ひねもす雑記
2005年05月21日〜31日


▲2005年05月21日:土:若人ふたたび
▲2005年05月22日:日:帰っちゃった
▲2005年05月23日:月:なし崩し
▲2005年05月24日:火:あれやこれや
▲2005年05月25日:水:また崩します
▲2005年05月26日:木:ウサギちゃんSAY GOOD BYE
▲2005年05月27日:金:著作権って何?
▲2005年05月28日:土:石津謙介氏死去
▲2005年05月29日:日:自動車税と閏年
▲2005年05月30日:月:ツリはいらねえぜ、取っときな
▲2005年05月31日:火:未知との遭遇?
  2005年05月21日(土)若人ふたたび
    記憶喪失の天才ピアニスト
    あれって若人アキラの二番煎じだと思う、きっと数年後には繋がった眉毛で「我修院」と言う苗字で出てくると思う。

    しかし普通にあの年令まで生きてきて、これだけ全世界で報道されていて約1週間経過してもほとんど手がかりが出てこないって、ある意味凄い。
    かつて「TVの力」で記憶喪失の人が出て来た時なんかも、当日にガンガン電話が掛かってきて翌週には家族と対面していた。本人はまだハッキリと思い出せない状態だったけれど。
    行方不明になった人を捜すのではなく「この人誰?」という場合は、その人が過去に関係した人が少なくとも何人かそれを見るだろう。記憶喪失になる直前まで接していた人だけじゃなく、学生時代の知り合いだっているだろうし、しかし全世界的に報道されているのに約1週間経過した現在も不確かな情報しかないと言う。
    もしかして、記憶喪失になる直前に整形した(させられた)とか?かなりミステリーな感じではありますな。
    洋服のタグが切り取られていたってのも不思議な話で。
    もっとも、記憶喪失とか多重人格とかって言う精神的な部分が関わる症状ってのは、どれも基本的に自己申告なので面倒臭いっすね。
    かの監禁男なんかも自称「統合失調症」だし。
    [今日の雑学]テーマ『記憶』
    脳の部分に電気的刺激を与えると忘れていた昔の記憶が蘇る事がある。
    喉元まで出かかっているのに思い出せないことを徳川夢声は「あれあれ症候群」と名づけた。心理学での正式名称は「TOT現象」。(TOT)は泣いている顔文字ではなくTip-Of-the-Tongue phenomenonの訳。
  2005年05月22日(日)帰っちゃった
    あらら、帰っちゃったよ。中国の人。
    しかし中国が「日本の首相が靖国神社へ参拝する事は」と言い出したキッカケは「日本の軍国主義」復活を危ぶむという部分があったハズなのに、現状では、思いっきり中国が軍国主義的な動きしてますがな。

    戦争責任や靖国問題やらを延々とツッコミ続ける中国だけど、ふと思ったのが、そこまで第二次世界大戦における日本を非難し続けるのに、なぜ「天皇問題」には触れてこないんだろうか。実際にはどうあれ、あの戦争の日本側の名目は「御国の為」でその御国の象徴だったんだから。 凄くその辺りが「ここまでなら突っ込んでもいい」という、見極めと節度を持った戦略的な日本非難って気がする。
    しかし対話の場があったのに直前逃亡って、結局こうなると対話じゃなく「ワシらの条件全部飲まないと認めないもんね」って感じなんでしょうか。

    同じように国会なんかで気に入らない審議がされるときに、党挙げて欠席しちゃう政治家ってのもどうなんでしょうかね。
    それには戦略的な意味も充分にあるんだろうけれど、端から見ていると「もうワシら関係ねぇから勝手に決めちゃっていいよ」って言っているようにしか見えない。
    そうなると、選挙の時に投票所へ行かない人の事も攻められないよなぁ。
    っつーか、そこで欠席している国会議員って大量の国民が選んだ「選挙民にアンタが代表だから頑張って!」と依頼された人だって事を自覚してんでしょうかね?選挙の時以外でも。
    政治家の態度見ていると、国民の中で頂点に立った偉い人って錯覚しているような気がするんだけど、実際には「国民に税金でもって雇われている代弁者」なんですけどね。
    自覚はないだろうなぁ。
  2005年05月23日(月)なし崩し
    野球には全然興味ないんだけど、セパ交流試合っていつまでやってんの?
    最初はGWの時だけのイベントだと思ったんだけど、もう1ヶ月ぐらいやっているよね。結局これってナンダカンダ言ってなし崩し的に12球団1リーグ制になっているような物じゃないの?
    しかし、GWの時は「巨人VS楽天」って試合が大フューチャーされていて、ちょっと苦笑してしまいましたがな。
    たぶん、この試合カードを組んだのはシーズンが始まる前で「ジャイアンツと、新球団の楽天のガッツリ組んだ試合って凄く話題になるぞ!」って事で期待大だったんだろうけど、GWの段階では「セパの最下位チーム同士の戦い」みたいな状態。(ジャイアンツは最下位じゃなかったかも知れないけど)
    なんか世の中は思惑通りには進まないって典型なのだ。

    このセパ交流戦に関しては、野球ファンは「面白い!」とか言っているみたいですが、でも見事に野球の視聴率は低迷していますなぁ。本当にTV局にとってはお荷物のような状態かも知れない。
    レギュラー番組のほうが視聴率いいのに、ワザワザそれを休んで2時間ぶち抜きで放送しなくちゃいけないし、ヘタしたら延長しなくちゃいけないし。

    と思っていたら、4月分だけど、あいかわらず大阪地区では阪神戦の視聴率がよかったみたいで、その週の2位と3位が野球中継だった。
    この阪神マニアのこだわりが勝たなくても応援しつづけまっせ状態なんだろうなぁ
    それが良い事なのかどうか不明ですが、凄いなぁと感心しちゃったワケでやんす。

    [今日の雑学]テーマ『阪神タイガース』
    阪神応援歌「六甲おろし」は正式タイトルではない。正式には『阪神タイガースの歌』
    『六甲おろし』と巨人軍の歌『闘魂こめて』は共に古関裕而が作曲した。と言う雑学はよく見かけるが、さらに中日の応援歌『ドラゴンズの歌』も、かつての『東映フライヤーズの歌』も、ついでに『パシフィック・リーグの歌』も、夏の甲子園テーマ曲『栄冠は君に輝く』も古関裕而の作曲。
  2005年05月24日(火)あれやこれや
    [命名]
    わざわざ記録する程でもない雑学
    荻野目洋子の事を「オギノメちゃん」と呼び始めたのは片岡鶴太郎。
    阿部寛の事を「アベちゃん」と呼び始めたのはタモリ。
    松山千春の事を「チーさま」と呼び始めたのもタモリ。

    [田中雅美]
    元オリンピック水泳選手・田中雅美がここの所、普通の番組に出ている。
    現役選手時代より痩せた感があるけれど、それと正比例する形で化粧が濃くなっている気もする。あのノーメイク感の肌質が好きなのに(かなり微妙なフェチ体質)。

    [ちなみに] 上記「フェチ」ということばはワザとの誤用。
    フェチとは元々、レザー(革製品)などの質感などに性的な興奮を感じるような、物質愛みたいな意味の言葉なので、元々性的な人間の肉体の一部などに興奮する事は意味しない。
    いわゆるブルセラなんかの「女性が身につけていた下着」に興奮するのも厳密に言えばフェチではない。あれも間接的に人間の性的刺激を感じ取っているので。

    [高田渡・死去]
    書き忘れていたけど、5月7日にK氏より電話で「高田渡が亡くなったって知ってた?」との事、亡くなったのは4月16日の事だったそうですが、ニュースなどでも言わないので知らなかった(新聞の死亡欄とかに出たかも知れないけど)。
    う〜む、
    ちなみにフォーク歌手・高田渡の代表曲は「自衛隊にはいろう」という、自衛隊を皮肉った曲。 でも最近の人にはこれではほとんど伝わらない。
    かといってまったく知らない人では無いハズ。実は、みんな歌声だけは知っている有名人なのだ。こんな曲を歌っていた。
    ♪子供だって〜 うまいんだもん〜 
    ♪飲んだら〜ぁ こう言っちゃうよっ!
    ご冥福をお祈り致します。く〜〜〜〜〜ッ!
    (現在はすでに別の人が歌っているVer.)

    この高田渡には数々の伝説が残されており、有名な所ではステージ上、ギターを弾きながら寝てしまったと言う物もある。間奏部分で徐々にテンポが落ちていき、最後はストップした。観客はここは曲のブリッジでまたテンポが上がって盛り上がっていくのだろうな… と思っていたのだが、次に聞こえて来たのはイビキだった。
    ある時は酔っぱらってステージに上がり、曲の途中で見事な噴水を口から…。
    自分が見たステージでは、バックに二人ギターを従えていたが、いきなり間奏部分で立ち上がり「ちょっとトイレに行って来るからその間つないで置いて」という、自由にも程があるって状態だった。

  2005年05月25日(水)また崩します
    [再び]
    またしても「積み木崩し」がドラマ化。なんだかんだ言っても穂積、娘のネタで金儲けしすぎ。
    初代(TV)は見事に実生活も崩した高部ともこ、二代目(映画)は渡辺典子。
    しかし、今回崩すのが安達祐実って、年齢的に本当は随分逝っている気がするけれど気のせいか。
    それにしても親が館ひろし&杉田かおるだって?崩れて当然っぽい親だよなぁ。逆に物語として不良化していく娘にオロオロするという状態は無いだろうって感じがしちゃう。
    母親は「アタイの若い頃はこの程度じゃなかったよ」とか、父親は「ここじゃ言えないヤンチャをしたぜ(元クールス)」とか、逆に説教しちゃいそうな親なのだ。
    どうせ石原軍団からだったら、神田正輝辺りの方が適役かも知れない。ついでに積み木を崩すのは母親の光が強すぎるせいで休業宣言したらしいSAYAKAもある意味適役かもしれない。(年齢も原作に近い)

    しかし原作の穂積隆信って穂積由加里が死去した時に「娘を死なせてしまったのは、娘を苦しませたのは私のせいかも知れません」とか、涙ながらにインタビューに答えていたんだけど、その後、去年「由香里の死、そして愛」という本を出しているんですなぁ。
    なんか身内の不幸が金儲けにすり替えられている気がする。で、今回はその本を原作としているそうで…

    [ちなみに]
    「積木くずし」のモデルとなった故・穂積由加里は自分が不良になって、とんでもない事をしまくったと親に暴露され(しかも親はそれで金儲け)た事で、その件に触れられるのを生前凄く嫌がっていたらしい。
    しかし経営していたスナックの名は「積木の家」。なんだかんだ言って、娘もそのイメージを利用していたって事なのでは?
    その嫌がっていた娘が死去して半年、またしてもドラマ化ってのもなかなか…。
  2005年05月26日(木)ウサギちゃんSAY GOOD BYE
    去年の春、ほぼ1年前の4月末に我が家の庭に捨てられ、それから色々有りつつ何故か居着いてしまったウサギ。
    別に飼っているワケではないが、足音がきこえると走って来る。かと言って「ういヤツじゃのう」と頭をなでてやろうとすると逃げてしまう。という、自由奔放に生きてきたヤツなのだが…。

    母親の報告によると、我が家の庭はそのまま裏山に繋がっているのだが、そこの柚子の木の下で冷たくなっていたという。
    庭の木などの剪定を人材センターに依頼したのだが、その職人さんが「ウサギが死んでいる」と発見したらしい。しかもその時、2羽ほどのカラスがウサギの周囲をうろついていて、母親が墓でも作ってやろうとスコップでその身を持ち上げた時、異常に軽かったと言う。
    数日前にも庭に出現していて激しく走り回っていたので、病死ということはあまり考えにくいが(突然死も考えられないワケでもないけれど)、庭には近所の猫などがよく入り込みウサギを狙っていたと言う事もあるし、犬の散歩って事で鎖を外して平気で走り回らせている人もいる。
    もちろんカラスの標的にもなる。

    そんなこんなで自然界には色々な外敵がいるので、こんな日がやってくるのも致し方がない事だと思っている。
    ウサギのヤツも、この1年間に2度ほど近所の家に捕まり、その都度そこから逃げて何故か我が家の庭に戻ってきていたので、自ら自然の中で束縛されない生き方を選んだと言うことなのだから、自由にはそれなりの見返りもあるワケだし、自活するって事はこんな事も自分の責任になるのだ。
    カラスがその身をつついていたことも、インドなどにある鳥葬と思えば「自然界の連鎖の中に帰っていったのだな」と思えないわけでもない。

    でも、自分的には去年の今頃、色々あってかなり精神的に参っていた時に救われたような部分があるので感謝しています。
    結局、我が家は飼っていたと言う意識もないので最後まで名前は無かったけれど、次に生まれ変わって来る時は、孤独じゃない生き方になるといいね、合掌。

    これまでのまとめ
    最初にウサギの件を書いたのが、去年2004年4月22日「野良兎」→5月2日「吾が輩はウサギである2」→5月10日「ウサギの日々」その後も何度も書いている。で、その都度「ウサギの雑学」を書いてきたのでそれをひとまとめに再録。

    [今日の雑学]テーマ『うさぎ』
    うさぎのキャラと言えば「ミッフィー」ですが、ミッフィーの作者ディック・ブルーナは1927年8月27日のうさぎ年生まれ。
    「ミッフィー(Miffy)」は英語名。日本名は「うさこちゃん」。 ミッフィーの誕生国オランダでの本名は「ナインチェ・ブラウス」。ナインチェ(nijntje)=うさぎ、ブラウス=ふわふわ。
    「スペイン」は元々「スパニア」が国名の由来だが、「スパニア」とは「ウサギの国」という意味。
    月の模様を「ウサギが餅つきしている」と言うが、正しくはウサギがついているのは「不老不死の薬」。

    1979年欧州共同体(EC)対日戦略機密文書で日本人の住宅環境の悪さを「ウサギ小屋」と称した事が発覚し国内外で論争となった。最終的に日本の外務省がECに対して「そのような認識は事実誤認」と公式に抗議をした。実は住居の狭さで言うと、イギリスの平均的な家庭の住宅(アパートメント)の広さと日本の住宅の広さはほとんど変わらない。

    世界中で人気のミッフィーはフランスではさほど人気者ではない。というのもフランスではウサギは愛玩動物というより食材のイメージが強いので。
    とりあえず食材としてのウサギの旬は秋。
    野性のウサギは人間を何十人も殺せるほどの猛毒を持っている場合もある。植物に含まれる毒を体内に蓄積する事があるため。(主にアトロピン)
    猪を「牡丹」馬を「桜」などと言いますが、ウサギ肉の別名は「月夜」。
    ウサギは孤独が苦手と言われるが、逆に自分のテリトリーに入ってきたよそ者ウサギをかみ殺す事もある。
    ウサギに水をあげると死ぬというのは俗説で、1日に必要な水分は室温20度の場合、200〜300cc。
    星新一によると、ケツを拭くのに最も良いモノは生きているウサギ。
  2005年05月27日(金)著作権って何?
    [著作権]
    ネット上では著作権という物が存在していないらしい。
    雑学に関しては難しい部分もあるけど、このサイトやメルマガで雑学をできるだけ短い言葉で書いて、複数のネタを関連づけて羅列しているのは自分の判断によるものなので、そこに関しては著作権が存在している(ハズ)。

    そんなこんなで、24日に文化庁が「著作権保護」を目的としたサイトを開設した。それ自体は良い事なんですけど、実はそのサイトのタイトル部分やイラスト部分にApple社のMacの使われているワープロなどのアイコンがそのまんま未承諾で使用されていたって事で問題になっている。
    24日に開設→25日利用者がそれを掲示板で指摘→
    で、26日午前9時頃にサイトを閉鎖したとのこと。朝、出勤してきた職員が掲示板の書き込みを読んで慌てて「マズイ!」と思ったんでしょうね。余りにもダメじゃん。

    言い訳として、サイト制作を担当したプログラム開発会社が、制作途中にMacアイコンと知っていながら暫定的にとりあえず使用していた物を、正規の物と差し替えるのを忘れてそのまま発表してしまったと言う事らしい。
    なんだかんだ言って結局、著作権を考えるハズの文化庁も「悪いのはワシらじゃなく、開発をした下請け会社だもんね」って事ですか。TBSの時と同じパターン。

    著作権の話では受験関係で色々な動きがある。
    原則的に現在、試験問題などに小説などの著作物を使う時、現時点では「教育目的」として著作権者の承諾がなくても使用出来ると言うことになっている。
    で、大学入試試験問題に出たモノを、次年度に予備校などがそれを「過去問題」として独自に小冊子にまとめたり、中にはちゃんとした出版物として発行していた。
    確かに学校の授業で使う場合は文部科学省が「教育目的」としてOKを出していたんだけど、予備校とか各出版社の受験参考書は教育目的以前に「営利目的」の部分が大きいので問題が発生しちゃうのだ。

    著作権というと、サン・テグジュペリ「星のおうじさま」の著作権が今年になって切れたそうで、今までは岩波書店の版しか日本には存在しなかったワケですが、どうやら6月にどこぞの出版社から新しい訳の版が出るらしい。
    しかし「星のおうじさま」というタイトルはどうなるんでしょうかね?あれも岩波版独自の和訳タイトルなので。
    >心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
    >かんじんなことは、目に見えないんだよ。

    物事を理解するのは表面的な物ではなく、その物事の本質にまで至らないと見えて来ない、世の中はそんなに単純には出来ていない。
    >おとなはだれも、はじめは子供だった
    >しかしそのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。。

    でもね、オトナの年齢なのにガキみたいな思考能力しか持っていない人は困りもの。自己中心的なのにイザと言う時は他人に依存したり過剰に自己正当化したり、ありがちな「少年の心を持っている」という褒め言葉は、逆には迷惑な事もある。
    「少年の心」を「ガキ並の思考力」と誤訳しちゃうと嫌だよなあ
    最近出た著作権関連本では「著作権とは何か?(集英社新書)\680」が面白かった。スイカ写真裁判などでは、ある写真家が撮影したスイカ写真(個人的には普通に切ったスイカを並べただけの写真としか見えない)が、某カタログにほぼ同じ構図の写真が撮影され使用されたと言うことで起こった裁判。第三者から見ていると「そんなありがちな写真で?」という気もするけれど、当事者達は真剣に論じている。この場合は著作権とは?ってのは難しいです。(つまり写真自体の著作権ではなく、作品の構図が論点になっている)
    そう言えば、もう10年以上昔に女優・朝比奈まりあ(雪村いずみ娘)が二科展に出品した油絵が某写真家が写した写真を元にして書いた物って事で裁判沙汰になった事も思い出した。絵を書いている人、写真を撮っている人にとって作品そのものも大事なんですが、構図ってのも頭をひねっているので安易に真似されるのは確かに憤慨ものかも知れない。
    他には有名なマッド・アマノ裁判とか、色々な実例を並べている。著作権に関しての解りやすい参考書でやんす。
  2005年05月28日(土)石津謙介氏死去
    日本のアイビールック創始者VANの石津謙介氏が肺炎で死去した。93才。
    って事は、自分はアイビーの定義を知ってハマったワケじゃないけど一時期ちょっとアイビーもどきを着ていた当時は、すでに石津氏は70才ぐらいだったのか。
    確かに80年代にデザイナーズ系とか(黒服系とかバブリーな感じの服)が流行った時に、その反発でポパイなんかで「これからはアイビー、定番ジャケットは押さえておきたいね」みたいな事がよく言われていた。
    いまや、アイビーは若い人の間ではほとんど見かけないけど、そろそろ揺り返しのリバイバルが来るなかなぁ。
    といいつつ、90年代以降、日本人にとって一番ラクなファッション形態ってのが明確になってしまったのでアイビー復活は難しいかもしれない。
    結局、欧米を基準にファッションを決めようとすると、一番ネックになるのは「日本人ってのは体格が良くない」という負の部分がある。近年は体格よくなったと言うけど、胴長短足は治っていない。
    で、90年代以降に若者間で流行ったのはズボンを下げるなどの、短足でも胴長でも関係ないスタイル。(逆に短足胴長を美の基準にしたような感じ)
    アイビーの場合は、どんなに頑張っても元のスタイルが良くないと似合わないファッションなので、流行らせるのは難しいかも知れない。

    全然雑記とは関係ないけどメモ。
    室町時代末期に日本でも南北朝という時期があって二系統の天皇家があったのは歴史でやった通りなんだけれど、当時の人々はどう考えていたのかは不明でした。きっと、どっちかに付いて「ワシは南を支持する」とか、なっていたんじゃないかと考えていた。
    で今日読んだ風土史関連本で、鹿児島にある当時建立された供養塔には、南北両王朝の年号が刻まれているとの事が書かれていた。
    つまり、京都から遠く離れた鹿児島辺りでは王朝が二つに分断されても、そんなに生活に影響もなく、どっちにつくかを考えるメリットもなかったんじゃないかと思う。だから二つの年号を並記してあると。
    あくまでもメモって事で。

  2005年05月29日(日)自動車税と閏年
    今年から自動車税はコンビニで納付できることになった。
    ほほうそりゃ便利だなぁ。ハッキリ言ってかなり忙しく日々を過ごしている私にとって、銀行も郵便局も「開いている時を見たことがない」という、まったく役に立たない公共機関なのだ。(役場とかも同様)
    それがコンビニで24時間、いつでもってのは凄いなぁ。もうコンビニってそれだけあれば生活は全部押さえる事は出来るんじゃないかって感じなのだ。

    と、その便利さに驚き、有給を取らずにその手の作業が出来るって事に感心し、気を抜いていたら「納付期限は5月31日までです」というギリギリになってしまった。
    そうです、私は昔からギリギリにならないと宿題の出来ない子供でした。いまだって、雑記を毎日地道に書いているように見えて、実際は毎日、数行、数ワードのメモをしているだけで「そろそろアップしないと不味いんじゃないか?」とせっぱ詰まった状態になった処で、一気に1週間、ヘタしたら1カ月分の雑記を書き上げるという力任せのギリギリ野郎なのであります。

    ということで、今日が納付期限最後の週の日曜日ということで近所のコンビニに出かけて納付してきた。
    いやぁ実に簡単でビックリした。

    で、他の人は気づいていないかも知れないけれど、その証書の裏にびっしりと「あーだこーだ」と文章が書いてある処に1箇所だけルビ(読み仮名)が振ってあった。
    それが「閏年」に関する項目で『閏:じゅん』となっていた。一般的には「うるう」だよなぁ、確かに「じゅん」とは読むけれど、「じゅんねん」とか言わない。
    警察的にはこの読み方が正しいのか?それともお役所関係では「じゅんねん」なのか?
    調べるほどでもないので現時点では調べないけど、ちょっと気になった。

  2005年05月30日(月)ツリはいらねえぜ、取っときな
    おやおや坊や、1円足りないわねぇ困ったわねぇ、お母さんかお父さんと一緒じゃないの?
    と言う声がすぐ横のレジから聞こえて来た。その声の方向を見るとレジに2冊の漫画本を置いて固まったままになっている小学校低学年ぐらいの少年。

    ここは自宅から一番近い郊外型の大型書店なのだが、予算内で少年が選びに選び抜いたと思われる2冊の漫画本をレジに出したまでよかったのだが「たった1円足りない」という衝撃的事実に思考回路がストップしてしまった少年は、先生にでも怒られているかのようにじっとうつむいて硬直していたのだ。
    もちろん、たった1円なのだが、それでも現在社会における流通の中では1円が足りないってことと1万円足りないと言うことは同じ重みを持っている。
    これが小売りの家族経営の書店であれば「しょうがないね1円オマケだよ」などと気さくなおばちゃんが言い出すのだろうが、大型書店の場合は店員がそのような勝手な判断も出来ず、1円でも売上が違っていたら「何故だ?」と激しく店長に追究され、果てはチェーン店の総元締めに始末書報告書のたぐいを提出しなければいけない状態になってしまうのだ(と勝手に思う)

    少年がこの世に生まれてきて僅か8年程で初めて対面する人生最大の試練に硬直している間に私の方は迅速にかつ合理的にレジの支払いを済ませて、あとは帰宅して本をウヒョヒョとニヤけながら読むだけになっていた(ってどんな本を買ったのかは秘密)。
    で、その少年の横を通る際に、さっき釣り銭を貰った時に財布に入れずに手に隠していた1円玉を少年がレジにおいた小銭の上に「ほいよ1円」と寄付をした。

    少年は一瞬ぴくっとした後こっちを振り向いたような気がしたが、こっちも1円程度で感謝されても恥ずかしいってのがあり、そのまま振り返らずに入り口へ向かった。
    背中からレジにいたおばちゃんが少年に言う「よかったね」と言う声が聞こえた。感謝なんかじゃなく、漫画本といえども本を読みたいって思う少年の心に陰を作っては行けないと言うのが生涯本を読み続けると決めた自分の出来る精一杯のことなのだ。同時にここで少年を甘やかせてしまっては人生すべてを「何とかなる」と思ってしまうかも知れないとも思ったが、本を読む人生を歩ませた方が100倍素晴らしいと思ったのだ。

    少年よ変な感謝なんかするんじゃねえぞ、とある種「俺ってカッコイー」とヒロイックな気分に浸りつつ、その反動で気恥ずかしさもあり、冷静さを装いながらクールにスマートに店を立ち去ろうと考えていた瞬間、意識が背中方面に集中したせいなのか店の自動ドアの開く速度の目測を誤ってしまい、気が付いた時には「ごわぁおん!」と店内に大きな鈍い音を響かせながら半開きの自動ドアに直撃していた。
    カッコよくスマートに立ち去ろうと思いつつ、結局オチを付けてしまう私がそこにいた。

  2005年05月31日(火)未知との遭遇?
    ぼけーっといつもの道を自動車で帰っていた。
    ここをきゅうっと曲がって暫く行けば我が家なのだという処で、いきなり情景がいつもとは全然違った感じになっていた。

    県道から町道へ繋がりしばらく走る、いわゆる集落と集落を繋ぐ間に田畑がいくつも点在している道で、いつもならこの時期はカエルの大合唱ぐらいしかBGMがないような場所なのだが、なぜかその道の両側にぎっしりと車が路上駐車されており、さらに道の周囲には大量の人間で溢れかえっていた。
    近所で葬式なんかがあった時はこれに近い状態になることもあるけれど、それ以上の賑わいなのだ。とりあえず徐行した状態で車を進めているのだが、中には平気でライトの前を横切ったりする若者もいる。

    その大量の車と人にばかり意識が行っていたのだが、もっといつもと違っている事があった。私が進もうとしている方向の高い位置からかなり強烈なライトの明かりがこっち側を照らしているのだ。つまり、こっちがライトで照らしている車の前を通り過ぎる人ですら、逆光のように見える。
    いきなり、大昔に見た「未知との遭遇」を思い出してしまった。
    確かに沿道にワンサといる人々はそのライトの方向を目指して進んでいたり立ち止まっていたりする。

    自分の家はその途中で曲がった方向にあるので、光源にまでたどり着く事はなかったんだけど、その光景は離れた処から見ても何か異様なのだ。
    自宅に車を止めて道へもう一度出てそっち方面を見てみた。なにか人の声がするが、なにか特別大声というワケでもない。
    と、そこを数人の若者がそっちに向かって走っていこうとしていたので「いったい何があったの?」と聞くと「テレビの撮影っすよ」とか短く言っただけで、急いで走り去っていった。

    う〜む、そうかそうか。
    興味がないワケでもないけど、そこまでして野次馬になるほどでもないので「みんな凄いなぁ」と思って家に入ってしまった。遠くから撮影風景を見ても、どって事ないだろうってのが、ある意味醒めた私の意見なのだ。

    よく事件が起こった時に、現場近くからレポートするアナウンサーの後でバカ面下げてVサインとかしているのって、未だに理解出来ないっす。最近は画面に映りながら携帯電話で話している奴も多い。きっと「今俺テレビに映ってんだぜ」的な事を言っているんだと思うけど、自分の場合友人からそんな電話が掛かってきたら、その友人と疎遠になるかもしれない。

    P.S.
    そこで撮影していたのはどうやら日曜9時から放送されている竹中直人が出ているドラマらしい。母親は「今度の日曜日」と言っていたが、さすがにドラマは今日撮影して1週間もしない内に放送するって事はないと思うけど。
    そうかそうか、生竹中を見たかったかも知れないけど、見たからってどうって事も無いしなぁ

    上記の事には直接関係しているワケじゃないけど、世の中には「テレビ=凄い」「テレビに出ている=偉い」と思っている人が山のようにいる。テレビに沢山出ている人が勝ち組だと思っている人も多々いる。
    何度かテレビ局から雑学がらみで電話やメールを貰ったりすることがあるけど、「テレビ関係の質問には答えて当たり前」みたいな態度を感じることがある。確かに中には、テレビって聞いただけで舞い上がっちゃう人もいるんだろうけど。
    メディアとしては現時点では一番大きなメディアだというのは解ります。だけど、それに関わっている、本当に末端の番組制作下請け会社の雑学調査人間ですら「テレビ局の物だけどさ」的な横暴さを感じてしまう。別にテレビ業界に悪意は持っていないけど(元々TVっ子だし)そんな風に感じざるを得ない事が多い。
    雑学などに答えても、その後の「ありがとうございました」を一言書いたメールすらよこせない下請けは多い。
    だから、自分的にはテレビ的な事に関しては「ちっ」と思わず舌打ちをしながら、興味なくなってしまうのだ。

     


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