ひねもす雑記
2001年4月01日〜10日


▲2001年4月1日:日曜日:王室牛乳茶:77%の秘密
▲2001年4月2日:月曜日:自画自賛
▲2001年4月3日:火曜日:グラッと来た
▲2001年4月4日:水曜日:1日600アクセス?
▲2001年4月5日:木曜日:中学生から熟年まで
▲2001年4月6日:金曜日:アナーァキーな日
▲2001年4月7日:土曜日:下品なオヤジ
▲2001年4月8日:日曜日:近頃の若いヤツは
▲2001年4月9日:月曜日:インフォリチウム電池
▲2001年4月10日:火曜日:音楽三昧四半世紀
2001年4月1日(日曜日) 王室牛乳茶:77%の秘密
季節は4月で春だというのに、3月末に東京では雪が降ったり(静岡東部ではみぞれ)激しく寒くなってしまった。
まったくもぉてな感じで、温かくやや甘系の飲料が欲しくなり、普段はあまり飲まない《紅茶花伝:ロイヤルミルクティ》と言うものを自動販売機で購入した。
普段は基本的にブラックコーヒー&日本茶&ウーロン茶専門だったりするので、この手の「ほのかに甘い」とか「上品な甘さ」とか書かれている物でも、激しく甘く感じてしまうのだ。
先日も同様の考えで「ビターコーヒー」と言う物を飲んだのだが、一口含んだ瞬間に「うげ、甘…」と思ってしまった。
なんせ普段は砂糖分0なわけで、たとえそれが砂糖分1だとしても計算上では「×無限大(∞)」となってしまうのだ。つまり計算できないほどの劇的な変化だったりする。

しかし、コーヒーと違って頭の中で「ロイヤルミルクティ」と言うヤツはこんな味と言う認識があるので、別に問題はない。この辺になると「紅茶」とは全然違う物なので大丈夫。
(砂糖入りの缶紅茶と言うものも激しくキツイ飲み物だったりする)

で、それを飲んでいる最中に解せない物を見てしまった。
その《紅茶花伝:ロイヤルミルクティ》の缶表面には堂々と『ウバ茶100%使用・牛乳23%』と書いてあった。
とりあえずウバ茶ってのは「ロイヤルミルクティに最適な紅茶葉」らしいが、そんな事はどーでもよくて、問題は《牛乳23%》と言うことだったりする。
原材料を見ると《牛乳・砂糖・紅茶・乳化剤・香料・クエン酸Na》と書いてあって、牛乳に替わる様な物は含まれていない様な気がする。
ってぇ事は、残りの77%は単純に紅茶&水(つまり普通に抽出された紅茶)と言うことになるんでしょうか?
と言うところで、果たしてそれが《ロイヤルミルクティ》と呼べる物なのか?
それはただ単に紅茶にちょっと多めのミルクを注いだ《ミルクティ》なのではないか?
そもそも《ロイヤルミルクティ》の定義とはなんぞや?
と言う大量の疑問に突き当たってしまったのだ。

ずっと私は《ロイヤルミルクティ》ってヤツは、紅茶を100%牛乳で抽出したものだと思っていたんですが、どうなんでしょうか?
もうちっと調べてみようかと思ったりするのであった。
[続くかもしれない]


▼2001.4.1:HP更新記録
2001年4月2日(月曜日) 自画自賛
ふと一年ほど前に発行したメルマガ「知泉」のバックナンバーを読み返してみた。
この時期はほぼ毎日発行していて、今から考えると「若いってのはいいのう、ワシャもうそんな体力も気力もあらへんよ」と言う感じだったりする。
実際、それを読み返してみると毎号、本編の雑学&豆知泉&読者からの疑問コーナーと盛りだくさんだったりする。
でもって、その読者からの疑問コーナーがこりゃまた、自画自賛になっちゃうけれど「オモシロイ」のだ。ハッキリ言って、この濃さと面白さを今再現せよ!と言われても、とてもじゃないが再現できない、何か勢いづいてしまった時のパワーと言う物が感じられたりする。
しかし、これを発行している時はもう後ろなんか振り返る余裕がまったくなく、日々ワシワシと前向きに前のめりにメルマガを書いては発行、編集しては発行の繰り返しだったような気がするのだ。
本当に今読み返してみて「これを個人で毎日発行するなんて、この編集人はどんな生活をしているのだ?」的な感想を持ってしまう。実際にそんなメールもいくつか貰った。
なんせ学生ならいざ知らず、一般的な会社に勤めているしがないサラリーマンが、帰宅してから寝るまでのわずかな時間にガーッと一気に作り上げるようなタイプのメルマガでは無いような気がする。

ちょっと、今更ながら「杉村やるじゃん」てな感じに再評価しちゃったりするのであった。


▼2001.4.2:HP更新記録
2001年4月3日(火曜日) グラッと来た
夜、11時50分直前の事だった。
メルマガの発行準備が終了して、ちょっと調べ物のために全文検索エンジンをカチャカチャやっていた瞬間、いきなりドンッという衝撃を体に感じ、それからしばらく家がゆっさゆっさと不気味に揺れた。
いわゆる地震だったりするのだが、なんだかこれまで経験した地震の中で比較的長い時間揺れていたものだったために、その揺れている瞬間「こりゃ、ついに東海地震が来たか?」などと思ってしまった。
ここ半年の間、伊豆諸島の群発地震&火山活動や、鳥取地震・広島地震など中国地方を中心にした大きな地震があったりして、さらに去年末から「富士山が近々噴火するのでは?」などと言う話が持ち上がっていたりするので、そう考えてもおかしくないのだが、結局、その後大きな地震はなかった。(微かな余震はあったが)

しかし、ここの処、私の住んでいる静岡県東部地域にはこれと言って特筆すべきような地震はなく、それが逆に地震の多い地域・伊豆としては不気味だったりする。
なんせ昔は「地震は刺激の少ない伊豆の娯楽の一つだ」などと、かなり不謹慎な事も言っていた。
とにかく伊豆の人にとっては地震ってのはある種の避けられない非日常的な日常だったりするわけで、子供の頃からイヤになるほど何度も何度も「避難訓練」をやらされていたりする。

自分が子供の頃、確か土曜日の3時間目の授業中にかなり大きな地震があった。それは後に「天城地震」とか呼ばれ、かの伊豆の踊子の舞台になったり、石川さゆりが歌ったりした「天城トンネル」が崩れたりした地震だったのだが、その際も子供たちは「あっ地震だ!」ろ察知した瞬間、机の下にサッと隠れたりしたのだ。いわゆる訓練のたまもの。
しかし、その瞬間、授業をしていた先生だけが「うわっでかいぞこりゃ!」と叫んで廊下に飛び出て行った。もちろん、左右がガラスで挟まれた廊下なんてのは地震が起こった際には激しく危ない場所になってしまうので、それはマニュアル的には「やってはいけない行為」とされているのだが、実はその先生は出身が新潟県だったりするので、この「机の下に緊急避難」と言うのが出来なかったのかも知れない。(それ以前に性格的な問題も大きいとは思うが)
で、地震が収まって教室に入ってきた先生はしきりに「いざって時に逃げ道を確保しなければいけないと思って、廊下の確認に行って来た」などと、苦しくワケの解らない言い訳をしていたりしたのだ。

しかし、いくら慣れていると言っても地震は怖いっす。

▼2001.4.3:裏日記

▼2001.4.3:メルマガ《ひねもす本舗57》より
2001年4月4日(水曜日) 1日600アクセス?
なんだかよく判らないのだが、ここ数日「エルローザブックス」へのアクセス数が1日500〜600人と言うことになっていたりする。
ちゃんとアクセス数をカウントしているワケではないが、ずっと1日150〜200アクセスと言うのが平均だった様な気がするが、本当に突然この1週間ぐらいの間にどーんとアクセス数が増えたような気がする。
なんせ、2日の朝、出かける前にチェックしたのから2日経過した4日の朝では、なんと1200アクセスも増えているのだ。
世間一般の人気サイトと比べたら「屁」みたいな物かも知れないけれど、杉村なんていう個人が勝手に興味のあることを羅列しているダケのサイトに毎日600人も来てくれるってのは、なんか凄い事のような気がする。(バラ園が作っているサイトと勘違いをしている人がほとんどだけど、実は杉村が個人で全部制作していたりします。バラ園のは友人の店の宣伝ってことでついでに)

ま、どーんなに有名になっても、どーんなにアクセスが増えても、杉村は1円の得にもならなかったりしますが、そーゆー状態を一部では「ボランティアでサイトを運営していたり、メルマガを発行しているヤツって何考えてんだ?」などと言いますが、そーゆー人は「物を発表する」と言う部分のアーティスティックな部分が無い人なので、基本的な考え方の相違って事で判って貰えないとは思うけれど、私は嬉しいわけっすよ。
別に、露出趣味があるワケではないし、俺が俺が!と自意識だけが肥大して有名になりたがっている人とは違うし、あくまでも「自分の制作物で他人が喜んでくれる」ってのが嬉しかったりします。

別にアクセスが多いのが偉い!とかってのは無いんですが、単純に嬉しい。


▼2001.4.4:HP更新記録
2001年4月5日(木曜日) 中学生から熟年まで
結構年齢層の幅が広いメルマガ「知泉」だったりしますが、中学生からメールでメルマガの内容についての質問があったりする。
これって凄く嬉しいっす。
やっぱネットって年齢や性別や国籍などなどが関係ないってのがいいのかも知れない。
普段だったら接することのないジャンルの人なんかとも、意見を交わす事が出来たりするってのは、考えると本当に凄いことなんだってば。
それなのに、逆に顔が見えないから悪質な事をしたり、暴言を吐いたり、って人もいたりする。それは激しく寂しい人だよなぁって感じなのだ。
ネットを長い間やってきて時々目にするのは、他人を凹ませた方が勝ち!みたいな価値観を持っている人が結構多くいたりするって事。
ま、いわゆるオタク的な人々に多いのかも知れないけれど、理論武装だったり、俺の方が詳しい事を知っているぞ的だったり、結局自分が優位に立つことに躍起になっている人がいる。
凄く、わかりやすいタイプの人間だなぁと思うけれど、結局それって知らない間に、現代教育のシステムを教育の場以外でも実践しているだけのような気がする。
私は昔っから実生活でも「どっちが上だろうと下だろうと関係ない」ってスタンスで世渡りをしてきたし、学生時代も先輩後輩ってのも全然関係なくいた。(たかが1年2年早く生まれた遅く生まれたって事がそんなに偉いのか?)
だから、ある意味でヨコ一列に並んでいたりするネットの世界は楽だったりする。
でもその中で「俺のメルマガの方が部数が上だ」とか「俺のメルマガの方が儲かっている」とか「俺のサイトはアクセス数が!」とか、なーんだか面倒臭いことが多いっす。


▼2001.4.4:
過去の文章リターンズ
2001年4月6日(金曜日) アナーァキーな日
朝、玄関で靴を履いて(ひもを結ぶタイプの靴なので面倒臭いのだが)家を出た。
で、車に乗り込む直前、右側の靴下がちょっとずり下がっている気がして、軽くクイッと上に引っぱった。
そのときだった。くつしたの右足親指部分が破け、親指が出たのを感じたのだ。
が、それをはき直すために家に戻る時間は無いと言うことで、足に違和感を感じながら車に乗り込んだ。
なんつーか、周囲から見てもキチンと靴を履いているので「靴下に穴のあいた男」とは見られるワケないのだが、自分的には「あぁこんな事をしている時にも靴下には穴があいているんだよな」などと感じていたりするワケで、激しく「今日の俺って最低」と思ってしまったりうするのだ。
別にそれで全人格が否定されるワケではないのだが。

どんなに一生懸命仕事をしている時も靴下には穴があいている。
どんなに旨い昼食を食べている時でも靴下には穴があいている。
どんなにカッコつけている時にだって靴下には穴があいている。
どんなに偉そうな説教をたれていても靴下には穴があいている。
どんなに甘い愛の言葉をささやいても靴下には穴があいている。
どんなに人生について深く考える時も靴下には穴があいている。

なんだか、他人にはいつもの自分とまったく違いが無いとしても、自意識過剰な私には「あぁ今日の俺は最悪だ」と感じてしまい、このすべての下心が靴下の穴からこぼれ落ちてしまう様な錯覚に陥ってしまうのだ。

あぁ今日はダメだ。

2001年4月7日(土曜日) 下品なオヤジ
政治家が嫌われる理由に「品が無い」ってのを本人達は感じているんだろうか?
見た目なんかはどーしょーもないとして、あの本会議などでの品のないヤジ。そして雑談なんかの時の笑い方も果てしなく品がない。
もっとも本人達はほとんどの政治家がそうなので、それが当然と思っているのだろうが、あの笑い方の品のなさは一般的な会社の上司がしていたら、絶対給湯室や更衣室でOL達に「ほんとに○○課長の笑い方って品がないよね」などと言われているモノに違いない。
ま、もっとも最近のOLさん達にも徐々に品のない笑い方をする人が増えているんだけど。
さらに「品がない」って感じてしまうモノに、その笑いの元になったギャグ的な会話なんかもあったりする。
基本的にオヤジと称され嫌われる人々の多くが何故か「駄洒落」を好む。しかもかなり程度の低い、タダ単に似た言葉を言うだけのもの。その程度なのだ。
その手のギャグを聞くたびに心の中で「マッタクモーッ!」と思っていたりする。でも、そんな低次元のギャグでも周囲にいる親父達は大笑いしちゃったりするのだ。例の品のない笑い方で。
本気で面白がっているのか、議員先生がギャグを飛ばしたから笑ったのかは不明だが、どっちにしろ「笑えない箇所」で笑うってのは、あまり趣味の良い物ではないような気がする。
ついでにファッションセンスがないってのも政治家の特徴。
たぶん、庶民には考えられないような値段のスーツを着ているハズなのだが、どれもこれも洋品店の片隅で特売されているような「型落ち商品」みたいに、デザインが古く野暮ったいものが多い。時々、ネクタイでオシャレをしようとしても、根本的なセンスが… と言う感じなのだ。

で、時々オシャレっぽく見える人もいて、その中で小泉純一郎と言う人は、スタイルもなんとか見られる感じだった(髪型は… だけど)。
しかし、TVニュースで総理大臣への出馬表明的なスピーチで「田中真紀子さんから要請されまして、女性から誘われて立(勃)たないというのは男としては…」などと、オヤジの必殺技としては駄洒落と双璧をなしている「エロネタ」と言うモノを言い放ち、オヤジ度数95%の会場全体が「ぐゥわっばっっはははは!」と言う怒号のような下品な笑いに包み込まれた瞬間「こいつもダメだ」と思ってしまったのだ。
森ちゃんが「教育勅語」や「私生児」などの失言で問題にされたのと同じように、小泉ちゃんも「セクハラ」ネタで失言をしないようにね。(とりあえず数年前に離婚して現在は独身だから)


▼2001.4.7:アクセス記録
2001年4月8日(日曜日) 近頃の若いヤツは
自分が20歳前、世間の一般的な大人を見て思っていたのはやはり凄くわかりやすいもので『あんな大人にはなりたくないぜ』と言うものだった。
確かに、あんなにしっかりした大人にはなれずに、現在もこんなくだらない文章を書き散らしている世間一般でいったらどうしようもない大人になってしまいましたとさ。

と言う話ではなく、その20歳前の頃に感じていた事と言うのは「たぶん、先人達の轍は踏まない」と言うことだった。
いわゆる若いうちは大人のことを否定しておきながら、その大人になったときにまったく同じ状態の大人になっていると言うことをしている。と言う事。
自分が10代だった時に、30歳ぐらいになっていた前の世代なんかは、10〜20代の頃には《ビートルズ世代》と称されていて、頑固で保守的な大人たちと敵対して「私たちは新しい時代を作る」などと言っていたくせに、結局… と感じだった。
だからこそ、自分の世代はそんな保守的な物ではなく、ずっとこの気持ちを大切に新しい時代を作り上げるのだ!などと大それたことを考えていた。
その答えはもう十分出ているのかも知れないけれど、ある種の「歴史は繰り返される」と言うことなのかも知れない。今から20年ほど前の自分たちは『新人類』とか『宇宙人みたいで何を考えているのか解らない』などと言われていたが、そんな世代が大人になると平々凡々なおっさんやおばさんになっていたりする。
と、何となく感じている。同世代の人間を見ていて強く感じたりする。

自分は時々、規格外になっちゃったかなぁと言う疎外感を感じたりする事もあるんだけれど、それは良いことなのか悪いことなのか未だに答えが見えていなかったりする。
規格外だからこそ、こうやって日々いろいろな事を考えて、HPを更新して、メルマガを発行して、活動らしきものを続けることが出来ているのかも知れない。

自分でも解っていることの一つに「あの時代を卒業出来ていない」と言うものがある。
かつて尾崎豊がうたっていた『卒業』と言う曲の中に「いったい何を卒業すると言うのだろう」と言う歌詞があったが、単純に学校をと言うものではなくもっと精神的な部分での卒業が出来ないでもがき続けているのかも知れない。
それは諦めることも、次のステップに進むことも出来ないと言う中途半端な状態が生み出した部分なのかも知れないが。

多分、20歳前後の人にはその他大勢的に見えてしまうおやじ達にも、同じような時代があって、多くの苦難や挫折があって、卒業したり出来なかったり、色々な人生を歩んでいるのだって事を解って欲しい。
自分たちがその世代になった時に、自分たちが嫌っていた種類の人間になっていないために。


▼2001.4.8:再びアクセス記録
2001年4月9日(月曜日) インフォリチウム電池
今日、ビデオ用のインフォリチウム電池を購入した。
現在使っているのは約1.5時間ぐらい保つ物だったりするのだが(説明書には2時間と書いてあるが、実際には1.5時間ぐらい)、それ一つではいざって時に心許ないので、予備として購入することにした。
それ以前もビデオカメラってヤツを持っていて、それごとに電池を持っていたが、なんつーか全部ソニー社のビデオなのだが、電池の規格が違って使用できずにゼロからのスタートとなっていたのだ。
ビデオカメラは今ので3代目、ついでに去年まで使っていたデジカメも同様にソニー規格の電池使用だった。
まったくもーと思いつつ、前の電池は全部使い切ってから充電しないと、電池容量が少なくなってしまうタイプだったので、今の「いつでも大丈夫」と言うインフォリチウム電池は、かなり便利なのだ。
で、保ち時間も長い、さらに充電時間も無茶短かったりする。
なんせ、前に使っていた電池の場合、1時間使用するための充電が2時間だったりしたのだ。それに比べて今回のは2時間使用する為の充電が20分だったりする。
なんか過去を知っているダケに「凄い!」と思ってしまうのだ。
で、今回購入したのは倍の容量のヤツで、とりあえず4時間使用可となっているので「3時間ぐらい」と言う感じだったりする。
でもこれの充電がやっぱり3〜40分って感じで、ちょちょいと充電器にかけるとあっという間に完全充電状態になっていたりするのだ。
凄い時代になったのだなぁと感心したりする。

しかし問題がないワケではない。
この電池はビデオの表面にある部分に取り付けるようになっていて、動作中は外にむき出しになっているのだ。で、それも利点の一つなのかも知れないが、容量が大きい電池の場合はそれに比例して大きかったりするのだ。
で、今まで使っていた2時間電池の場合はビデオのデザインの中にすっぽり収まってしまうのだが、今日購入した物の場合、まったく正直に2倍の厚みがあったりすので、ビデオカメラから出っ張ってしまって、いまいち不格好だったりするのだ。
しかし、長時間使えるんだから文句を言うな!って感じだったりする。
実は、店でこれを購入する際に「2時間が6000円」「4時間が約1万円」で「7時間が約1万6000円」と言う状態で、値段的に7時間使える電池は割安かも知れないなぁと思ったのだが… それも正直なことに、時間に正比例して厚さが2時間の3倍ぐらいあったりするのだ。
つまり、それをビデオに取り付けた状態を想像すると、電池部分だけがどーんと飛び出していたりするような感じなのだ。
激しく不格好・・・・・と、購入却下になったワケで、妥協の範囲内として4時間電池を購入して来たワケなのだ。
2001年4月10日(火曜日) 音楽三昧四半世紀
連休どーする?と東京の友人から電話が掛かってきた。
その会話の中で「ところで最近何聴いている?」と言う話題も出たりするのだ。
この友人はイラストレーターとして日々活動をしたり、していなかったりするんだけれど、とにかく音楽も大好きでいまだにワシワシ大量のCDを購入していたりする。
と、言いつつ自分なんかも最近整理して1000枚を超えていた事が判明したぐらいに、わしわしとCDを購入するような人だったりする。
最近はさすがに、未開拓のアーティストを発掘する時間があんまりないけれど、たぶん同年代の人の中では聴いているほうだと思う。
ちなみにこの1ヶ月ぐらいの間に購入したCDと言うと(中古も含む)
・LOVE PSYCHEDELICO 《THE GREATEST HITS》
・ERIC CLAPTON 《REPTILE》
・Every Little Thing 《FORCE》
・宇多田ヒカル 《Distance》
・鬼束ちひろ 《インソムニア》
・DRAGON ASH 《LILY OF DA VALLEY》
・BRYAN FERRY 《BOYS and GIRLS》
・John Lennon & Yoko Ono 《Milk and Honey》
・ELVIS COSTELLO 《GET HAPPY !!》
・Swing Out Sister 《The Best》
・The Clash 《LONDON CALLING》
て感じだったりするんだけど、ハッキリ言って毎日通勤時間片道1時間って感じなので、どれもこれも聞き飽きた状態になってしまったりする。
で、新しい曲を探したりするのだ。
基本的に「新しい曲が欲しい!」といつも探しているような人なんだから、逆に「どれもこれも知っている」と言うベスト盤ってのを聴く神経が解らなかったりする。
もっとも、そのベスト盤にはすでに全部持っているマニアをも引きつける「新曲」「新録音」なども含まれていたりするケースがほとんどなんだけど。
と言いつつ、宇多田ヒカルのセカンドの場合は、ほとんどの曲がすでにシングル発売済みみたいな状態だったりするんだけど。

ふと振り返ってみると、中学生頃から音楽ってものにドップリ浸かりまくり、それから四半世紀近くその状態で常に新しい音楽を求め続けて突っ走ってきたと言う感もある。
そんな時にふと、高校時代の友人なんかと話をすると「最近の音楽ってあんまり解らない」とか「俺達が高校だった頃の○○って今聴いてもいいよな、あの辺りが音楽としては最高の時代だったんじゃない?」みたいな事を本気で言っていたりする人もいるわけで、私的には愕然としちゃうわけですよ。
確かに、あの時代も良い曲は多かったけれど、今の音楽の完成度は高いっすよ。
なんつーか、根本的な部分で音楽に対して求めている物が違っていたと言う感じなんですが、それ以外の世代と会話をしていても色々な考え方があってオモシロイなぁと感じることがあったりする。
いわゆる90年代が終わった時に多く聴かれたのは「なんか90年代って音楽に取っては空白の10年だったよね」と言う物で、80年代はよかった、70年代はよかった、60年代はよかったと言う物だった。
そうだったのかぁと思いつつ、実は80年代が終わった時にもまったく同じような「80年代は音楽にとっては何も無かった時代、結局過去の焼き直ししか無かったよね」と言う声が多く、雑誌なんかでも盛んに書かれていた。
しかし、実は70年代が終わった時も雑誌やラジオや人々の会話の中には「70年代の音楽って何も無かったよね」と言う意見が多かった。「やっぱり60年代の音楽は良かったよね」と言う感じだった。
確かに、60年代はビートルズをはじめとして音楽を中心にしたムーブメントが盛んだったけれど、そう考えていくともしかしたら60年代が終わった時にも同じような事が言われていたんじゃないかって感じなのだ。

とりあえず自分は、新しい音楽を求めて、今日もさまよっていたりする。



▼2001.4.10:John Lennon & Yoko Ono 《Milk and Honey》