< 杉村ぐうたら日記(1999年12月1日〜10日)

▲1999年12月1日:水曜日:流行語大賞
▲1999年12月2日:木曜日:紅白出場者決定
▲1999年12月3日:金曜日:意外な盲点:ヒカルの碁
▲1999年12月4日:土曜日:ボクシング漫画:太郎
▲1999年12月5日:日曜日:複数の説
▲1999年12月6日:月曜日:選民意識
▲1999年12月7日:火曜日:疑問解決系メルマガ
▲1999年12月8日:水曜日:未登録単語
▲1999年12月9日:木曜日:もしかしたらマックって凄い?
▲1999年12月10日:金曜日:雑誌に載る
1999年12月1日(水曜日)流行語大賞
この時期になると毎年恒例で『流行語大賞』なんてものが選出される。
で、これがいつも的外れな流行語を選出したりしていて、なかなか年の瀬に毎年苦笑させてもらったりするのだ。
で毎回、10個ぐらいの流行語を選出し、その中から3つ程を「大賞」としてさらに選び出す。
今年の選出されたものには「カリスマ」やら「癒し」やら「iモード」やら「学校崩壊」やら「ミッチー・サッチー」やらワイドショーなどでおなじみの単語が並んでいたのだが、それらを退けて見事に今年の流行語大賞に選ばれた3つの言葉は
『ブッチフォン』『雑草魂』『リベンジ』
それをニュースで知った時に、私は思わず絶句してしまいましたね。

なんせ、この3つの言葉、1度も口に出した事無いし、こんんだけ文字の多い「ぐうたら日記」やメールマガジンなんかでも書いた事無いし、特に『ブッチフォン』って初めて聞いた。
どうやら周囲の人の反応もほぼ同じで「ブッチフォンって何?」「どういう意味?」という状態だった。
私はてっきり『イヤなヤツから掛かってきた電話をブッチ(ブチ切るという意味)して無視する事』だと思った。数年前から、そんなにヒットはしなかったが「ブッチ」って言葉はあったりするんで。
ところが本当の意味は、首相のオブチくんが気軽にホイホイとあっちこっちの国の人に電話をする事を言うらしい。いったいどこで流行っていたのだ?
それ以外の『雑草魂』『リベンジ』も、かすかにスポーツニュースあたりで聞いたことがあるような気がするが、その程度だったりして実際に使用した事も、使用された事も無い。
言われてみて「あ〜そういえば、そんな言葉もあったね」という程度だったのだ。

それって「流行語」なの?
1999年12月3日(金曜日)意外な盲点:ヒカルの碁
 現在「週刊少年ジャンプ」で連載されている「ヒカルの碁」と言う漫画が人気を得ているらしい。
 実は自分は雑誌ってヤツは読まないで、単行本で読んでいるんだけど、最初この単行本を本屋で見つけた時に「うわぁ囲碁がテーマの漫画って・・・・」と思って、きっとマニアな人気はあるかもしれないが、あんまし受け入れられずに終わってしまうんだろうなぁと思っていた。
 なんせ囲碁ですよ。

 実は私は、中学の時、学校にあった「囲碁部」なんてものに入部してそこで囲碁を初めて、3年の時には部長なんて物になっていたような人だったりする。
 えっへん凄いだろ!と言いつつ、その当時、囲碁の出来る親戚のおじさんと対局をしてコテンパンにのめされて「定石をまず覚えなくちゃだめだ」などと言われた程度だから、単純に周囲のレベルが極度に低かったって事なんだけど。
 で、そこで物語ならば「定石をまず覚えなくちゃだめだ」とコテンパンにされた所で一大奮起して、ガシガシと囲碁の道にのめり込んでしまうのだろうが、「しょせん遊びだからね」と精進せず、さらに高校生になった時に周囲には囲碁の出来るひとが誰もいなかったので、それっきりになってしまった。
※以前(10年以上前か)コンピュータ囲碁をやった事があったけど、まだ当時の囲碁ソフトは思考ルーチンの関係で異常に待ち時間が長かった為に、いらいらするだけで面白くないと途中で投げ出してしまった。今ならそこそこ速いのかな?

 そんなマイナーなテーマ囲碁で、しかも少年誌で連載って、部数1位をマガジンに奪われたジャンプはヤケになっているのか? と思ってしまった。
 将棋だったら、今度ドラマ化される『月下の棋士』を初めとしていくつも漫画があるし、今から20年以上前にも霊能力者になる以前のつのだじろう氏が少年誌で書いていた将棋漫画だってあった。
 しかし囲碁ってのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 だから「頑張ってほしいけれどなぁ」とは思っていた。
 個人的には単行本4巻分を読む限りでは面白いと思っているが、普通の囲碁を知らない人にはどうだろうという不安はあった。

 が、先日読んだ某雑誌では「人気絶大、今年のコミケットでは多くの『ヒカルの碁』パロディ本が出ていた」そうで・・・・・意外な展開だった。
 という事で、いわゆる伝統的だけどマイナーなテーマの漫画でも、ストーリーとキャラクター次第でヒットするという事が判明したのだ。

 そんなワケで1つのテーマがヒットしたら絶対その亜流が生み出されるというのはお約束なので、次は『軍人将棋』とか『チェス』とか『オセロ』とか『ダイヤモンドゲーム』とか『モノポリー』とか『ドミノ』とか、色々な物が出てくると見た!

 少年漫画で『麻雀』ってのもあったりするので、『花札』ってのはどうでしょうか?
 すでにあるか?

▼ニュース:1999/12/3

▼ニュース:1999/12/3
1999年12月4日(土曜日)ボクシング漫画:太郎
 細野不二彦の書くボクシング漫画『太郎』が完結した。
 ストーリーは、都銀に勤める太郎は仕事が終わった後でボクシングジムに通いプロライセンスを手にする。そして最終的には世界ランキングを目指す。
 と思いっきり要約すると、そういう話になるのだが、ここでの特徴は主人公はボクシングをしながら昼間は都銀に勤めてお客様あいてに窓口業務をしたり、集金したりしているのだ。
 これまでのボクシング漫画って言うと、学生物は別として多くが貧困だったりバイト生活だったり、いわゆる生活の中心をボクシングにして仕事・バイト的な部分は二の次になっていた。
 が、この主人公太郎の場合、完璧に生活の中心は都銀での仕事だし、その仕事が立て込んでくると試合直前だというのに練習も出来なかったりする。
 実家もちゃんとした家庭で、父親は海外赴任もあったりする商社勤務だったりする。
 さらにストイックな話が多いボクシング漫画の中で、ちゃんと彼女が出来てするべきことはしていたりする。
 なんか「等身大」と言えば、そのまんまな感じの主人公なのだ。

 ま、現実のボクシングだといまだに「学生時代は手の着けられない不良で、自暴自棄になっていたのを…」などと言う話がいかにもな感じで語られていたりする世界なんだけど、この太郎はなんか現実社会を飛び越えている(って漫画だから飛び越えているんだけどさ)
 ま、その中にはボクシングを始めたきっかけになった憧れの先輩の死や、父親の海外赴任先で出会った貧困家庭の少年との因縁の対決などの挿話があったりするんだけど、なんか気負っていない。

 ま、後半は都銀を辞めたり(連載当初と経済の情勢も変わったため、最初は構想に入っていなかったと思うが、都銀を辞めた後にその都銀が吸収合併して消滅すると言う話もあった)世界ランキングに挑戦するためにヘビーな描写が増えていき、ボクシング漫画にありがちで現実のボクシングにもありがちな、肉体的な故障を押して試合に臨んだ為にボクシング生命を終わらせると言うパターンで最終回を迎えた。
 結局の所、多くのボクシング漫画の最終回はこうなることでしか決着を付けられなかったりする。
 が、決定的に違っているのは、最終回ラストの数ページ。
 (もし未読の方で、これから読もうと思っている方はネタばらしになるので、読まないほうがいいかも知れないっす)
 都銀時代の同僚で、その後マネージャーとして支えてくれた女性と小さな花屋を開き、笑顔で仕事をしている太郎の顔で終わる。
 物語の途中で、試合の事を考えすぎて精神がハイになっているとき、ふとベランダで花を作り始め、それが癒しになるというエピソードが最終的に伏線になっていたのだが、なんか最初から「あっさり」としていた漫画らしい結末になって、良い意味でハズされた。
 果たしてこれがベストの最終回かどうかは難しいけれど、新しい終わり方かもしれないなと思ったっす。

 やっぱし、最近の漫画はどれも長い物が多いけれど、連載中は大人気だけど連載が終わった瞬間に「過去の作品」になるものが少なくない。
 それはとにかく、最終回の切れ味にかかっていると思うのだ。
 そういう意味で、もう10年以上も続いている(現在50巻)マガジンの「はじめの一歩」と言うボクシング漫画が名作になるかどうかは、最終回にかかっていると思うのだ。


▼視聴:バグズライフ
1999年12月5日(日曜日)複数の説
 メールマガジン知泉の11月30日発行の(No.075)で【エチケット】という項目を書きましたが、実は語源に複数の説があってそれも書こうと思い別テキストにメモしてあったのですが、すっかり忘れてそのまま配送してしまいました。
 という事で、改訂版としてお送りいたします。
【エチケット】 えちけっと
意味:礼儀作法のこと「etiquette」
語源:1)元々フランス語でもまったく同じスペルの「 etiquette」が変化せ
     ずに英語になった物です。
     しかし元々エチケットとはフランス語で「札・荷札」と言う意味が
     ありましたが、それがパリの宮廷で、王侯貴族の位階や順位を表し
     た札の事もエチケットと言うようになったのです。
     そこから上位の札を付けている人に対して礼儀を気を付けなければ
     いけないと言う事から、札と言う意味が礼儀になったのです。
   2)別の説では、語源は同じくフランスですがここでは《立て札》が語
     源とされています。
     ルイ14世の時代、ベルサイユ宮殿を初めとして多くの家にはトイ
     レがなく、宮廷の人々は庭の草の陰で用を足していた。
     しかし、やたらな所でされても困るので庭師がトイレの場所を示す
     立て札を立てた。
     この事から指示通りに正しく振る舞い、他の人の事も考える事をエ
     チケットと呼ぶようになったと言う物です。
知識:英語で切符・入場券などを意味する《チケット》と言う言葉も同じエチ
   ケットが語源なのですが、この正しい意味の場合には何故か聞き間違っ
   て《チケット》と変化してしまったのです。
   それがフランスに逆輸入されて、現在フランスでも切符などの事は《チ
   ケット》です。
 このような雑学系の文章では、語源などに複数の説があり、まだ確定していない場合に「これこれはこれっ!」と、断言したような書き方をしてしまうのは、知識的に偏見を生み出す原因になると思いますので、複数の説がある場合はなるべくそれらを同時掲載したいと考えています。
 佐野史郎が出ている不可思議な現象を調査するという番組なんかはその極端な例で、古代アステカ文明とか、多くの学者たちが未だに答えを出せずにいる問題の、1つの分かり易い(絵にしやすい)説を取り上げ、あたかも番組がついに真相を究明したかのような内容にしてしまうのは問題あるよなぁと思ったりするのですよ。
 でもって番組のラストのラストに音楽にかぶるように(このような説もあるが、また真相は究明されていないのだ)と一言いうんだけど、それって多くの人が聞き逃しそうなタイミングで入ったりしている。

 でもって、う〜むと思ってしまうのが、このメールマガジンだと発行部数が3500って感じなんだけど、TVは比べようがないメディアだってのが怖いと思ってしまうのだ。
 たった1%の視聴率でも単純計算で100万人が見ていると言うことになってしまうのだ。実際にはそれの10分の1、20分の1だと思うけど、それでも10万人とかだからなぁ・・・・
 特に大きなメディアになればなるほど、そこでかかれた説は真実として受け止められるから怖いっす。

 ま、TVの場合、討論形式の番組でもディレクターなりの結論が最初にあって組み立てられていたりするので、説が偏るのはしかたがないと思うんだけどね。
 以前、TV東京系のクイズ番組で「油を売るというのはどのような事から生まれた言葉でしょう」というのがあったんですが、実はこの言葉も説が何種類かあって
★油売りの人がマスを使って測り売りをする際に、油をきっちりマスから汲み出すのには、時間がかかる為にその時間、客と世間話などをして時間をつぶした。
★髪の毛の油を路上販売していた人が通行人の主婦などを捕まえて面白おかしい話を延々として引き留めていた。
 などがあるのですが、その時の街頭で答えた人はきれいに「髪の毛の油の路上販売」か、トンチンカンな事を言って不正解になるかに分かれたワケです。
 自分的には子供の頃から「油の測り売り」説ぐらいしか知らずに、ついこの数年前ぐらいに「髪の毛の油の路上販売」説を聞いたので、う〜むと思ってしまったのです。
 つまり、自分の知っている説では不正解になってしまうのだ。しかもTV的にも面白くない不正解。

 以前から「恐竜が絶滅したのは氷河期・隕石」という説が根強く言われているけれど、これって基本的に昔の子供向け出版社が「説として衝撃的だし、絵にしやすい」という理由で頻繁に学習雑誌なんかで書いた物だったりする。
 学術的な話ではこの「恐竜が絶滅したのは氷河期・隕石」説は「そう言う説もある」程度のものなんだけど、一般的にはこれが確定的な物になっていたりする。
 なかなか、雑学的なものを書くと言うことは、いろいろな方向に好奇心をのばして安易な気持ちでやっちゃいけないって感じかもしれないっす。

▼視聴:進ぬ電波少年
1999年12月6日(月曜日)選民意識
 TVで「なぜフリーターを続けているのか?」と言うのをやっていた。
 ま、フリーターと言っても悪いことをやっているワケじゃないので、他人様が避難するべき問題ではないと思っていたりする。
 それも現代における選択肢なのだ。

 しかし、ある意味で私には出来ないなぁとか思ったりする。
 あまりにも生活が漠然としちゃうような気がするのだ。やっぱし現在こうやってインターネット経由で文章を書いているってのも、生活という基盤がちゃんと存在しているからで、その中からどんだけはみ出していけるか? ってのが私のクリエイトの方法なのだ。

 と思いつつ、その番組を見ているとなんか凄く「やりたいことがあるから」みたいな事を言うひとが何人も出てきた。
 そうかそうか、頑張りたまえよなどと思ったりする。

 しかしそれを見ていると徐々に変な感じに襲われるようになってきたのだ。その中には30代の半ばを過ぎてフリーター生活を続けている人(いわゆるダメ連っつーヤツら)も何人か出てきていたのだが、その連中の言っている事を聞いていて「あぁぁぁぁ」と思ってしまったのは、彼らは凄く変な選民意識を持っていると言うことだった。
 つまり、ちゃんと確信した上で自分と、会社勤めをしている人々を差別化して、その会社勤めをしている人々を「社会の歯車」とかの、昔から使い古された言葉でバカにしているのだ。
 まぁね、確かに言い方によっては「社会の歯車」ですよ。それが悪いとは思わないから、平気なんだけど。
 さらに「働くことの方がおかしい」「今の社会では働かずにも生きていけるようになっているのだから、あくせく働いているヤツらは可愛そうだ」とかまで言い始める。
 なんだか、変な理論。あんたが電気使っているのだって働く人が存在するから出来ているんだから、その辺を馬鹿にするって考えは絶対的におかしいっす。

 たぶん30代半ばでその手の青臭い事を言っているってのは、第1期長淵剛世代なのかな? あるいはギリギリ尾崎豊か?
 いわゆる、思春期の人々をアジテーションするだけ煽りまくるタイプの音楽なんかで語られる、凄く底の浅い社会批判をそのまま持ち続けているだけの人って感じ。
 なんでかんで言っていたって、現代の消費社会の中で生活をしている限り、どんな人だって社会の歯車なんだけどね。

 いわゆる、自分の主張だけで他人の相対する意見をまったく受け容れる事が出来ず「自分と違うもの=敵」と言う、二元論でしか語れないお子様がそのまま大人になってしまった状態の典型ですな。
 それだって、生活できるんだから何んだかんだ言っても、よい時代なんだと思うっす。

 別にフリーターが悪いってんじゃなく、社会との関わりを最初から拒絶したまま目や耳をふさいだまま歩いていると、どうしようもない人間になっちゃうよって感じがするっす。

▼ニュース:1999/12/6
1999年12月7日(火曜日)疑問解決系メルマガ
 ふと気がつくと、あっちこっちの雑学系メールマガジンが揃いも揃って『この疑問を教えて下さい』という読者投稿物になりつつある。
 以前はそうだったっけ?と思うのだが、なんか雑学系メールマガジンの中ではその手の物がブームらしい。
 ま、自分の所の「知泉」がそれに先鞭をつけたとまでは言わないけれど、結構その手の展開をさせたのは早かったのかもしれない(などと言いつつ、知泉の歴史なんてまだ3ヶ月ちょいしか無いんだけどさ)。
 もとはと言えば、あいもさんの運営している「疑問温泉」って言うメールマガジン&HPが先にやっていたワケで(それ以外にもいくつか同様の事をやっている所があった)知泉の場合はあくまでも後発だったりするワケで、先進のメールマガジンを尊重したいと思ったりするっす。

 しかし、基本的に雑学が好きなもんで複数のマガジンを講読してますが(購読じゃなくて、タダだから講読っす)、どうやらAというマガジンで話題になった物を、Bというマガジンで再び質問して盛り上げようとする雑学マガジン漂流者がいるみたいな気配。
 たとえば「知泉」で一時期盛り上がった「きつね&たぬき」というソバやウドンに関する疑問が一段落したかなって時に、別のマガジンに「関西と関東ではきつね・たぬきの捉え方が違うんですが・・・」と疑問を投稿した人がいた。
 ま、偶然と言うこともあると思うが、なんせその投稿した人のペンネームが「知泉」にも投稿していた人と同じ名前だったもんで、思わずう〜むとうなってしまったワケです。

 それ以外にも「鴨南蛮の語源」というもので盛り上がって結論が出た。と思った数日後、別の雑学系マガジンに雑学の投稿として載っていた。
 しかも、同じ内容の物が2人から寄せられたらしい。
 ま、それが雑学と言う物なのだからしょーがないし、語源とかそう言うものは別に誰がオリジナルってワケでもないので、流用あたりまえの世界だったりするのだ。

 その中でいかに個性を出していくかってのが大問題なんですけどね。
1999年12月8日(水曜日)未登録単語
 仕事でいろいろな文章に接する。
 基本的には外部で入力してきた文章なんかを編集するって仕事が多いんだけど、ときどき文章を入力する物もある。
 でもって、気が付くのは「一般的に身障者を差す差別的用語が漢字登録されていない」ということなのだ。
 別に仕事で差別を助長するようなものをやっているワケではなく、昔ながらの文章を入力するときに出てこないって事に気が付いてしまったのだ。
 《盲目:もうもく》は有りだけど、そのまんま《盲:めくら》では漢字変換してくれない。
 あと《おし》《どもり》などは変換されない。
 凄く困ってしまうのだ。仕事だから入力しなきゃいけないので、一生懸命ワープロ辞書を見て一文字一文字探して入力していくという作業が大変だったりする。
 《不具:ふぐ》なんて言葉も登録されていない。

 ま、基本的に差別用語と言われる物は使わないに越したことがないと思うのだが、この差別用語というくくり方が実は難しい問題を含んでいたりします。
 果たして、どこからどこまでが差別用語? というのがあります。
 前述の《めくら》などと言うのは差別用語ではなく、そういう状況の人がいたからそういう言葉が誕生したとしか言いようが無かったりしますが、ある時を境に「それは目の見えない人に悪いじゃないか」という事になって《盲目》などの言葉に差し替えられた。
 おかげで1970年代中期までの映画やTVなんかでは、いきなり音声がブチブチ切れるという事件が発生するようになった。
 しかし、目が見えない人のことを《盲目》と言うようになってしばらくたつと、他人と差別化されているようで《盲目》って言葉はふさわしくないという意見が出てきて今度は別の用語に差し替えられる、しかしその言葉が定着してしまうと今度はその言葉が・・・・
 と、いつまで経っても根本的な部分が変化しないまま新しい言葉を生み出し続けなくてはいけなくなる。

 実際に《障害者》という言い方が現在使われにくくなっているらしい。
 ま、それに対応する言葉が《健常者》ってのも考えようによっては、むむむって感じなんだけれど、それはしょうがないって気もする。
 新しく使われそうな《肢体不自由者》って言い方の方がなんか酷いって気もする。ただ単に言葉への慣れなんだと思う。

 差別化って言葉も別に悪い意味ではないと思うんだけどなぁ、だってそんな事言い出したら《男》《女》って言葉でさえ悪くなってしまうような気がする。
 そんな事を言い続けると、カルピスのマークに黒人を使っているのはいけない。文房具のキャラクターに黒人の子供の絵を使っているのは差別だ。アフリカの子供を主人公にした「ちび黒サンボ」は出版してはいけない。
 という、「って事は、黒人は表に出てくるなって事なの?」という、まるで差別させない為に表に出すなと言っているような状態になってしまうと思うのだ。(上記の黒人差別に関しては、個人的な意見としては全部間違っていると思う)
 要するに、言葉での言い回しではなく心の持ち方だと思うのだ。


▼ニュース:1999/12/8
1999年12月9日(木曜日)もしかしたらマックって凄い?
 雑誌「HOT-DOG PRESS」で読者の生活白書みたいな特集があって、それをぱらぱら読んでいたら中に電気機器に関するページもあって、その中でコンピュータの個人所有台数みたいのがあって、まだ50%には届いていないけど、あとちょっとで50%って感じだった。
 基本的に読者ってのは高校生から大学生ぐらいがメインだと思うけれど、なるほどなるほどって感じ。
 それ以外に、たぶん学校でとかがあるので、コンピューター人口はすでに若い世代では過半数を超えているって事になっているのかもしれない。
 つまり「コンピューター? んなもの無くても平気だよ」などと言っているおっさん達は完璧に少数派になる時代がすでに来ていると言うことなのだ。

 でもって、その雑誌の中で「OSは?」という所で『MAC:41%』『WINDOWS:59%』と書かれてあった。
 ま、とりあえず未だにウィンドウズ優勢なのには変わりがないが、考えてみると実はMACの一人勝ちって気もするのだ。
 なんせ「ウィンドウズ」ってのは商品名ではなく、ただのOSの種類なのだ。
 いろーんなメーカーが競ってワッサワッサいろーんな機種を発売している状態で59%だったりする。
 それに対してMACってのは、確かにOSの種類ではあるんだけど、アップル社の独自のOSで現時点ではアップル社が発売している機種にしか搭載されていない(以前、どっかが出したような気がしますが、今はアップル社だけっすよね)という、思いっきり1社だけのOSだったりするのだ。
 それを対等に比べるって時点で変な話で、それでもって対等に勝負できてしまうMACってのは凄い事になっていると言うワケなのだ。

 私も買ってしまった「iMAC」の戦略が大成功って感じっすかね?
1999年12月10日(金曜日)雑誌に載る
 今、私は「知泉」を週に6、「ひねもす本舗」を週に1発行している。
 つまり毎日発行と言うことになっているのだ。
 それプラスこうして「ぐうたら日記」を書いていたりするので、なんかバカだねぇって思うほど文章を書いている。

 基本的に文章を書くのが好き・・・というか、自分の考えた事を表現するのがすきって事だったりする。
 だから、これまでも色々な方法で自分の考えを出して、色々なフォーマット上で物を作ってきた。
 学生時代は絵をメインして、少しの期間だったが漫画家のアシスタントまでしたことがある(学生時代のバイトで)。
 その後は、音楽をわっせわっせとやって作詞作曲なんかに力を入れて、かつて一発屋の登竜門と言われた「ポプコン」なんてのにも出場した事がある。
 でもって、今はこうやって文章をメインにしてわっせわっせとやっている。

 表現したいってのがいつも基本で、その先にある「プロになりたい」とか「これで金を儲けたい」ってのは、あんまし考えなかったりする。あくまでもより多くの人に楽しんで貰いたいって感じがあったりする。
 より多くの人にってのを追求していくと、結局は「プロ」ってのが一番その希望に添えたりするんだけどね。
 でも、物を作ると言う作業と、プロになるために売り込むと言う作業はかなり違うベクトルが存在していて、なかなか難しかったりする。
 たぶん、プロと呼ばれない人にも多くの「物を作りたい」と考えている優秀な人が存在していると思うのだ。ただ、作ると言う作業に没頭するあまり、それを発表すると言う事まで頭が回らない人が。
 余談だけど、昔「プロが、プロが」とばっかり言っていた、物を作り上げるって事より功名心ばかり先に言っていた人たちは、現時点ではもう何もやっていなかったりする。
 基本的に「物を作る」と言う楽しさを味わっていたワケじゃなかったのを痛感している。

 私の場合、基本的に実生活でも「俺が俺が」と根拠のない自信をひっさげて常に前に出ようとする人が苦手だったりするし、自分には出来ないと思っている。
 だから「この作品面白いっす」と売り込んだりするのが凄い苦手、なんか自画自賛って感じで、自分の美意識の中でカッコ悪いって感じがしちゃうのだ。
 おかげで、メールマガジン同士で「相互広告」と言う事を時々やっているのだけど、その相手側に掲載してもらう広告を自分で書くときに「面白いマガジンです」とか「大爆笑!」みたいな物が書けずに、実に地味な文章を書いてしまったりする。

 そんな中、今年の夏はメールマガジン特集を雑誌でやりますので、掲載してもいいでしょうかと『日経ネットナビ』の方から連絡を貰った事もあったりして「もしかして雑誌関係者も注目しているの?」とか、ちょっぴり自意識過剰な感想をもったりしちゃいました。
 ま、それでも基本は毎週毎週地味な状態で「ひねもす本舗」のネタを考え、身を削っていると言う日々なんですけどね。

 と言うところで、なんと先日「ひねもす本舗27」を発行した翌日、意表をついたメールが届けられたのです。
 そのメールの送り主は、ぶんか社の雑誌『ペントハウス』を編集している方からで、内容は「ひねもす本舗で新しく始まった『最新略語辞典』を毎月、掲載させて欲しい」と言うものだったのです。
 うひーって感じ。
 特別なコーナーと言うわけではなく、雑誌の両脇にある本文じゃない部分に5ページに渡ってネタを掲載したいと言う事だったのです。
 いわゆる雑誌「ぴあ」なんかの「はみ出しぴあ」部分(←今もあるのかは不明ですが)

 なんか凄いっす、毎号「ひねもす本舗」のアドレスも掲載されると言うので、即了解!
 なんか、2000年に向けて新しいスタートが見えて来たっす。人生はこれからだ!


▼ニュース:1999/12/10