杉村ぐうたら日記148(1999年5月10日〜5月16日)

▲1999年5月11日:火曜日:逆行するヤツ
▲1999年5月12日:水曜日:無言電話
▲1999年5月13日:木曜日:で、君は誰だ?
▲1999年5月14日:金曜日:習作時代
▲1999年5月15日:土曜日:カウントが増えている・・・
▲1999年5月16日:日曜日:御免
▲1999年5月17日:月曜日:面白くない
▲1999年5月18日:火曜日:小室系的リズム&ブルース
▲1999年5月19日:水曜日:成長していく絶対値
▲1999年5月20日:木曜日:突然MAX
1999年5月11日(火曜日)逆行するヤツ
 何気なくケンタッキーフライドチキンのドライブスルーに立ち寄った。
 基本的にあんまし肉類は好きではないのだが、ときどき発作的に「喰いたい!」などと思ってしまう事がある。
 そんな時に、近所のケンタッキーフライドチキンに寄ったりするのだが、この店の中で食べたって言う記憶がほとんどないぐらいに私の場合はドライブスルーってヤツを使用したりする。

 そんなワケで何も考えずにいつもの様にケンタのドライブスルーコーナーに車を突っ込んだ・・・・・え?
 僕の視界に突然映ったのは、そのドライブスルーをこっちに向かって直進してくる車だったのだ。
 うわぁぁぁぁぁぁぁっ!いつの間にここのドライブスルーは逆向きの流れになったのだぁぁぁぁぁ!と、一瞬激しくパニックに陥いり急ブレーキを踏んだ。
 と、対向している車もキュッと止まった。

 うぬぬぬ、と冷静になって前後左右を見渡した処、以前とまったく変化がないそのドライブスルーはやはり自分の車の進行方向が正解らしいのだ。
 何故だ? と思いながらその対向車を睨み付けると、運転席側のウィンドウがしゅぁぁぁぁと開き、何事も無いような感じで運転手がマイクに向かって注文なぞをし始めたのだ。
 まったくどーゆーつもりだ? と思ったが、その次の瞬間なにか不思議な感じがした。

 反対向きにドライブスルーに突っ込んだ車の運転手が何事もなくマイクに向かって注文・・・・って、よく見たらこっちを向いて止まっている車は左ハンドルの外車だったワケで、だから反対向きに止まればマイクが運転席側に来るワケで、つまりそれは運転手の知恵なワケで。
 って、おいおいそこまで無理してドライブスルーを使用しなくてもいいのではないか?

 そして注文をし終えたその外車はバックで受け取り窓口まで車を移動させていった。
 で、店員から怒られていた。

1999年5月12日(水曜日)無言電話
 数日前の土曜日、僕はこれといった予定もなく家でぼけ〜っとしていた。
 と、その時突然電話が鳴った。
 などと言う文章を書いたりするのだが、電話は絶対的に突然鳴るもので予告電話をしてから電話をすると言う事はありえないし、「コレカラ電話スル」などとモールス信号や手旗信号で連絡してからすると言うことは果てしなく無いと思う。中には「明日、8時くらいに電話するからね」などと言う場合もあるだろうが、本来電話と言うものは突然鳴るものと相場が決まっている。

 そんなへりくつは関係なく、僕は受話器を取った。
 「はい杉村です」
 しかし受話器の向こうからは何やら受話器を握り直すようなガサガサした音と、なま暖かい様な吐息みたいな「ふがっ」と言う怪しい音が聞こえるだけなのだ。
 ぬぬぬ? と思った瞬間、電話は切れた。
 もしかしたらこれは「いたずら電話」?

 以前、杉村家にも何度かハッキリそれと判るいたずら電話があったが、ここの処ひさびさだった。
 そうかそうか、男がでちゃって悪かったかな? などと思っているとき、ふたたび電話が鳴った。

 そしてその電話もさっきと同様に、ガサガサふがっと言う状況だった。まったく暇なヤツもいるもんだねぇと思って電話を切ろうとした瞬間だった。
 その電話の向こうから衝撃的な言葉が聞こえてきたのだ。
 「もしもし・・・ひろくんです」

 なんとその電話の主は姉貴の子供で今年3歳になったヒロくんだったのだ。
 うーむ。
 最近、電話をかけると言う事を覚えてしまったらしく(今は短縮番号だったりするから)毎日、おばあちゃんに近況報告の電話をしていたらしい。
 で今日もいつもの通りに電話をしたら、おばあちゃんではなく男の人が出たので驚いて電話を切ってしまったらしいのだ。
 なるほどなるほど、そーゆー事だったのか。

 最近の子供は電話するってのも特別な事ではなくなっているワケで、2年ぐらい前セブンイレブンの中に携帯電話の着信音が鳴り響いた時(この頃はメロディを入力するタイプではなかった)そこにいた小学生4人組がそれぞれポケットなんかに手を伸ばして、その中の1人が「俺でした〜」などと言って携帯電話を取り出すシーンを見て、うぬぬと思ったのだ。
 通学途中、チャリをこぎながら携帯電話で話をしている高校生もしょっちゅう見かけるし、なんか世の中は電話中心に動いているのかもしれないなぁなどと思ったりもする。

 そういえば自分の経験では、たしか小学校4年の頃に夜の8時頃、突然友人のノムラ君(仮名)から電話が掛かってきた事がある。
 で、そんなわざわざ掛けてきた電話の要件が「あのさ、ウルトラマンに出てくるザニカって言う蟹みたいな怪獣ってさ、蟹座を逆さから読んだ名前だって、いま気がついたんだ」と、激しく嬉しそうに電話の向こうのノムラ君は喋るのだ。
 はっきし言って、僕は小学校4年の頃からその手の怪獣がどーした、変身がどーしたと言うTVへの興味がまったく薄れていたので、この場はどのようなリアクションを取ればいいのだ? と激しくうろたえたのを記憶している。
 でもって、電話を切った後、わざわざ友達が電話をしてきたからには何か重大な事件でも起こったのに違いないと母親が「いまの電話なんだったの?」などと聞いてくるのだ。
 自分としても「ウルトラマンのザニカが蟹座を逆さにした名前だった」などと、あまりにも低レベルな事は恥ずかしくて言えずに「何ンでもないよ」などと精いっぱいに反抗期な態度でその場を立ち去る私がいた。

1999年5月13日(木曜日)で、君は誰だ?
 私は自慢じゃないが、人を覚えるのが得意ではない。
 なんせ高校時代、3年間同じ教室で勉強していたハズの人間でもいまだに名前が何だったか判らない人もいたりする。
 ま、世間ではそんな私の事を愛を込めて「お馬鹿さん」などと呼んでくれるのだが、私の場合、興味のある無しで極端に記憶されるされないと言う物がある。

 ま、人間の顔と名前ぐらいは興味とは関係なく覚えなくちゃいかんのだけど、あんまし興味のない仕事関係で逢った外部の会社の偉い人の名前を覚えないのはまずいよなぁとか思ってしまうのだ。
 その辺は、さぐりさぐり相手のデータを記憶の奥から引き出しながら会話をすると言う高度なテクニックを駆使するしか無いのだが、冷や汗ものなのだ。

 で、時々、街を歩いていて声を掛けられる。
 が、誰か判らない・・・・・・・と言う、かなりやばい状態を何度も経験している。特に、私の場合小学校の頃からあんまし顔が変わっていないらしく、小学校時代の同級生から声を掛けられても困ってしまうのだ。
 突然、髭面の顔とそれに反比例するかのような頭髪のスッキリした男に「おうっよしみっちゃんじゃん、久しぶりだねぇ元気?」などと言われても、誰かわかない。
 なんせ小学校時代にソイツは髪の毛ちゃんとあったし、当然髭面でもなかった。
 うーむと言う感じなのだ。

 さらに困った事に、僕はあんまし特徴の無い人間らしく、絶対的に面識の無い人間からも声を掛けられる事があったりする。

 今の会社に入ったばかりの頃なのだ、いつものように社員食堂でコロッケ定食などを食べていると、突然開いていた隣の席に髪の毛がツンツンした20歳ぐらいの男が座ってきて
 「なぁ〜んだ、食堂でメシ喰ってんだぁ言ってくれれば良いのに水臭いなぁ、コロッケ定食? そんなので腹いっぱいになンの? そう言えばさぁこないだの女の子どうなった?」などと、突然まくしたてるのだ。
 でもって、僕は入社したばっかしだったし「こないだの女の子」なんてのもどこにもいないのだ。
 で、ソイツはしばらく勝手にまくしたてた後で「じゃ、また」と言い残して去っていった。
 「・・・・・・・」
 そして僕の正面に座っていた職場の同僚に「知ってるヤツ?」と聞かれたのだが「知らない」と答えるしか無かったのだ。
 君は誰だ?

1999年5月14日(金曜日)習作時代
 仕事で美術品のオークション関連のカタログを作った。
 とりあえず美術系には興味のある自分なので、なかなか楽しんで出来た仕事だった。
 ほうほう、あの作家がこんな値段するんだぁ。この作家って意外と安いんだぁなどと言うことが分かって面白い。

 オークション用のカタログって事で、値段はカチッと決まっている訳ではなく「この辺りの値段からオークションはスタートしまっせ」「ま、この辺りで決まりまっせ」という感じの値段設定をされているのだが、やっぱしどれもこれも高い。
 ま、話によると10年ほど前のバブルという時代の美術品の値段高騰よりは安く安定して、お客さん下がったんじゃなくて適正価格で買い時ってことよ、なんだそうです。
 確かに、あの時代どっかの会社の社長だか会長だかって人がゴッホやルノアールを金に糸目を付けず「おらおらおあらぁ1億円じゃぁぁぃ10億円じゃぁぁぁぃ!金出すンやから文句は言わせへんでぇ!」と偽物関西弁を使ってしまうぐらいの勢いで購入した事があった。
 しかも、その購入は会社で美術館を造ってみたいな文化的な話ではなく、自宅に飾って誰にも見せないためで、さらにインタビューに答えて「この作品は私の物だ、私がどうしようと勝手だ、私が死んだときは棺の中に入れて一緒に火葬してもらうことになっている」などと答えて、世間からブーングされていた。
 なんつーか「あんたはその美術品ほどの価値ないよ」とかみんなに思われていた。

 そんな、成り上がり金満日本の時代よりは良心的だとは思うが・・・。

 しかしこのカタログを見てて思うのが、有名な画家の習作時代、つまり有名になる以前の、しかもデッサンなんかもオークションに出されていて、それが何ン10万円とかの値段が付いている。
 確かに、学術的な価値はあると思うが、客観的に見て旨いとはいえない、たかがデッサンにその値段ってのは、私にはよく分からない。
 やっぱし美術品ってのは、その作者が有名だとかではなく、単純にそこに描かれている絵の善し悪しが基準対象になる物ではないか? と思っているので、その辺の「有名人だから」という付加価値に値段を付けるという感覚がよく分からないっす。

 これって、有名ミュージシャンの過去のリハーサル音源などを、勝手に海賊版としてCDにしてしまう行為と同じって気がしてしまう。
 ついでに、山田かまち・尾崎豊なんかに見られるように、その人が発表しようと思わないでいたずら書きしたり、遊びで録音した物まで(作品の善し悪し関係なく)遺作だとして遺族が金儲けなどの理由で発表してしまう、嫌らしさと共通しているような気がする。
 などと言っても、高い値段で取引されるんだろうなぁ

 物を造るという行為をしている人間として(絵・音楽も造ったりしている)、未完成の作品や下書きを見られるってのは、尻の穴を見られるような恥ずかしさがあったりする。

1999年5月15日(土曜日)カウントが増えている・・・
 気がつくと「ひねもす」の表紙のカウントが12000を超えていた。
 あぁぁぁぁ皆様に大感謝の日々であります。
 などと言いつつ「もしかしたらこれって、ぐうたら日記が更新されているかも知れない」とせっかく来てくださったのに「ちぇまだ、ねぇでやんの、ふざけんなバーロー」と怒って帰った人々が半分以上なのではないか?と考えたりもする。
 いかんいかん、と大反省の日々であります。

 とりあえず日記に関しては毎日何かしらのネタを発見する!と言うのを日々の目標にしているのでありますが、それを文章に書き起こすと言うのはまた時間がかかったり、精神的&肉体的にやったるで状態でないと辛かったりするので、なかなか延滞しちゃったりします。

 1週間に1度の更新!などと考えてはいるのですが、なかなか思ったように人生は動いてはくれないっす。

 私のコンピュータのハードディスクの中には「ぐうたら日記」の記入用フォームが今年1年分はすでに用意されていて、そこにワシワシと文章を入力すればオッケーという状態になっている。
 で、「この日はこのネタ」と言うことで、その日に思いついたネタのタイトルやキーワードをひとまず入力しておく。
 そんでもって時間が出来た時に、どりゃぁぁぁぁっ!と入力したりする。
 で、入力後1日ぐらい余裕をみて再読し、手直しをしてアップと言うのが理想だったりするのだが、せっかく入力したのだが読み直すうちに「俺はこんな事を言いたかったのでは無いのだ!」と思わず削除してしまう事もある。
 いわゆる夜中に気分が高揚して書いてしまったラブレターみたいな物なのだ。ひじょうに恥ずかしい事を熱く書いたりしている。

 それとか、あとで書くつもりでキーワードを入力してあったりするのだが、数日後にそれを見て「いったい何を書きたかったのだ?」と言う状態になってしまう意味不明のキーワードも少なくない。

 最近の物では『木琴のポンッ』『当たり前のあたりめ』『アラジンと完全無欠の101匹ワンちゃん』って、これをどー展開させりゃ面白い話にもっていけるのか判らないのだが、メモしてあった。

 まったくもって謎が多い私なのだ。

PS
などと書いた文章をさらに1ヶ月近く更新しないでいたら、カウントは「13000」を軽く越えてしまっていた。みなさんすまないっす。

1999年5月16日(日曜日)御免
 気がついたら、ぐうたら日記の更新を4月12日からしていなかった。
 そこまで酷いとは思わなかった。まったく見損なったぞ杉村。
 と自分に反省を促す私なのでありますが、確か今年になって同じ様な事を最低でも5回は書いたような記がする。って事は毎月同じ事の連続なのか?
 って事は、最初から「更新は1か月に1度」と言ってしまえば良いのではないか?
 などと鋭くも狡猾に考える私でありますが、もし「1か月に1度」などと決めてしまった場合は「今月はとうとう更新しなかったなぁでも1か月に1度も2か月に1度も同じ様なものだな」などと考えて、2か月に1度更新などと言う事になり、さらに3か月目に「そんなに頻繁に更新してもねぇ」などと「季刊」などと言う事になってしまうのかも知れない。
で、さらに4か月に1度の「年3回更新」になって、さらに「年3回も年2回も同じ様な物だしね」と6か月に1度の更新になって、結局、年1回の更新になってしまうに違いない。
 だが、杉村ってヤツのぐうたら度はそんな甘い物ではなく、「あっそういえば今年更新忘れていた、ま、来年でいいか」などと言う事にもなりかねない。
 で結局「十年一日の如し」などと言うことわざを持ち出してきて「10年に1度更新」と言う素晴らしいHPが完成する事になるのだな。
 10年にたった一度の更新で一気に毎日書いた日記を10年分アップ・・・・約3650日分の日記、約521週間分の日記、これはこれで話題になるぞぉ
 などとワケの分からない事を考えているヒマがあるならば更新しろ!とおしかりを受けそうなので、更新します。

皆様、御免なさい。見捨てないで下さいませ。

PS(99.6.6)
 と言う文章を書いてから、さらに1か月近くも更新しなかったと言う、さらに酷い事になってしまった。
 未更新記録を更新したってやつだな。とほほ。

1999年5月17日(月曜日)面白くない
 よく小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、漫画にしろ「面白くない」「つまらない」と言う批判的な意見を良く聞く。確かに本人にとって「面白くなかった」のだろう。
 が、それはあくまでも個人の主観って事だけで、その作品を全否定するに値する物では無かったりする。現にその作品を「面白い!」と思う人だって存在したりするのだ。少なくとも作者などは「駄作」と感じている作品にも少なからず面白味を感じていると思う。それは自由だ。

 が、その作品を「面白くない」と断言した人物にとっての「面白くない」と言うのはあくまでも超個人的な感想と言う事になって、自分の世界の中では「面白くない」と言うことだったりする。この「面白くない」と言う感想の難しい点は「絶望的に面白くない」のか「面白さを理解出来ない」のかで判断が二つに別れてしまうのだ。

   他者の「面白さを理解出来ない」って言う場合「面白い」と感じる要素に「経験・知識」と言う物がある。
 小さな子供、いわゆる自我が目覚めるかどうかという年令の子供にとって最大に興味の対象となる物に「自分が知っている物」という物がある。
 小さな子供と遊んでいると気が付くことで、彼らは実に「繰り返しの笑い」が異常なほど大好きだったりする。
 いわゆる「いないいないバァ」などをやると、へとへとになるまで付き合わされ、ずっと本気で疲れるまで笑い続ける。これなんか典型的な「知っているから面白い」と言う事だったりする。
 「いないいない」と言う言葉の後に「バァ」と言いながら顔が出てくるから面白いのだ。

 それと同じ様に、ある程度年令がいっても「知っているから面白い・理解できる」と言う要素は付いて廻る。

1999年5月18日(火曜日)小室系的リズム&ブルース
 そんなことから「面白くない」と言いきる場合に、実は「まったく未知の世界だから理解しきれなかった」と言う場合がある。
 たとえば、突然生活の中にクラシック音楽やジャズが無かった人が、その手の音楽を聴かされても「何が面白いのか判らない」と言う事になる。
 例えば小室系(実際はこういう括り方もかなり乱暴なのだが)が大好きでその手の音楽をずっと聞いて育ってきた人が、いわゆるブルース(本物のね)を聞いたときに「退屈でよく判らない」と言う答えがかなりの確率で帰ってくると思う。
 それと逆にブルースにどっぷりハマッていた人が、小室系の音楽を聴いてもよく判らないと思う。  そしてお互いが「どれ聞いても同じにしか聞こえない」と言う感想を持つのではないか?
 実際の事を言えば、どっちの音楽もそれぞれ曲によって色々なパターンがある。
 その認識度の差なのだ。

 *蛇足だが、最近の小室哲哉の曲の中には確かにリズム&ブルースを意識した曲がいくつか存在していて、本人もそれらしい事を発言しているが、どうもあれが一般的なリズム&ブルースには聞こえない。と言うのは「小室系の音楽を好む人が理解しうる部分でのリズム&ブルースっぽい音楽」という解釈なのかもしれない。

 このどれを聞いても同じようにしか聞こえないって言うのは、それ以外の部分でも絶対的にある。  個人的な部分で好き嫌いの意見を言うときは、どうしようもないけれど絶対的に自分の知識が基準になるのだ。
 よくおじさん達が「最近のコギャルとか言ってる女子高校生はどれもこれも同じに見える」と発言したりするのだけれど、逆に言われている方からも「オヤジってどいつも同じに見えてダサ〜ッ」と言うことになる。
 で、お互いの言い分としては「自分たちはそれぞれ個性がある」と言うことだと思う。
 これってのは認識度の差で、コギャルはそのルーズソックスのダレぐあいから、眉毛の書き方から、メッシュの入り方から色々の「個性」が存在している。と認識している。
 そんな感じで、人間は基本的にそれぞれの知識の差によって、価値観や認識度に思いっきりな差が出来上がる。


▼流行:恥ずかしい死語
1999年5月19日(水曜日)成長していく絶対値
 赤ちゃんは産まれた瞬間はほとんど目が見えない。
 それが次第に「明るい」「暗い」を認識して「白」「黒」の明度だけのモノクロの世界を経験し、徐々に「赤」「青」「黄」などの三原色を理解し、さらに徐々にその中間色も認識してゆく。
 大人ならば「黄色」「山吹色」「レモンイエロー」「クリームイエロー」などを並べられれば、同じ黄色系だとは思うが、それぞれが違う色だと言うのを認識できたりする。
 しかし赤ちゃんにとって、それはどれも「黄色」なのだ。その辺の経験値が無いと、差が判らない。
 それは結局、音楽にしても、映画にしても、何にしても同じ事だったりするんだと思う。
 その細かい部分が何にしても大切なのでは無いか? と感じている。

 僕も中学時代にはまったく理解不能だった映画や小説なんかがあって、それを20歳過ぎた時に再び観たり読んだりした時に「名作だ!」と感動してしまったものがいくつもある。
 逆に中学ぐらいで「これって最高に名作だよなぁ」と思っていた物が、再び読んだ時にあまりの平凡で駄作だった事に愕然としてしまった事もある。
 ま、それは1度読んでしまった物と言う初期衝撃が無くなってしまったのかも知れないけれど、その作品に感動して以降、経験してきた現実や本や映画なんかと比べて「何ンか違う」と思ってしまった事は事実だったりする。

 それを「子供だまし」とまでは言わないにしても、いわゆる「知識の少ない」状態で感動しちゃったのだ。それは悪い事ではないが。
 普通に生活をしている場合、その感じ方や意見は客観的な部分ではなく、あくまでも主観的で自分が絶対値になっていたりする。
 その絶対値も実は絶対ではなく、自分が経験していく事によって常に視点が移動していたりするのだ。だから、最初に言った「面白くない」と言う物だって、いつの日か「面白い」に変わっていく可能性だって無いとは言えない。

1999年5月20日(木曜日)突然MAX
 話はズレるけど、最近の「すぐ切れる」と言うあの現象は、中間の感情が欠落している物の顕著な状態なのではないか? と思ったりする。
 「怒る」「平静」「悲しい」の間の感情がぽっかりと落ちて短絡的につながっているのかも知れない。

 マスコミで言われる「コギャル語(←この言い方はすでに恥ずかしい)」と言うのは、新しい言語体系として面白いが、その中で使われている語彙がかなり極端な状態を表現している。
 例の「超」って状態。悲しい、怒り、淋しい、退屈、笑い、蔑み、などが日常的レベルで、それほど感情的ではないハズだが常に「チョー」な状態で、「MAX」な状態で、「最大限」な状態でやってくる。
 その中間を表現する事がない。
 そう言う言語体系の中に身を置いていると、結局「怒り」を感じたときは思いっきり怒るしか無くなってしまうのではないか? などと思ってしまったりする。

 なんて風に、さも「オレは若者の気持ちが分かるんだぜ」みたいに言いきる大人が大嫌いだったから、的を得てるとは思わないけど、そんな気がする。
 何事も経験値が物を言う。
 別に人生をかけるような経験値じゃなくても、世の中を楽しむ為には、世の中の事をたくさん知っている方が優位だと思ったりするのだ。
 やっぱ、「面白くない」と感じて日々を過ごすのより、細かい些細な事にでも「面白い」と感じながら生活していくほうが楽しいからねぇ。