあんまし宣伝をしていないHPにしてはオッケーな方なのかもしれないが、やっぱし宣伝をしなくちゃいけないのだな。
 この辺のHPの宣伝ってのは、基本的にギブ&テイクな状態が基本だったり、あとは学生なんかは友人関係の口コミってのは大きいような気もする。が、学生の友達による友達の為の口コミってのは、激しく内輪受けのネットを構築して、掲示板(BBS)なんかを読んでもまったくもって意味不明の書き込みが続いていたりするのだ。
 ま、それは普通のBBSでもオフ会をした直後の書き込みはそれに近い物になったりする。
 などと言いつつ、私の周囲にはあんまし喜んでばしばし書き込みをしてくれる人が多くないので、そーゆー状況もありかなぁなどと思ったりする。
 周囲にコンピュータをいじって、インターネットをつないで、と言う人はいっぱいいるのだが、それが揃いも揃って文章を書かない無口さんなのだ。てめぇら寂しいじゃねぇか。

 と言いつつ、私も内弁慶なシャイボーイなので、あんましよそのHPに行って「やっぽーっ!みんな元気かぁ〜いって言っても、はじめてだったりするワケでうっひょーい」などと書けない私であった(書かないって普通)。
 ま、現時点でのお客様を大切に大切に・・・(と言いつつ日記の更新し忘れている)と言うのも正しいとは思うのだが、やっぱし読まれてナンボのHP。千客万来だったりする。

 とりあえず「HAPPY BIRTHDAY'S CLUB」の方にはお客さんが多いみたいな感じなのだが、そこだけで終わりで、ひねもすまで流れてくれる人がどれだけいるのか?
 やっぱし文章だけの地味なHPだもんなぁ
 などと愚痴ってしまいながらも、もっと文章を書くのだと明日に向かって突き進むのであった。