ひねもす雑記
2005年03月01日〜10日


▲2005年03月01日:火:オリジナルは誰
▲2005年03月02日:水:ゆとり教育(1)
▲2005年03月03日:木:ゆとり教育(2)
▲2005年03月04日:金:やはり音楽の人
▲2005年03月05日:土:「復活の日」
▲2005年03月06日:日:ビーボよりうまいのはビーボだけ
▲2005年03月07日:月:4コマ
▲2005年03月08日:火:十年一昔
▲2005年03月09日:水:ある家族の肖像
▲2005年03月10日:木:みんな茶は嫌いか?
  2005年03月01日(火)オリジナルは誰
    ネットの文章はコピーされ、さらにコピーされ、といとも簡単に増殖していく。
    例えば「社会の窓」という言葉の語源を調べようと思ってグーグル検索してみると、複数のサイトがヒットする。
    で、そのヒットしたページの一部がグーグルの検索ページに表示されるんだけど、よく見るとほぼ同じ文章でその「社会の窓」という文章が掲示される。つまり、その複数の文章はどっかにオリジナルがあって、それがコピーされてネット上で大量に増殖していったということなのだ。
    で、そのオリジナルってのが実は知泉だったりするワケです。
    この文章は元々2000年1月にメルマガに記載したもので、それをサイト上にも展開させたもので、元になった文献(3冊の本からのまとめ)の名前もちゃんとメモとして判明している。自分もこの文章を書いた時の事をおぼろげに覚えている。
    前から言っているように、雑学に著作権とか求めていないんですが、文章に関しては著作権が存在しているので(日本の法律では著作権は作った瞬間に発生するもので、わざわざ(C)とかCOPY RIGHTとか書かなくても自然発生するもの。さらに放棄は出来ない)あんまり露骨なコピペはどうかって思ってしまうのだ。

    で、3月4日がミシンの日って事で「日本に初めてミシンを持ち込んだのはジョン万次郎」というネタを検証する目的でグーグルに「日本初のミシン」と入れた所、これも複数のサイトがまったく同じ文面でヒットした。
    これの元ネタ文章は知泉ではなく、誰が書いたのかは不明ですが、こうやってコピペされていって、そのコピー先を一番最初に見た人にとっては、そこがオリジナルって事になるんだろうなぁ。
    以前は、知泉の文章(豆知泉)を大量にパクっていたサイトがあって、そこの愛用者と思われる人が「何雑学パクってサイト運営してんだよ、ボケッ」と怒りのメールを貰った事もありました。

    そんな事を考えていた今日は、このサイトの8回目の誕生日(丸7年経過、8年目に突入)
  2005年03月02日(水)ゆとり教育(1)
    そもそも創造力を育成するって言っても、それを教える事が出来る先生がいないんじゃないのかと思ったりする。
    いわゆる、この数年小学校や中学校で行われている「ゆとり教育」ってヤツの弊害で全体的に学力が落ちているということなのだ。
    結局、学校が考えているゆとりってのは「授業時間数を少なくして生活に余裕を持たせよう」って事でしょ。そのお陰で学習塾は大繁盛。マジに夜の10時ぐらいまで小学生中学生が塾周辺のコンビニにたむろってる。
    ヘタしたら、学習塾の営業時間が風営法に引っかかるんじゃないかと言う感じなのだ。

    ま、そんな真夜中まで子供が歩いているってのが当たり前の生活になれば、色々な犯罪にも巻き込まれるだろうし、生活習慣病にもなるだろうしって、はっきり言って誰かが学習塾に行き始めたら他の子供も「負けちゃならぬ」と学習塾に行くに決まっているのだ。
    学校がゆとりとか抜かしているけれど、基本的な社会は「競争社会」っすからね。
    逆に言うと、その「ゆとり教育」とやらで、のほほんと生きてきた人間が競争だらけの社会に出た後、どんな状態になるかって事を理解出来ていないんじゃないの?

    しかし「ゆとり教育」って言葉はなんで胡散臭いんだろう。
    「ゆとり」ってのは「はいどうぞ」と言われて行う物ではなく、もっと別の部分だと思う。日々忙しくても、精神的に余裕のある人は僅かな隙間にさえゆとりを探し出せる物。
    物などを創造することと「ゆとり」とはまったく関係ないんじゃないかとも思う。
    結局、学校教育には何も求める事は無理なのか。(それ以前の話だけど、家庭にゆとりがなかったり、教育の場がなかったりする方が重要問題だと思う)

      先日は森前首相がゆとり教育を見直そうという議論に対して「待った」を掛けていた。
    その待ったの理由が
    「ちょっと悪い結果が出たからといって、外部の雑音に過敏に反応して右往左往し、一度決めた物をあっさりと覆すのはよくない。もう少し現状をしっかり認識出来るまでゆとり教育を推進すべきだ」
    との事。よく判りました。あなたの様な考えの人が諫早湾の干潟をダメにしたり、無用な公共工事をイジとシガラミだけで続けて、無駄な金を湯水のように使っているんですね。

    そもそも極東の資源なんてほとんどない島国の日本が今のような経済立国・技術立国になったのは、戦後の教育熱心な方向性があったからなんじゃないの?そんな国で数学の出来ない子供が大量に生産されたら死活問題ですよ。
    ハッキシ言って、今、中国や韓国の若者は、日本と比べたらとんでもないぐらいに教育に力を入れていますよ。きっと10年後も「ゆとり教育」なんて言っていたら遙か彼方へ置き去られ、日本中が中国系・韓国系企業で乗っ取られていますよ。
    中国なんて資源はある、人材はある、その上技術力も上になったら到底太刀打ち出来ませんぜ。

    とりあえず森なんて人に教育を語るほど知能があるとは思えないけど。
    ついでに堀江もんに関しても「金で何もかも解決出来ると思っているのが」みたいな苦言も呈していたが、堀江社長のやっている事は株式の世界では至極まっとうな事で、それがいやなら株式公開しなけりゃいいって段階の話。
    そもそも森周辺の年代の人が「金でなんでも出来る」という盲信で国を動かして来たんだと思うんだけど。バブルなんかも後ろにいたのは、その辺の政治家なんだし。
    金で動かしているのは橋本派や、昔の田中派の方が酷かったでしょ。
    結局あれは「政治的な力が無いくせに、金の力だけで世の中回してんじゃねえよ、お前みたいなヤツが大きな顔してると、俺ら政治家に入ってくる利権が少なくなるじゃねえか」って事なんじゃないの?
    もし堀江もんの後ろ盾として政治家が居たら、ここまで叩かれることもなかったんだろうね。

      で、森ちゃんは今お気に入りの絵本があって「子供達に読ませたい絵本がある『あひるのアレックス』という本だ」と紹介している。
    内容は「カルガモの親子と親を亡くしたアヒルの子が家族のように暮らしている話」だそうで、なんかワイドショー辺りがお手軽に「幸せな気分になれますね」とか「世知辛い世の中で一服の清涼剤」とか「心が癒されました」とかコメントを付けてしまいような内容。
    って、ただの「醜いアヒルの子」を、出てくるキャラ全員がいい人って状態に焼き直しただけ?
    で森ちゃんは「この本を読んで感動した」んじゃなく「作者の一人らしい」って、ただの宣伝じゃん。
  2005年03月03日(木)ゆとり教育(2)
    そのゆとりとやらの裏で言葉狩りに近い「書き換えたい言葉」という、なんか嫌な物が存在している。
    教心ネットという、教師・心理学研究者・学生の心理学を教育に生かすことを目的に運営されている会のサイトに書かれている物なんだけれど、その項目がなんか見てびっくりするぐらいにダメ。

    通知票に書いたりするとき「書きたいけれど、書けない言葉」を別の言い方で書くという一覧なんだけれど、
    「あきらめが悪い」を「ねばり強い,持続力がある」に
    「意見が言えない」を「ひかえめな,協調性がある」に
    「反抗的な」を「自分の意見を持った・自立心がある」に
    「人付き合いが下手な」を「ひかえめな」に
    他にも色々な表現の差し替えが書かれて居るんですが、それって書かれた本人の為にならないんじゃないの? なんか注意されているんじゃなく、褒められているみたいにしか読めないので「じゃ、その個性を伸ばしちゃえばいいの?」って感じです。

    これなんか見ちゃうと、教師ってのは「とりあえず在学中は波風立てずに卒業まで運んでしまえば、卒業後はどうでもいいや」って感じかと思っちゃいます。
    そもそも「意見が言えない」は「ひかえめな,協調性がある」ではなく「主体性がない」って事で協調性はどこにも見あたらないと思うんですが。

    あくまでも、そのサイトを運営している団体が勝手に作った一覧で、それを教師は笑えるネタにしているぐらいの感じであって欲しい。
    ちゃんと子供に意見を言って、ちゃんとした方向に導いてあげる事が出来る教師でいてほしい。
    そんな中、東京大田区の区立中学の男性教師(42)が、保健体育の試験で「受精をするための男性性器の必要な長さについて答えなさい。勃起したときの長さ」「思春期の自慰の回数と健康について簡潔に述べなさい」あるいは女子生徒向けには「あなたは何歳で性交すると思うか」「その相手はどんな人でしょうか?」という問題を出していて、問題になっているらしい。
    それは試験じゃなく「興味本位」って言うんだよ。

  2005年03月04日(金)やはり音楽の人
      every little thingのニューアルバム「ACOUSTIC:LATTE」を購入。
    それまでの曲をアコースティックにリアレンジしたアルバムだけど、従来のアレンジよりこっちの方がいい。
    というか、ELTってのがデビューした時が小室系全盛期(末期)だったので、デビュー曲を聴いた時は「思いっきり小室のパクリじゃん」みたいな印象だった。バンド名がビートルズの曲、しかもリンゴが唄うカントリー調の曲と同じだったので雑誌で名前を最初に見た時すごく期待したのに音を聞いてガッカリした記憶がある。
    で、今回はアコースティックなのだ。
    思った以上に、それまでの曲がしっくりハマっているし、持田香織のボーカルも以前より甘めな印象で凄く心地よい。
    が、持田香織の現在の髪型はどういう物なんでしょうかね。

      同時にaiko「夢の中のまっすぐな道」とスピッツ「スーベニア」も購入。
    どっちのアルバムも安定して気持ちがいい曲が並んでいる。ある意味「いつも通り」で安定しちゃっているんだけれど、聴いている人はこの状態の変化を求めてはいないだろうなぁという感じがする。
    もっとも安定しちゃいすぎると、かつての岡村孝子のように、ファンだったはずの友人が「気が付いたらどのアルバムを聴いているのか解らないぐらいにどの曲も同じに聞こえてきた」という状態になる事もある。
    ある意味、そのアーティストのスタイルが完成されているって事なんだろうけれど、ラブサイケデリコのように「デビュー時でスタイルが完成されつくしていた」という事から、2作目以降もいい曲があるのにどうしてもファーストを越えられないってパターンも出てしまうのだな。
    この微妙なさじ加減ってのは難しいっすね。
      ついでにaikoはシングル「三国駅」も購入。アルバムにも入って居るんだけど、aikoの場合シングルにカップリングとしてアルバムに入れない曲を毎回2曲ぐらい入れてくるので、マニアはコンプリートして聴くためにはシングルも買うのだ。
    って、実際今、シングルってどのくらい意味を持つメディアなのか不明になっている。特に大御所とか言われそうなアーティストにとっては。新人は曲を聴いて貰い為の媒体としては意味がある。
    てなワケで、雑記にジャケ写などを掲載するのは著作権的にはギリギリセーフなんですが、やはりこうやって乗せると「なんかネットの日記っぽいね」という事なのだ。やっとネットになれてきた杉村です。
    こんな調子に雑記に書いていない時も延々とCDは購入し続けている。
    「本を書く時にはBGMが必要なんです、だからCDの購入も経費として落ちませんか?」
    「ダメです(きっぱり)」
    いや、まじに私の精神状態を現実社会に引き留める為に音楽は不可欠なのだが、ダメですか。

    毎週では無いんですが「3年B組金八先生」を見ている。実は25周年になるこの番組、ちゃんとシリーズとして見るのは今回が初めて。
    で、今晩の話で生徒の一人が覚醒剤の常用で禁断症状が出て逮捕された。でも「みんなにこのことを知って貰いたい」「覚醒剤の怖さを知ってもらいたい」という金八の判断で警察に行く前にクラスで授業をすることになった。
    しかし、いつ禁断症状が出るとも解らない人間を交えて授業するかなぁとか思ってしまった。
    しかも感動させる為になのか、禁断症状が治まってグッタリした生徒を抱えたまま谷川俊太郎の「今、生きているということ」を暗唱し始める金八ってのはどういうものですかね?
    さらに警察が3台のパトカーで学校にやって来た時にいきなり教室に踏み込もうとするのを校長(代理)たちが「授業が終わる3時まで待ってください」と引き留める。
    そもそも、相手が殺人犯だとしてもよっぽどの事がない限り(教室に立て籠もったとか)教室で逮捕なんかしないハズ。
    で、3時になり警察が教室に踏み込んだ時、その少年がビックリして逃げだそうとして… 
    と言う時、考え得る一番安易な演出と思える「実際の音を消して、スローモーションにして、マイナー系の音楽を流す」というヤツをやってました。
    ついでに、少年がビックリして逃げ出そうとしたのを警察が追いかけようとした瞬間、なぜか金八センセが警察に待ったを掛けようとして腕をつかみ、逆に振り払われている(スローモーション)。これって公務執行妨害だよね。
    テーマが凄くシリアスで考える問題が多いんですが、それらに関してはちょっとどうなんでしょうかねと思ってしまった。

  2005年03月05日(土)「復活の日」
    実はですね、我が家の庭の片隅に小さな墓があるんです。そこにはずっと苦楽を共にしたミケが埋まっているんです。僕がかなり落ち込んでいた時も、どんな時でもそばにいて精神的に支えてくれていたミケが。

    それはもう、人間以上に僕の事を理解していてくれて、それはそれは感謝しています。
    でも去年の今頃、ミケが寿命というワケじゃないんでしょうが、原因不明の病気に掛かったらしく死んでしまったんですよ。そこで自分の部屋からも見下ろせる庭の片隅に小さな墓を建て、ちゃんと「ミケの墓」と書いたプレートを掲げて、毎朝窓からそこを見て「今までありがとう、感謝している。ミケがいなくなっても僕はもうくじけないよ」って祈りの気持ちを捧げていたんです。本心から感謝していましたから。

    そして、そうミケが亡くなってちょうど一年ぐらい経った頃ですか・・・、いつものように墓の場所を窓越しに見たんです。
    その時、僕は驚愕してしまったんです。
    そのミケの墓がある場所の土が盛り上がって・・・
    なんとそこからミケが顔を出していたんです。ええ、あれはミケに間違いありません、僕がミケのことを見間違えるなんて事はありませんよ。

    え?ミケってのはネコですかだって?とんでもありませんよ、ふざけた事言わないでください。 僕のミケはサボテンですよ。
    そのサボテンのミケを埋めた所から、ミケそっくりのサボテンが顔を…。

    という、なんだか解らないショートショートをいきなり書いてみた。
    メルマガ発行が週3回になって精神的余裕が出来ると、こんなワケの解らないことを考えてしまう私が居る。

    そんなこんなでメルマガを発行するのにはかなり精神的な部分を摩耗するワケでありまして、まぐまぐなどの状況を見ていると、メルマガという重労働を行いたいと考えている人があんなにいるってのがビックリでやんす。
    自分の場合、インターネットが存在しなかった時代に個人雑誌というのを計画しまして、基本的にコピーした物をホチキスで留めてという状態の、今時そんな同人誌あり得ないという実に家内制手工業作品「たこやき便り」という物を発行していました。

    基本的に無料で、配布するのは基本的に友人へという、自己満足といえば自己満足なんですが、その内容はあくまでも誰にでも理解できるエンタテイメント性を重視したエッセイ集でした。それなりに友人には好評だったので、及第点はクリアしていたんだと思う。今思うと、こんな風に文章を書く場が与えられていなかったので何かの形で発表したかった苦肉の策だったんだなと。
    その創刊号は友人への手紙の中でひっそりと生まれたので、コピー無しの1部のみ。2号以降は10部〜30部ぐらい。発行ぺースが2年に1回とかだったので、雑誌という状態では無いかも知れないけれど、ページ数は約30〜40ページ程あった。

    で、結局最後になってしまった号はいきおいコピー製作のくせに50部近く作り当時始めたばかりだったパソコン通信上で「欲しい人には全員あげます(送料こっち持ち)」と告知をした。結局、欲しいというメールは6通しか来なかったけれど、今思うと「とにかく自分の意見を発表する場が欲しかった」んだと痛烈に思うのだ。

    そんなこんなで今、メルマガの読者が1万2千人を超えている(最近は何故か1日50人ペースで増加中)。これは自分の範疇を越えている人数だとは思うし、そんな大勢に向かって自分の文章を送信するって事の重圧感はかなり感じています。
    なんせ、昔は1年というスパンで準備した文章を30人に伝えるだけで必死だったわけで、その時の感覚は今でも残っている。だからこそ、1万人を越えた人間を相手に1万人分の誠意を持って文章書いてメルマガを発行していかなくちゃいけないと思っているのだ。

    メルマガ発行者として他を批判するのはどうかと思うけれど、凄く安易に出している人もいるんじゃないかと思ってしまう今日この頃なのだ。
  2005年03月06日(日)ビーボよりうまいのはビーボだけ
    時々、無意味な記憶力でひとりぼっちな寂しさを味わうことがある。
    同世代の友人なら当然覚えていると思って「ビーボよりうまいのはビーボだけ!」と発言した時に、当然「うわぁ懐かしい!」と盛り上がると思ったら「なにそれ」と言われた事がある。
    うーむ。確か、高校のすぐそばにあった自動販売機にも書いてあった呪文なのだが・・・
    今から20年ほど前の話だが、その呪文をネタにすると微妙な笑いが起こったのを記憶していたんだかが、もうすっかり忘れられたネタだったのか。

    さらに70年代末期のテクノバンド「DEVO:ディーボ」に引っかけて「ディーボより面白いのはディーボだけ」などと言った時にはさらにワケが解らない状態で、友人たちの頭上にでかい「?」のマークが出現しておりました。

    ま、たしかビーボってのは自動販売機中心に販売展開していた飲料メーカーで、その当時ダイドーも同じような位置で「自販機でしか見かけない飲料」だった。(ダイドーは元々製薬会社で足元しっかりしていたし、コーヒー飲料に力を入れていたので今の地位を得る事が出来たワケだね)
    もっともビーボは関西のメーカーだったらしく、こっちでは営業力が弱かったのかも知れない。

    色々調べるとあんまり良くない商売をやっていたみたいで、基本的に自販機を設置する店に購入させる方式で、最初の自販機には飲料1200ケースをセット販売。つまり自販機を設置している店は月500本ぐらいの売り上げでは電気代+ローンで儲け無しって状態で、結局、営業的に厳しくなっていったらしい。
    さらに噂では、最初は「場所を借ります」という契約で、しばらくした時に「ここは儲かります」と話を切り出して、「で、自販機買いませんか?」と売り込んだという話もある。真偽不明ですが。

    それでも会社自体は80年代末まで存続していたらしい。
    その後「富士ベンディング」という自販機飲料メーカーに買収され消滅したとか、コカコーラの子会社CCNVC(コカコーラ・ナショナル・ベンディング・カンパニー)に買収され消滅したとからしい。(富士ベンディングは缶飲料ではなくカップ形式の自販機メーカーだったと思う)
    その後「富士ベンディング」は「エフ・ヴィコーポレーション」→「エフ・ヴィ東京」と社名変更をし、現在は「東京キャンティーン社」と合併して「アーバンベンディックスネットワーク」となっていると言う噂。
    でも、自販機が他メーカのようなリース契約ではなく、買い取り方式だったので物持ちがよい商店主の元で今も稼働している事もあるらしい。噂では最近まで湘南モノレールの富士見町駅にはあったらしい(現在は不明)

  2005年03月07日(月)4コマ
    フジテレビの日枝くんが「ネットなんかがテレビを上回るハズがない」みたいな事を言ったのを聞いて、そう言えばテレビが出現した当時に全盛だった映画産業のお偉いさんが、まったく同じような発言をしていたのを思い出した(ってリアルタイムでは知らないけど)。
    「テレビ?あんな電動紙芝居のどこがいいんだ?あんな物、一過性のブームですぐにみんな飽きるよ」
    その慢心が、あっという間に映画産業を衰退させる事になろうとは…。
    さすがに受信機さえあれば無料でそこそこの物を気楽に楽しめるテレビは娯楽として残るだろうね。
    でも、あと6年後(だっけ?)には今使っているテレビを全部買い換えてデジタル対応にしないと普通放送が見れなくなるような事をいっていると、今十分に普及しつつあるネットに顧客をとられてしまうよ。

    といいつつ最近あまりテレビをちゃんと見ていないけれど、いわゆる若手お笑い芸人が沢山出てネタをやる番組を見ていても、なんかほとんどクスッとも出来ずに時間を過ごしてしまう。

    別に極端につまらないワケじゃなく「この程度なんだろうな」的な状態で時間を過ごしていたんだけど、多くの若手芸人が短いネタを重ねて重ねて重ねてというパターン。短いショートコントを連発するってのはウッチャンナンチャンが80年代にやって一度ブームになったけれど、それをブームとか模倣ではなく、当たり前の芸としてやっているんだろうなぁ。
    漫才という形式は花菱アチャコと横山エンタツが考案したんだけれど、自分の子供の頃にはすでに「誰かが始めた物」ではなく、昔から当たり前にある形式として存在していた。
    だからすでに「ショートコント」という手法も、誰が最初にではなく、今の若手にとっては元々あるジャンルなんだろうなぁと思った。

    で、このさして面白くない短いネタが大量にあって、適当に時間をつぶすために存在している番組って、結局「4コマ漫画雑誌」みたいな物なんだろうなと思ったっす。
    自分からその手の雑誌を買う事はないんだけど、病院や弁当屋や美容院などの待合い室にあったり、友人が何気なく部屋に置き忘れたりしたのをパラパラとめくる程度なんだけれど、そのコマの中でそれぞれそんな個性的でもないキャラが(どの漫画家の描く絵もある一定パターン化されているような気がする)そこそこな日常に即したギャグらしきことをやっている。
    なんだか笑う事もないし、そのネタを他人に教えたいと思う程でもないし、かといって読めないほどつまらなくもないし、結局時間が許す限り読んでしまう。
    その後には何も印象は残らない。

    なんか、若手といわれる人たち(芸歴10年30代前半の人含む)が出てくるネタ番組を見てそんな印象を持ってしまった。
  2005年03月08日(火)十年一昔
    「なんでも鑑定団」のアシスタント吉田真由子は相変わらず凄いなぁ。
    存在理由も無く、当たり前のように毎週そこにいるけど、手あかが付いていないというか、すでにほとんどの人に興味を持たれていないような状態で出続けている。
    そして本人も番組始まって10年以上経っているけれど、いまだに骨董品なんかに全然興味なさそうで凄い。
    で、年齢が32歳。10年以上テレビに出続けてここまで手あかが付いていない感を醸し出す人はある意味凄い。
    たしかドラマ「高校教師(初代の桜井幸子Ver)」で女子高生役で出ていたハズ。
    (2001年4月の雑記を読み返して改めてそう感じた)

    で、その2001年4月24日の日記に「アクセス総数が18万人を突破した!」と喜んで書いている。その17万から18万までがたった11日で記録したって事で「ここも凄くなったじゃん」と無邪気に喜んでいる。
    でもそう考えると1998年3月1日〜2001年4月13日のまるまる3年で17万アクセスだったのだなぁ。
    たしか1998年3月1日に公開して、やっと1万人アクセスを果たしたのが半年以上過ぎた頃だったと思うけれど、当時はネット人口もそんな物で最初のアクセス数なんて1日100人とかで、たぶん「どの位アクセス増えたかな?」などと1日10回以上リロードしていたので、約1割が自分だったりした。
    それが2001年には11日で1万人。

    で、2002年頃には1日で1万人を越える日も出始めた。
    今はもうアクセスをチェックするのも意味ないような気がして、カウンター自体も外してあるけれど、通常で1日1万人ぐらいがアクセスしているんじゃないかって状態なのだ。
    で、今や時代はブログだそうで、ウロウロとそっちを漂っていると「ブログ公開から1週間で1万人アクセス突破」とか言っている所もあるし、そんな物なんすかね。すでにアクセス数を語る事もあんまり意味ないのかと思ったりするワケで。

    でも最初の「今日ついに、一日のアクセスが100人越えた」と大喜びしていた時代の気持ちを知っているからこそ、こうやって何とか日々を過ごしていけるのかもしれない。
  2005年03月09日(水)ある家族の肖像
    自分が今、こうして駄文を書き続けている事のキッカケは、とある作家の本に巡り会った事がとにかく大きい。
    当時自分は絵の勉強をしていたんだけれど、同時に音楽をやったり、紙に手書きで500枚ほど絵を書いて8mmフィルムにコマ撮りするアニメを制作したり(これも一人での作業)、色々とドタバタと自分を表現する為の方法を捜し回っていた。
    そんな中で出会ったのがその作家で、文字による表現の可能性と言う物に開眼させて貰った。 あぁこの方法もありなのか、と。

    そして当時、友人が「雑誌作ろうぜ」と盛り上がっていたのに参加させて貰い、そこから今に繋がる文章を書き始めた。今、読み返してみるとそこに書いた文章は明らかにその作家に影響されていて、もう恥ずかしい限り。安倍なつみの事は悪く言えないゾって感じなのだ。「アマチュアってのはかくあるべき」みたいな模作状態でした。
    その後、前述した「たこやき便り」を造り始めたのもその影響。

    最近なんとなく知った話題として、その作家の家族がかなりボロボロになっていると言う噂や、作家周辺にキナ臭い噂がたれ込めているという事なのだ。基本的にはネット情報なので「おまいはネットの情報に左右されるほどのトンチキか」と思われてしまいそうですが、色々な事を考えてしまった。
    確かに自分の場合でも、ネットでは火のない所でさえ大火事が起こりうるのは知っています。なんせ杉村ってヤツがネット上で死んだこともありますから。(2000年頃、スランプでメルマガ発行停止&サイト更新無しが2カ月ぐらい続いた時)

    そもそも、その作家の書く文章(エッセイ)の多くが実際に身の回りで起こった出来事を描写する物で、そこには息子が主人公になった物語や、奥さんが何をしているとかって話やらが書かれる。娘は最初から「私の事は書かないで」と釘を刺してあったので、娘が作家デビューしたときは「隠し子か」と騒がれた。
    で、結局その家族はパワフルな作家に振り回されたのか、息子も娘もなんかあんまり芳しくない噂を聞くし(20代後半〜30代で未だに自立できていないとか)、奥さんも色々と問題を抱えていそうだし、作家本人にもあんまし良からぬ噂が流れている。
    あくまでもネットでの噂だけど。

    一人の偉大な人物が家族にいて、その周囲の人が「それってどうなの?」みたいな状態の人になっていくってのはよくある話。
    たとえば美空ひばりの(義理の)息子って何?とか、ジョン・レノンの二人の息子のなんかトホホ具合とか。他にも大量の偉大な作家・アーティストの子孫が、その作家の文学的な意思・思想を引き継ぐでもなく、ただ「○○ミュージアム」とか作って、生原稿や使用していた文具などを展示する事によって「功績を後世に伝える」と称して遺産だけで食いつないでいたり、なんかその作家やアーティスト自身の立場になって考えると「俺は自分の子孫にとんでもない事をしてしまったのでは?」みたいな状態は多い。
    政治家の子孫が政治家になるのに関しては「しょせん政治家なんて、どんな人でも才能が無くてもなれる職業」なので、なんら問題はないんですが。

    話は戻るけれど、確かに自分もその作家の作品は、ここ数年読んでいない。
    なんだか大御所然としてしまったのと、作品の内容の微妙なズレ具合とか色々な部分で「もう読まなくてもいいか」と自然と感じてしまっていたような感じなのだ。
    とりあえず自分は、その作家によってあの時代影響させられたという意思の部分をこんな形にして、ある意味精神的な子孫という状態で、今ここに立っている。
    いや、まだ立ってはいないんだけど。
  2005年03月10日(木)みんな茶は嫌いか?
    コカコーラ社より新しいペットボトル茶が発売された。
    「一:はじめ」という商品なんだけど、『緑茶の原点・茶園の味』というコピーで、本来持っていたお茶のおいしさを何も加えないで… みたいな事が書かれている。
    で、早速新しい物好きなので買ってみたんだけど、なんだかなぁ状態。

    とりあえず、お茶の国・静岡生まれ育ちなので、お茶の味には精通しているとは思うんだけど、どこがほかのペットボトル茶と違うのか判らないっす。
    ペットボトルだということで、飲み口に口を付けてしまうと香りが不明になるので味だけが勝負なんだけど、その味も「なんとなく茶っぽい」てな感じ。
    「生茶」とかみたいな「ムリヤリな茶の味」よりはいいのかも知れないけれど、どうにもこうにも「これはお茶ではない」と思ってしまうのだ。

    以前からお茶は新製品として出るたびに「お茶の苦みを除きました」とか「お茶の風味を大切に」とか、色々コピー付けられて、その割に本来の急須で入れるような日常的なお茶の味から遠ざかっているような気がする。なんか、それらを調合している人たちは「お茶が嫌い」なのではないかと勘ぐってしまうのだ。それだから、いかに飲みやすい味にと変な努力をしてしまうのではと。

    確かに、ブラックコーヒーの開発秘話などを聞くと、普通に飲んでいるコーヒーをそのまま缶に詰めると、缶の臭さが出過ぎてしまうし、時間が経過すると酸味がきつくなるので、いかに煎れたての味をキープ出来るか?という開発に数年掛けてしまった。とか聞く。
    ペットボトル茶も酸味の関係とか、長時間経つと栄養素が壊れるのでビタミンCを混入させているとか聞くので、安易に「本当のお茶と違う」とは斬り捨てる事はできないのかもしれないけれど、なんだか「本当のお茶」とは違うのが現実。

    でも、この手のペットボトル茶を飲んで育った子たちには、これが「お茶の味」なんだろうなぁ


     


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