杉村ぐうたら日記(1999年6月21日〜30日)

▲1999年6月21日:月曜日:午前10時は魔の時間帯・1
▲1999年6月22日:火曜日:午前10時は魔の時間帯・2
▲1999年6月23日:水曜日:空飛ぶピカチュウ
▲1999年6月24日:木曜日:毛・その存在理由と無自覚
▲1999年6月25日:金曜日:病院へ行こう(嫌)
▲1999年6月26日:土曜日:ジャニーズアイラブユー・1
▲1999年6月27日:日曜日:ジャニーズアイラブユー・2
▲1999年6月28日:月曜日:ジャニーズアイラブユー・3
▲1999年6月29日:火曜日:今日の誤植『掴んだ』
▲1999年6月30日:水曜日:今年も半分終わりました
1999年6月21日(月曜日)午前10時は魔の時間帯・1
朝、会社についてコンピュータの電源を入れて・・・・と言うところから僕の仕事が始まる。
そのコンピュータが立ち上がる間、とりあえず今日やるべき仕事をチェックして、その中でも朝1に片づけなければいけない物を、鋭くチェックし、パシパシパシッと整理し、始業時間のベルが鳴らなくても早速仕事を始める。
いわゆるアメリカなんかの企業だと、時間ギリギリに入って、時間ピッタシに帰るみたいな状態が当たり前とされて、日本企業みたいに給料の計算時間外の10分前に全員集合し、ラジオ体操したり、社訓を唱和したりってのは、ナンセンスの極みだとされている。
実際の事を言えば僕なんかもその手の考えを持っていたりする。
パシッと出社し、パシッと仕事をして、パシッと定時に帰る。これ以上素晴らしい人生が他にありますか?
てな事を言いつつ、それは電車通勤とかの場合で、ある程度の絶対的に正確な時間で出社できる人の場合なのだ。
私の様に自家用車通勤の場合、定時ギリギリ出社を目指したりすると、その半数が遅刻と言うことになってしまうのだな。なんせ、毎日同じ時間に家を出たとしても、会社に着く時間に40分以上の差が出てしまう場合がある。
とりあえず、私は家から会社まで車で1時間10分(朝)と言う通勤をしている。だから、その道すがら、ちょっと工事があった、ちょっと交通事故があった、などの不確実要素によって到着時間が激しく左右されてしまうのだ。
だから勢い、絶対これなら遅刻しないぜ!と言う時間に会社に到着する様に設定してあったりする。

でもって、始業時間までダラダラしてりゃいいじゃんと言う気もするが、結局ダラダラしていた分の仕事は、残業に食い込んでくると言うことで、私はなるべく残業をしたくない、と言う人だったりするので(残業代も大切な給料なんすけどね)おっしゃぁぁぁぁっとフライングスタート仕事をしてしまう事になる。

で、そのおっしゃぁぁぁぁっと勢い付けた仕事が一息着くのがだいたい毎日、10時頃と言う事になる。
あぁ疲れた、などと気がゆるむと同時に、下半身の方も「一息入れさせておくれ」と欲求してくるのだ。
 そして私は、勢いよく仕事をして酸欠状態になった頭でぼけっとトイレに向かうのであった。
(つづく)
1999年6月22日(火曜日)午前10時は魔の時間帯・2
 その日も、仕事をしている場所から一番近い処にあるトイレに出かける。とりあえず、今私が要求している物は個人的な空間を要する物であって、その欲求を充足させる為の個人的空間がここの男子トイレの中には2部屋しかないのだ。
 で、案の定私が入った時にはその個人的空間の中ではすでにファイティングポーズを取っている人が二人いて、私の付け入る場所は全然無かった。完璧にそれぞれが孤軍奮闘と言う感じで頑張っているらしい状況の中、私はその場に別れを告げて別のトイレを目指した。
 次なる空間こそが我が安住の地なのだ、といいつつ階段を下りて通路を曲がった場所に位置しているトイレを目指した。
 そのトイレに行く途中の階段ではストトントンとリズミカルなステップを踏み、少しだけ下半身にこみ上げてくるそのマグマに刺激を与え、万全なる戦闘態勢に入らせていた。待っていろよ、戦場はすぐそこなのだ。
 が、この戦場は前回のトイレよりシビアな場所で個室が1つしか存在していないのだ。だから、争いは一発で決まってしまう。
 私はトイレへの角を曲がった瞬間「二戦二敗」と言う悲劇の結論を知るのであった。あぁなんてこった。しかも我が下半身は完璧に戦闘態勢に入っている。完璧にクラウチングスタイルで今か今かとスタートのピストルの音を待っているような状態なのだ。このままではフライングしないとも限らない。
 しばし待たれい!
 私は急進派の下半身に制止勧告を出したのだ、ここはひとつ私の顔に免じてひとまず退散してくれと。

 そして私はさらに離れたトイレへと下半身に無意味な刺激を与えないように、ゆっくりと進むのであった。
 今度こそ今度こそと思いつつそのトイレへと進んだ。そこは、ちょっと離れている場所にある為か基本的に普段あまり人がいない場所なのだ。
 ここならば大丈夫と考えながらそのトイレへの1歩を踏み込んだ。
 「あ゙・・・・・」

 結局、下半身のざわめきを騙し騙し抑えながら一番最初に訪問した仕事場所から一番近いトイレへと還ってきた。と、さっきは使用中だった個室が1つ開いているのだ。私はあわてつつも「ここで気を抜いてフライングされたら堪らない」と慎重に個室に入りドアをしめ、厳かにベルトをゆるめたりするのだ。

 で、つかの間のリラックスタイム・・・・
 とそのとき、ドアの向こうで何やらせっぱ詰まった様な足音がしたかた思うと、男子トイレのドアが激しく開く音がした。
 が、次の瞬間そのドアを開けた人物は小さく「チッ」と舌打ちをして去っていった。男は家を出たら7人の敵が居ると武士道では言われているらしいが、そうなのだ、ありとあらゆる処に闘いが待っているのだ(女性も同じか)

 そんなワケで、みんな一息を入れようと考えるこの10時前後は色々大変なのだ。
1999年6月23日(水曜日)空飛ぶピカチュウ
 しかし、あれだな。
 もし万が一の話なのだが、機体にピカチュウとかGLAYとかがデカデカとプリントされた飛行機がだよ、何ンらかの事故で墜落したとしたら、ヘビーな状況で哀しい。けれど漫画みたいでおかしい。
 と言うか、その現場をどういう報道をしたらいいのか?
 遺族はその事実にどう対応すればいいのか?
 意味なくピカチュウに怒りをぶつけてみてもシリアスさは出てこない。なんせ相手がしゃべれる言葉は「ぴかぴかぴあかぁぁぁちゅぅぅぅ」だからな。
 と言う問題がかなりシリアスにお笑い方面的要素をはらみながら、出てくる様な気がする。

 山腹に散らばるピカチュウの晴れ晴れとしたあの黄色は、悲惨を通り越してお間抜け度満点で、しかし笑ってはいけないワケで、でもニュースの絵としてはショッキングに面白いし、年末の「今年の10大ニュース」てな番組ではグランプリを取ってしまうかも知れない、と言うかどこかで間違ってNG大賞を受賞してしまう方が濃厚なのではないかと言う感じだし。
 かと言ってGLAYの飛行機でもかなりキビしい状況になったりするのだ。

 でもって、関係ないと思うのにワイドショーは「ポケモン」の制作者やGLAYのメンバーにインタビューを試みてしまったりするのだな。
 しかし、該当者はどう答えればいい?

 今から10年ぐらい前、大阪で行われた花の博覧会の会場で、ウォーターなんとかってやつが途中で逆さ吊り状態でストップしてしまった時も、かなりそのファンシーな乗り物と、切迫した状態ってのが「面白哀しい」風景になっていた。

 そんなワケでとりあえず、ペイントされた飛行機だけは落ちません様に。

※でも特殊なペイントをされている分、機体が重くなっているらしい。
1999年6月24日(木曜日)毛・その存在理由と無自覚
 髪の毛が伸びてきている。
 切りたいなぁと思いつつ、その切りにいけるチャンスの日には面倒くさくなって行かなかったりする。そんなこんなで「切る限界点」がそろそろ近づいてきている。

   困った事に、以前は完璧にストレートヘアで伸ばしていくと単純にロンゲ状態になって、まとめるのにも楽と言えば楽だったのだが、この2年ぐらい前から突然髪の毛にウェーブが出始めて、ちょっと長くなるとモサモサと重いイメージの髪型になってしまうようになったのだ。
 生まれてからずっと、手入れが簡単な髪の毛と接してきたのでこのクセッ毛と言うのがどーもうっと惜しくてしょうがない。
 毎朝めんどう臭いのだ。
 とりあえず、朝髪の毛を洗ったりするような人だったりするんだけど、以前ならちょっと時間がなければ「ま、いいか」でいけたのが、最近は絶対に毎朝髪の毛をセットしないとぼさぼさと言う事になってしまう。
 うーむうーむ、と思ってしまうのだな。
 いっそ、坊主頭にしてしまえば楽だぞ。などと思うがそこまで人生を達観できていない。
 ダウンタウン松本も最初、坊主にした時は違和感があったけれど、今となっては以前どんな髪型をしていたのかさえ忘れてしまうほど定着してしまった。
 あそこまで行ってしまえば、これも個性だからなぁとは思ったりする。
 ハッキリ言って私はあんまし個性がないのだそうだ。友人に言わせると。
 だから見た目で言うと、そんなにワシワシととんでもない量の文章を書くようなパワーがある人には見えない。あるいは楽器を弾いて作詞作曲して多重録音&MIDIで曲を録音したりする人に見えない(最近は過去形だけど)。あるいは、どかんどかんと一気に100枚単位の漫画を書いたりする様な人には見えない(これも過去形か)。
 なにげにぼ〜と接すると、本当になんでもない人だと言うのだ。
 なんか、どうリアクションしていいのか判らないが、そーゆー風に見られていたりするらしい。
 だから「坊主頭」って、キャラクターを作りやすいかもしれない。などと思うのだが、ただヒネた中学生程度にしかなれそうもないので却下。

 しかし、私の同級生なんかを見渡すと「最近薄くなっちゃって」などと嘆いている人が多い。
 ま、そーゆー年代に突入してきたと言うワケなのだが、髪の毛の存在理由を考えると薄くなるというのは不条理って気もしてしまうのだ。
 なんせ髪の毛が生えているというのは「大事な部位を守る」という目的があったりする。脇の毛だって本来は汗をかきやすい部分が荒れないようにだとか、色々意味がある。

 それなのに薄くなってしまうってのは、変な話なのだ。
 結局それは神さまが「お前頭使ってねぇだろ」とか「いらないよね」と言われている様な物なのだ。
 本来生えるべき場所に生えていない状態と言うのは。
 その辺はあとでゆっくり考えるべき問題だと思ったりする。

1999年6月25日(金曜日)病院へ行こう(嫌)
 なんかここの処、病院づいている。
 何度も何度も病院に足を運ぶということになっている。と言っても体調が良くないとか、妊娠したとかではない。
 回りの知人が入院したとか、そんな話ばっかりなのだ。
 まず、親戚の叔父さんが入院して大手術の結果、危篤状態から見事に復帰したり、高校時代からの友人が血を吐いてあと少しで出血多量でと言う処まで行ったとか、友人の長女が突然入院したり、親戚の90歳を超えたお婆さんが骨折して入院したとか、現在進行形で4つも入院話があったりする。
 で、お見舞いになんかにも行ったりする。

 やっぱし病院って・・・・元気な人が行っても、その元気を吸い取られてしまうんじゃないかってぐらいに、体調によくない処だったりする。
 だから本当に体調が悪くて病院に行った場合、待合室でどんどんどんどん体調が劣悪な状態になってしまうような気がしてしまうのだ。
 きっとヤツラもそれが狙いに違いないのだ。

1999年6月26日(土曜日)ジャニーズアイラブユー
突然日記でもエッセイでもないことを書き始めてしまいますが、ジャニーズ事務所って凄いっす。
あの一貫した姿勢というのは日本共産党と通じるほどの頑固さと一徹さにあふれていたりするワケっす。
で、今ジャニーズを語られる場合、80年代の「たのきんトリオ」あたりからと言う事になっていたりする。が、そこに至るまでもジャニーズは凄かった。
今、少年隊・SMAP・TOKIO・Kinki kids・V6・Jrなどなど同時に多数のジャニーズが存在している時代を見ていると、なんか70年代の一番最初のジャニーズブームを思い出したりしちゃうっす。
そんなワケでジャニーズは僕が物心ついた時から、女性のアイドル魂を釘付けにし続けていたりするのであります。
さすがに60年代の初代グループ「ジャニーズ」は知らない。(1962年デビュー1967年解散だそうです)このグループには水戸黄門なんかに出ている「あおい輝彦」が参加していたってのぐらいしか知らないが、ちゃんと紅白歌合戦にも出ていたりする。
で、あおい輝彦はソロになってからもヒット曲を出しソロで紅白に出場している。

「フォーリーブス」
当時は珍しかった歌って踊れるグループ(しかもバク転あり)として、人気があった。
かなりショービジネスを意識したグループでラスベガスのショーなどを研究してステージに取り入れたり、ミュージカルなどにも挑戦していた(共演に南沙織)。
さらに当時ではかなり先進的だったアイドルなのに作詞をする(今読むとかなりショボイが)と言う、実はアーティスト寄りの展開をしようとしていたグループだった。 が、実はレコード売上はかなり低かった。
と言うのも、この時代は中学生や高校生が個人用のレコードプレイヤーなどをあまり持っていなかった時代なので(特に女の子は)売上はあんまり望めなかったと言う。
このグループには解散後「ジャニーズ許さん!」と反旗を翻し、そのジャニーズ時代のあんな事こんな事を暴露した『光GENJIへ』と言う本を出した北公司とか、最近クスリ関係で逮捕された江木俊夫なんてのもいたりする。
江木俊夫はジャニーズ以前は子役をやっていて、かの手塚治虫原作の『マグマ大使』でマグマを呼ぶ笛を持っているマモル少年を演じていた。(このマグマ大使は古い作品で、かの「ウルトラマン」より放送開始が1日早かった)

「郷ひろみ」
原宿で母親と買い物をしている処を社長のジャニー喜多川氏にスカウトされた。と言う、アイドルの黄金道を歩んでデビューした。
郷ひろみも、ジャニーズのパターンで歌手デビュー前は先輩フォーリーブスのバックで踊っていたらしいが、すでに人気が高くコンサートでファンが「ゴーゴー!」とかけ声を掛けるシーンも有ったという。そこから作曲家筒美京平がそれを生かした曲「男の子女の子」を制作しデビューする。
郷ひろみの幸せだった処はデビューから一貫して筒美京平と言う時代を切り取る才能を持つ作曲家に曲を書いてもらったと言う事に尽きると思う。あの独特の声を如何にしたら生かすことが出来るか?と言う事を念頭に作られた曲は、現代に再聴してみるとかなり凄いと痛感させられるのだ。
70年代の歌謡曲の中でこの筒美京平の曲を聴く場合「郷ひろみ」で日本におけるポップスの完成形を「岩崎宏美」で日本におけるフィラデルフィアソウルを「大田裕美」で日本におけるカントリー&フォークを知ることが出来る。この「3人ひろみ」は70年代の筒美京平歌謡曲の柱になっていると思うのだ。
ついでに「南沙織」で日本におけるR&Bを感じとってくれたら嬉しいのだ。

1999年6月27日(日曜日)ジャニーズアイラブユー2
「JJS」 今ジャニーズJrが一番新しいジャニーズみたいな感じがするが、実は70年代にすでに存在していたりする。でもって最近そこから人気のあるメンバーを選抜したグループでデビューと言う話があるが、すでにそれも「ジャニーズジュニアスペシャル/JJS」と言う名前で70年代にデビューしていたりする。曲は当時大人気だった漫画「ベルサイユのバラ」をテーマにした「薔薇の誓い(だったと思う)」や井上陽水の「ロンドン急行」などを歌ってそこそこヒットしていた。
「ビッグマンモス」
このグループは正式楽曲デビューしなかったけれどジャニーズJrの中から選ばれた子たち(10人ぐらい?)で、「ママと遊ぼうピンポンパン」なんかに出演していたらしい。(後に酒井ゆきえ&筒美京平作品が目的で買ったピンポンパンのLPに参加していた)

「豊川誕」
当時はまだ女性の間に「継母物」と呼ばれる不幸の身の上の主人公が健気に生きる話と言うのが支持されていて、そんなバックボーンの孤児(みなしご)と言う果てしなくディープな部分を売りにデビューした「豊川誕」などもいた。

「リトルギャング」
現在2人組でお笑いもこなせると言うと「kinki kids」と言うことになるが、実は70年代中期にリトルギャングと言う2人組がいて、それがそんな感じだった。
で、ひとりはその後「アンク」を経由して「THE GOOD BYE」で野村義男と一緒にバンドを組んだりしたのだ。

で、ジャニーズは70年代中期に中心的存在になっていた郷ひろみの突然の移籍により、いきなりパワーダウンしてしまうのだ。

1999年6月28日(月曜日)ジャニーズアイラブユー3
「川崎麻世」
最近ではすっかり『見栄えの良い林家ペー&パー子』として定着してしまった川崎麻世(&カイヤ)だが、ジャニーズにとって郷ひろみが抜けた穴を埋める為の一押しアイドルだったのだ。
でもって、当時アイドル番組と言えばNHKの「レッツーゴヤング」か、テレビ東京(当時は東京12チャンネル)の「ヤンヤン歌うスタジオ」だったが、それのどっちでも大活躍していた。
レッツゴーヤングのレギュラーアイドルが「サンデーズ」と言うグループを結成して、1年ほど在籍すると卒業して新陳代謝をしていた。が、川崎麻世はこのグループに3年ぐらい在籍していた。最後はジャニーズの後輩・田原俊彦と一緒の在籍になって卒業していった。
その後は細々と活動を続け、日米合作ミュージカル「スターライトエクスプレス」で新幹線役で登場。このミュージカルのイメージソングは光GENJIの「スターライト」。でこのミュージカルでカイヤと知り合い、奈落の底へ・・・

「メッツ」
かなりイメージ的にはSMAPに近いグループで、今改めて写真を見てみると中居のそっくりさんと草薙のそっくりさんがいたりする。
が、見事なくらいに空振りをしてしまったグループ。

「アンク」
ジャーニーズ初のバンド物。
と言うのもこの当時「ずうとるび」とか「レイジー」とかがヒットしていたので、それに便乗しようとデビューさせたのだが、これが見事に・・・
このバンドでドラムを叩いていた人が後にフュージョンバンドの「スクェア」に参加したって事を知る人は少ない。

あと、この70年代末期にはジャニーズ事務所唯一の女性タレントもデビューしたらしい。

で、70年代末期のジャニーズ事務所暗黒期から「たのきんトリオ」が80年代黄金期への展開をするのだ。

実は80年代後半から90年代に掛けて、第二期ジャニーズ暗黒時代があった。
光GENJIが低迷し、デビューした「忍者」も「SMAP」も「TOKIO」も最初は本当にパッとしないグループだった。

1999年6月29日(火曜日)今日の誤植:『掴んだ』
編集と言う仕事をしている。
と言っても基本的に下請け的な仕事なのだ。あんましクリエイティブではない、果てしなく地味で自分の個性なんかだしちゃいけない作業なのだ。
それの反動で、こんなHPでワシワシ個人的な気分を爆発させているのかも知れない。と言うわけで、仕事中も仕事を離れても私は必殺編集人と言うことになってしまうのだ。あぁ地味な人生。

編集には「誤植」と言う物が付き物で、それは基本的に編集人としてはやっちゃいけないことで、やったら信用問題になってしまう事だったりする。
だから宝島社の「VOW」シリーズなんかは「人の不幸を笑うんじゃねぇ!」と言うネタが勢揃いだったりする。しかし編集人としては一度でいいから、あれに乗るぐらいにファンキーな誤植をやってみたいと思ったりもする。問題発言か。

「VOW」に乗ってはいないが、有名で優秀な誤植に「サルトル事件」と言う物がある。
編集はチェック機関が別にあって、ワシワシと編集した物を「校正」と言う機関が「これ誤植ね」と赤鉛筆で印を付けたりするのだ。これでも洩れてしまって出版されてしまう事もあるから大変なのだが。
でもって校正記号と言う物が存在していて、たとえば「ひわもす」と間違って書かれていた場合、赤鉛筆で「わ」に線を引いて「ね」と書き直されたりする。
あるいは「ひねみもす」と書かれている場合は「み」に赤い線が引かれて「トル」と赤い字が書かれたりする。つまり「み」を取ると言う事なのだ。
で、有名な事件なのだが、それは哲学書で「サルソス」などとかの著名な哲学者の名前を間違って入力されていた物があって、それに校正係が「ソス」に線を引いて「トル」と書き加えたのだ。当然これは「ソス」を「トル」に入力し直すと言う意味だった。
しかし校正記号で「トル」というのは当然ながら「取る」と言う意味だった為に、編集の人が何も考えず「ソス」を消したままにして、全ての文章を完成してしまった。
おかげで出版された哲学書の中では偉そうな事を言う「サル」が大量発生したという。
似た話で「トルストイ事件」と言うのもあるので、作り話かも知れないが、そんな事件がかつてあったらしい。

私がやった仕事ではないが、某出版社の文庫本で一通り編集をした物の数カ所にフリガナ(ルビ)を付けるという仕事があった。
それの指示書にはフリガナをつけるべき個所に赤鉛筆で線が引いてあって、そこにパシパシッとフリガナを付けていくと言う物だった。で、某氏がその作業をやり、出版社に送り、さらに赤字が入って戻ってきた。
その問題の箇所は主人公の諜報部員が仲間と情報を交換するシーンで、二人っきりで隠れて情報交換するより、かえって猥雑な場所の方が怪しまれない、と言うことでストリップ小屋で会話をする二人が描かれていた。
情熱的な音楽が流れ、二人のすぐ側ではスッポンポンの踊り子さんが乳房もあらわに踊っている。と言うシーン。
フリガナをつけるのは「まだ何も掴んでいない」と言う文章の「掴んで」
しかし某氏は前後の文章の関係か、そこに「もんで」とフリガナを付けてしまったのだ。
おいおい、いくら情報交換をしている様に見られない為の芝居だとしても、揉みながらの情報交換はよくないだろ。仕事中だぞぉ。

印刷前に発見されたので「VOW」行きを逃れました。もし発見されたのが出版された後だったら、僕が「VOW」にチクってやろうかと思ったのになぁ。

1999年6月30日(水曜日)今年も半分終わりました
 気が付いたら今年も6月が終わろうとしている。
 なんか正月から半年も過ぎてしまった。
 日々慌ただしいと言うか、なんかHP関連の事しかやってねぇぞと言う寂しい日々に呆然としちゃうとか、なんかこれでいいのか?どんっどんっ!!と意味無く机を叩いてしまったりするのであります。
 日々是精進なのだ、と言うのが最近のテーマだったりしますが、本当に精進する場面ばっかりで、それ以外の生活がなおざりだったり、おざなりだったりする。
 あぁこれでいいのか?

 高校生の頃の半年なんていったらイベント山盛り状態だった様な気がするが、社会人になってからの半年は・・・・・寂しいから思い出したくないや、てな感じになっちまうのが現実だったりする。
 確かに、日記を振り返ってみると各種イベントがあった様な気もするが、人生をどどーんと変えてしまうような心躍るような衝撃には出会えていなかったりするワケですよ。
 結局、流されているだけの日々。

 とりあえず、残りの半年は『1900年代最後の半年』と言う、考えてみれば凄い時代だったりするので、自分の歴史に残るような凄い半年にするのだ!

 などと、今年の最初にも思った様な気がする。


▼ベストセラー:本当は怖いグリム童話