ひねもす雑記
2001年5月21日〜31日


▲2001年5月21日:月曜日:不器用ですから
▲2001年5月22日:火曜日:ウザい人間になるんじゃねえぞ
▲2001年5月23日:水曜日:雨のウェンズディ
▲2001年5月24日:木曜日:道楽者の果て
▲2001年5月25日:金曜日:忘却の彼方
▲2001年5月26日:土曜日:誰かの記憶
▲2001年5月27日:日曜日:おめでとう!感動した!
▲2001年5月28日:月曜日:俺ヒマ、興味ある?
▲2001年5月29日:火曜日:出会い系サイト
▲2001年5月30日:水曜日:誕生日データにいらっしゃいませ
▲2001年5月31日:木曜日:本は消耗品なのだ
2001年5月21日(月曜日) 不器用ですから
最近、一生懸命、絵を描こうとしている。
ま、一生懸命といってもその一生懸命さが全然伝わらないタイプの絵で「俺は人生を掛けているのだ!」と言うたぐいの重々しいものでもない。
こうやって日々文章を書いていたりするので、絵を描くのも同じような感覚だと思われがちですが、実際の事を言えば文章と絵ってのは頭の使い方が全然違っていたりする。
文章の場合、こんな勢いだけで何も考えていないようなものでさえ理論的な部分を総動員して書いている。それに対して絵ってのは、いくら緻密で計算の上に成り立っていたとしても、その頭の使われ方は感覚的な部分を総動員した状態だったりする。
いわゆる、右脳と左脳なのだ。
で、困ってしまう事があって、一生懸命「絵を描くのだ!」と思っていると、理論的な部分が休憩を取ってしまって、「現代用語の基礎的ではない知識」のネタを考える脳味噌が動かなくなってしまうのだ。
別にスランプとかってワケでなく(スランプって言ったら、もう6年に渡って書いているので、すでに数年前ネタが出尽くしている)。

これは絵の時だけでなく、例えば音楽にどーんとのめり込んで曲なんかを作っている時は、やはり文章的なものはおろそかになってしまう傾向がある。あれはやはり感覚的なものだったりするので。

さらに基本的に日中は平凡なサラリーマンをしている私には果てしなく時間が足りない。
家に帰ってきて、毎晩1・2時間激しく集中してはぁはぁぜぃぜぃと作業をしているのだが、結局「今何をしたいか?」と言う個人的快楽の結露と言う状態で、今日も絵、明日も絵という形になってしまう。
そんな状態で最近は「現代用語の基礎的ではない知識」のネタも無理矢理絞り出しているって感じになりつつある。


▼2001.5.21:ちょっと発見
2001年5月22日(火曜日) ウザい人間になるんじゃねえぞ
日々、雑学を扱っている。
メルマガ発行はもちろんのこと、一日置きといいながら一ヶ月分まとめて更新している豆知泉(これをちゃんと読んでいる人はいるのだろうか?いまいち反応が解らないんだけど)、さらに実は結構まじめに書いている知泉の本編(まとまった物はメルマガに流用しているんだけど)。
実に一ヶ月に書く分量もかなりのものになっているような気がする。
このサイトの場合「更新履歴」なんて物が存在しないので、その辺、訪れた人には伝わらないと思うのだが、更新履歴なんてのをちゃんと書いたら、それも日記のようになってしまうので、パスしている。
で、自分がかつて調べた雑学が実は間違いだったとか、多くある説の1つにすぎないとか、色々な発見があったりする。
きっと1冊2冊の本を読んだだけでは見えてこない部分だったりする。
未だに「帝王切開はシーザーが」と言うものを書いている本もあるし、先日はサーロインステーキの由来に関しても、違うんじゃないか?と言う説を書いた。
そんな感じで雑学は奥が深いし、ゆえにおもしろかったりする。
でも、問題なのはその手の雑学を日常生活の中でヒョイっと唐突に言い出す人だったりする。
特に多そうなのが、とある雑学を仕入れて「これは最高に意表をついた面白い雑学なんだから絶対に言わなくちゃいけない」と尋常成らざる決意をしてしまった人の場合、そりゃもー話の途中だろうとなんだろうと、その意表をついた雑学を、意表をついたタイミングで言い出してしまうのだ。
当然、その場にいた人々はその雑学の内容の意表さではなく、そのタイミングの意表さに「えっ?」と思ってしまうのだ。
とにかく、雑学は、特に短い雑学は扱いが難しい。
逆に「偉そうに」とか「知ったかぶりしやがって」と言う物になってしまうケースもあったりする。
言いたいのは山々だが、雑学ってのはあくまでも話のワンポイント的なものだったりする。あえてネタふりで使うものではなく、聞かれた時にひょいと答えるのが正しい雑学と言う気もするのだ。
って、言っても覚えた雑学を偶然向こうから振ってくれるって事は滅多にないから難しいんだけどね。

2001年5月23日(水曜日) 雨のウェンズディ
昨晩より伊豆地方には、しのつく雨が降り続いております。
いよいよまたあの季節の到来で、少しそれを思うと憂鬱な気分にさせられてしまうのでございます。
てなワケで、ザンザカ雨が降っている。
まだ少し早いけれど、沖縄はすでに梅雨入りをしたというので、近くない将来こっちでも梅雨に突入してしまうのだ。かなり憂鬱。
最近は髪のクセ毛が酷くなってしまい、湿気が多くなると途端にワシャワシャとワケの解らない髪型になってしまうので、そっちもイヤなのだが、最大限にいやなのが、ムチウチが出てしまうと言うこと。
この雑記もすでに6年書いていたりするんだけど、その6年間、なんどこのネタを書いたことやら・・・と言っても、この季節になるとこればっかりは避けては通れない部分でありまして、酷い時には肩こりから頭痛になって、目まで眼精疲労の最悪な状態になり、さらに歯痛まで併発して(悪くなくても痛くなる)、体中の関節が痛くなり、腰痛が出て、耳鳴りがして・・・・と、病気のフルコース、肉体疲労の満干全席と言う感じになってしまうのだ。

なんとかせにゃいかんよなぁ肉体改造をして、痛みをはねのけるような肉体を作らなければいけないよなぁと考えたりする。
でもって、体力づくりだ!と軽くジョギングしたり、水泳をしたりすると、体が熱を持って・・・ムチウチが悪化してしまったりする。
そんなワケで、激しい運動も出来ない体になっていたりする。
あぁぁぁ・・・・・

2001年5月24日(木曜日) 道楽者の果て
先日よりニュースで報道されていたカナダから単独雪上行をしていた冒険家が行方不明になったという話は、カヌーが見つかった近くで遺体が発見されて終わりを迎えた。
その知らせを聞いた日本の冒険家仲間みたいな人は「ちくしょう」などと呟きながら嗚咽を漏らした。
うーむと思ってしまうんだけど、この手の「北極点単独横断」とか「スキーのみで南極を走破」とかってのは、果たして凄いことなのか?ニュースで取り上げるべき事なのか?って思ってしまう。あと山関係でも「最高齢エベレスト登頂に成功」とか・・・・
確かに凄いことで「ンなに言うならお前出来ッかよォ!」と詰め寄られたら、1秒も間をおかずに「出来ません」と言う自信はあるのだが、でも凄いけど、凄くないよなぁと思ってしまう。
私は昔から、その手の成功した失敗したと言うニュースが流れるたびに、その登頂だとか横断するって事に何か意味があるのか?と言うことをずっと考えていた。たぶん冒険家の人々は「そこに無理とも思える壁があるからこそ人類は超えていくのだ」的な答えを言うのかもしれないけれど、でもそんな壁を超えなくても人類は先に進んでいくと思うのだよ。とりあえず初期の南極探査なんかは、その土地の下にどんな鉱物が眠っているか?などと言う学術調査的な物もあったと思うが、今のそれらってのはあくまでも「冒険家の個人的な楽しみ」と言う範疇を出ない冒険行だと感じちゃうんですよ。
スケールは全然違うけれど、テレビゲームで最高得点を叩き出したってのと同じなのではないか?
なんだかんだ言っても、一番楽しいのは自分で、その成功によって一番名誉を受けるのは自分で、と言う感じのような気がする。
かつて日本政府は冒険家の植村直己氏に対して国民栄誉賞を与えたけれど(マッキンリーで消息を絶ってから)その時も、たしかに世界五大陸最高峰登頂とかってのは凄いけれど、それがいったい何の意味があるんだ?と感じていた。

で、結局遭難したりすると、周囲の人々に多大な精神的・金銭的な迷惑を掛けてしまったりするのだ。根本的に冒険なんかをまったくしない自分だったりするので、永遠にその気持ちは分からなかったりする。

別に冒険家を否定するつもりはないけれど、それを「英雄視」しちゃうのは違うと思うのだ、あれはあくまでも「道楽者」といって、世間的にはそーんなにほめられた物ではないと思ったりする。
が、冒険家について自分で理解出来る部分があるのは「無意味な道楽ほど楽しいものはない」って事ぐらい。

2001年5月25日(金曜日) 忘却の彼方
「知泉」のネタに関して問い合わせがあった。
なんでも「知泉」の中にある項目について「その記述の元になった文献を教えてください」とスタジオアルタのディレクター氏(て事は「いいとも」関係?)より電話があったらしい。
時々、出版社や放送関係の人からこの手の連絡を貰ったりするんだけど、これがまた難しい話で、いわゆる1つの本をガシガシ丸写ししているのなら「文献は○○出版の○○です」と言えるのだが、ほとんどのネタが複数の本から集めた情報を掛け合わせて書いていたりするので、簡単に言えなかったりする。
ついでに、このように日々後ろも振り返らずに前に向かってネタやら雑学やら絵を描き続けていると、ちょっと過去の物は忘却の彼方に行ってしまったりする。
その結果、「現代用語の基礎的ではない知識」なんかの場合、一度書いたネタをもう一度使っていたりするんだけどね。
で、今回の問い合わせがあったネタはどうやら去年の3月頃にメルマガの方にも掲載した事があるもので、それから考えると1年半以上前に書いたものの可能性が高い(1999年)。
そうなると、引用どころか自分で書いたかって事すら怪しくなってしまう。
かつても自分で曲とかを作っていた頃、自分が作った曲だったんだけど知人がそれを気に入ってライブなんかで歌っていたものがあった。
が、いつの間にか「それって自分が作ったのだっけ?」と忘れかけていた事もある。
その知人が歌っているテープを聴いて「あ、この曲けっこう好きだな、自分の趣味に合うよ」などと思っていた。そりゃ自分で作った曲だから自分の趣味に合うのは当然なんだけど。
そんなこんなで、どの文献を引用したのかが不明だと言うことしか言えなかったりする。

本当は、ある程度知泉ってヤツも有名になりつつあるらしいので、それぞれの文章の末尾に[参考文献]などと書かなくてはいけないんだろうけれど、それをやり始めると参考文献が現在400冊ぐらいあったりして、細かく記入していくとキリがなくなってしまうのだ。
その辺はなんとかしないといけない問題なんだろうけれど。

しかし、時々メールを貰ったりするのだが、このサイトの誕生日データを初めとして雑学ネタなんかを、そこそこメジャーな放送局(ラジオが多い)や出版社(地方出版や社内報まで)関係の人まで見ていたり、参考にしていたりするらしい。
そうかそうか、などと思いつつ「杉村はいい仕事しまっせ」などと、PRをしたりするのであった。
2001年5月26日(土曜日) 誰かの記憶
古本を買った。そして家で読もうと思ったところで、本の間からポトリと2枚の写真がこぼれ落ちた。
その写真には20代前半と思われる女性がポーズを取っていると言うワケでもなく、家の中、カーテンの前でこっちを向いて、笑っているワケでもなく無表情でいた。若干向きを変えて二枚とも。
その写真のカラーの発色具合といい、カーテンの生地といい、バックに映っている壁の安そうな合板っぽさといい、どうやらこの10年以内に撮影された物ではなく、70年代、良くても80年代前半と言う感じだった。
そこに映っている女性もいかにも過去の人と言う髪型とメイクとファッションで、どう考えても70年代初期に撮影されたのではないか?と言う写真だったのだ。
その古本屋で買った本はそんなに古い物ではなく、80年代中期に発行された物だったのだが・・・・・。さすがに80年代中期にこの手のファッションとメイクをしているような20代前半の女性はいないだろうなぁと考えると、やはりこの写真はその70年代初期に撮影された物だと考えるしか出来ないのだ。

そう考えるとそこに映っている女性も現在はもう50歳前後ということになるし、撮影したのがその女性の当時の彼氏だったとしてもそんな感じだと思う。
たぶん写真の所有者は撮影者の男性だと思うのだが、この2人は結局結ばれる事はなく分かれてしまったのだろうか。
しかし男性は彼女のことを忘れることも出来ず、こっそりと本の間に写真を残していたのだが、80年代、結婚もし子供も産まれ、生活に追われているうちにその事すら忘れて、40代半ばにやっと念願のマイホームが完成してそこへ引っ越す際に不要な本を売り払って・・・・と、その裏に色々なドラマを想像してしまったりするのだ。

2001年5月27日(日曜日) おめでとう!感動した!
今日は大相撲の千秋楽で、足を痛めつつ貴乃花が優勝した。
その優勝はまるでドラマの様で、足を派手にテーピングして、こりゃ絶対的に勝ちは望めそうにないかな?と言う状況での大逆転での優勝となった。
こりゃもー日本人が大好きなパターン。いわゆる判官贔屓的な勝利ということなのだ。
スポーツってのは基本的に誰が勝っても、どっちが悪役って事はないのだが、漫画・小説・ドラマなんかの場合、絶対的に片方を主人公に設定すると、相手側は悪役と言うことになってしまう。
特に今回は足を引きずりながらの悲痛なまでの状態からの優勝と言う「お前はロッキーか?」的な展開だったので、ニュース的にも、スポーツ新聞的にも大盛り上がりの展開だったのだ。
しかしニュース番組で盛んに流された画像は、その優勝が決まった所ではなく、総理大臣杯を小泉純一郎が手渡す際に、無理矢理な大声で「痛みに耐えてよく頑張った!感動したっ!おめでとう!」などと叫んだ所だったのだ。
凄くテレビ的。
でもって、この貴乃花の奇跡の優勝!と言うビッグニュースを横からかっさらってしまった形になってしまったのだ。お前は主役でないと気が済まないのか?
ま、そんなのはどーでもよくて、どんな行動をしようとも景気さえ回復してくれれば誰も文句は言わないのだ。

でも、なんか小泉純一郎って総理大臣になる前と、なってからのキャラクターがかなり違うような気がする。別に悪くはないんだけれど「こんなだっけ?」と思ってしまう。

2001年5月28日(月曜日) 俺ヒマ、興味ある?
携帯電話なんつーものを持って早数年と言う感じだったりするのだが、基本的に電話が好きじゃなかったりするので、あまり多くの知人にその番号を教えていなかったりする。 なんか、あまりにも自由じゃないって感じがしないか?
などと思うのだが、どーも最近の状況を見ていると違うらしい。常に電話がかかってこないと、自分は一人なのではないか?自分は嫌われているのではないか?などと孤独で不安になってしまうらしい。
あるいは友達と会っている時に、一度も着信が無いと「私って友達少ない」って思われそうで恥ずかしい・のだそうだ。

で、あんまし着信がない私の携帯電話だったりするのだが、時々掛かってくるのが「無差別メール攻撃」ってヤツ。
たぶん、メールを打ちこんでデタラメに番号を押すって事をしているんだと思うのだが、いきなり『俺浜松の19歳男、凄えヒマしてんだ、もし興味を持ったらメールちょうだい』とかって軽薄な文章をがディスプレイに出てくるってのは、かなり気分がブルーになってしまうのだ。
その浜松の19歳男っつーのがヒマだろうと忙しかろうと、こっちには関係ねえよ!と思ってしまうのだ。でもって、その「俺ヒマ」と言う情報を見て「おっ!この人に興味ある、どんな人か詳しく知りた〜い」なんて思ってしまう人がこの世の中に存在するのだろうか? するのかも知れないが・・・・・
[↓続く]
2001年5月29日(火曜日) 出会い系サイト
最近の「出会い系サイト殺人事件」みたいのがクローズアップされると、凄く解りやすくマスコミが『格好のネタ』とばかりに書いたりするんだけど、その手の事件は、結局安易な人々の安易な殺人と言う感じなのかも知れない。
そりゃ殺人ってのは、どーしょーもなく最低のことだとは思うが、メールで知り合った相手にホイホイとたった一人で逢いにいくってのも、迂闊以外の何者でもないよなぁと思ってしまう。
男の自分でさえ、その手の身元不明の相手に関しては激しく警戒心を持ってしまうってのに、分別が付いているだろう20歳前後の女性が、簡単に逢いにいくかなぁ。(と言う事件で「そうか、メールで知り合って女性は簡単に逢ってくれるのか」などと思ってリビドーの赴くままに行動を遅ればせながら開始する人もいるとは思うけど)

ここ半年の間に、その手の「出会い系サイト」とかが絡んだ事件がいくつもあった。
主婦と高校生男子が出会って、結局別れ話のもつれから高校生男子が殺人を犯したり、メールで知り合った女性を風俗店に売り飛ばした男もいる(おいおい、未だにそんな売り飛ばすみたいな話があるのか!と驚いたけど)、全体の事件のごく少数だと思うけれど・・・・。

基本的に、メールで知り合って何度かメールを交換して「この人オモシロイ」と感じたら会うと言うパターンが「出会い系」では多いらしいが、実はその《オモシロイ・メール》を代筆ならぬ代打する人も存在しているらしい。
で、問題なのはその後で、オモシロイ人だと思って逢って見ても、メールですらオモシロイ事を打てない男が直接会ってオモシロイ事を言えるハズがないって事で、女性側から「おもしろそうと思って会ったんだけど、全然ダメなヤツ」と判断されちゃう人がいたりする。
で、それまで一日何度もメールを交換している超疑似友達だったのに、あった次の日からは女性側から一切返事が来なくなってしまい、その結果、ストーキングをするとか・・・・。
で、先日もメールで知り合った女性を二人殺害して捕まった男もどうやら「直接会うと全然おもしろくなくて二度と会いたくない」タイプの人間だったらしい。とりあえずメールは自分で打っていたらしいが。

結局、メールでの会話ってのはその向こう側に人間がいるとしても結局は《対機械》って事なんだよねぇ。
パソコンのチャットでは能弁だけれど、実際のオフ会で会うと何も喋らない人間ってのもかつて何人も見てきた。

携帯電話を捨て、街に出よ。


▼2001.5.29:NTT丸儲け
2001年5月30日(水曜日) 誕生日データにいらっしゃいませ
今日、誕生日掲示板に2人の本人から書き込みがあった。
一人目は1964/12/08が誕生日の山口よしとさんで、プロレスリングアナとして登録してあったのですが、本業はグラフィックデザイナーで自ら会社を経営しているそうです。
わざわざの書き込み、ありがとうございます。
もう一人は1958/06/13が誕生日のドン川上さん。
私はかなりビックリしちゃいました。「おぉ久々の誰もが知っている有名人からの書き込み!」と・・・・と言っても多くの人が「誰それ?ドン川上なんて人知らないぞ」と言う状態かもしれません。
実はかなり有名人で、かつて「笑っていいとも」のレギュラーでちゃんと自分のコーナーまで持っていた人ですよ。
このドン川上さんというのは、そのいいともで『来たかちょーさん、待ってたドン』と言うコーナーでプリティ長嶋(長嶋茂雄のソックリさん)と共に川上哲治のソックリさんと言うことで出演していたアノ人です。(と言いつつもこのコーナーってのもいいとも初期で15年ぐらい前になってしまうんだけど)
ドン川上と名乗る前はロボタンという芸名で「お笑いスター誕生」に物まねタレント(当時は大学生だったと思う)として出演なんかしていました。
いいとものレギュラーの時はたしかサラリーマンをしつつ・・・と言う感じだったハズです。
で、去年だったと思うけれど北海道の放送局でのサイトでDONという人を発見したんですが、その写真がどうもあの川上さんだったワケっす。それで調査をして本人らしいと言うことが判明し、誕生日データに追加したと言うわけです。
そんなわけで、ワザワザ書き込みありがとうございます。
2001年5月31日(木曜日) 本は消耗品なのだ
仕事でカヌーリスト・野田知佑氏の本を編集した。
例のカヌー犬・ガクなんかと一緒にカヌーの上でチキンラーメンを食べているCMなんかに出ていたって事で覚えている人もいるかも知れないけれど、その野田知佑氏の本。
あいかわらず、カヌーと犬と共に世界中の川をザンブザンブと進んでいたりする内容の本だったりする。(そのカヌー犬のガクは先日亡くなってしまいましたが、この本は生前に書かれたもの)
で、かつて読んだエッセイの中でカヌーの旅にも本を大量に持っていくと言うことで、1ヶ月10冊が目安らしいのですが、基本的に軽い文庫本。そうでないハードカバーでどうしても読みたい物がある場合、とんでもない事をするらしいです。
まずカバー部分を外す。本文だけになった本の余白部分を全部削ぎ落とす。そして必要最小限の大きさにして持っていくというのだ。
でもって、旅先で読んだ本は次々にたき火に変身していく・・・・。
そんなに無理矢理本を大切にする人ではないけれど、さすがにこれは出来ない。
基本的に読んだ本は、二度と読み返さないとしても保管したいと思ってしまう人なので、捨てる燃やすってのは・・・・。
ついでに本を解体するってのも・・・・。

オマケに雑学だけど、進化論を唱えたダーウィンは「分厚い本は持ち歩くのに不便だ!」と、ある程度の厚さの本は半分に分割して持ち歩いた。
保管する場合は、自分にとって必要と思える箇所だけを残しあとは全部捨てていた。
うーむ整理学の見本みたいな人なのだ。

しかし現実問題としては、自分の部屋にある大量の本をどうにかしないといかん、と言う事だったりする。さすがにバラして・・・って事は出来ないしなぁ。
文庫本も何千冊あるのか解らない。



▼2001.5.31:整理はする